第3話

 ここ数日、夏樹は七海と顔を合わせるタイミングがなかった。その代わりというわけではないが、春花と言葉を交わす回数が増えた。はじめは挨拶程度であったが、最近は昨日あったことなど少しずつ話題も増えてきた。


 夏樹が子供たちに出すおやつの準備をしていると、「ヒャ~!」と声を上げながらチョコレート色のセーラーを身に着けた七海が飛び込んできた。女子の制服だ。男子がスーツなら女子はセーラーである。ゴシック調なところが他校にはない特徴で、これに憧れる生徒は多い。地元のアイドルグループがこの制服をモデルにして衣装を作ったのは有名な話である。


「まいったあ!テストのあとに部長会があることすっかり忘れてた。遅れちゃったあ」


 七海は夏樹とばったり顔を合わすと、咄嗟とっさに口に手を当てて誤魔化して笑った。


「福島君、奥で着替えてくるから代わりによろしくね」


 七海はサッと部長の顔つきに戻ると、そのまま走ってロッカー室へと消えた。


「部長、子供たちが見ているんですよ。ドタバタしないでください」


 福島が注意すると「ごめんなさーい」と遠くから、子供っぽい声が届いてきた。


「ね、あれでミス弁天校なんですから」と夏樹に目配せした。


 学習ボランティアを終えて、七海と話す機会があった。制服が似合っていてアイドルと見間違えたと言う夏樹に、誉めても何も出ないよと七海は照れていた。


 夏樹は弁天校の制服に憧れており、スーツを着るのが夢だと語った。特待生が聞けば、きっと笑い飛ばすだろうなと思っていたが、七海は「竹脇さんなら似合いそう」と真面目な顔をしていた。意外だった。夏樹は、七海の言葉で気が楽になり、小さな頃からの憧れで塾でも志望校を変えないでいることなど些細ささいなことまで話してしまった。他人が聞けばさほど面白くもない話を七海は相槌を打ち、否定をすることなく素直に聞いた。時計のチャイムが遅い時間を告げる。自分が話しすぎたと七海に謝ると、良い話が聞けたと嬉しそうに笑っていた。


 翌日、七海が鞄から何やら丁寧に取り出し、夏樹に手渡した。見れば所々擦れている数学の参考書である。ページをめくると至る所に付箋ふせんと書き込みがあり、かなり使い込まれている感じがした。中古の参考書であれ七海から譲ってもらったこと自体が夏樹にとっては何よりも嬉しく、参考書に触れる度に七海がそばにいるように思えた。


「先輩から譲ってもらったお古のお古だけど、受験のお守り代わりにはなるかな」


 七海は、何やら企んだような笑みで、夏樹を見ていた。夏樹にはその笑みは応援のように思えた。



 月初めに受けた模試の結果が返ってきた。溜息しか出てこない。というのも、数学で一問が全く手を出せずに終わっていたからだ。時間配分のミスから焦った結果だった。勉強時間は減ってはいない。むしろ増えているのだが、成果が全くついてこなかった。ついに塾のクラスは下げられ、冬真は『都落ち』と夏樹を笑い者にした。目の前が真っ暗になるなか、ふと机にある七海の参考書が目に入った。何枚も貼られた付箋が参考書から放たれる光のように見えた。


(俺にはこんなに使い込むのは無理だな)


 そのまま目を閉じると眠ってしまった。


 負の連鎖は続く。焦りは新たなミスを生む。学校の試験でも順位が下がる。しかも三十番もだ。これは決定的だった。担任との面談にまで話が及び、ボランティアについても言及された。三年生の活動は内申書には加点されないという。余計なことはしないで勉強に励むように指導された。合格の道は閉ざされたのだ。


 塾でもトラブルが起きる。元のクラスに座っていた夏樹に冬真が難癖をつけたのだ。


「おいおい、往生際の悪い奴がいるなあ」


 夏樹は黙って席を立ち教室を出ようとした。


「忘れ物だぞ」


 冬真の手には私立進学クラスのテキストがあった。


「これはもうお前には用なしだよな」


 冬真は他の受講生がいる前で笑いながら破ると、ゴミ箱に放り込んだ。教室に嘲笑の声が響く。


 塾を飛び出し気がつけば足はアフタースクールに向いていた。ここに何があるのか分からなかった。けれど確かなことは塾の中の空気よりもここは心地よく、暗闇の中で見つけた明かりのように思えた。スクールの入り口で足が入るのをためらっている。そこに帰ろうとする春花と顔を合わせた。夏樹が笑みのない笑顔で挨拶をすると、春花は手に持った袋から飴を取り出して夏樹の手に置いた。学習ボランティアで配られる子供たちにとっては大切なおやつだ。夏樹は首を振って春花に返そうとするが、春花は夏樹の手を握らせて笑った。


