なんとなく、法令遵守
輪島ライ
なんとなく、法令遵守
(1)Youtubeからmp3でダウンロードした流行りのJ-POPを聞きながら、僕は部屋着を着替えてマンションを出た。今は月曜日の朝8時30分。(2)可燃ごみはいつも通り収集日前日の夜に捨ててあるから早起きはしなくて済んだ。
下宿のすぐ前にある大通りに出ると、同じ学年の河東さんが(3)通常車道を横断して歩いてきたので軽く挨拶して一緒に登校することにした。ここの通りは向かい側が阪急の駅で、横断する機会が非常に多いのに横断歩道が少なくて不便である。
「私ね、今日の朝ちょっといいことがあったの」
「いいことって?」
車道を歩いてくる時から嬉しそうな顔をしていたのには理由があったらしい。
「(4)アズナスで爽健美茶を買ったんだけど、(5)1000円札で払ったら9000円以上返ってきたの!」
「へえ、それはラッキーだったね」
「朝だから寝ぼけてたのか分からないけど、これで好きなものが買えるわ」
2人で話しながら大学の構内に入るとちょうど鶴井君が(6)自転車を附属病院の患者用駐輪場に停めていた。
「よう田中、今日は河東さんと仲良くご登校か?」
「途中で会っただけだよ。そもそも僕は下宿だし」
「ああ、そうだったな。近くに下宿できる奴はうらやましいよ」
鶴井君は実家がこの大学と同じ市内にあるので毎日自転車で20分かけて通学している。毎朝運動しないと登校できないという意味では電車で通っている河東さんより大変かも知れない。
「鶴井君にしては登校が遅かったわね。何かあったの?」
柔道部の朝練の関係上鶴井君は毎朝7時30分には登校しているので、河東さんが珍しく思うのも当然だった。
「実は彼女がストーカー被害に遭ってるらしくて……」
「ええっ!?」
鶴井君には高校生の頃から付き合っている女の子がいて近隣の他大学に通っているとは聞いていた。
「昨日も夜まで彼女の実家で相談受けてたんだ。遅くなり過ぎて帰りは原付借りて帰ったよ。(7)免許なくても案外何とかなった」
「それは大変ね。後で詳しく聞かせてくれない?」
「ありがとう河東さん。田中にも相談させて欲しい」
「もちろん!」
鶴井君に事情のあらましを聞きつつ僕らは2回生の講堂に向かった。
講堂前に来ると3回生の居原田先輩が女子を集めて何やら騒いでいた。
「見たまえ、君たち。……どうだ、明るくなったろう?」
居原田先輩が取り出した(8)1万円札にライターで火を点けると1回生らしい女子たちはキャアキャアと歓声を上げた。
「何だ、あれ」
受験で日本史を選択しなかったからか鶴井君には元ネタが分かっていないらしい。
「気にしなくていいと思うよ」
とスルーして僕らはそのまま講堂に入った。
午前の講義が終わって昼休みになり、僕らは大学病院内のコンビニで昼食を買ってから講堂に戻ってきた。人数的にイートインスペースは使えなかったので(9)消費税を10%ではなく8%にして貰ういつものテクニックは使わずに済んだ。
「鶴井君の彼女に付きまとってるストーカーっていうのはどんな人なの?」
登校時に聞いた事件について河東さんが鶴井君に尋ねた。
「彼女はカンカン大の文学部生なんだけど、犯人は宮廷大の歯学部生らしい」
「同じ大学の人じゃないの?」
犯人はわざわざ他大学の学生にストーカーをしていると聞いて僕は不思議に思った。
「インカレサークルとかいって、宮廷大の男子テニスサークルはカンカン大の女子テニスサークルと共同で活動してるらしい。そこで交流があったんだとか」
「私たちにはあんまり実感が沸かないわね……」
僕らが通っているのは単科医科大学である
「一方的に彼女に惚れて、彼氏がいるとはっきり伝えてもしつこくアプローチしてくるそうだ。最近では彼女の実家の近くをうろついたりしてるらしくて……」
