22 選択
アンフィスバエナは見つからなかった。陶冶はその事実を思い出した。
右腕が発見されて捜索は中断されたが、あの十字路の周囲に縫われた雌雄の蛇の死体があったことになる。回収すれば姿が映りかねないから清水は放置したはずだ。しかし、死体はなかった。鳥か猪にでも食べられたのだろう。アンフィスバエナは畸形ですらなく、極めて残酷な現実によって消えてしまった。
「能登さんのお爺さんの観察は成功した?」伊奈波が訊いた。
「右腕が発見された後、家に招かれたおかげで話す機会があったわ。能登源次郎は、そうね、まともに見えた」
「自宅の周辺でバラバラ死体が発見された人間を観察しても、ボクはそこで現れるのが本性だとは思わない。君のやり方は感心しないな」
「源次郎さんはメガソーラーに反対していたと、能登から聞きましたが……」
陶冶は言った。能登によれば、源次郎は土砂崩れや自然破壊を警戒していた。しかし、全ての土地で同じ意見なのかどうかは分からない。
「誤解しないでほしいんだけど、私は、積極派でも、反対派でも構わないの。ただ、真っ当であってほしかったのよ。バラバラにしたあの男のように自分本位だったり、蛇のように生きているだけでなければ。幸い、能登源次郎はそうじゃなかった。そうでない人間がいると知れただけで収穫だったわ。とても安心できたから」
「真っ当かどうかを君が決めるのか」
「私の世界で、私以外の誰がそれを決めるの?」
「君は、真っ当な人間にもっと早く出会うべきだった。こんなやり方ではなく」
「出会えていたら、違ったのかもね」
清水のトーンが一段落ちる。現実では出会わなかった。美しい仮定には意味がない。言葉の温度から、陶冶は込められた意味を感じざるをえなかった。
「言うなれば、君は過激な検討派だ。全ての大人に『まともであれ』と強要する当人が、一番まともじゃないなんて馬鹿げてるよ」
未来のことを真剣に考えろ。自分の判断に責任を取れ。無関係だと居直るな。この死体のようになりたくないのなら。
それらは、直接のメッセージではない。実際には犯行声明のない切断された死体の一部が各地に置かれただけだ。しかし、偏った思想にとって、自己中心的な存在にとって、後ろめたい誰かにとって、ほんの僅かに己を省みさせる威力がないとは言えない。
「『まともであれ』か。良い様に捉えてくれるのね。もしかしたら、憎い男を辱めたくて、適当に死体をバラ撒いただけかもしれない」
「ここまで来て、つまらない冗談だな。わざわざ清水さんのために、インタビューまでしてきたのに」
「インタビュー?」
「鍬形君の父親、市長の鍬形秀臣氏と、ついでに一緒にいた志賀春男前市長に、聞いてきた。『この市は、将来どうなりますか? 貴方たちがやろうとしている政策の先にある未来は、明るいですか?』って。この二人は、君がまともであってほしい大人の代表格だろう。こんな青臭い質問をするのは、ボクだって恥ずかしかったんだが……二人とも要約すれば答えは同じだったよ。何て言われたか、知りたいかい?」
伊奈波が口角をあげた顔は、見えなくとも想像できた。目の前の黒い塊が動き、清水が立ち上がったのだと分かる。武道場の空気が張り詰めていく。
「……なんて言ったの」
「ほらね、君が何も考えていない奴だったら、こんな話どうでもいいはずだ」
「いいから、教えて」
苛立った声が飛んでくる。
伊奈波は鼻から息を漏らし、間を空けた。
「『未来は明るい。そのために、次期市長選では私に一票を』」
陶冶は父親の、そして父の宿敵の言葉を思い出す。自分こそが市の明るい未来を切り開く救世主だと信じている二人の政治家は、呆れるほどに堂々とした態度で言い切った。暗闘も、工作も、開き直りも、恐らくは汚い事だってしているはずなのに、言い切った。
「信じられないわね」
清水は笑ったように見えた。
「それでも多分、次の市長選もあの二人しか立候補しない。だから結局、選択肢は二つだ。さっきボクは君を過激な検討派だと言ったけど、それこそが君の抱く最大の
「随分と好き放題言ってくれるじゃない」
「本当のことだろう。それが良いとも悪いとも言わないよ。でも、君がイラつくのなら、君自身それを良しと思っていない証拠だ」
清水は応えず、その場に立ったまま伊奈波の方を向いていた。
武道場に入ってから、どれぐらい時間が経ったのだろう。暗闇の中にいるせいで時間の感覚がぼやけている。
「粟津先生をどうして殺したの?」
伊奈波は唐突に話題を変えた。しばらく沈黙があって、清水涼子が口を開く。
「伊奈波さんの表現を借りるなら『まともじゃなかった』から。自分本位に、金銭欲と性欲をまぶして油で揚げような、みっともなさの塊が私の方に手を伸ばしてきたから、喉を刺した」
「そっか」伊奈波はあっさりと返した。
「何か言わないの?」
「ボクが話したかったことは、大体さっきので全部だ。あとはもう警察が来るまで適当に話をして時間でも稼ごうかと思っているぐらいさ」
それは言って良いのか。陶冶に緊張が走った。
「呆れた。私が黙って逮捕されると思っているの?」
「思っているよ。だから、その時までここにいるつもりだ」
「何もかも知った風な口を……」
激情が圧縮されたような声が、清水から漏れ出た。
暗闇の中から、白いものが現れる。
右手が動いている、と直感した。何か持っている。
陶冶は反射的に伊奈波の前に出た。
「先輩、下がって」
