18 電話
うどん屋を出て、外に置かれたベンチに横並びで座った。太陽は一番高い所から少し傾いている。まだ陶冶が幼かった頃、時計の短針は太陽の位置に連動するようにデザインされていると勘違いしていた。陶冶が取ったメモを見ながら端末の数字をタップしていく伊奈波の隣で、ふとそんな事を思い出す。
11桁の番号が並び、伊奈波の端末からコール音が鳴った。設定はスピーカモードになっている。
コール音がとても長く感じた。
雲はなく、空が青い。
遠くに連なる山々は緑に覆われている。
青も緑も、その色がどこまでも続いていると錯覚しそうになる。
――……
コール音が途切れた。切られたわけではない。砂の落ちるような雑音が存在していた。通話状態になっている。
「やぁ、さっきはどうも。鍬形君は無事だよ。肘を擦りむいたけど」
――……
相手は答えない。知らない番号からいきなり掛かってきた電話なのだ。警戒しているのかもしれない。
「君が犯人だね?」
単刀直入に伊奈波は切り込んだ。
――……
相手は答えない。しかし、通話は続いたままだった。
「言っておくけど、ライダースーツもヘルメットも完璧だったよ。君まで辿り着いたのは、鍬形君から話を聞いてボクが推理した結果だ。ボクごときが辿り着けるなら、警察もいずれ必ず君を逮捕する。それぐらい、君も分かっているだろう」
伊奈波は淡々と話す。
「君が捕まる前に、あるいは、もし自首するつもりでも、少しだけ話す時間をくれないか。鍬形君を連れて行くよ。知っているだろうけど、彼は現役の市長の息子だ。頭が良いから、きっと良い大学に行くだろう。将来は父親を継いで政治家になる可能性が高い。そうなったら、将来の市長かもしれない。代議士だって狙える。総理大臣も夢じゃない。どうだい? 君がやろうとした事にとって、悪い話じゃないはずだ」
――……
相手は答えない。けれど、反応もなく切られもしない現状は、電話の向こうにいる相手が犯人であることを静かに肯定していた。
――……
「ボクは事情を知らない。だから君がやったことを肯定も否定もしない。でもね、採集部だから、拾えるものは拾っておきたいんだ。君は四つの命を奪った。五つ目の命まで捨てさせはしない」
――……っ!
向こう側が揺れて雑音が響いた。呼吸音が荒く聞こえる。
四つの命? 殺されたのはバラバラになった被害者と粟津教諭の二人ではないのか。疑問に思いながらも、陶冶は口を挟むことをしなかった。
「君は『関わるな』と書いたね。自覚していると思うが、あえて言おう。矛盾しているよ。君がやろうとしたのは、まるっきり逆じゃないか。自分の周りにいる人間は対象外だとでも言うのか。全員が対象のはずだ。ボクも、鍬形君も、そして君も。逃げるなよ。ここで逃げるなら、君の行動は君自身によって否定される」
――……
沈黙が続く。ややあって、向こうから通話が切られた。ほぼ同時に、伊奈波が大きく息を吐く。
「お疲れ様です」
「……届いたかな? もっと考えをまとめてから喋れば良かった。ボク、変なこと言ってなかった?」
「いえ、そんな事は。……総理大臣は、ちょっと言い過ぎかとは思います」
「市長と代議士は否定しないのが、鍬形君の傲慢さだよね。良い所でもあるけど」
伊奈波が笑う。言われてからそれに気付き、陶冶は頭を掻いた。
「勢いで君も連れて行くと言っちゃったけど、予定は大丈夫?」
「問題ないです。というか、一人で行かせるわけないでしょう」
「そっか。それでこそ採集部の部長候補生だ」
「徐々に俺の部内でのランクを上げていくの止めません?」
「後は反応を待つだけだね。折り返しか、メッセージか」
陶冶の抗議を無視して伊奈波は言った。じっと端末を見つめて、先程まで対話していた相手からの連絡を待っている。
「本当に、犯人だったんですね。間違いの可能性だってあったのに」
「前提と推理が全て矛盾なく成立するのは、一人だけだ。ボクだって、間違いであって欲しかった。全く持って申し訳ない見当違いでしたごめんなさいって、ボクが明日学校で謝れば、それで済んだのに」
伊奈波は力なく微笑んだ。でも、そうはならなかった。推理は当たっていた。
「あ……」自分の端末のメッセージに気付いて、陶冶は苦い顔になった。
「どうしたの?」
「いえ、能登から『何か用?』とメッセージが。今頃気付いたみたいです、タイミングが悪いな」
「結局連絡つかなくて、他の人に電話番号聞いちゃったもんね。まぁ良いじゃないか。適当に返しておきなよ」
「俺から連絡したことなんて中学の林間学校以来なんですよ。絶対に、何かあったと思われてます」
「『お前の声が聞きたくなっただけさ』とでも返しておいたら?」
「伊奈波先輩の中で俺はどんな人間なんですか」
その返信をした場合、別に意味で何があったと思われそうだ。陶冶が無難な返信内容を考えあぐねていると、追撃するようにコールが掛かってきた。
「不味い、電話が来た」
「知り合いから久しぶりに心当たりのない電話があれば、そりゃあね」
「何で他人事なんですか。能登に聞けって言ったの先輩でしょ」
「早く出ないと失礼だよ。メッセージは既読になってるんだから、今君がそこにいるのはバレてる」
端末を見つめながら、伊奈波は突き放すように言った。降って湧いたような罪悪感に圧し潰されそうになって、陶冶は通話ボタンを押す。
――あ、もしもし。何かあったの? いきなり掛けてきて。
「あぁー、いやアレだ、すまん。大した用事じゃないんだが」
――は? ならチャットで良かったじゃない。
声に怒気が混じっていた。眉間に皺の入った能登の顔が浮かんでくる。陶冶は必死で頭を回しながら会話の理由を探した。
「そうだな。悪い。えーと、昨日さ、あの後大丈夫だったか?」
――大丈夫って……まぁ、気分良くはないけど。
「ほら、左足が見つかったのもそうだけど、粟津先生のことも。能登は職員室に質問に行くぐらいだし、色々な先生と知り合いだからショックだったんじゃないかと心配になって。それで」
――……そう。粟津先生は二年の担当だから、親しかったわけじゃないわ。挨拶ぐらい。だからって、平気なわけじゃけど。
「そうか。深刻じゃないならいいんだ」
――それで掛けてきたの? 中学以来じゃない?
