21 武道場
「剣道部の部長はな、代々武道場の合鍵を受け継ぐ習わしなんだ。何代か前の部長が休みの日でも練習したくて、こっそり作ったらしい」
秘密だぞ、と滝沢は言った。
陶冶は説明を聞きながら、身体に付いたコンクリの粉を払う。塀の内側には
三人は武道場の入り口から少し離れた位置に立っていた。外の街灯から届く光のおかげで、相手の表情は視認できる。滝沢は黒のジャージ姿でランニング中のような格好だった。
「鍵が開いているのは、そういうわけだ。人目を避けて話をするには、良い場所だろ」
「学校を指定された時はどこで話すつもりなのかと思っていたけど、確かにここは穴場だね。職員室からも遠い」
伊奈波が言った。角度的に職員室やグラウンド側から陶冶たちは見えない。教師たちも、ここまで見回りはしないだろう。
「伊奈波さんに」滝沢が伊奈波を見る。「採集部に三又を借りに行かせなきゃ、こうはならなかったのかな」
「そうかもしれない。けど、そうならなかった未来が良いものだとは限らないよ」
「分かってる」滝沢の眉間に皺が寄った。唇を噛みしめ、拳を握りしめる滝沢は、今にも爆発しそうな危うさがあった。
「色々事情があるんだ」絞り出すような声で滝沢は言った。
「あるだろうね」
「だから、何て言えばいいのか……」
「滝沢部長」陶冶は状況に耐えられずに呼び掛けた。
滝沢と伊奈波が同時に陶冶を見る。周囲に音を発するものはなく、自分の心臓の鼓動が聞こえた。
「どうして滝沢部長がここにいるんですか」
「俺がいちゃ悪いのかよ」
滝沢が顔を半分しかめた。そうではない。陶冶は心の中で声に出す。
ここにいるのは、貴方ではないはずなのだ。
「ボクたちが電話したからだよ」伊奈波が言った。「能登さんに繋がらなくて、他に知っていそうな人に電話番号を聞いたろ? あれが原因だ。そして、今滝沢君がここにいる事実から、ボクの中に最後まで残っていた疑問が解消された」
「疑問?」滝沢が訊く。
「粟津先生が首を切られて、屋上は血の海だったと岸本先生は証言している。犯人は返り血を浴びたはずだ。計画性のない突発的な犯行で、着替えなんか準備していたわけがない」
伊奈波が指を顎に当てて話す。少し首を傾げ、瞳は滝沢を捉えていた。
「犯人が屋上から脱出した後、どうやって帰ったのか不思議だったんだよ。午前中の雨でグラウンドに人が少ないといっても、文化系はいつも通りだ。校内をうろつけば誰かしらに目撃される。上手く返り血を回避できたのか、偶然が重なって誰にも会わずに着替えられたのか。考えにくいけど、どちらかしかないと思っていた。でも違ったわけだ」
「ああ、なるほど。それは推理しようがないだろうな」
「君が着替えを貸したんだね」
「部活に行く前だったからジャージを持ってたんだ。俺が無理やり押し付けた」
滝沢が肩をすくめる。諦めたように小さく笑った。
「さぞかし驚いただろうね。これから告白しようという相手が、血塗れで君の前に現れたんだから」
「その上、一瞬でフラれた。やっと来たと思ったらそんな格好で、俺が何か言う前に、いきなりだぜ?」
訳が分からねぇよ、と滝沢は言った。
「何かあったのはすぐに分かった。でも具体的には何も分からなくて、フラれたのもショックだったし、どうしたら良いのかもサッパリだ。その後、呆然としたまま部活に行って、後輩と喋っていたら屋上で粟津先生が殺されたらしいって噂が流れてきて……」
何が起きたか、そして事件の犯人を知った。
陶冶は心の中で言葉を続きを補足した。
「どうして警察に言わなかったんですか」
「言えるわけねぇだろうが!」
陶冶の質問に、滝沢が目を見開く。
「泣いてたし、血塗れだし、何も話してくれねぇし。でも事情があったんだ! 何の理由もなく殺すわけないだろ!」
「だから、知ろうとしたんですね」
「電話は繋がらなかったけど、メールは送ってた。警察に行こうって内容にだけ、もう少しだけ待って欲しいって返ってきたよ。でも、今日お前から電話番号を教えてくれって言われた時、もう無理だろうなって悟った。あんな姿、誰かに遠目から見られるだけで最重要の容疑者だ。俺のところに来るまでに、お前が見たんだろうって想像した。まさか、あの電話の背後に伊奈波さんがいたとは思わなかったけどな」
滝沢が言った。
清水涼子は、釈明の余地がない程に血に染まっていたのだろう。
