第三部「桜桃」




 梅雨に入り、どんよりとした重苦しい空気が部室を満たしている。それのせいか三桜は不愉快そうな顔を頻繁にするようになっていた。

 僕は重い空気に溶かすように言葉を紡いだ。

「決まったよ。転校が。」

 一拍おいて、三桜が声を出した。意味を持たない声を出しただけだった。

「あら、そうなの。」

 かろうじで意味を持って吐き出された言葉は淡白だった。もう少し、大きな反応を予想していたのだが、どうやら杞憂で終わったようだった。三桜がいつもよりも字を書くスピードを上げたように僕には感じられた。気のせいで済ませられるほどの差違だ。

「いつ、いくの。」

「6月の最後。」

「……そう。思ったよりも早いのね。」

 少女は平坦な口調で呟いた。そしてまた、字を書くスピードをわずかに上げる。

 本当は1週間前に言われていた。ただ、それを彼女に言う勇気がなかったのだ。猶予はあと2週間ほどしか時間は残ってなかった。その間で僕らは一体何が出来るだろうか。一体、どれだけの言葉を紡げるだろうか。

「どこいくの。」

 僕は呟くように言葉を返す。

「東京。」

「……遠いわね。」

 静寂が包んだ。いつもなら三桜の奏でる芯の削れる音が聞こえるから正真正銘の静寂はこれが久しぶりだ。

 三桜は平坦な口調で言った。

「東京なら、三鷹が良いわ。きっと。」

 三鷹といえば太宰が住んでいた町だ。

「跨線橋が良いわ。早く行ったほうが。撤去される前に、一度完全な状態のを見たほうがきっと良いわ。それか太宰に会いに行くといいわ。どうも、私は見栄っ張りな男ですって。」

 三桜は言い聞かせるような強い口調で言葉を放つ。

 僕は黙ったまま、三桜を見た。三桜は静かに鉛筆を走らせ始めた。

 僕は心の何処かで、引き止めて欲しい、なんて考えていたのだろう。だから、唐突に変なことを口走った。一種の熱病のように。

「ほんとうに、良いの?」

 三桜は手を止める。口を開くか一旦ためらうような素振りを見せ、息を深く吐いてから声を発した。

「引っ越しはどうしようもないじゃない。どうにも、出来ないじゃない。せめて、背中を押すくらいしか出来ないじゃない。それが私にできることなんだから。もう、やめたのよ。どうしようもないことに抗うのを、私はやめたのよ。」

 まくしたてるように、三桜はそう締めくくる。

「そう、ありがとう。」

 僕はそう返すことしか出来なかった。そうするしかなかった。

 結局、その日はそれから話すこともなく、部活が終わった。

 翌日、部室に行くと机の上がとても綺麗だった。原稿用紙も、鉛筆も置かれていなかった。僕は一人、椅子に座って本を読んだ。やっぱり、太宰治だ。

 太宰の「桜桃」を読み進めて、ある一節に視線が止まる。

「子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。」

 なんとなく、口ずさむ。太宰はこう言った。だけれど、僕の場合は、友達より親が大事、と思いたい。に変わるんだろうか。もちろん、親は大事だし、友達も大事だ。だけれど、やはり――。

 ただ、残念ながら僕は人に意見を言えるほどの度胸を持ってはいないのだ。いつもびくびくとして、言えないのだ。びくびくと怖くて、恐くて、恥ずかしくて。広義的に言えば、僕も道化だ。お道化だ。

 三桜は明日来るだろうか。彼女は、今度こそ僕の背中を押してくれるだろうか。

「東京……ね。」

 東京にいいイメージも悪いイメージも持っていない。中学校の頃に訪れた時にただ、漠然と薄い色で埋め尽くされているという印象だけを持ったことをいやに鮮明に覚えている。きっとそれは僕が都会に憧れを抱いていないところも大きく影響しているのだろう。よくある、夢と希望に満ちた場所なんて考えを持ってないことが僕のこんな性格を形成している。それはそれで虚しいものだけど。心のなかに少しずつ都会の色が混ざるのが嫌だった。このまま、大人になりたかった。いや、このままは大人にはなれないのかもしれない。あまりにも裏切られた回数が少ないから、まだ大人になるには早すぎる。

 あと2週間。それはずっしりと僕にのしかかってくる。

 一回くらいは三桜の書いた小説を読んでみたかった。書いているところは知っているけれど内容は全く知らない。彼女は一度も見してはくれなかった。それが唯一の心残りになりそうだ。

 休日が明け、部室に行くと原稿用紙のかわりに皿に入れられたさくらんぼが置いてあった。

「あら、来たのね。遅かったじゃない。待ちくたびれたわ。」

 三桜はさくらんぼを口の中にまずそうに含んで種を吐いた。心のなかではなんと呟いているかは知らないけれど、きっと良いものでは無さそうだ。

「久しぶり。」

 僕がそう言うと、三桜はさくらんぼを手に取って笑みを浮かべた。

「久しぶり、なんて似合わないでしょう? たった三日会っていないだけよ。」

 僕は部室に入って「そうだね。」と言うだけで精一杯だった。確かに三日会わないなんてまだよくあることだけど、休日の間、色々考えを巡らしていたから休日の密度が濃かった。お陰で一日が四十時間以上あるように思えていたんだ。

 色々、聞きたいことがある。

 なんで金曜の日、部活を休んだのだとか、それは本当に多くのことを。だけれど、まず聞きたいのが。

「なんでさくらんぼ食べてるの?」

 僕が聞くと、三桜は驚いたような顔をして、わざとらしくため息をつく。

「今日は何日か知ってての言葉かしら。六月十九日よ。」

 三桜の言葉が、まるで魔法のような綺羅びやかさを保って僕の耳に届いた。

 六月十九日。多くの人にとっては普通の日だろう。でも僕らにとっては特別な日。

「桜桃忌。」

 僕が呟くように言うと、三桜はふわりと優しげに笑う。

「鈍感ね。記念日を覚えないなんて、女から嫌われてしまうわ。」

 確か、去年も同じ事を言われてしまった。去年はさくらんぼを食べた訳では無かったけれど。

「ごめん。」

 僕は謝ってから、一つさくらんぼを手に取った。久しぶりにさくらんぼを食べる気がする。前に食べたのは……いつだったか。もう、覚えていない。口の中で実は弾け、甘酸っぱい味が広がる。丸い、美しい実桜の中には青い春の味が詰まっていた。

 三桜は種を皿の上にぺっと吐く。

「太宰が好きだった理由が、今ならわかる気がするわ。」

 そう、ひとりでに呟いた。僕は彼女が言っていたように太宰を含め、作者のことは最低限しか知らない。もちろん好きな食べ物も知らない。ただ、桜桃忌というくらいだからさくらんぼが好きだったんだろうな、なんて短略的な考えしか持っていなかった。だから好きな理由なんて知らない。

「……そう。」

 こぼれ落ちた言葉を救うようにして、僕は言った。三桜は僕の言葉には気が付かなかったようで、ぱくりとひどくまずそうに桜桃を食べて種を吐いた。僕にはそれが虚勢を張っているようにしか見えなかった。これもきっと昨日読んだ「桜桃」のせいだろう。

 口の中で種を転がし、虚勢を張りながら何度も何度も言い聞かせるように言うのは、友人より親が大事。

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