「それは迷惑だね。というか既に身の危険を感じるレベルじゃない?」
そう言ってみると鶴井君は無言で頷いた。
「警察には相談してみたの?」
河東さんの質問に鶴井君は落ち込んだ様子で答えた。
「相談してみたけど彼氏がいるのにアプローチしてくるだけでは逮捕はできないらしい。実家の近くをうろつかれてるけど相手の実家も近くにあるらしくて、偶然と言い張られたら何もできないんだ」
「なるほど……」
ストーカーを上手く退散させる方法が思い付かないでいると、3回生の清水先輩が講堂に入ってきた。
「おい鶴井、朝練に来なかったけど何かあったのか」
「あっ、連絡忘れてました。すみません……」
清水先輩は柔道部のエースであり同じクラブの後輩である鶴井君とはとても仲が良い。
「いや、お前が欠席連絡を忘れるぐらいだから相当な事情があったんだろう。俺にも聞かせてくれないか」
「ありがとうございます。実はかくかくしかじかで」
鶴井君が簡単に事情を伝えると清水先輩は腕を組んで口を開いた。
「分かった。そういう事情なら最も簡単かつ王道の解決策がある」
「本当ですか!?」
河東さんが驚いて尋ねると、清水先輩は、
「お前も柔道部員なら、力で解決するんだ!」
と大声で言ってそのまま講堂を出ていった。
「……どうする?」
僕が半ば絶句しつつ聞くと鶴井君は思い立った様子で、
「清水先輩の言う通りだ。ここで戦わないなら俺は柔道部に入った意味がない」
と言った。
「鶴井君なら勝てると思うけど、逆恨みされないかしら」
河東さんも暴力での解決自体には賛成らしいが確かにそれは気になる。
「心配ない。正々堂々と決着を付けるため、俺は相手に決闘を申し込む」
「男らしい解決策ね!」
それから3人で果たし状の文面を考えて僕らは昼休みを終えた。
2週間後。相手は決闘を受け入れたらしく鶴井君とストーカー犯は街外れの河川敷で夜中に決闘を行うことになった。
いざという時に救急車を呼ぶため僕と河東さんは近くにある橋の上から決闘を観戦することになった。下宿生の僕はともかく河東さんは親に大学の勉強会と嘘をついた上で来ている。終電がないので帰りは実家まで付いて行ってあげなければならない。
時刻は夜11時30分。駅前で河東さんと合流した僕はタクシーで河川敷まで来て既に橋の上で待機していた。この辺りには本当に何もないので、若い男女が深夜に2人で降りていったのを見てタクシーの運転手さんは顔をしかめていた。
橋の上で息をひそめていると新たに走ってきたタクシーから長身細身の男が降りてきた。聞いていた外見の特徴と一致しているのであれがストーカー犯の歯学部生らしい。
それから1分も経たずして鶴井君が自転車で乗り付けてきた。彼の実家からこの河川敷となると自転車で40分近くかかるはずだが、決闘前にそれをこなす体力は凄まじい。
「いよいよ始まるのね……!」
鶴井君とストーカー犯が河川敷で対峙したのを見て河東さんはわくわくしていた。
「すぐ119番通報できるように準備しておくから、どっちかが怪我したら教えてね」
「ええ。……あっ!」
スマホのロックを解除していると河東さんが突然悲鳴を上げた。
「何かあったの!?」
河東さんが指さした先ではストーカー犯が金属バットを振り回して暴れていた。背負っていたリュックサックに隠していたらしい。
鶴井君は高い身体能力で殴打を避けているが、もはや危ないという表現では済まない。
「これはもう決闘じゃない。すぐ警察呼ぶね」
僕は慌ててスマホの通話画面を開こうとした。
「いや、その必要はないみたい」
河東さんにそう言われて再度振り向くと河川敷には既に2台のパトカーが駆けつけていて、警察官と一緒に何故か居原田先輩が降りてきていた。
警察官はストーカー犯に拳銃を突き付けて金属バットを捨てさせるとそのまま手錠で拘束してパトカーに押し込んだ。
「良かった。最悪の事態が避けられたのね」
