恥ずかしい後味

宵町いつか

第一部「怪力」


「……とても恥ずかしいものね。」

 原稿用紙の上に文字を綴る音が響いていた。その音に紛れながら、唐突に彼女の口からため息に似た言葉がこぼれ落ちたその言葉は一瞬、僕に向けられたものかと思った。けれど、彼女は僕の方を一度も見ずに、ただじっと原稿用紙を見つめていたので、さっきの言葉は僕に向けてなんかじゃなく、彼女の書いている小説の一節かなんかだろう。そう思い、僕はまた意識を手元の小説に戻す。

「はあ。」

 彼女の口から今度はため息がこぼれ落ちた。

「どうかした?」

 さすがに無視できなくなって僕は彼女に声をかける。彼女は原稿用紙から目を離し、僕の方をじっと見て、また呆れたようにため息を漏らす。

「あなたはもっと作者に目を向けたほうが良いと思うわ。」

 彼女はそう呆れたように言って、僕が手に持っている本を指差した。僕が今読んでいるのは太宰治の「グッド・バイ」だ。中学時代はよく好んで読んでいた作者だったが、ここ最近はさっぱり読まなくなっていたので、昔の気分を思い出そうとして久しぶりに手に取った。特に思い入れのない中学校時代の事を思い出して、悲痛な気分になっていたら彼女から急に呆れられたのだ。流石に理不尽だと思う。

 僕が作品以外に太宰について知っていることと言えば、本名と死因くらいだろうか。本を読む上で作者のことは作品の評価には直結しないと思っているし、それほど必要ないと思っている。それが文学に対しての本来の向き合い方だと思っているから。だから彼女がどうして作者に目を向けたほうが良い、なんて言ったかが良くわからないというのが本音だ。

「作者について知ったほうがもっと物語を楽しむことができると思うのだけれど。もちろん、人生も。」

 作者を知って本の見方が変わるのはわかるとして、人生まで変わってしまうのはいささか言いすぎな気がする。

 また鉛筆の音が響き始めた。僕はその音に耳を傾けながら、彼女と初めて会った日の事を思い出す。彼女と初めて会った日も、この鉛の削れる音が僕の鼓膜を揺らしていた。あの日もこの鉛の香りがこの部室を満たしていた。

 地方の田舎で寮のない校舎に僕はやってきた。それは去年の四月のことだ。

 また着慣れない制服を来て、顔見知りの居ない場所で、生きていた。お父さんの仕事のせいで引っ越しも一度や二度のことじゃなかったし、すでに作られたコミュニティの中に入って居心地の悪い気持ちになるのも慣れていた。だから、今更制服のことだとか、顔見知りがどうだとかで感傷的な気持ちになることもなかった。昔からそんな人間だったから、本に惹かれるのは至極当たり前のことだったように思える。小学生で気付いた頃にはハードカバーを好き好んで読んでいたし、みんなが昨日のアニメやバラエティ番組で盛り上がっている時も僕は一人、本の世界に入っていた。中学生になったら当たり前のように文芸部に入った。転校した学校に文芸部がなかったら近くの図書館に出向いて、本を噛み締めた。僕はこの学校でも文芸部に入って、一人で本を読んでいつの間にか転校するのがオチだ、なんて考えていた。

 それが覆ったのは放課後、初めて文芸部室を訪れたときのことだった。

 文芸部の顧問から部員は僕を含め二人しか居ないと聞いていたので、どうせやる気のない幽霊部員が所属しているんだろうとたかをくくっていた。が、部室に入った途端視界に入ったのは原稿用紙、原稿用紙、原稿用紙。そしてほのかな鉛の香り。時折響く、鉛筆が紙の上を滑る音。

