19 頭部
やたらと広い郵便受け専用の空間は、タワーマンションの構造による必然的な産物である。陶冶が住んでいるマンションよりもっとランクが高くなると全て受付で仕分けるらしいが、都会の見た目だけを真似して作った大きな箱に、そのようなサービスは存在しない。オートロックを抜けて内側に回り込むと、部屋番号が掛かれたボックスがずらりと並ぶ。濡れたような金属光沢がライトを反射して、人によっては集合体恐怖症を起こしそうな光景だ。
そんな空間の壁に伊奈波はカエルのように張り付いていた。靴とナップサックが蛍光色なので、陶冶は有毒のカエルを連想した。
「もうエレベータ来ますよ、いつまでそうしているんですか」
「いやぁ、あまりにも見事な御影石だったもので」
壁の一部を彩る白黒の斑を御影石と呼ぶことぐらいは、陶冶も知っていた。別名の花崗岩も知識として頭の中にある。しかし、その主成分が石英や角閃石、黒雲母など様々な鉱物で構成され、比率がわりと曖昧なことは、この日初めて知った。岩の名前は思っていたより大雑把らしい。四つあるエレベータを呼ぶパネルの土台も同じ花崗岩だが、色が明らかに違う。伊奈波によると茶色の部分はアルカリが関係しているらしい。陶冶は途中から聞き流していた。
「話を聞いて、どうするつもりなんですか?」エレベータの中で陶冶は尋ねた。
「どうもしないよ。死んだ人は生き返らないし、やったこともなかった事にはならない。鍬形君は、無意味だと思う? 今すぐ通報すべきだと思うなら、それでも構わないよ」
「いえ、無意味だとは思いません」
「どういう意味があるかな」
「少し、すっきりするんじゃないでしょうか」
お互いに、と陶冶は付け加えた。
「うん。そうだ。それくらいだね」
「他に何かできるかと言われると、正直何とも……」
「自首を勧めるぐらいは、するかな」
伊奈波は独り言のように呟いた。階数表示を見上げたまま動かない。
「逮捕されたら、面と向かって、自由に話ができないので」陶冶は慎重に一つずつ言葉を選ぶ。「俺は、その機会ができて良かったと思います。きっと、向こうも」
それを望んでいる。
それとも、それを望んでいてほしいと、自分が願っているのだろうか。
もしかしたら、ただ追いつめているだけなのでは。押しつけがましい善意でしかないのでは。疑念が頭の中で渦を巻いては消えていく。
音もなくエレベータの扉が開き、20階へ出た。いつも一人なので、隣に知り合いがいるというのは妙な感覚がある。伊奈波は非常口側に嵌め殺しの窓を発見し、外を眺めていた。「こっちです」と短く伝えて、陶冶は自宅へと歩く。平日の半端な時間帯だからか、フロア内に人の気配はない。廊下には無機質な長方形が等間隔に並んでいる。その内一つの前で陶冶は立ち止まった。
「一応部屋を片付けるので、少々お待ちください」
「そう? なんかごめんね、押しかけたみたいで」
伊奈波は飄々とした口ぶりで言った。みたい、ではない。押しかけている。
「ああ、それと、お邪魔する以上は、鍬形君のお父さんに是非ご挨拶したいな。あとで電話かけてくれない?」
「え、いや要らないですよ、挨拶なんて別に」
「必要なことなんだよ。あと一時間ぐらいしたら、お願い」
「どうして時間を空けるんです?」
「多分その頃には、バラバラ死体の頭部が見つかっているはずだから」
* * *
リビングは簡単に、自室は必死に掃除した。
陶冶としては、伊奈波にはなるべくリビングで寛いでもらうつもりだったが、相手が相手だけに行動が予測できない。気まぐれで強引に自室へ入り込み、僅かな手掛かりからプライバシーを侵害する推理をされる恐れがある。
それを警戒しての掃除だったが、結論から言えば伊奈波は借りてきた猫のように大人しかった。案内されるがままリビングの椅子に座り、陶冶が淹れたインスタントコーヒーとレンジで温めた冷凍のたい焼きを交互に口へ運ぶ。ソファの上に置きっぱなしにしていたタブレット型の端末に興味を示し、ネットニュースを流し見して時間を潰しながら、陶冶と軽い会話を続けた。
「あのね、鍬形君。ボクだって人様の家では行儀良くする程度の常識はあるよ」
伊奈波が唐突に言った。心の内を見透かされたようだ。また、じっと見てしまっていただろうか。
「何ですか突然。そんな事、思ってないですよ」
「意外に大人しいな、と安心しているだろう。顔に描いてある」
「意外に大人しいと思われる自覚はあったんですね」
