第二部「手記」




 今日も三桜は原稿用紙に向き合っていた。僕は彼女が本に向き合っているところを見たことがない。きっと読んでいるんだろうけど、部室では鉛筆を持って原稿用紙に文字を書いている姿しか見たことがなかった。

「君は本、読んでるの?」

 三桜は鉛筆を置いて、天井を見上げる。まるで煮詰まったときと同じようにして。

「もちろん。読んでいるし、あなたと同じくらいは読み込んでいるはずだわ。お陰でお友達と呼べる存在は空想の中にしか居ないけれど。」

 三桜は自虐的に言って、また鉛筆で文字を書く。部室に居るほとんどの時間、僕は鉛筆の音を聞いている。人の声より、吹奏楽部の楽器の音より、自分の呼吸音より。僕は視線を本に落とす。今日は太宰から離れて適当に見繕ったものを読んでいる。最近は太宰ばかりを読んでいるお陰で、沼に嵌って抜けられなくなりそうになっていたので、逃げるように他の本に移ったのだ。ただ、自分にはこの作品はどうにも合わなかったようだけど。

「なんだかウツになるよ。」

 僕が小さく呟くと、三桜は鉛筆を止めずに平坦な口調で言う。

「あら、あなたをそんな気持ちにするつもりはなかったのだけれど? ああ、あなたは私よりもよく文字を嗜むから優位に立っていると思っていたのね。ごめんなさいね。あなたと私は同類よ。」

「違うよ。僕が言っているのはそれじゃない。僕の中ではもう過ぎた。」

「それは失礼なことをしたわ。」

 三桜は特に失礼と思っていないような口調で言う。

 彼女は制服のポケットからカッターを取り出して、鉛筆の先を削り始めた。なかなか物騒なものを持ち運んでいるが、今更見飽きてしまったので驚く気すら湧かなかった。

「ところであなた。」

 三桜が僕をちらりとみて言った。

「あなたは鉛筆をなめたことがある?」

 何を言ってるんだろう、なんて考えるよりも先に口が動いた。

「手帖にシシマイと書いてみることはしたかな。ただなめはしなかったよ。」

 三桜は笑った。

「あら、あなたは葉ちゃんだったの? それにしてはお道化らしくはないけれど? それに頭もよく無さそうね。」

 なかなかひどい。が、それもこの一年と一ヶ月で慣れてしまった。だから、僕はいつものように適当に対応する。

「残念ながら女に惚れられたことはなかったね。」

 付け足すように言うと彼女はふっと笑った。

「あら、悪魔の予言を受けなかったのね。それはそれは良いことじゃないの。」

 そう言って、三桜は数センチ鉛を出した鉛筆を軽くなめた。

「……美味しくないわ。」

「味を求めているわけじゃないからね。」

 三桜は天然なんだろうか。それとも馬鹿なんだろうか。永遠の課題になりそうだ。

 意識を本に戻す。ゆっくりとゆっくりと本の中に入り込む。ウツな気分を飛ばず様に。

「もうそろそろ、梅雨に入るわ。あの季節はどうもイヤね。あの重い空気が私は苦手だわ。」

 三桜がおもむろに顔をしかめて言った。それでやっと今日の天気予報を思い出した。

「ああ、そういえば今日は雨が降るらしい。」

「イヤね。本当にイヤね。」

 そう言う三桜を無視して、僕は部室から空を見る。空は雲に覆われていて、今にも雨が降りそうだ。どうやら天気予報は当たっていたらしい。

 三桜は笑いながら言った。

「綿とアルコールの準備は?」

 僕はそれに答える。

「大丈夫だよ。雨の中を、引っ張ったりしないから。」

 彼女はまた、笑いながら「あら、そう。優しいのね。いえ、あなたは不安と恐怖を知らないのね。」と言葉を零す。

 知らないし知りたくはないと思う。

「あ、雨だ。雨が降り出した。」

 僕はありのままを伝える。

 三桜は僕の声に反応して、言った。

「ああ、ナーヴァスな気分になるわ。」

「二人なら、少しは和らぐんじゃないかな。」

 僕はそう言う。すると三桜は笑って、悪魔の予言を言った。

「あなたは、きっと、女に惚れられるわよ。」

 いや、無為なお世辞だろうか。

 少しずつ、雨音が大きくなっていく。その音に呼応するかのように鉛筆の芯の削れる音が大きくなるように感じられた。まるで音楽隊だ、なんて感想を抱くくらいには、雨が好きになっていた。音楽隊の行進が止まり、三桜が口を開いた。

「傘、持ってきてないわ。」

「……相合傘で帰ろうか。」

 僕がそう言うと、三桜は笑う。確か、いつの日かにいっしょにそうして帰ったなと思い出した。一年前のようなもっと最近のような、不思議な感覚だった。

「不きんしんなお話でもしながら帰りましょうか。」

「それは告別式のあとがいい。部活の後ではそんなお話、盛り上がらないだろう。」

 彼女はまた太宰の「グッド・バイ」に絡めて言った。

 彼女と会話しているとなぜだかいつも太宰に引っ張られる。それは彼女が僕を田島周二だと思っている節があるのかもしれない。多分、出会った頃にしたあの会話が未だに三桜の中に残っているのだろう。僕と同じように。

「そうね。確かに盛り上がらなそうね。だって、あなたはやめるものが無さそうだもの。きっと、私の知る以前にやめていそうだもの。」

 三桜は口の端から笑い声を落とす。確かに多くのものをやめた。それはもう、色々なものをやめた。

「やめなくちゃ、生きていけそうもなかったんだ。仕方なかったんだ。」

 僕が言うと、三桜は静かな声で同意した。

「そうね。誰だってそうだわ。人間、誰しもね。」

 三桜もやめたものがあったんだろうか。

「一体、君はなにをやめたの?」

 僕は聞く。三桜は天井を見上げ、小さな声で呟く。

「そうね……色々なものとしか言いようがないわね。それは行動であったり、思考であったり。自分のため、なんて表面上は思っていても、心の奥底ではそんなこと、みじんも思っていないの。これっぽちも思っていないの。いまさら、後悔ばっかり。女々しくしているのよ。」

 三桜はさみしげに言った。三桜も僕と同じようなことがあったんだろうか。だた、言えることといえば結局人間は考えることもすることも同じ、ということだろうか。

「そういう、ものなんだろうね。」

 僕が肯定すると、三桜は「そうね。きっと、そうだわ。」と、これまたひどくさみしげに言うのだった。

「後悔というよりも、これは恥にちかいものなのかもしれないわ。」

 三桜はそう、空気に溶かすように言った。僕はそれに否定も肯定もせずに、ただじっと彼女のことを見つめることしかしなかった。

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