「お前に電話番号を教えたとメールしたら、すぐ後で電話が掛かってきた。どこか人に見つからない場所で話がしたいっていうから、まぁ、俺にはこんなところしか思いつかんかったわけだ」
「滝沢君、君がやったことは犯罪の隠匿かもしれないけどね」伊奈波が優しい声で言った。「君の存在が、彼女を救ったのは確かだよ。ボクの推理は一日遅かったんだ。君が繋ぎ止めた」
「俺は、やりたいようにやっただけだ」
「遅かったって、どういう意味です?」
陶冶は意味を測りかねて尋ねた。伊奈波の推理が最速ではないのか。拾われた石から事件の背景まで辿り着き、陶冶から話を聞いて、それが誰かを突き止めた。これ以上どうやっても短くしようがない。
「その答えは彼女と話せば分かる」
伊奈波が武道場を見る。窓から中の様子は見えない。電灯の点いていない空間は、漠然とした暗闇が埋め尽くしていた。
「中にいるよ。鍵は開いてる」滝沢が親指を武道場に向けて言った。
「滝沢君はいいの?」
「俺はもう話したから」
「ふうん。そう」
伊奈波が武道場の方へ歩く。
「部長、警察には」「俺が電話しとくよ」
陶冶の言葉を遮るように滝沢が言った。
「ほら、伊奈波さん行っちまうぞ」
「あ、はい。それじゃ部長、後でまた」
「おう」滝沢は片手を軽く挙げて応えた。
武道場の扉横に木製の靴箱があり、砂にまみれた簀の子の前で伊奈波は立ち止まっていた。剣道部はここに外履きを入れる。面を天日干しする際、汗に溶けた藍色が靴箱に付着するので、全体的に汗と黴と染め色で黒ずんでいた。陶冶が追い付くと、伊奈波はちらりと陶冶の顔を見た。
「裸足で入るべき?」
「ダンス部と卓球部はシューズ履いてますよ。脱ぐのは剣道部だけです」
「採集部は内履きないからなぁ。このまま入るのは気が引ける」
「こんな状況だし、良いんじゃないですか」
「こんな状況だからこそ、だよ」
伊奈波はオレンジ色のシューズを脱いで靴箱に入れた。靴が派手で大きめだったので、体格相応の細い足が紺の靴下に包まれているのが露わになると、それが妙に艶めかしく思える。
「靴下だと滑るから気を付けてください」
陶冶は躊躇なく裸足になった。板の上はその方が動きやすい。
伊奈波がドアノブを回すと、確かに鍵は掛かっていなかった。扉は音もなく開き、伊奈波が先に闇の中へ足を踏み入れる。電灯の位置は知っているが、点けるわけにもいかない。陶冶は同じようにして、何も見えない空間へ侵入した。足元の軋む板の感触だけが、陶冶にとって馴染みのあるものだった。
「どこにいる?」
「こっち」
伊奈波の呼び掛けに、闇の奥から声が聞こえた。方向から剣道部のエリアではないと直感する。ダンス部が使っている辺りだろう。部活動の最中はネットが張られて区切られるが、今は何もない。ただひたすらに広い闇の中を、陶冶はゆっくりと進んだ。
不意に手首を引かれて、陶冶は体勢を崩しそうになった。すぐに伊奈波の手だと分かる。文字通り手探りで指を絡ませて位置関係を把握し、陶冶は伊奈波と手を繋いだ。
徐々に目が慣れてくる。窓から入る僅かな光によって、壁際に誰かが座っているのが分かった。膝を抱えるように三角座りをしている。
清水涼子は、昼に見た黒いライダースーツのままだった。髪も服も黒いので、影が喋っているように見える。
「擦りむいた肘は大丈夫?」
清水の声がした。口元は暗くて見えない。声は空間に反響して、武道場全体から聞こえるような感覚があった。
「大したことないですよ。もう痛みもないです」
「ごめんなさい、怪我をさせるつもりはなかったの」
影が少し上下に動いた。土曜日に会った時よりも声が枯れ、震えている。眼前に座る清水涼子に、陶冶が知る明るく奔放な上級生の面影はない。
伊奈波の手が陶冶から離れた。伊奈波が一歩前に出る。
「呼び方は、清水さんのままで良いかな」
「そうしてくれると嬉しいな。苗字が清水になったのは高校からだけど、もうすっかり慣れちゃった」旧姓が不二か。陶冶は二人の会話の意味を考える。
「どうしてアンフィスバエナだったの?」
伊奈波は前置きなく訊いた。
「知名度がないじゃないか。どうせなら、ツチノコの方が楽だったろうに」
「ああ、あれね」
憔悴した声が、少しだけ生気を取り戻したように反応した。
「あの男……バラバラにした男を殺した時にね、蛇の交尾を見たの」
清水涼子はゆっくりと喋り始めた。
