False

 いつもの枕。いつもの部屋。布団の匂い。

 まどろみの中、わずかに生じた安心感を原動力に記憶をたぐる。

 どうやって家に帰ってきたのか思い出せないけど、昨日の私はちゃんとベッドで寝たようだ。

 なんとなく椎名さんのカップケーキの甘い味が残っているような……。

 重たいまぶたを擦ろうとすると、腕に違和感がある。

 血の気が引いたような冷たくて重い感覚、というより感覚そのものが希薄だった。

 カラダの異常を察知して、視界が急に鮮明になる。

 手のひらが、ない。

 ハサミになってる。

 悲鳴をあげた。飛び起きた衝撃で、私はベッドから転げ落ちる。

 建設現場で聞いたことのある、ガラクタが落下する音がした。痛いはずの腰は硬い感触すらない。

 部屋の隅に置かれた姿見に何かが映る。

 そこに映っていたのは全身金属のエビのような頭だった。驚いて距離を取ると鏡の向こうに映る怪物ものけぞった。

 つまり、今の私は――。

 わからない。どうしてこうなってるの。床をうようにして元いたベッドを目指す。

 そういえば椎名さんの家に行った後の記憶がない。

「由芽、起きたのー!?」

 お母さんの声がする。いや、今日は学校なんか行ける状態じゃない。

 どうしよう。

 とりあえず電話しよう。椎名さんだ。

 ベッドからスマホを取ろうとして落とす。

 そうだ、今はハサミだった。湾曲したハサミでつかむのは簡単じゃない。なんとか床に固定して、ロック画面をつついてみるけど反応はない。

「なんで動かないの……!」

 何度もたたくうちにスマホの画面がひびが入ってしまった。

「ああーもう!」

 頭にきた。怒りにまかせて床を叩く。金属バットで殴ったような音がして床に穴が空いた。

 なんて怪力なんだ、今の私。

 とにかくロックを解除できないなら、どうしようもない。スマホはエビのハサミで操作するように作られてない。

 なんにもできない。虚無感が一気に押し寄せた。


「おねーちゃん、朝からうるさいー」

 ドタドタと廊下を走る音、今度は妹だ。慌ててドアに向かう。押さえる暇もないまま部屋のドアが開く。

 ダメ、お願いだから見ないで。

「入っちゃうから…… うわえっ、おかーさん大変!! たぶんおねーちゃん、怪物に食われた!!!」

〈違うの〉

 声の代わりに出たのは、叫び声とはまるで似つかないひび割れた怪音だった。

 妹の表情がひきつった。

 漫画が、目覚まし時計が、リモコンが、飛んでくる。妹は手当たり次第に容赦なく投げつけてきた。

「ねーちゃん返せ! ねーちゃん返せ!」

 痛みは不思議と感じない。けれど十歳児の純粋さは残酷だ、物が当たるたびにわたしは悲しくなった。

 ダメだ、ここには居られない。

 肩掛けポーチにスマホを突っ込んで腕を通す。ベッドのシーツを無理やり引き剥がして頭からかぶった。

 これでシルエットも少しはマシになったと、今は信じるしかない。最後に姿見の前に立つ自分の姿に再び絶望してから部屋を飛び出す。

 下を向いて狭い廊下を駆け抜ける。玄関ドアを突き破ったような気がしたが、機にしている場合じゃない。

 家族の姿を見たら足がすくんでしまうのではないかと考えると怖かった。

 家を飛び出し、とにかく走る。

 疲れは全く感じないどころか、軽やかにすら感じられた。あれだけ物を投げられても痛みを感じなかったカラダが今度は内側からズキズキと痛む。変身してから痛覚がおかしくなってるのかもしれない。

