20 睡眠
政治家二人との通話を終えた後、伊奈波は「じゃあ出発の10分前になったら起こして」と言ってソファで横になった。初めて訪れる他人の家で堂々と寝る胆力は、陶冶にはない。
宣言から一分後、陶冶は「毛布とか使います?」と訊いたが返事はなく、すでに伊奈波はカブトムシの幼虫のように丸まっていた。ベッドに運ぶわけにもいかず、じっと見ているのもどうかと思い、陶冶は仕方なくアラーム機能をセットして自室で勉強することにした。リビングの明かりは半球モードにしておく。
勉強机に座り、数学の参考書を開く。自分で設定した日々のノルマを進めようと試みたが、何一つ集中できなかった。四月以降、快適な一人暮らしに慣れ過ぎたせいか、誰かがリビングで寝ている状況をどうしても意識してしまう。伊奈波が女性だからではない。先輩だから気を遣う、という面はあるかもしれない。恐らくそっちだろう。そうに違いない。
陶冶は頭の中で落ち着けない原因を考えていく。主因としては、あと数時間でバラバラ殺人犯と対峙するから、そして、自宅に高校の人間を招き入れたのが初めてだからだろう。招き入れたというよりは、強引に入ってきた感じだが。それらの複合的要因がペンを持つ手を止めている。
雑念を追い払うべく、手慰みに不定積分を解いていった。決められたルールに従って手を動かすのはとても楽で、自我を薄くさせるのに十分な効果がある。陶冶にとって、高校数学は作業でしかなかった。多くのクラスメイトが分からないと嘆く理由が、陶冶には分からない。複雑そうに見える問題も、習ったことを組み合わせれば解けるように作られている。問題である以上は答えがあり、そこに辿り着く道筋は明確に存在するのだ。そうでなければ問題として採用されない。
中学の頃、隣のクラスの子が陶冶の評判を聞きつけて、どうすれば数学が出来るようになるのか質問しに来たことがあった。初対面なのに、そんな事をわざわざ聞くなんて勉強熱心だな、と感じたのを覚えている。問題文をよく読んで、記載された図形や数字をよく見て、丁寧な字で解答を書けばいい。陶冶が思った通りに答えると、その子は怪訝な顔をして、それ以来話す機会はなかった。後日、それを能登に咎められたが、しかし、他に答えようがないと今でも思っている。
今、陶冶が直面している問題は答えが見当たらない。問題がどのような形をしているのかも、明確でない。そもそも、これは問題なのかすら疑わしく、どうして陶冶が解くべきなのか、その必然性も理由も定まっていない。
殺人や死体遺棄が発生したことは、問題だと言えるだろう。生命の安全が脅かされることを防ぐのは人間の基本的な欲求であり、社会の普遍的なルールだ。だからこそ法律として明文化され、裁判や警察がそれらの具体的な手続きを担うことで、その解決を図っている。しかし、それは陶冶が抱いている問題とは異なる。
犯人が、陶冶の知る人間であったことが問題なのだろうか。もし、犯人が弟の真司であれば、陶冶は責任を感じただろう。共に過ごしてきた家族であり、兄として多少なりとも教え導く存在であろうという自負がある。真司が抱えていた闇を認識すらできず、殺人を止められなかったなら、それは問題でありえた。しかし、犯人は弟ではなかったし、犯人の怒りは陶冶の預かり知らぬ過去に発生し終わっている。陶冶は何もしようがなかった。だから、その事実を痛ましく哀しいと思っても、問題にはなりえない。
犯人をそうさせた環境は、問題ではあるけれど、陶冶個人には遠く重すぎる。いわゆる社会問題と呼ばれるものだ。余りにも大きな構造を前にして、発生してしまった事柄を後から分析したところで、だから何だというのか。それは寝転がってワイドショーを見ている無関係な人間の後ろめたい好奇心を満たすのに役立ちはするが、陶冶には何ももたらさない。
陶冶は何かしたい、と考えていたし、何かすべきことがあるような感覚に囚われていた。何かとは、問題解決のための手段であり、導き出される答えらしきものの予感だ。にも拘らず、陶冶は何が問題で、何が答えなのかを、もやもやとした心の内から外に出すことができなかった。行き場のない衝動だけが存在する。
