黒い本

霧雨カノン

黒い本

 ある男の話を聞いてほしい。その男は、普通のサラリーマンで普通の年収、普通の暮らしをしていた。毎日同じような日々、男はうんざりしていた。何か刺激を求めていた。だからこそその男は巻き込まれたのかもしれない。非現実な出来事に。

 ある休日、男は近所の商店街をぶらぶらしていた。何か面白そうなものはないかと。

「何もないなァ。今日は日曜だから人も多いし・・・。テキトーにパチンコ行って、飯食って帰るか。」

(また、同じような休みだなあ。明日からまた五日間の労働が待ってる。彼女もなし、貯金もなし。こんな毎日の繰り返しなら当然か。)

そんなことを思いながらある曲がり角を曲がる。もう少し行けばパチンコ店だ。

「給料日までまだあるし、とりあえず今日は五千円だな。」

すると目の前に見たこともない店があった。いかにも古めかしい店が。店名はない。骨董品店か、古本屋か。いつもの男ならば通り過ぎていたであろう。だが、今日は違う。男は暇を潰せるものを欲していた。何でもいい、古いガラクタでも、本でも。あまり期待せずに店に入る。古い本独特の匂いが充満していた。(本か・・・。最近は漫画すら読んでないけど、何か面白いものあるかな。)

「いらっしゃい。」

奥に爺さんが座っていた。本棚と本棚の隙間に埋まっているようにちょこんと椅子に座っていた。

「おうっっっ!」

男は情けない声を出してしまったことに少々恥ずかしさを感じながら気にしていないふりをしながらその辺の本棚を眺め始めた。知らない本ばかりだ、著者の名前すら知らない。(面白くないな、出るか。)そう思い始めた時にふと一冊の本が目に入った。分厚い本と本との隙間に差し込まれている薄い本だ。薄さだけならばよくオタクの間で聞く同人誌にも見える。しかし、その本の背表紙は黒く、題名すら分からない。男は気になって手に取ってみた。表紙も真っ黒、題名や著者名は全く書かれていない。パラパラとめくるが何も書かれていない。(なんだこりゃ。落書き帳か?こんなもん本棚に入れておくなよな。)本を閉じ棚へ戻そうとすると後ろから急に声かけられた。

「それは珍しい本でね。最初は何も書かれていない白紙だが、しばらくすると持ち主のことが書かれているんだよ。その人しか知らないことや、持ち主すら知らないこともね。興味あるなら持っていって良いよ。」

いつの間にか爺さんが男のそばに立っていた。

「いや、いいです。」

男は胡散臭そうだと思いながら本を戻す。

「そうか、君は自分の未来が知りたくはないのかい?」

その一言は男に刺さった。未来はわかるだと?男は爺さんをみる。爺さんは大きく頷き、戻した本を棚から抜き取り男に渡す。男は本を受け取りそのまま店を出た。


 家に帰り男は本を開いてみた。すると何も書いていなかった本に何か書かれていた。

「本書を手に入れる。家で面白くないバラエティを観て、スマホで番組に出ているお笑い芸人の不倫のニュースを見る。」

男は驚いた。確かに今、目の前のテレビにはいつも何気なく観ているお笑い番組が映っており、男の右手に握られているスマホの画面にはその番組に出演している芸人の不倫報道が表示されている。

「嘘だろ。本当に書かれてる・・・。」

少々怖くなったが、男は思いついた。これを使えば俺は最強なのではないか。その日から男はその本を肌身離さず持ち歩くようになった。これを使えば、電車の遅延や上司の小言、コンビニの客の割り込みまで回避できるようになった。最初は近い未来のことが書かれていたが、だんだんとかなり先の未来まで書いてあることが多くなった。

「三十歳の八月四日、営業先の会社の事務員と知り合う。その女性は高校の同級生で名前は〇〇。意気投合し、連絡先を交換する。その夜、連絡し、食事の予定を約束する。

八月八日、その女性と食事をする‥」

その書き込みは見たのは彼が二十八才の時で、見た時はまさかと思ったが、確かに三十歳のその日に本に書かれた通りに女性と出会い、交際し、その後結婚した。順風満帆だった。この本さえあれば何も怖くない。最悪のことが起こる前に回避すれば良いだけだ。人生はイージーゲームとさえ思った。しかし、そんな日々も長くは続かなかった。


 ある日こんな書き込みがあったのだ。

「三十五才の五月五日、黒い人が来る。逃げられない。」

それだけが書かれていた。男は困惑した。今までかなり詳細な内容で書かれていた本にこのような曖昧な内容が書かれることはなかったからである。黒い人?なんだそれは?しかも逃げられないと書かれている。逃げられないならば回避のしようがない。どうすれば良い?男は悩んだが、解決策が思いつくこともなく、本に書かれている日付が近づいてきた。

