エピローグ

 翌日の授業は予定通り実施されたが、武道場への立ち入りは終日禁止になった。人を引き離すことで何らかの効果を期待しているようだ。いかにも中途半端な措置だが、警察発表のタイミングとマスコミ対応の兼ね合いがあり、生徒間でも情報が錯綜する中で、現実的な落としどころを探った結果だろうと陶冶は理解していた。この田舎町が好機の目に晒される迄の、ほんの僅かな間、何事もなかったかのような顔で暮らさなければならない。


「そう言われても、防具を付けた練習ができないのはなぁ、剣道部のアイデンティティに関わる問題だぞ」

 体育館に繋がる二階の外廊下で三羅野が言った。剣道部員たちは円陣を作るように並び、行き来する生徒たちの邪魔にならないよう頭を寄せ合っていた。

「再開時期は不明なんすか?」竹中が訊く。

「そのうち、だそうだ」

「答えになってねぇな」飛山が笑った。


 昼休みにミーティングが実施されたのはアンフィスバエナ探しの会発足以来のことだった。要するに約一週間ぶりなので目新しさはない。部長の滝沢が不在である点が、珍しくはあった。


「ランニングでもするかぁ。10キロマラソン」

「うぇえ」三羅野の提案に、陶冶を含めた反発の声があがった。

「厳しくないですか副部長」「緩くいきましょうよ」

「文句言うな。滝沢だったら20キロだぞ。胴と小手付きで」

 三羅野の言葉に、それもそうかと部員全員が納得して本日のメニューが決まった。解散の合図で剣道部員たちの円が解けていく。


「あれ、弁当じゃねぇの?」階段に向かう陶冶に、竹中が声をかけた。

「ああ、今日はちょっと」

 理由を濁して、陶冶は竹中を見送った。いつも栄養調整済みの冷凍弁当なので不自然に映ったようだ。他人は都合の悪い時にだけ、思った以上に自分を見ている。


 階段で一階に下りると渡り廊下に人だかりができていた。陶冶にとって久しぶりの光景だ。購買は毎日業者がパンなどを運んできて、渡り廊下に長机を置いてそれらを並べる一方通行のバイキング形式をとっている。生徒たちは一列になって、それらを吟味し、終点のレジで代金を払う。一度取り損なうと後ろから押されて戻ってこれないため、判断力が求められるシステムだ。


「や」後ろから肩をポンと叩かれる。

 陶冶が振り返ると、猫のような眼をした先輩の女子生徒が立っていた。自転車で走り回っていた昨日に比べると髪は撫でつけられており、皺のないセーラー服姿が淑やかな印象を抱かせる。無論、それが錯覚であることを陶冶は知っている。

「すみません、お待たせして」

「いや、ボクも今来たとこ。何なの、あのメールは?」

 伊奈波は訝し気な目で陶冶を見つめた。

「まぁまぁ、お気になさらず。さ、並びましょう」

「『是非、購買でお昼を奢らせてください』か。普通に考えれば感謝の表れなんだろうけど、ボク何かしたかな」

「事件を解決したじゃないですか」

「ボクが首を突っ込まなくても、きっと滝沢君が彼女を警察に連れて行ったか、警察が自力で辿り着いただろう。ボクは結局、解決そのものには役立ってない」

「そんなことは」陶冶は思わず声が大きくなって、周囲の生徒に気付きトーンを落とした。「ないと、思います。それに、伊奈波先輩がいなければ、俺は何も知らないままでした」

 伊奈波が突きつけた言葉は、確実に清水の中にある何かを溶かして、絡まっていた結び目を解いたはずだ。陶冶はあの暗がりの中で流れた涙に、その成分が溶け出したのを感じていた。もし、あのままでいたら、アンフィスバエナは無理やり何かを選ぼうとして、身体が裂けていたかもしれない。


「知らない方が楽だって事もあるさ」

 購買の列が進み、右手に積まれた商品が見えてくる。最初の机は菓子パンだ。机上の陳列用ケースには角度が付いているため、ラインナップが見やすい。

「好きなもの取っていいの?」

「はい。なるべく沢山どうぞ。数もお好きなだけ」

「端から端まで全部でも?」

「良識の範囲内でお願いします」

 ならこれかな、と言って伊奈波はメロンサンドを選んだ。棒状の甘いパンに切り込みが二つあり、中にメロンクリームが挟まれている。

「いや、本当に君が奢ってくれる理由が思いつかなくてね。正直、今この状況が、ボクにとっては一番の謎だよ。全然分からない。あ、これも」

 言いながらメロンパンを手に取る。メロンが好きなのだろうか。しかし、いずれのパンにも含まれるメロン果汁は僅かだ。メロン風味が好き、と言うべきだろう。陶冶は笑顔を維持しながら列に従って歩いた。