その事実がとても、もどかしく、苦しい。
己の不甲斐なさに圧し潰されそうになる。
伊奈波が父と志賀春男に話した内容を聞いてから、陶冶の思考の一部は、ずっとその消化に支配されていた。裏で回しているのに処理が終わらないので、表側の動きまで鈍くなる。パソコンの面倒なウイルスソフトみたいだ、と陶冶は思った。消したくても消せない。停止もできない。ひょっとして、何かが起きる度にこういう処理を抱えてしまうから、大人というものは、ああも鈍重なのか。
一日のノルマを超えて参考書のページを捲った時に、設定したアラームが鳴った。時間だ。
部屋を出て、リビングの扉を開く。何となく、すでに起きている伊奈波がソファに座りながらこちらを向き、目が合って「行こうか」と短く言われるような気がしていたのだが、予想に反して伊奈波はまだ寝ていた。
「伊奈波先輩。時間です。あと15分したら出発します」
返事はなかった。寝息が聞こえる。
「先輩、あの、起きていただかないと」
熟睡している。全然起きないこの人。あれだけ
「伊奈波先輩。時間ですよ」
沈黙が返ってくる。電灯が眩しいのか、伊奈波はうつ伏せを志向して身体をもぞもぞと動かした。
「すみません、失礼します」
陶冶は肩を揺すった。うなるような声があがる。更に強く揺すると、伊奈波は力のない緩慢な動作で陶冶の手を跳ね除けた。
「あと五時間ぐらい寝る」
「駄目です! 起きてください! ほらもう!」
陶冶は伊奈波の背中を持ち上げ、無理やりに身体を起こした。JRの始発を担当する運転手が、似たようなシステムの目覚ましを使っていると本で読んだことがある。今回は人力だが効果は絶大で、伊奈波はそこでようやく眠りから覚めてくれた。
「ああ、よく寝た」伊奈波は両手を頭の上で伸ばした。
「このソファ良いねぇ、うちに欲しいぐらいだ。置く場所はないけど」
「顔洗ってきてください。準備しないと」
「はいはい。準備と言ったってね、着の身着のままじゃないか」
伊奈波は促されるまま洗面所の方へと消えていった。
「タオル、引き出しに新しいのあるんで」
「はーい」
「一応、俺たち二人とも始末される可能性だってあるんですよ」
「そうなったら諦めよう」
水音と一緒に洗面所の方から声が届く。あっさりした態度だった。本気で思っているわけではないのだろう。陶冶も、始末されるとは露ほども思っていない。
「お待たせ、あ、タオルありがとね」
「そのまま差し上げますよ、貰い物で、家が埋まる程あるんです」
これは誇張ではない。父が住んでいる方の家では、イベントの度にタオルが増えて山になっている。
「じゃ、お言葉に甘えて。それじゃ、もう行こうか。遅刻したら大変だ」
「……そうですね」
表情が崩れそうになったが陶冶はぎりぎりで踏みとどまった。どの口が言うのか。伊奈波は平然と首を回し、身体を捻ってストレッチを始めていた。
* * *
夜の通学路を走るのは奇妙な体験だった。部活で遅くなることはあっても、帰り道と行く道は違う。市街地から郊外へ向かうため、建物の背が低くなり、人も車も徐々に減っていく。二台の自転車は緩い周波の軌跡を描いて暗がりを進んでいた。
古びた街灯の一つが切れかけて点滅している。前方に歩行者も車もない横断歩道の信号機があって、陶冶たちが通過するタイミングで青に切り替わった。雲はうっすらと夜空を覆っている。月明りには期待できない。
正門から入れないので、陶冶たちは校舎の手前にある空き地に自転車を停めた。道沿いには人類が滅びた後の世界からやってきたような自動販売機が立っている。スーパーに売っていない謎の激安飲料を求めて、部活帰りの生徒が稀にたむろしている場所だ。
「明かり、付いてましたね」
陶冶は言った。道を曲がる直前に校舎の電灯を確認している。位置的に職員室だろう。正門から見える範囲にパトカーの姿はなかった。
「ボクらは休みでも、先生方は色々対応があるんだろう」
「もう八時過ぎなのに」
「教師はブラックだから」