「夏樹ちゃん、元気ないよ」


 手に残った飴が重く感じて涙が出そうになった。合格の道が閉ざされた自分が、なにを目的に勉強をするのか分からなくなっていた。頭がいっぱいになるなか、施設の扉を開けた。


 足を踏み入れると「どうしたの?」という顔をして七海が立っていた。その顔を見たとたん「学校に行く目的も、なぜ勉強しないといけないのかも分からない。勉強する気が起こらない!」そう言葉がでた。夏樹にとっては、本音というより、愚痴であった。


 自分が心の中で求めているものは分かっていた。七海が笑顔を見せくれればと期待したのだ。ただ、優しく笑ってくれたら、そう思って七海を見た。だが、七海の目は笑うことなく、鋭く刺す眼差しに夏樹の背筋は凍った。


「それなら、止めたらいいじゃないですか。勉強は贅沢な行為なの。自分の恵まれた環境に気がつかないのなら、そもそも勉強する資格はないです」


 七海の言葉に夏樹は突き放され、裏切られた感情がこみ上げた。


(秋川さんは僕と環境が違うのだ。エリートの環境なのだ)


 打ちのめされとどめを刺された。時が止まったような気持ちになる。そこに再び声が届く。


「ねえ、竹脇さん。おもしろいこと教えてあげる」


 意気消沈した夏樹を見つめて七海は含み笑いをすると、明るい声を部屋に響かせた。その瞬間、夏樹の心は掴まれた。さっきまでの七海とは雰囲気がまるで違ったのだ。


「みんなあ、教えてぇ」


 七海の声に作業をしていた部員の手が止まる。一斉に七海に注目し、誰一人動かず次の言葉を待っている。七海がいかに部員から、尊敬と信頼されているのか分かる光景だった。


「このなかで、弁天校がC判定だった人はいる?」


(いるわけない!)


 夏樹は心の中で叫んだ。七海の言葉に七人の部員のうち福島と奥にいた女子が手を挙げる。一瞬の沈黙の後、七海が「私も」と手を挙げた。驚く夏樹をチラリと見て笑う。


「じゃあ、ここにおやつ貰いに来てた人」


 その言葉に福島が笑いながら手を挙げた。夏樹の目は大きく開いた。その光景に七海の姿も入る。「仲間だあ」七海が福島と握手をすると、首を傾げて問いかけた。


「竹脇さん、この事実どう解釈する? 人はこんなとき、二通りの考えをする。一つは、自分には無理だと考える。もう一つは、自分にもできるのではと考える。この二つの道の行き先は大きく違う。あなたはどっち?」


 七海の言葉に夏樹は恥ずかしさで隠れたくなった。誰でもいい、冬真だってかまわない。自分を殴りつけて欲しいと思った。少しでも七海をうとんだ自分を殴りつけて欲しかった。七海がどんな環境で育ったのかは知らない。でも、ここの子供たちを見ていれば少しは想像はできる。エリートでもなんでもないのだ。恵まれているのは自分だった。


(この人にもっと教えてもらいたいことがある。一緒の学校で学びたい。そして側にいたい)


 その気持ちが何であるかは分かっている。ただ、口には出せなかった。七海は答えを待っている目で夏樹を見つめている。一つの決意から答えを口にした。


「自分にもできる」


 夏樹の言葉に七海は頷いた。


 夏樹はいままで机に飾っていた七海の参考書が武器なのではと考えた。案の定、ページを開いて「お古のお古」の意味が分かった。二人の合格者が使ったもの。その書き込みに驚いた。一つの問題から応用問題と解答、弁天校の出題傾向全てが書き込まれている。この一冊、自分ならお金を出してもいいと思った。それほどのものを譲ってくれた七海のことを思うと抑えられない気持ちがこみ上げてきた。

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