 住宅街に全金属製モンスターが身を隠せる場所はそんなにない。目についた児童公園の植え込みに人がひとり隠れられるくらいの隙間を見つけた。

 どうしよう。とりあえず落ち着け……。

 落ち着けるわけないでしょ。

 泣いた。また泣いてしまった。

 泣き声すらジャラジャラと不快な金属音になっていて、さらに惨めな気分になって、また泣いた。

 それを何度か繰り返して、涙をふこうとして、今の自分の目が実際にはどのあたりについているかも分かっていないことに気づいて、ようやく落ち着いた。

 こんなに泣いたのに、おなかが空かないのは不思議な気分だった。

 ポーチの中でスマホが鳴った。慌てて取り落とすようにポーチからスマホを出した。

 椎名さんの名前が表示されていた。悪戦苦闘の末、上下二枚のハサミのうち下の刃で慎重に触れば画面が反応する事がわかったので、スピーカーにして応答する。

「おはよう、由芽ちゃん。電話しちゃった」

 どうしよう。出たはいいけど、この声じゃ妹と同じ反応をされるかもしれない。

 こんなことなら、時間をかけてでもメッセージを先に送っておけばよかった。

「ああ、大丈夫だよ、『今の由芽ちゃん』の言葉はちゃんとわかるよ」

〈どうして?〉

〈わたしが調整したから。あ、いま由芽ちゃんとスマホ『つなげた』から、そのまましゃべっていいよ〉

 脳内に椎名さんの言葉が直接響く。どういう理屈かわからないけど、声を出さなくても会話の方法が分かった。それ自体がなんか気持ち悪かった。

〈何言ってるの、そもそもどうやって……。ううん、どうしてこんなことしたの、元に戻してよ〉

〈だって、由芽ちゃんがそう望んだんだよ? 私はその願いが形になるようにしただけ。少しくらい不器用なのは勘弁してほしいな〉

 椎名さんがやった? いろんなことが現実離れしすぎてくらくらする。

〈嫌だよ、こんなの望んでない。こんな格好でさ……、どこにも行くあてなんてないじゃない〉

〈じゃあ、学校行く?〉

〈ぜっったい行けるわけない、行きたくない……〉

〈ほら、ね。もう夢由芽ちゃんは学校に行く必要なんてなくなっちゃったんだよ〉

〈なにそれ、適当なこと言わないでよ。こっちは元に戻りたいって言ってるの……!〉


「どうかな。ねえ、本当はどうしたいの? 学園祭なんて、学校なんてなくなっちゃえって、思ってるんでしょ? 今の由芽ちゃんならできるよ」

 耳元で椎名さんがささやく声がする。となりに現れた椎名さんは、しなだれるように腕に絡みついてきた。

 痛みを感じない身体は、けれど椎名さんの熱を感じて高揚する。椎名さんはわたしの首元に手を回すと、わたしも知らなかったプラグに何かを差し込んだ。

 今までにない感覚に、意識が一瞬遠のいた。

 視界が急に高くなって、はじめは空を飛んでいるのではないかと思った。

 でも違う。地に足はきちんとついている。わたし自身がとてつもなく大きくなっていた。

「どこかで由芽ちゃんは望んでたんだよ。きっと世の中のみんなが心のどこかで思ってるはず、何も変わらないこの世界が早く終わらないかなって。死ぬ事は一つの世界の終わりの形だけど、みんな見たいんだよ。その先が」