 ある仕事からの帰り道に男はあることに気づいた。自分の影の長さが明らかに短いのである。並んで横断歩道を待っている横のサラリーマンの影よりも頭ひとつ、いや二つ分くらい短い。隣のサラリーマンと男とはほとんど身長差がないはずなのに。男は気のせいだと思うことにした。それからまた少し経ち、今度は妻とショッピングモールに買い物に来ている時だった。買い物の途中で休憩しようと同じ敷地内にある珈琲店の前で列に並んでいる時だった。たまたま、男は足元を見て、驚愕した。十センチメートル以上身長が低い妻よりも影が短いのだ。いや、近くにいることもよりも短いかもしれない。まるで小人のようなのである。男は妻に知られないようにその場をやり過ごした。その後、一人になった際に件の本を見てみた。なんと黒い人の書き込みからその後一切書かれていなかった。男は焦った。どうすれば良いのであろうか。男はネットで調べてみたが黒い本・黒い人のことは分からなかった。図書館にも行ってみたが結果は同じであった。男は、本を手に入れた古本屋に行ってみることにしたが、その店を見つけることができなかった。いや、その店は最初からなかったのかもしれない。その店があったであろう場所は空き地だったからだ。男は友達に相談してみた。友達も影が短くなるなんてことは聞いたことがないし、そんな本は知らないとのことだった。ただ、気になることが一つあった。

「黒い人ってなんかお前から離れた影が一人の人として動き出して会いに来るって感じだよな。」

男は薄気味悪かったが、気にしないようにした。男は塞ぎがちになり、妻も心配するようになった。妻に相談しようとしたが、妻にも影響があってはならないと相談することはなかった。

男は家で籠ることが多くなり、仕事にも行かず、カーテンを閉め切った部屋でじっとしていることが多くなっていった。影ができるような陽の光が当たる場所では自分の影がなくなっているかもしれない。もし、影が動き出し、自分に会いに来たら・・・。どうすれば良いのであろう。妻も心配していたが、男が何も聞くなと強く言ってから家に帰ってくることは徐々に少なくなっていった。気がつけば家から妻の荷物はなくなり、机の上に離婚届が置かれていた。


 男が家に籠り出してどれほど経ったのか、男の会社の職員が家に訪れたことがあった。男は暗い家の中から出てこようとはせず、玄関口でのやり取りであったが、男を一目見るだけで異常であると思われた。髪や髭は伸び、風呂も入っていないのかあかだらけ、服も長い間着替えていないのであろう汚れが目立っていた。そう、まるで真っ黒な人のように。職員は会社に報告し、男を無理矢理にでもしょっ引いて病院を受診させる必要がありそうだと会社でも話題になった。

 ある日の夜、男の家の近所の住人は男の家の玄関の前で黒い人を見た。顔には目も口も何もなく、服を来ているかどうかも分からない本当に全身真っ黒な男を。住人はもう一度よく見ようとして振り返ったが、もうその黒い人はいなかった。他にも、男の部屋から断末魔のような声を聞いた住人もいた。ただその声は一度きりでそれからはしんとまるで水を打ったような静けさであった。

 その次の日の朝、男の会社の幾人かの職員が家を訪れた。男の部屋は、腐臭で満ちており、嘔吐してしまう者もいた。そして、一番奥の部屋に匂いの原因を見つけた。男は死んでいた。その顔は恐怖に歪み、肌をうじ虫が這っていた。男は、何かから逃げようとしたのであろうか、窓を開けようとしており、周りには部屋の物が散乱していた。

 男の遺体は解剖されたが、関係者は首を傾げた。なぜなら男は一週間程度前に死んでいたのだ。死因は心不全、長期間に渡り食事や睡眠をとっていなかったことから衰弱していたのだろうと考えられた。それならば前日に会社の職員がみた男は何だったのか。もちろんそのことは会社には伏せられた。男は離婚していたため男の荷物は友達が片付けることになった。友達は、片付けながら男のことを思い出していたが、ふと最後に男に相談された時のことを思い出した。そういえば、あの本はどうしたのであろうか、もしかしたらその後のことも書かれているかもしれない。そう思い友達は探したが、どこにも本は見つからなかった。


 ある古本屋。あの爺さんは手元の黒い本を本棚に戻していた。うすら笑いながら。

「もう少し楽しませてくれると思ったが・・・。あっけないな。厳密にいえば、黒い人はやってくるのではない。その人の内側から生まれ、離れて本体を殺す。そして本体に代わり生き続けるのじゃ。そして、わしはその物語を読む。ああ、なんて最高の娯楽なんだ。」

爺さんは独り言を言いながら定位置の椅子に腰掛けた。


 どこかの町のある古本屋で真っ黒な本はあるかもしれない。次の獲物を待ちながら。

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