「違うよ鍬形君。そうじゃない」
「何か持っているんです」
「ナイフだろう。ボクも君も刺されないよ」
伊奈波は断言した。
「どうしてそう言い切れる? 私は、もう二人も殺しているのに」
清水は俯いたまま直立していた。表情は見えない。
伊奈波は陶冶の背中に手を置き、動こうとしなかった。
闇雲に距離を詰められたら守り切れない。
陶冶は奥歯を噛みしめた。右足の親指を曲げて、重心の移動に備える。
「そういえば、屋上から脱出した謎について、まだ話していなかったね」
張り詰めた武道場の空気を無視するように、伊奈波の声が響いた。
「この状況でそんな話している場合じゃ」
「慌てる必要はない」伊奈波は言った。「清水さん、君は粟津先生を殺して返り血を浴びた。その後、告白を断ってからの流れは滝沢君に教えてもらったけど、本来なら……いや、滝沢君が協力しなければ、君は昨日逮捕されていたんだ。君はそのつもりだった。今この場にいるのは、ロスタイムみたいなものだろう」
「……滝沢君には、感謝している。迷惑を、かけてしまったけど」
清水が一つずつ言葉を選びながら呟いた。
考えてみれば自暴自棄な行動だと言える。逃げる気があったとは到底思えない。
「犯人がどうやって屋上から脱出したのか、ボクはずっと考えていたんだ。屋上には鍵が掛かっていたし、非常階段の屋根も使用されなかった。北には滝沢君が待っていて、南も人の目が気になる。その疑問が解けたのは、犯人の正体がアンフィスバエナのような君だと気付いた時だ」
「アンフィスバエナ?」陶冶は理解できずに繰り返した。
「皮肉だよ」伊奈波は前髪を払った。「清水さん、君はどちらにも行けない存在だ。あの日もそうだったんだろう?」
清水は答えない。暗闇の中で存在を主張している白――ナイフが震えている。
「屋上で、君には沢山の選択肢があった。最初は、鍵を取って逃げようと思ったはずだ。自首しないなら、誰だってそう考える。けど、あの日、扉の向こうにはボクたちがいた」
陶冶は自分が扉を開けようとしたのを思い出す。伊奈波がノックして、呼び掛けたのだ。やはりあの時、屋上にいたのか。扉一枚を隔てて。
「君は扉から出るのを諦めて西側に移動した。フェンスを乗り越えて、非常階段の屋根に飛び降りれば、そこから四階の階段に身体を滑り込ませて脱出できる。それ以外に安全なルートはない」
「でも、そのルートは選ばれなかったんですよね?」
「そうだ。清水さんは多分、非常階段の屋根を見て、そこで……」
陶冶は想像した。
死体から流れ出る血の海を背に、屋上のフェンス越しに逃げられそうな箇所を探していく。どこにも足を掛けて降りられそうな場所はない。誰かが屋上に来ようとしている。早く逃げなければ。そういう焦燥の中で、西側に非常階段の屋根を見つけたなら、それは光り輝いて見えたに違いない。
「私はそこで諦めたのよ。逃げるのに疲れた。屋上に行くのを誰かに見られていたかもしれないし、ここで逃げたって仕方ないと思ったの」
清水は吐き捨てるように言った。自嘲の混じった声色だった。
「でも、だったらなぜ」
現実の貴方は、屋上から脱出しているじゃないか。陶冶は心の中で問いかける。
「清水さんは自殺しようとしたんだ。自分の命すら諦めようとした。その心境になったのが西側の、非常階段を見下ろす位置だったのが幸いした」
「本当に、何もかも知っているみたい」
清水は大きく息を吐いた。
「私は少しだけ右にズレて、フェンスを登って下を見たの。屋上の高さできちんと死ねるのか分からなかったし、途中に邪魔があったらいけないから。でも、情けない話だけど、下を見たら急に怖くなった。馬鹿みたいでしょう? 死のうと思っていた人間が」
「生き物の本能だ。自然だと思うけどね」伊奈波が言った。
「フェンスにまたがって、丁度あそこが生と死の狭間だと思った。あの数秒が、人生で一番長く感じたなぁ。私は恐る恐る手を離そうとした。そして、それでも、私は選べなかったのね。壁を擦りながら身体が落ちていく感覚があって、気付いたら雨どいのパイプを掴んでいた。死んでないと思った瞬間、心臓がバクバクいって、全身が震えたわ。あとは必死で、非常階段の手すりを掴んで階段の中に入った。あの時はね、本当に、生きている事実に涙が止まらなかった」
自殺は失敗した。その結果、犯人が不合理な方法で屋上から脱出したかのような、不自然な状況が作り出された。
そうだ、伊奈波は言っていたじゃないか。
君は四つの命を奪った。
四つとは、二人の人間と、二匹の蛇だ。
五つ目は、清水涼子自身の命か。
ボクも君も刺されないよ。
なら、刺される人間は一人しかいない。
陶冶は一歩踏み込んだ。
清水が持つ白い物体が、至近距離でようやくナイフだと視認できた。
逆手で持っている。不味い。
「将来の総理を傷つけちゃダメだ」
伊奈波の声が聞こえた。
清水涼子が一瞬、硬直する。
だから、総理は言い過ぎだって。
返す余裕はない。
清水の身体にぶつかった。
背後には壁。
衝撃で弾む。
右手は、掴んだ。
硬いものが落ちる音。
「君は生きる方を選んだ」
伊奈波が言った。
陶冶が抑え込んだ清水の身体が小さく震える。
清水の全身から力が抜けていく。
陶冶が離れても動かない。
すすり泣く声だけが、暗闇の中で長く聞こえた。
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