「わたしが望んだ」

「ねえ、見せてよ。終わりのその先を」

 わたしの肩に乗った少女は、いつまでも笑っていた。


 夏の暑さを引きずって、太陽は容赦なく地表を照らした。

 銀色になった私の巨大ボディが、ギラギラとアスファルトに不気味な反射光を落とす。

 窮屈な街の隙間を縫うように、わたしたちは学校を目指す。

〈羽根とかないの、この身体〉

〈エビに羽根なんてないよ!〉

〈やっぱりエビだったんだ〉

 道中、眼下で街の人々が混乱し、道路が封鎖され交通が麻痺まひする様が繰り広げられているのを二人で笑った。

 いつもの歩道橋をひっくり返して、学校の裏門を蹴飛ばして。

 着いた時には、お昼を回っていた。

〈野外ステージ、どこ?〉

〈もう少しだよー〉

〈あ、これか。見落とすよ、これだけ小さいと。というよりわたしが大きくなってるんだっけ、これ〉

 大きくなった一番の弊害じゃないかと思うくらい、高い視点はいつもとは見え方が違う。

 世界の全てがミニチュアになってしまったような感覚だった。

 野外ステージはそこにあった。あれだけ苦労してみんなでつくってたステージは、今の高さから見ると本当に小さい。

 原作の面影のかけらもないロミジュリはちょうど佳境に入っていた。

 薬を飲んで仮死状態になった玉田岬の演じるジュリエットの前に物部ロミオが舞台に現れ、悲嘆に暮れている。

 ふたりとも、意外と様になってるじゃん。

 もちろん客席はそれとごろではない。突然の怪獣わたしの出現に、思考が吹っ飛ばされているようだった。

 茶番に茶番が出会い頭に衝突したような物だ。仕方ないよね。

 舞台裏で控えていた他の演者や裏方も、怪獣の出現で大騒ぎ。

 それでも物部さんと玉田は演技を続けた。

 物部さんが一度だけ、わたしをにらんだ。

 悲しみを宿した瞳に魅入られただけで、物部さんに全てを見抜かれたような感覚に襲われ、わたしは歪んだラッパのような咆哮ほうこうを上げる。

 物部さんの悲嘆に暮れる顔は演技の中とはいえ美しく、その視線を一身に受ける玉田が少しうらやましかったのかもしれない。

 すると仮死状態を演じていた玉田が、驚いて起き上がってしまった。

〈まったく、プロ意識が足りないね〉

〈本当に……〉

 がっかりだった。全てをかけて、わたしをおとしめてまで、手に入れたい舞台じゃなかったの?

 このまま文化祭も、舞台も、壊してしまおうかと考えた。

 目覚めた玉田は、意外な行動に出た。

 脚本通りなら、ジュリエットの死を嘆きロミオは服毒自殺し、仮死状態から目覚めたジュリエットはロミオの死を知って短剣で自らを貫いて後を追う。

 けれど玉田は、私の巨体を見、次に物部さんを見ると、立ち上がるなり物部さんの両手を取った。

「ああ、ロミオ! 生きていたのね! でも、あれはいったい?」

「ジュリエット、あれは神様だよ。私たちを全ての悩みから解放してくれたのさ。行こう、海の向こうへ」

「行きましょう、どこまでも」

 なんてひどいアドリブ。そのまま二人は抱き合うように崩れかかる舞台袖へと消えた。

 ロミオとジュリエットは二人の死で終わる悲劇ではなかったの?

 全てをぶち壊すはずだった私は一体なんなの?

 本当にひどい出来、だけど……。

 あの二人は演じきった。わたしたちですら利用して。

「やっぱり、由芽ちゃんのジュリエットの方がよかったかもね」

 耳元で椎名さんがささやく。

「いいの。わたしは裏方、機械仕掛けの神さまがお似合いってとこだよ。化け物だし」

「今の由芽ちゃんが一番かわいいよ」

「それって皮肉?」

「違うよ。由芽ちゃんはかわいい。世界一かわいい。ドリルがついてなくても、今の由芽ちゃんは私にとって最高の存在なの」

 椎名さんは満ち足りた表情をしていた。

「ありがとう。ドリルは……、考えておく」

「とりあえずこれ、だね」

 椎名さんは何か手に持っていた。

 それはサンショウウオにつながっていたのと同じコントローラーだ。

「それ……」

「ん? ああ、これは由芽ちゃんの分」

 椎名さんがレバーを動かす。

 体のどこか奥底で痙攣が始まる。感情のたかぶりが、咆哮となって世界を揺るがす。

 こんなに愉快な気分になったのは久しぶり。


 わたし、笑えてる。

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しびれるくらい笑ってよ。 霧江 @kyliEleison

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