「君の部屋をひっくり返したって、面白いものは出てこないだろ。無駄なことはしないよ。時代はデータだから、鍬形君が見られたくないものは、パソコンかタブレットの中だ。そしてボクに平気でタブレットを触らせているあたり、こっちは家族共有なんだろう。つまり、鍬形君が死守したいのはパソコンの中にある履歴やらリンクやらファイルやら、そういうもの」
伊奈波はあっさりと言った。なんてデリカシーのない人なんだろう、と感心すらしてしまう。
「そろそろ一時間経つね」
タブレット型端末の右隅に視線をやって、伊奈波は座り直した。先程話した通り、父親に挨拶したいから電話を掛けろ、という意味だろう。
陶冶は、伊奈波がやろうとしている事をまだ理解できていない。しかし、この場合の挨拶が家に招いてもらったことの礼ではなく、市長と言葉を交わす方便として言われている事ぐらいは分かっていた。だからあらかじめ『一時間後に連絡する』と父には連絡してある。ただ、自身の理解を得るために、伊奈波に聞いておきたいことは山ほどあった。
「さっきははぐらかされましたけど、死体の頭部が見つかるなんて、どうして言えるんですか?」
「簡単だよ。犯人がバイクで飛び出してきた時、後ろに荷物が結んであったんだ。立方体で、三十センチぐらいの箱だった。鍬形君は正面だったから、角度的に見えなかったはずだ。知らなくても仕方ない」
「ああ――その中に」入っているのか。頭が。
「それ以外に犯人が持って逃げる荷物は思いつかない」
「頭をどこかに置くつもりだったから、少し時間を空けたんですね」
「さぁ、そこまでは。心の準備もあるだろう」
「父に何を訊くつもりなんですか?」
陶冶は尋ねた。指定された時刻まで、移動を含めれば三時間もない。犯人は、その間に頭部をどこかへ置くのだろう。伊奈波も、何かしらビジョンを持っているようだ。少なくとも意図を持って行動している。
陶冶も、同じ時間の中で何か出来ることはないかと、考えはした。けれど何も思いつかない。罪を非難すれば良いのか、減刑を願えばいいのか。このまま時間が過ぎて、犯人に会い、事情を聞いて逮捕を見届けたとして、それで何もかもが終わるわけではないのだ。自分の人生とは無関係の出来事として受け流すには、余りにも大きすぎる。それなのに、どう動けばいいのか何も分からない。
「質問というより、話を聞いておきたい。うーん、上手く言えないけど、それを持って、犯人に会いに行きたいんだ」
「そうですか」陶冶は伊奈波からタブレット型の端末を受け取ってアプリを起動した。ビデオ通話機能を、父親に向けて使ったのは初めての経験だ。コール画面が表示され、すぐに父親の顔が映った。画面が揺れ、しばらくすると免許証の写真のような画角で父が現れる。端末をデスク上で固定したらしい。
――おっ、映っとる映っとる。何だ急にあんな連絡寄越して
「ごめん、忙しかった?」
――忙しくない日などない。だが今はちょっとてんやわんやでな、大した用じゃないなら後にしろ。
「もしかして、死体の頭が見つかった、とか」
陶冶が言うと、父の顔が硬直したのが分かった。
――なんで知っている? まだ警察は発表していないはずだが。
「それを推理した人がいるんだ。その人が挨拶したいって」
陶冶もタブレット型端末をテーブルの上に置いた。縦にしたティッシュ箱に立てかけ、後ろに本を積み、垂直からやや傾けた状態を維持する。ソファから半分ズレて、伊奈波が端から中心寄りに座り直した。
「初めまして。陶冶君と同じ高校に通っております、二年生の伊奈波万智と申します。本日は是非お父様にご挨拶したく、陶冶君に無理を言ってお願いしました」
ずっと鍬形君とばかり呼ばれてきたので、伊奈波の口から自分の名前が連呼されるのに違和感があった。伊奈波は優等生然とした顔で座ったまま一礼した。こういうのを何と言うのだろう。借りてきた猫を被る、とでも表現したくなる。
――おぉ、これはどうも。初めまして、陶冶の父です。
驚きを隠せない表情で父も頭を下げた。他に人がいると予想していなかったのだろう。隣にいる陶冶を一瞬じろりと睨む。
「お忙しいとの事ですので、用件を手短に申し上げます。死体の頭部が発見されたのは、市役所ですか? それとも市庁舎でしょうか?」
――いや……それは。
「違うのですね。すると、志賀春男さんの後援会事務所ですか?」
――ん、君はなぜ、そんな事を……?