「君は女性に奢っていい気になるタイプでもないしねぇ、学年だってボクが上だ。うどん屋も割り勘だった」

 左手にパンを抱えながら伊奈波は首を捻った。長机は総菜パンのエリアに入り、サランラップに包まれた焼きそばパンから香るソースが鼻をくすぐった。

「何かの口止め? でも事件の噂はどうやっても広まるしなぁ」

「今、ヒレカツパンを見ましたね。どうぞ取ってください。我慢は身体に良くないですよ」

「良いのかい、こんな高級なパンを」

 伊奈波が唾を飲む。さして高級ではないが購買の中では割と高い。

「どうぞどうぞ」

「作り笑いが下手だよね、鍬形君は」

「そうですか?」

 爽やかな笑顔をしていたつもりなのだが。

「あぁ、もう降参だ。教えてよ。背景の読めない賄賂ほど怖いものはない」

 ヒレカツパンを掴んでから伊奈波は陶冶を見た。肩がぶつかる距離なので、陶冶が見上げられる形になる。

「実はですね、今朝、弟の真司から電話がありまして」

「弟? へぇ、弟いるんだ」

「伊奈波先輩の写真が見たいと言われました」

「え、どうしてボク? 面識ないよね?」

「昨日、父と画面越しに話したじゃないですか。それが伝わったみたいで、その、誤解が生じているんです。申し訳ないんですが、あいつ、先日彼女ができたのを俺に自慢してきたので、そういう……」

 陶冶の声が段々声が小さくなる。極めて不本意で、度し難い状況だった。

「あー、なるほど。大体分かった」

 伊奈波はコーヒー飲料を取った。

「写真はねぇ、自信ないなぁ」

 続けて栄養機能表示の付いたブロック菓子が二つ、チョコレート味とチーズ味がメロンパンの上に乗った。保存の利く食べ物だ。

「いえ、写真が欲しいのではなく、電話できちんと否定していただけないかと。俺が違うと言っても、隠そうとしていると思われてて」

「いいんじゃない?」伊奈波が言った。

「え?」

「弟に対抗して見栄を張って知り合いの先輩を彼女だと言い張る痛々しいお兄ちゃんのままで」

「俺は何も言ってないんです! 勝手に誤解されただけで、信じてください!」

「そこは疑ってないよ。だから余計にね」

 ペットボトルのお茶が、伊奈波の小指と薬指の間に挟まれた。沢山の商品を抱えたまま、伊奈波は白い歯をみせた。

「ご迷惑ではないかと」

「ボクは別に困らない」

「俺がその」陶冶は口籠った。あまり強く迷惑だと言っては失礼になる気がして、柔らかい表現を探す。「居たたまれない気持ちになるんです」

「どうしようかな、もう一周しようかな」

「お願いします。ホントに」

「三又のお礼がフジモタイトに化けたから、今回も珍しい石が良いなぁ。鍬形君はね、石運があるよ。採集部員として誇るべき資質だ」

 ついに入部させられた。

「兼部は、その、剣道部があるので顔は滅多に出せませんが」

「ボクは入れなんて言ってないよ。自主的に入りたいというなら歓迎するけど」

「入部したいです。あの事件以来、何だか鉱物に興味が出てきたので」

「そうか。なら仕方ないな。弟君にはそのうち電話してあげよう」

「そのうちじゃ困るんですよ、来週の日曜に家族で外食するので、それまでには」

「なら土曜日まで余裕があるね」

 伊奈波は嬉しそうに言った。しくじった、と陶冶はすぐに後悔した。

「最初はやっぱり水晶拾いが良いかなぁ。ボクとしては神岡鉱山とか、飛騨の方に行きたいけど、午前中は剣道部があるだろう? ああ、その前に道具も必要か。イベントで一式揃える? でもねぇ、名古屋のミネラルショーは来月だし、何事もまずは体験してみないと……あ、夏はさ、糸魚川へヒスイ拾いに行きたかったんだよ。合宿するなら、新潟にしよう。あ、もちろん鍬形君も、希望があったら言っていいからね」

