第四部「斜陽」

 ついに、引っ越す日になった。

 学校は午前中だけ行くことになった。家に居てもやることがないんだ。それに、三桜に別れの挨拶をするくらいはしないといけない気がしたから。だから、僕は約束を取り付けた。昼休みに、三桜と少しの時間、話す約束を。

 適当に午前中の授業を受けて、特に思い入れのない校舎を通って、文芸部室に向かう。この学校は殆どの生徒が教室で昼食を取るため、廊下に出歩いているのは僕くらいだろう。

 廊下に僕の足音だけが響く。道筋は初めて文芸部室に行ったときと同じ。校舎の印象も、これからの未来への希望が希薄なところも何も変わっていない。唯一違うのは三桜という人を知っているかどうかという些細なことだけ。転校してきた当初はきっとこんなにも離れがたく思うなんて考えもしなかっただろう。

 文芸部室に向かう道はどうやらこの一年を振り返るには短すぎたようだ。

 僕は冷たい取っ手を引いて、部室に入る。

「お疲れ様。」

 三桜が弁当を食べながら言った。

「おつかれ。」

 僕はそう言っていつもの席に腰掛ける。

 三桜はいつも原稿用紙に向かっている時と同じように無言でご飯を食べている。

 数分経って、三桜がナフキンで弁当を包んでいつもと変わらぬ口調で言った。

「待たせてごめんなさいね。時間もそれほど無いのに。」

「いや、大丈夫だよ。」

 僕は口を閉じて、居住まいを正す。なんとなくそのほうが良いと思った。だけど彼女の笑い声がそれを防ぐ。

「何を今更かしこまってるのよ。私達の中にそんなものはもういらないでしょ。それか、私に向かって愛でも紡ぐのかしら。」

 三桜は鼻で笑いながら言った。確かに。僕らの間には今更かしこまる必要は無さそうだった。最後まで、僕らは僕ららしく。

「最近、君が物語を書いているのを見ていない気がするよ。」

「まるで私はそれしか能が無いみたいじゃないの。ああ、イヤね。」

 そう、三桜が笑みを零す。

 いつもより、笑っている時間が長い気がする。というより、あまり彼女の笑い声も笑った顔も見たことが無い気がするから、新鮮だ。

「私の物語、読んでくれるかしら?」

 三桜はなんてこと無いように言った。もしかしたらそう見せただけかもしれないけど。

「もちろん。」

 僕が快諾すると、彼女はカバンの中からクリップで止められた原稿用紙を出した。僕がこの一年と少しの間、ずっと見ていたものだ。

 僕はそれを受け取る。ずっしりと僕の手のひらを伝ってくる重さは三桜の過ごした時間の重さであって、彼女の物語に対する思いのようだった。

 一枚目にタイトル未定とだけ大きく書かれていた。二枚目からは本格的に物語が始まっているようだ。

 僕はじっくりと文字を追う。しっかりと一文字一文字、噛み締めていく。

 三桜が僕の隣で所在無げに立っていた。

 冒頭は少女が一人で物語を楽しんでいる場面から始まった。本を読んだり、書いたりして、楽しんでいる場面から。

 少女はずっと一人だった。登校中も、学校にいるときも、下校中も、家でさえも。本の世界以外ではいつも一人だった。

 と、そこまで読んだ時呼び鈴がなった。あと、5分で午後の授業が始まってしまう。

「それ、あげるわ。それを読んで私を思い出して。……じゃあ。」

 さようなら。

 彼女はそう言って出ていった。

「じゃあ。」

 僕の言葉は彼女に届いただろうか。小さすぎてこぼれ落ちたような声は彼女に届いたのか、もう分からないし分かりたくない。

 僕は最後に文芸部室にお辞儀をした。思い出に終止符を打つようにして。

 帰路はあっという間に過ぎていった。そこまで短いはずではなかったんだけど、何度も彼女の「さようなら」という言葉を思い起こしていたら、いつの間にか着いていた。彼女のことを思い出すにはちょっとばかし、この帰り道は短かった。

 僕は自分が自覚していた以上に三桜という人間に執着していたらしい。執着、と言っていいのかはわからないけど、執着に近いなにかを僕は持っていた。

 家の前には両親が待っていた。何回もしている引っ越しだから、荷物はいつも最低限の量しかない。お陰で毎回スムーズだ。僕が帰った頃にはもう全て終わっていた。

 お母さんの「最後に見てきなさい。」という一言を受けて、僕は一年間住んだ家を回る。当たり前だけど室内には何もなかった。空白だけがあった。この言いようのない喪失感だけ未だに慣れない。

 何分かしてお母さんの僕を呼ぶ声が聞こえた。

 僕は家から出て、両親と共に引越し業者さんに挨拶をして、荷物を見送った。

 離れていくトラックを見ながらお母さんが少しさみしげに言う。

「行きましょうか。」

 住んでいた場所から離れるのが寂しいなら単身赴任という手段もあるはずだ。それなのに、お母さんはお父さんについていく。それが愛というものらしい。僕もそれが愛のような、なにかだと気がついている。だからついていくのが、僕なりの家族への愛の伝え方だと思っている。

 僕ら家族はお父さんの車に乗り込む。

 車が発進してから僕は三桜の物語を読み進めていく。お母さんがそんな僕を悲しそうな目で見ている。なにか言いたいことがあったら言えばいいのに。

「ここは、楽しかった?」

 お母さんはいつも僕にそう聞く。僕はいつもそれに「どうだろうね。」だとか「普通。」と曖昧に誤魔化しながら返していた。親を悲しませたくはなかったから。

 だけど、今回は違う。

「楽しかったよ。」

 僕がそう言うとお母さんは酷く苦しそうに「そう……ごめんなさい。巻き込んで。」と言った。もう、今更だ。

 今更謝られても、遅すぎる。

 僕はお母さんの言葉を無視して、物語の世界に入る。

 物語の中の少女は高校生になった。高校生になっても一人だった。だけど、高校二年生になって、一人ではなくなった。転校生がきたから。

 そこまで読んで気がついた。この物語の主人公を。登場人物のモデルを。

 名前は出ていないけれど主人公は三桜で、彼女と話しているのは僕だ。

 少女と少年は好きなものについて、好きなだけ話した。物語や季節、食べ物。それはずっと続いていた。

 二人はずっと一緒だった。

 三年生になっても。

 大学生になっても。

 社会人になっても。

 老人になっても。

 僕の頬にすっと涙が通り過ぎた。

 最後の場面、少女いや老婆はとても恥ずかしげに老爺に愛を紡いた。

 三桜はいつの日か、僕に言った。作者のことを知れば物語の見方が、人生が変わると。それがやっと、わかった気がする。もしかしたら三桜とは違う考え方かもしれない。違う意味合いかもしれない。それでも良かった。

 これは彼女から僕へのラブレターだ。

 それに気がついた僕は両親にバレないように静かに泣いた。

 やっと気がついた。この執着の正体を。僕が彼女に伝えるために理解するには、一年という月日じゃ短すぎた。僕はやっとひどく恥ずかしい感情を自覚したのだ。

 僕には意志があまりにも足りなすぎた。

 ああ、くそ。しくじった。

 あの実桜の味が僕の口の中に広がった。青春の、あの恥ずかしい味を。

 ふと、三桜が呟いた言葉を思い出した。それを僕は呟く。割れ物を扱うがごとく、ひどく大切に、大切に。

「とても……」

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恥ずかしい後味 宵町いつか @itsuka6012

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