 紙の中に少女はいた。

 比喩ではない。部室には原稿用紙が散乱していた。その中心部、唯一紙の落ちていない箇所に少女が座って、無言で原稿用紙をめくり、鉛筆を走らせていた。

 何分ほど、それを見ていたろうか。

 少女は原稿用紙のことだけを見ていて、僕なんか視界に入っていないようだったし、僕自身少女に見入っていたので、良くわからない。ただ、唐突に少女が顔を上げた。

「え、なに?」

 まるでいま起きたかのような声だった。やっと意識が覚醒してきて、初めて見たのが僕の姿だったような、そんな声だった。

「あ……いや、えっと。」

 僕は髪の毛をいじりながら、考える。考えるというか、驚きを鎮めようとして思考に入る。

 まさか、人が居るなんて思わなかった。しかもちゃんと部活をしているようだ。とても勝手だが、裏切られた気分だ。

 少女は原稿用紙を避けながら扉の前まで来て、僕の顔を覗き込む。

「何って聞いてるんだけど。」

 少し苛立ちの籠もった声だった。そりゃ、苛立つだろう。急に部室に知らない生徒が入ってきたのだ。集中を阻害されたのだから当たり前の反応だと思う。

「あ、転校してきた……」

僕が言いかけると少女は遮るように口を開いた。

「ああ、隣のクラスの転校生。」

 少女はついさっき思い出したかのような口ぶりで言った。少女は僕をじっと見つめる。どうやら僕のことは知っているようだった。

「入部希望?」

 僕はうなずく。

「あら、そう。」

 少女はすっと僕から離れて、また紙の中心へ舞い戻っていく。そんな彼女に吸い寄せられるように僕は部室の中に入っていった。

 床には原稿用紙が何枚も積み重なっていた。それを踏まないように進んでいく。壁面には大きな本棚が置いてあり、数多くの本の背表紙が見えていた。織田作之助や川端康成、三島由紀夫、梶井基次郎、江戸川乱歩などなど。所狭しと昔の作家の作品が置いてあった。もちろん、最近のライトノベルや文学作品も同じように置いてあった。

 思わず見蕩れてしまう。

 背中を向けている少女からは鉛の香りと芯の削れる音だけが聞こえていた。僕はただ、じっと見蕩れていた。過去の人達が残した、命と同義のものをじっと目に焼き付けるように。

「そういえば。」

 彼女が口を開いた。どれだけ時間がたっていたのかはわからないけれど、そこまで時間は経っていなかったと思う。

「あなた、名前は?」

 僕は一瞬躊躇った。そんな大層な理由ではないけれど、あまり本好きの前では言いたくない名前だったから。僕の意地のようなものだ。

「――田島。」

 僕の名前を聞いた瞬間、少女は「っふはは。」と小さく吹き出した。同時に背後から芯の削れる音が止まった。

「召し上がれ。味の素は、サーヴィスよ。気にしなくたっていいわよ。」

 僕は悲痛な顔つきになる。少女が僕に向かって言い放ったのは太宰治の「グッド・バイ」の台詞だった。目の前に「本場もの」のおそろしいくらい高いカラスミは無いけれど。

「君は、自分でお料理した事ある?」

 僕が少女に向かって言うと少女は上品に笑った。

「ふふっ、田島、田島だわ。」

 少女は何度も田島と連呼する。うるさいくらいに、何度も何度も。

 僕は少女の方を見た。少女は目に涙を浮かべて、頬を上気させていた。よほど気に入ったらしい。少女は涙をさっと拭いて僕の方を見た。

「私の名前は三桜みざくら。これからよろしく。田島さん。」

 少女はふふふと笑った。鴉声からすごえとは程遠い声で。

「これからよろしく、かな。」

 それから僕たちは平日は毎日会った。もちろん部活で。

 部活と言ってもほとんどの時間、三桜は原稿用紙に向き合っているし、僕は彼女が散らかした原稿用紙を片付けたりしていて、部活動なんて言えるほどのものではなかったような気がする。

 そんな行動を繰り返しているといつの間にか季節は巡って、僕らは高校3年になって、雨雲の似合う季節になった。


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