 目の前で拒否できない予定が埋まっていく。

 長い列はようやく終点を迎え、伊奈波は抱えていたパンたちをレジ台に置いた。陶冶が小遣いから支払い、ペットボトルとブロック菓子を分担して持った。パンを三つ持った伊奈波が「校庭で食べよう」と言い、返事を待たずに歩き始める。


 昼休みの校庭にはそれなりに他の生徒がいた。教室の狭さに飽き飽きしているのか、平均的に声量が大きい。部活仲間か、クラスを跨いで仲が良いのか。女子生徒の一人が何か言って、他の女子生徒がワッと笑う。彼女たちの周囲だけは初夏というより春に感じられた。

「そこが空いてる」

 ベンチは他の生徒たちが使っていた。伊奈波が指さしたのは使われていない花壇の煉瓦だ。二人並んで腰かけた。


「そういえば鍬形君、自分の分は?」

「さっき一緒に買いましたよ」伊奈波と同じブロック菓子の箱をポケットから出して見せる。フルーツ味だ。

「一個だけ? 育ち盛りなのに少ないなぁ。沢山食べないと、立派な大人になれないよ。一つ分けてあげようか?」

 伊奈波が冗談めかして言った。奢った以上パンの所有権は確かに伊奈波にあるのだが、どうにも釈然としない。何と返すべきか思考を巡らせているうちに陶冶はふと、伊奈波に質問したくなった。

「立派な大人って、どんなですか?」

「鉱物に詳しい人」伊奈波は断定した。

「そんなわけないでしょう」

「違うと思えるなら、鍬形君の中には、ぼんやりとでも立派な大人像があるんだよ。それが答えだ」

 答えは質問者の中にある。知っている事を訊くなとでも言いたげな、どことなくズルい回答だ。

 陶冶は考える。自分は本当に知っているだろうか。

 立派な大人がどんな人間か明確に言えないが、どういう人間でないかは言える。大きな石を丸く加工するように、不要な面を少しずつ削り取っていけば、いつかは真球が見えてくるのかもしれない。あるいは、球を目指そうとする運動の方が、本体なのか。

「あ、そこ」

 伊奈波はヒレカツパンを開封しながら、陶冶との間にある煉瓦に目線を落とした。陶冶もつられて下を見る。丁度二人の中心にある煉瓦が一カ所、不自然に欠けていた。

「去年、ボクが間違って砕いたところだ」

「粟津先生に見つかったってやつですか」

「うん。あの時はね、向こうが正しかった」

 鉱物の母岩を削ろうとして、勢い余ってハンマーを振り下ろしたと伊奈波が話していたのを思い出す。欠けた煉瓦の周辺は色が薄く、指でなぞってみると尖っていると思われた縁は丸くなっていた。一年の間に風雨に晒され、縁に応力がかかって削れたようだ。

「ずっと正しければ良かったのに」

 指に付いた煉瓦の粉を吹いて、陶冶は言った。言いながら、それが難しいと知っている自分を見つける。何となく屋上に目をやったが、校庭からではフェンスしか見えなかった。

「うーん、まぁそうかもしれないけど」

 伊奈波の相槌を、黄色い声が遮った。陶冶たちの目の前を、一年の女子生徒たちが通り過ぎていく。とても楽しそうに笑っていた。会話が途切れて、しばらくの間、お互いに食事を進めた。ブロック菓子一箱の陶冶はすぐに片付き、伊奈波が食べ終えるのを隣で待っていた。伊奈波はヒレカツパンとメロンパン、チョコレート味のブロック菓子を半分食べて、メロンサンドに手を伸ばす。

 細長いパンが半分に千切られて、メロンクリームの香料が陶冶の鼻に届いた。尻尾を切られた二匹の蛇を一瞬連想する。

 半分になったメロンサンドが陶冶の前に差し出された。

「息苦しいよね、それもなんだか」

 伊奈波が言った。

「食べ過ぎなんじゃないですか?」

 陶冶はそれを受け取って、一口頬張った。

 久しぶりの味で、思ったより美味しい。

「そういう意味じゃない」

「知ってます」

 予鈴のチャイムが鳴った。もうすぐ五限目が始まる。

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田舎町のアンフィスバエナ 杞戸 憂器 @gorgon_yamamoto

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