伊奈波の言葉を躱せずに、父の目が見開かれた。
――どうしてそれを知っている者がいるのかね?
父とは別の声が、端末越しに聞こえてきた。父の視線が外れて、室内の誰かを見ている。予想外の存在に、陶冶と伊奈波は顔を見合わせた。
――あー、すまん。どうせすぐ終わると思ったから市長室でそのまま受けたんだが、客人がいてな。気になるなら、入ります?
――貴方と横並びになるのは勘弁願いたい。後ろに立つよ。
――それはこっちも同じだ。全く口が減らない……
父が画面と室内の誰かと交互に視線を行き来させる。画面が揺れ、カメラ位置が遠ざかって父が小さくなった。画面が再び落ち着くと、父の背後に髪の薄い、神経質そうな痩せた男性が立っていた。
「志賀春男……さん」陶冶は思わず声に出した。「仲が悪いと思ってた」
――仲は悪いぞ。
――ああ、仲は悪い。顔も見たくないが、顔を合わす機会は多いんだ。仕事だから我慢するしかない。
――君がこの男の息子か。父親に似ず、利発そうじゃないか。
初めて対面した父の宿敵は、落ち窪んだ瞳を陶冶に向けて笑顔を作った。刻まれた皺に沿って表情ができあがる。
――俺に似て賢いんだよ。
――父親が皮肉も理解できぬがさつな人間で、君もさぞ苦労しているだろう。再来年になったら彼は一般人に戻るから、存分に親子の時間を楽しみなさい。ああ、しかし、もう反抗期の年頃かな。私の息子も君ぐらいの頃は……
――要らないんだよアンタの話は。悪いな二人とも、年寄りはすぐ昔話をするんだ。無視していいぞ。
――それより、隣のお嬢さんは、どうして私の事務所で生首が見つかったと予想できたのかね?
志賀春男の目が伊奈波に向く。
「私たちは犯人と接触しました。バイクに乗って逃げられましたが、その際、死体の頭部らしきものを所有していたのを確認しています。何故か、と問われると、捨てるのにふさわしい場所は、政治関係だろうと考えていたからです」
伊奈波は息継ぎなしに言った。犯人と接触したという告白に驚く二人の政治家に向けて、伊奈波は言葉を続ける。
「お気付きだとは思いますが、犯人は死体をばら撒くことで事件そのものの注目度をあげています。捨てられた場所はいずれも、市内の影響が大きそうな場所です。犯人の行動は単なる愉快犯ではありません。詳細は省かせていただきますが、私たちは犯人の背景に、この市の新エネルギー問題が存在することを突き止めました。犯人は、並々ならぬ怒りを抱いている。意志を持って行動しています。死体の身元は、もう判明していますか?」
突然質問をぶつけられた父が咳をし、一呼吸おいて喋り始める。
――市内の、元暴力団組員だった男だ。反対派を標榜して幾つかの事業者に恐喝行為を繰り返していた。
「名目上は、反対派だったんですね。私たちの高校では、屋上で積極派だったと思われる教師が殺害されました。恐らく同一犯によるものです」
――昨日の事件だな。ああ、なるほど、だから君たちは今日休みなのか。
志賀春男が言った。
「犯人は、反対派も積極派も殺害しています。バラバラにした死体を有力者の近くに置いて、それが何を意味するのか犯行声明も残していない。どちらにも組していないと見るべきです」
――君は、犯人が何を考えているかを理解しているとでも言うのか。
「大体のところは言語化できると考えています。なので、是非、鍬形市長にお聞きしたいと思っていたのですが、偶然にもお二人揃っていたなら丁度良かった。お二人の考えを、お聞かせください」
――犯人の動機、いや目的か。何であれ、人を殺して切断した死体を遺棄することを、正当化できないと思うが。
志賀春男が顔をしかめた。
「それが回答なら、それでも構いません」
――いや、聞こう。次期市長として。
――来期も俺が再選するからアンタは引退しろ。俺が聞こう。現役の市長として。
「恐らく犯人は――」
伊奈波の話は一分にも満たなかった。
簡単で、シンプルで、そして切実だ。
全員が同じものを抱えている。
喫緊の課題だと言える。それなのに、どこか他人事めいている。
二人の政治家による回答は同時で、しかも同じ内容だった。
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