後編 おじちゃんと僕
「……そうか」
山下さんのところのおじいさんの訃報を聞いたのは、彼がこの世を旅立ってから3日が経った頃だった。
「そうなのよ~、突然だったらしくてね」
近所のおばさんは俺とよく話をしてくれて、情報をくれる。
「それで今日は何を買いに来たんだ?」
「ああ、そうだったわ! マキバさん、トマトを三つください」
「あいよ」
「それでね、マキバさん。聞いてもらいたい話があって……」
「……どうした?」
トマト三つにキュウリをおまけにつけた袋をおばさんに手渡したところで、おばさんはそう切り出した。
「たかしくんのことなんだけど……」
「たかしくんがどうした?」
彼は俺によく話しかけてくれる。そんな彼がどうしたのだろうか?
「……あの子、おじいちゃん子だったでしょ?」
「ああ」
「そのおじいちゃんがいなくなったせいでね、おかしくなっちゃったみたいなのよ」
「……そうか」
「おじいちゃんが見えるとか言ってるんだけど、それよりもひどいことがあってね。」
「……早く教えてくれ。」
「なんだか、子供みたいになっちゃったらしくて……」
「……わかった」
一応、冷静に答えた。
「後で会いに行ってみるから」
「気をつけてね」
たかしくんが心配だ。俺は急いで店を閉めた。
「おじさん、おはよう」
彼はよく俺に話しかけてくれた。
「よう、元気か?」
「うん」
この短い朝の会話がもはやルーティーンとなっていた。
「それじゃ」
「おう。頑張れよ」
彼はその日も勤務先の学校へ向かった。
「おじちゃん! おはよう!」
たかしくんに会って、絶句した。
「……おはよう」
症状は幻覚、幻聴、それよりひどかったのが幼児退行だった。
彼の家は今、ひどい状態にあった。
まず母親はアルツハイマー症を発症。そのせいで、よく同じようなおかずが出てくるそうだ。
そして、姉。夫に不倫されて、離婚。多額の賠償金をもらったが、37歳という年齢でのその出来事は心に大きな穴を作った。
そして最後にたかしくんこと
そんな彼は祖父という心の支えが居なくなってしまったことで、心がぱっきりと折れてしまったらしい。このように精神疾患を抱えることになった。
しかし、そんな彼の現状を知る術が唯一あった。それが彼のブログである日記だった。
「ブログぅ?」
数年前、まだ彼が大学生だった頃、彼は俺にブログを作ったことを教えてくれた。
「そう、ブログ」
俺にとって私生活をインターネットに載せるだなんて恐ろしい以外の何者でもないことだった。
「なんとなく書いてみたくって」
そんな彼のブログの名前は『たかしの日記帳』だった。
かくいう俺も昔家庭を持っていた時に日記を書いていたから、日記帳という響きには懐かしさを覚えたものだ。
隆くんに久々に会った後、彼のブログを久しぶりに開いてみた。
やはり、そこには途切れ途切れの部分もあるが、彼の毎日の様子が書かれていた。
一ヶ月前はなんの変哲もなかったその日記。しかし、それは隆くんの祖父が亡くなった次の日からおかしくなっていった。
『おじいちゃんが帰ってきた』
『晩御飯が美味しかった』
『いっぱいお昼寝をした』
そんな文章が山ほどあった。彼は本当におかしくなってしまったようだ。
「マキバのおじちゃんも一緒にどう?」
ある日、相変わらずひどい状態の彼がピンクのボールを手に俺に話しかけた。これで五回目だった。
一度は以前のように断ろうかとも思ったが、もう見ていられなくって、つい受けてしまった。
そのあとは公園に行ったのだが、彼は虚空に向かって話しかけ、虚空に向かってボールを投げた。
おそらくそこにおじいちゃんが見えているのだろう。
「……お化けだから掴めないのかもな」
それらしいフォローはした。そして彼はそれに納得して、俺とキャッチボールを始めた。
そんな時、ある変化が起こった。
『今日はお姉ちゃんが料理をした』
ブログにそう綴られていたのだ。普段全く料理をしないと聞いていた彼女が料理をするとは、驚きだった。何か嫌な予感がした。
そしてついに、事態が動いた。
それは珍しくブログの更新が昼間に行われた時のことだった。そこの部分を読んだ俺は息を呑んだ。
『おじいちゃんが見えなくなった』
なぜかはわからないが、彼の精神疾患が一部治ったようだった。
しかし、そのブログには最後にこう書かれていた。
『おじいちゃんのところに会いに行ってくる』
俺は急いで家を飛び出した。
「開けろ!」
あげたこともないような大きな声でドアをなん度も叩いた。
「どうかしましたか?」
場違いに呑気な隆くんの母親が出てきた。
