件の怪

明日朝

件の怪


 もし、という声に顔を上げれば、猫のような丸い眼と視線がかち合った。夜も更けようとする、十一時半のことだ。電車の座席に身を寄せる僕は、ふと対面に座る女性に声をかけられた。


 二十代前半くらいか。黄色の無地のパーカーに黒いジーンズという、随分ラフな格好。髪は肩ほどまで伸ばしている。金色の眼が猫みたく爛々と輝いて、どこか不気味だ。およそ、普通の人間のそれとは異なる輝き方だった。


「……何か、用ですか」

 異様なのは目に見えていたし、後で思うと明らかに危うい。だが、まる二日も徹夜に徹夜を重ねた僕には、正常な判断能力などとうに消え失せていた。

 エナジードリンクでぎりぎり繋いだ意識を無理やり働かせ、相手を見る。

 おかしい、と思う思考すらない。だから、うっかり彼女の声に答えてしまった。


「事故があったんだってさ。この辺りで」

 女性は、何が可笑しいのだろう、楽しげにくつくつと喉を鳴らして笑う。僕はその顔をぼんやりと眺めながら「へえ」と短く返す。

「ここらで事故というと、電車絡みですか?」

「うん、そうみたい。酒に酔いつぶれた会社員が、線路に落下して撥ねられたんだって」

「お気の毒、ですね」


 座席に座り直し、僕が答える。視線をずらせば、過ぎゆくネオン街が見えた。無数のライトが、代わる代わる視界に映り込んでは消えていく。

 車内にいるのは、女性と僕だけのようだ。僕は座席にもたれた状態で、凝り固まった肩をほぐすよう、腕を回した。


「随分お疲れのようだね。まるで連日徹夜していたみたいだ」

「みたいだ、じゃなくて実際そうなんです。上司に雑務を押し付けられて、はあ、ほんと大変だった」

「それはそれは」


 女性は、特に興味もなさげに両の手を挙げる。僕は相変わらずはっきりしない意識のまま、車窓をちらりと見て、

「……あなたのほうは、どうなんですか。こんな夜更けに、一人電車に……なんて、何かあったとしか思えないんですが」

「いいや、特に何も。ただまあ、こういう時間に、電車に乗るのが好きなだけでね、特に深い理由はないよ」

「ふうん……趣味みたいなもんですか。変わってますね」

「ははは、そうそう、変わり者なんだよね、わたし」


 タタンタタン、と電車特有の規則正しい音が響く。少しずつ、意識がはっきりしてきた。僕は床に置いておいた鞄を、座席に置く。


「きみって、また随分と真面目なんだねえ」

 女性が思わずといったように笑う。一方の僕は、鞄の側面を見て目を見開いていた。

「なんで、血が……」

 鞄の端が、赤黒く染まっていた。それは明らかに、何かの──動物か、もしくは人間の、血だ。

「ねえ君、件って、知ってる?」

 女性が問いかける。困惑する僕なんて、まるで気にもかけないように。


「未来を知らせる妖怪なんだってさ。生まれて予言をした後、すぐに死んじゃうんだって」

「何を……言い出すんだ。それよりこの血は……」

「わたしも、それと同類だ。まあ、妖怪とは若干、違うかもしれないし、すぐには死なないし。だいぶ程度は違うけど。きっとその類なんだろう」

 そう言って、女性がからからと笑う。僕は困惑に瞳を揺らしながら、さらに問いただそうと席を離れ、立ち上がる。


 だが、席を立った、その瞬間──視界がぐにゃりと歪んだ。酩酊、と言えばいいのか。視界全体がうねるようにして、意識が遠のく。とても立っていられず、僕は膝をついた。


「せっかくの休日前だからって、飲みすぎないほうがいいよ、お兄さん。酔いつぶれて、取り返しがつかないことになるから。……私も、つくづくお人好しだな」


 やれやれと女性が首を振る。だが、その顔立ちももはや霞んではっきりしない。

 光を放つ金色の眼だけが、かろうじてわかった──そう、思ったときには、既に意識は沈み、靄がかかるようにまどろんでいった。



「──山崎ぃ、今日は残らなくていいんだって。休みの前の日だし、飲みに行こうぜ」

 名前を呼ばれて、僕ははと我に返った。瞬きを何度か繰り返し、忙しなく辺り見回す。

いつもの事務室の景色だった。隣のデスクには、よく飲みに行く、仲の良い同僚がいた。

「え……僕は……なにをして」

「は? 何ぼうっとしてんだよ。さっきからなんか魂が抜けた感じで、どうしたん? とうとう頭使いすぎてショートしたか」

「いや、僕……ついさっきまで電車にいて……」

「……まじで大丈夫か? ちょっと、外の空気浴びにいったがいいぜ。どうせ、この作業も終わるし」


 結局、同僚のお言葉に甘える形で、僕は缶コーヒーを片手に事務の作業から一旦離れた。

 屋上に出ていき、がくりとうなだれる。あの電車での出来事はなんだったのか。夢にしてはやけに鮮明すぎて、気色が悪い。


「でも、忠告……だったよな。あの言葉は」

 闇が広がる空を仰ぎ、僕は缶コーヒーに口をつける。冷えたコーヒーの味は、曖昧な思考を緩やかに現実へと引き戻していく。

 

 あれは、ただ疲れすぎて見た夢か。あの女性も、電車の景色も、全てが全て単なる夢の自称なのか。考えれば考えるほどに疑問が絡み合い、解けなくなる。


「……ああ、目眩……。今日はまっすぐ家に帰るか。とても飲む気になれない……」

 考え過ぎと疲労とストレスによって、僕は手早く資料をまとめて上に提出すると、荷物を抱え、どこにも寄らずに帰路を辿った。



 その翌日──同僚が亡くなったという知らせを聞かされ、僕はひどく動揺した。居酒屋からの帰り、線路に落ちて電車に轢かれたのだと。


『件って、知ってる? 未来を知らせる妖怪なんだってさ』


 その一報を受けた後、しばらくその場から動くことができなかった。

 電車に乗り合わせた、あの女性は、果たして普通の「人」だったのか──それとも。人ならざる「怪異」だったのか。


 僕はその日らしばらく、電車で帰るたびに無意識にあの女性を探していた。

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件の怪 明日朝 @asaiki73

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