「しかもこれでストーカー犯を処罰できる。鶴井君の勝利だよ」
河東さんと一緒に橋の上で喜んでいた矢先、僕らは河川敷で警察官と鶴井君が口論しているのに気付いた。
居原田先輩が駆け寄って何やら弁明していたが、警察官は構わず鶴井君にも手錠をかけてもう1台のパトカーに押し込んでしまった。
「(10)何がいけなかったの……?」
呆然とする河東さんの視線の先で鶴井君と居原田先輩を乗せたパトカーは走り去っていった。
鶴井君は警察に捕まったが、結果的には自分から一切暴力を加えていなかったのと彼女に迫るストーカー犯を成敗しようとしたという事情が考慮されて不起訴となった。ストーカー犯は決闘罪に加えて傷害未遂、(11)正当な理由のない凶器の所持、そして(12)ストーカー行為という数々の悪事によって実刑判決を受け、大学は無期停学処分となったらしい。
「いやー悪かったな。鶴井の勇気ある決断を居原田に話したんだが、まさかあいつが警察を呼ぶとは思わなかった」
2週間の謹慎を終えて戻ってきた鶴井君にお詫びするため、清水先輩は再び2回生の講堂にやって来ていた。
「居原田先輩が警察を呼んでくれなかったら俺は下手すると殴り殺されてましたよ。むしろお礼を言う立場です」
鶴井君と清水先輩がガハハと笑い合う姿を僕と河東さんも横で微笑ましく眺めていた。
「おっと。彼女とカラオケに行くんでそろそろ帰ります」
スマホの通知で予定に気付き、鶴井君は先輩と僕らに頭を下げて講堂を立ち去った。清水先輩もすぐに柔道部の活動に向かい、僕と河東さんは放課後の講堂に残されていた。
ストーカー犯は処罰されたといっても彼女の実家の近くに住んでいるので、お互いのご両親同士の話し合いの結果鶴井君は大学近辺のマンションで彼女と同棲することになった。柔道部員の彼氏と同棲しているとなればストーカー犯も手出しはできず、鶴井君も自転車通学から解放された。
「色々あったけど、鶴井君が彼女と平和に暮らせるようになって良かったね」
「本当に。でも、どんな理由であれ人々の生活を脅かす犯罪者は許せないわ」
今回の件で河東さんも割と武闘派だと分かり、僕もこういう姿勢は見習いたいと思った。
「犯罪を減らしていくためには、僕ら自身も
「何か格好いいわ、今日の田中君」
「そう?」
河東さんに褒められて僕は少し照れてしまった。
阪急の駅まで一緒に帰ることにして講堂を出ると、いつの間にか外には雨が降っていた。
「どうしよう、今日は折り畳み傘も持ってきてないや」
困っていると河東さんは講堂前の傘立てを見て、
「(13)ずっと放置されてるビニール傘があるから、ちょっと拝借しちゃいましょ」
と言って取り上げたビニール傘を僕に差し出した。
「1本でいいの?」
僕がそう聞くと、
「相合傘は嫌かしら?」
河東さんはそう言ってにっこりと笑った。
肩を並べて帰りながら、僕はこれからも法令を遵守して生きようと誓った。
(注)
1 著作権法違反
2 廃棄物処理法違反
3 道路交通法違反
4 主に阪急電鉄の駅内にあるコンビニエンスストア。JRのキヨスクに相当。
5 刑法第246条違反(詐欺罪)
6 財産権の侵害
7 道路交通法違反
8 貨幣損傷等取締法違反
9 2023年3月時点では違法とは言えない(イートイン脱税)
10 「決闘罪ニ関スル件」違反。決闘立会人と見なされた場合、田中君と河東さんにも1か月以上1年以下の有期懲役が適用される可能性がある。
11 軽犯罪法第1条違反
12 ストーカー規制法違反
13 刑法第254条違反(遺失物等横領罪)
※この物語はフィクションであり、犯罪行為並びに違法行為を奨励する意図はありません。
なんとなく、法令遵守 輪島ライ @Blacken
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