「あの男は、父が殺してしまった人間の仲間で、最近になってその責任を取れってしつこく絡んできた。新エネルギーに関する有力者のリストを持ってて、とにかく何でも反対してお金をせびっていたみたい。自然保護も市民の安全も、どうでもいい。自分の利益しか見ていない。そういう人間。評判が広まったから、自分じゃなく、若くて世間受けの良さそうな人間を前に出した方が儲かると考えたんでしょうね」
本当にくだらない。清水は吐き捨てるように言った。
「従ったように見せかけて、助手席であの男の脇腹を刺してやった。あの男は悲鳴をあげて逃げ出そうとしたけど、シートベルトに引っ掛かって、焦って扉を開けるのにも手こずって暴れて、バカみたいだった。あんなのに振り回されていたなんて」
伊奈波は黙って聞いていた。陶冶も立ったまま動かなかった。
「結局車を出てすぐに死んだわ。私ね、刺すことだけ考えて、それからどうするかなんて何も考えてなかったの。だから、あの男が動かなくなった後で物凄く怖くなって、後悔した。どうしよう、って思って、あの男が本当に死んだのか確かめようとした。その時にね、積んであるタイヤの中に動くものが見えて、びっくりして覗いたら、そこで蛇が二匹、絡み合っていたの」
陶冶は昼間の資材置き場を思い出す。草むらに囲まれ、人間が寄り付かない場所だった。積まれた廃タイヤは、蛇の巣に丁度良かったのかもしれない。
「私、それを見てすごく腹が立った。私がこんな目に遭っているのに、この蛇たちは人間たちの事情なんて全然知らずに、暢気に交尾している。今こうして言葉にしてみると無茶苦茶な理屈だけど、無性に許せなかった。蛇たちが生きられる未来のために、私の家族は争い合って逮捕されて、私も巻き込まれて人を殺したっていうのに、当の蛇たちは何も考えず、何も知らないままなんて」
「だから死体を蛇にしたのか」
伊奈波の言葉は、明らかに幾つもの論理と会話を飛ばしていた。
しかし、それが逆に陶冶のイメージを刺激する。
手足のない生き物。手足のない死体。
「そこまで考えていたわけじゃないわ。あの男の死体を有効活用するために、分割したってだけ。でも、そうね、言われてみれば無意識のうちにモチーフになっていたのかも」
清水涼子は膝を抱えていた腕を解いて天井を見上げた。
「アンフィスバエナもね、そういう呼び名があるのは、私も後で知ったんだよ。ネットで予想外に広まったから」マイナな幻想生物には違いない。陶冶もネットの記事を見るまで知らなかった。
「その男の持っていたリストに、能登さんのお爺さんの名前があったんだね」
伊奈波が言った。清水の首が僅かに動く。
「君は、能登さんから害獣が祖父母の畑を荒らして困っている話を聞いていた。コントロールできそうだと考えたわけだ。死体を送られた有力者の反応を、すぐ近くで観察したかったんだろう」
清水は答えなかった。伊奈波の声は武道場の大空間に吸収され、すぐに無音が訪れる。
「アンフィスバエナ探し、清水先輩が誘導したんですね」陶冶は言った。
「そうよ」清水の影が動き、陶冶の方を向いたのが分かった。
「そのために、珍しい生き物がカメラに映れば何でも良かった。私が興味を持ったフリをして、遊ぶついでに探しに行こうって誘えばいい。そのために、あの蛇たちを使った」
当初、アンフィスバエナ探しは能登と清水の二人だけで行われる予定だった。能登は、祖父母の家に遊びに行く感覚だったはずだ。そこに滝沢が参加し、陶冶たちは連れ出されたにすぎない。
あの日、発見された切断死体のうち、右腕は山道に繋がる道の脇に置かれていた。有力者の土地ではあるが目立った場所ではない。陶冶たちが訪れなければ、何日もそのままだっただろう。意図的に発見させたと考えた場合、犯人は当日、その周辺に草木を掻き分け何かを探し回る人間がやって来ると知っていなければならない。
候補は能登と清水だけだった。
そして、屋上の死体が発見された時、能登は陶冶たちと一緒にいた。
「あの蛇たちを使った、って……。それじゃ、アンフィスバエナの正体は二匹の蛇なんですか」
陶冶は思わず尋ねた。能登が設置したカメラに映っていたあの蛇は、どう見ても繋がっていた。
「もう分かるでしょう? 半分に切って、模様が合うように縫い合わせたのよ」
「でも、そんな事をしたら」
「数秒カメラに映ればいい。蛇は生命力が強いから、その間だけ、生きていてくれれば」
清水涼子は冷たく、抑揚のない声で言った。
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