「まぁ、な。衝動的というか、何となく気になって。迷惑だったか?」
――ううん。別に。心配してくれてありがと。
なんだなんだ。妙に態度が柔らかいぞ。いつものお前はどうした。
陶冶は混乱しながら不自然にならない会話の連鎖を返し続ける。
「じゃあ、それだけだから」
――そう。それだけなんだ。
「また学校で」
――うん。またね。
通話はそれで終わった。やり切った、という安堵感が陶冶の中に広がって、先程の伊奈波と同じく息が漏れた。
「さっきボクが言ったのと同じような内容じゃなかった?」
「違いますよ。同級生を心配するのは自然な事でしょう」
「鍬形君さ、将来後ろから刺されないように気を付けた方が良いよ」
よく分からないアドバイスを貰った。いまいち意味が理解できず、鍬形は「はぁ」と気の抜けた返事をするしかなかった。
「さて、鍬形君が能登さんと話している間に、こっちも返答が来た」
伊奈波が端末を鍬形の方に向けた。チャット画面に文字と地図が映っている。電話番号が分かれば使用できるメジャーなアプリだ。
「今夜九時。場所は学校」
「まだ警察がいるんじゃないですか?」
「夜ならもう撤収してると思うよ。授業も再開しないといけないし」
そういうものだろうか。事件があった場所が駐車場と屋上だから、死体の回収と現場の撮影が終われば、人員を置く意味はないのかもしれない。
「まだ警察がいたら場所が変更されるだけさ」
伊奈波が言った。端末をポケットにしまって、立ち上がる。
「とりあえず帰ろう」
「そうですね」陶冶も腰を上げた。
伊奈波が自転車のハンドルを押しながら、片足で助走を付けてサドルに飛び乗った。相変わらず速い。あっと言う間に離されて、陶冶も自転車に跨った。
不安定な二輪が自転運動によって安定するのは、ジャイロ効果によるものだ。陶冶は伊奈波の後ろを追いながら、外国の大学がネットで公開している物理の実験動画を思い出した。
スウェーデンの教授が、日本の独楽回しを紹介して話題になったものだ。「物体が安定するのは、完全に静止しているか、動いている時で、どっちつかずの時は不安定なのです」と顎髭の教授は言った。教授は続けて「人間も同じく、死んでいるか、主体性を持って生きている時は安定します。だから、学生の皆さんも主体的に運動する物質であってください。そうでなければ、死んでいた方が安定します」というジョークとも警句とも判断しかねる言葉で動画を締めくくった。
陶冶は今、安定している。自転車も、精神も揺らいでいない。
前を良く伊奈波もそうだ。眩しいぐらいに毅然として、ブレない。
犯人はどうなのだろう、と陶冶は考えた。
死体を切断し、あちこちに置き回り、屋上で人を殺している。
これらの行動はどこまでが主体的と呼べるだろうか。市長選の事件がなければ、犠牲者は出なかったのでは。
しかし、原因と結果だと言い切れるほどでもない。
やろうと思えば責任はどこまでも分散できる。
やろうと思えば責任はどこまでも集約できる。
その配分はとても曖昧で、不公平で、状況に左右されてしまう。
責任を分散も集約もできる、という考えが、あるいは前提として間違っているのか。
「景色良いんだろうなぁ。ちょっと楽しみだよ」
信号待ちで久しぶりに伊奈波に並んだ時、伊奈波が唐突に言った。別の世界に飛んでいた陶冶の思考が、その言葉で現実に戻って来る。
「そうですか……ん?」
「構造的に天井が意外に低いとか、上の階ほど壁が薄いとか、そういう問題はあるけどさ、それでも完売したんだから憧れってのは強いよね。前に新聞で読んだんだけど、市外からもわざわざ引っ越した人がいるんだって。鍬形君、ご近所さんだったりする?」
「あの、帰るんですよね?」
「そうだよ。今から学校に行っても時間を持て余すし」
「ご自宅に帰るのでは?」
「帰るとも。君の自宅に」
「待ってくださいよ。なんでうちに来るんですか」
そんな話は聞いていない。伊奈波は不思議そうに小首を傾げていた。
「ボクが家に帰ってまた合流するの、面倒だし。一人暮らしなんだろう? なら別に良いじゃないか」
「俺が良くないんですよ」
「少しぐらい部屋が散らかっていても気にしないよ」
「俺が気にするんです」
「しばらく外で待ってるし、まぁ鍬形君も男の子なんだから、少しぐらい変な物があっても引いたりしないから」
「変な物ってなんですか」
「邪神の像とか」
本当に変な物だった。
「あと、剣の形をしたキーホルダーみたいなやつ」
「それは……ありますけど」小学生の頃に買ってもらった。
「邪神の像はある?」
「いえ……邪神の像はありません」
「なら問題ないね」
信号が青に変わり、伊奈波は颯爽と走り始めた。
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