「すみません、どいてください!」
母親を押し除け、靴も脱がずに階段を駆け上がる。あのブログが更新されてからまだ1分も経っていない。これならまだギリギリ間に合うかもしれない。
隆くんの部屋のドアを開けた。そこには思ったとおり、首を吊った隆くんがいた。
「隆!」
大急ぎでそのロープをとって、隆くんを下ろす。まだ生きていた。
「救急車を……」
携帯電話で救急車を呼んで、一通りの応急処置を行った後、彼は救急搬送された。
「あれまあどうしたのかしら?」
アルツハイマーになった母親は、この通りまるで他人事のような反応だ。
だが、俺にとって重要なの母親ではない。
「
自室の扉を開け、隆くんの姉の奈美子ちゃんがその顔を見せた。
彼女の部屋の中はこれまたひどい惨状だった。大量に破かれた新聞などの紙類の数々。そして転がった大量のペットボトル。
「なんですか? 急に押しかけて」
彼女はあくまでしらばっくれるつもりのようだ。
「あんた……食事に何を混ぜた?」
彼女はドキッとした表情を一瞬見せたが、すぐに元の表情に戻った。
「なんのことです?」
仕方がないので、彼女の部屋を見回す。一見汚いだけでなんの変哲もないこの部屋。しかし、そのゴミの山の中からあるものを見つけた。
「これだよな?」
それはとある薬。日本では使用が禁じられている薬で、無理やり精神疾患を直す薬だ。しかし、効力を出すには毎日服用させる必要がある。
「だからお前が食事を作っていたわけか」
つまり、あの食事の中にはこの薬が含まれていて、それによって隆くんの精神疾患が治ってしまったのだ。まあ、その結果錯乱を起こして今回の事態に発展したわけなのだが。
「……うああああ!」
突然彼女が泣き出した。
「もう限界だったんです! 弟も母親もおかしくなってしまって、こっちがおかしくなりそうで……」
夫にも裏切られて、家族もおかしくなったこと。それは彼女の心を折ったのだ。
「それで弟を正気に戻そうと?」
「そうです。正気に戻ったら、なんとかしてくれるかもって思って」
確かに隆くんなら、しっかりしているし、なんとかはしてくれるだろう。しかし、精神疾患を負っていては無理やり治したところで結果は見えていただろう。
「俺に言ってくれればよかったのにな……」
こんなにもそばに居たのに助けられなかった。無力感でいっぱいだ。
「どうだ? 調子は?」
「はい、なんとか」
それから隆くんは元気になった。入院をして一時はどうなることかとも思ったが、回復をして今では話せるまでに戻った。
精神疾患もあの薬に効果なのかすっかり治った。しかし、あの薬を使用した姉は結局逮捕されてしまった。裁判は事件時の彼女の判断力の有無でまだ長引いている。
「母は?」
「ああ、お母さんは大丈夫だ」
隆くんのお母さんは今、ヘルパーさんにお世話してもらっている。
ちなみにヘルパーさんというのは、あの時俺に情報をくれたおばさんだ。食材などの買い出しを俺がするという契約で正式なヘルパーさんが見つかるまで請け負ってもらった。本当に優しい人だ。
「それより、隆くんは自分の身をしっかり守るんだぞ」
学校でのパワハラは他の職員からの内部告発によって明るみに出た。今はその体制を変えていくためにおおわらわなのだそうだ。
「ははは。おじさん、何から何まで本当にありがとうございます」
「いいってことよ」
俺も隆くんが話しかけてくれたおかげで人と話せるようになって、今店をやることができている。だからまあその恩返しの意味も込めているのだ。
「それじゃあ俺はお前のじいちゃんの墓参りに行ってくるから」
「はい、それでは」
そうして、俺は病室を出た。
ここはとある墓地。ここに隆くんの祖父が眠っている。俺はスカシユリを持って、彼の墓の前に立った。
彼は本当にすごい人だった。ある工事現場で暴力沙汰を起こして、逮捕された父親に代わって、まるで本物の父親のように隆くんと接していた。
実際、彼の家がなんとかなっていたのは、祖父がいたからだと言っても過言ではない。
実の娘も夫が逮捕されたことでアルツハイマー気味になったりと大変なこともあった。だが、彼はそれをなんとかしてくれた。本当に感謝しかない。
俺は彼の墓に花をたむけて、別れの言葉をかけた。
「お
隆くん……いや、隆に優しくしていたのは恩返しのではない。俺の贖罪だ。
俺は元妻の様子を見に墓地を後にした。
たかしとおじいちゃん 壱六 @16-009GT
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