「見つかると厄介ですよ、どうします?」
時間が時間だけに説明が難しい。
「それ以前にどこで会うかだ――っと」伊奈波が端末を見る。「待ち合わせ場所の指定が来ていた。武道場で待っていると」
「向こうは鍵がかかってるはずですけど」
「開いてるってさ」
「そうですか」どうやって開けたのかは、この際考えない。犯人がそう書いてきたなら開いているのだろう。
「大回りしようか。正門から入るのは先生との鉢合わせが怖い」
「了解です」
伊奈波が提案したルートは、武道場の手前で塀を飛び越えて入ることになる。陶冶は頭の中で道筋を描きながら、伊奈波の後ろをついていった。犯人はどうやって校内に侵入したのか一瞬考えたが、入ろうと思えばどうにでもなる。高校のような広大な敷地は、侵入できない箇所を見つける方が難しい。
「あの辺でいいかな」
しばらく歩いてから伊奈波が言った。
塀越しに体育館の白い壁が見える。武道場は体育館の1階にあり、剣道部のみならず、ダンス部や卓球部も共用で使っている。平たく言えば板張りの大空間だ。
今、暗闇の中に一人で、犯人が自分たちを待っている。陶冶はその姿を想像したが、その心境まではトレースできなかった。電話で正体を言い当てられ、死体をバラ撒き終わり、逃げることもせずに、ただ話をするためだけに待っているのだ。
塀は2メートルほどの高さだった。コンクリのブロックを積み上げて形成されている。いつだったか老朽化して壊れた塀を見たとき、中に鉄筋が入っていた覚えがあった。見た目よりは丈夫だろう。陶冶は塀に手を掛け、少し強く体重をかけて強度を確かめた。
「伊奈波先輩、大丈夫ですか? 結構高いですけど」
「これぐらい平気。粘土鉱物が欲しくて断層の崖をよじ登ったことだってあるよ」
伊奈波が塀を見上げながら言った。小柄なので、陶冶よりも塀に存在感があるはずだ。
「では、お先に」
陶冶は両手で塀を掴み、懸垂の要領で身体を引き上げた。つま先で壁を蹴り登って、塀の上にまたがる。
「あー、なるほどね。そうやるのか」
伊奈波が陶冶を見て言った。腕組みをしたまま、塀を睨んでいる。
「あの、手ぇ掴んでもらえれば引っ張りますけど」
「心配無用。まぁ見ててごらん」
伊奈波は後ろに下がり、助走をつけて塀に向かって走った。
オレンジのスニーカーが素早く動き、跳躍する。そして――
「ぎゃん!」
ぶつかった。塀に体当たりしたようにしか見えなかった。
塀が揺れたような気がして、陶冶は塀の上で重心を意識した。
「意地張らないで、手を掴んでください。身長的に無茶ですよ」
「ボクがチビだと言いたいのか? 確かに平均より小さくはあるが、それを上回る身体能力がボクには――あうっ!」
また塀に弾かれた。壁に三角蹴りをして跳ね返ったように見えた。
「伊奈波先輩、あんまり声を出すと見つかっちゃうので」
「仕方ない。妥協しようじゃないか」
渋々といった顔で伊奈波が手を伸ばす。
「ん」
「あ、はい」
陶冶は左手で身体を支えながら右手を伸ばした。お互いの手首を掴み、伊奈波が陶冶を引っ張る力で塀を登る。陶冶は足で塀を挟み、引きずり落とされないように態勢を維持した。
「鍬形君、ちょっ、揺れないでよ」
「すみません、結構不安定で……わっ」
伊奈波が塀の上にかけた足が、陶冶を押してバランスが崩れた。塀の上でもつれ合う。自分が落ちないように、そして伊奈波を落とさないように、一瞬の出来事に思考が間に合わず、二人の身体は勢いのまま武道場の側に落下した。
浮遊感が全身を駆け抜ける。
身体が浮く。
激突するかに思われた次の瞬間、陶冶の背中を誰かが支えた。
かろうじて右手が間に合い、塀を掴む。
伊奈波を抱えたまま、陶冶は塀の内側にぶら下がった。
「お前ら、何遊んでるんだ?」
力強い腕の先から、聞き慣れた声がした。
「滝沢部長」
「ゆっくり足降ろせよ。危ないから」
「やぁ滝沢君。奇遇だね、こんなところで会うなんて」
陶冶の腕の中から、軽い調子で声がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます