しびれるくらい笑ってよ。

霧江

True

 目の前の『それ』は、ぬめぬめした頭のあたりにケーブルが刺さっていて、椎名しいなさんが手にしているコントローラーにつながっている。


 ペタペタペタペタ――


 生物室の扉を開けると、爬虫類を操る椎名しいなさんがいた。

 短くなった鉛筆のように小さなレバーを彼女が倒すと、水音をたてながら実験台の上を痙攣けいれんするように右へ左へ不気味に動いた。

 一体どういう仕組みで動いているんだろう。正直、気持ち悪い。

 なんとか悲鳴をあげずに済んだのが幸い。

「そのトカゲしまってよ」

「あ、由芽ゆめちゃんだ! もう、トカゲじゃないー、これサンショウウオ。両生類。トカゲは、はちゅーるい」

「大して違わないでしょ。なんなのこれ」

「今年の生物部のメインイベントだよ」

「これのどこが主役なの?」

「心配しないで。もう死んでるから」

 忍び笑いを漏らす。冗談を言ったつもりらしい。

「……暇なんだね。今度こそ部活、追い出されるんじゃない?」


 ポスター発表の掲示や飾り付けに動き回っている他の部員は、椎名さんの事を気に留める様子もない。

 椎名さんは、見ての通りの変人だった。

 うちの学校の生徒で生物部の部員なはずなんだけど、何度も授業もサボるし部活ではただ遊んでいるようにしか見えない。

 なぜこのような生徒が校内で放置され、黙認されているのかわからない。先週もかなり際どいいたずらをしたのに。

 私は椎名さんどうやってて知り合ったか、正直ちゃんとは覚えていない。椎名さんの行動は奇抜だが意味がない事がほとんどだから、単に覚えてないだけなのかもしれない。

 いや、思い出した。

 たしか部室棟の階段でトカゲ、じゃなくてサンショウウオをコントロールしてたっけ?

 さくらんぼが乗った黄色いカップケーキをもらって――そう、あれは今でも会うたびにくれる――そのカップケーキを初めて食べたところで……。


 ペタペタペタペタ、パタリ――


 ケーブルが伸び切ってオオサンショウウオがひっくり返った。

「由芽ちゃんこそ、こんなとこにいていいの?」

「え?」

「クラスの方、行かなくていいのかって。由芽ちゃんのとこ、確か演劇でしょ?」

「……ダメかもだけどさ、なんか嫌になんだよね。こういうとき理由つけて抜け出せる文化部が羨ましい」

 わたしにとって、生物室は文化祭シーズンの数少ない逃げ場所の一つだった。

 言葉が呼び水となったのか、ふと窓の方へ視線が流れる。生物室の窓は中庭に面していて、ちょうど設営中の野外ステージがよく見えた。

「文化祭なんてなくなればいいのに」

 口からこぼれた言葉と一緒に、心の中のどろりとした感情も吐き出してしまいそうだった。


 クラスの出し物は、屋外ステージでの演劇だった。

 なぜそうなったかといえば、クラスのカースト最上位にして県内外でも有名な資産家の娘である玉田岬たまだみさきとその両親、さらに学校側の妥協の産物だったからだ。

 玉田家は自信家の一族だった。

 玉田は恵まれた容姿をアテにした親に言われ、小さい頃から子役として劇団に通っていた。子煩悩で娘を信じて疑わない両親は玉田を熱狂的に支援し、玉田本人も心から舞台に情熱を注いでいた。

 手厚い援助を送る親と取り巻きたちの声援に推され、本人もやる気十分だった。

 にもかかわらず、今まで一度も主役を手にしたことがなかった。

 玉田本人も自分を信じて疑わない人間だったので、幾度となく主役を逃した事実は彼女の中で徐々に大きな不満になっていたのかもしれない。

 主役になれない劇団よりも、自分で作った舞台ステージで主役になればいいと思いつくのは時間の問題だった。

 そして彼女の母親はPTA会長であり、娘のどんな行動でも無条件に支持する、ある意味とても献身的な親だった。

 PTA会長という立場と大口の寄付をしてきた実績を利用して学校理事の人選にまで口出しする玉田の母は、学校側にとって厄介な存在だった。

 かくして学園祭予算を超過しているにもかかわらず、野外ステージの設置が決まった。

 担任教師は炎天下に野外ステージで行われる演劇という案に当初懸念を示したが、玉田の押しの強さに、何より学校側の圧力に負けてしまい、今ではほとんど放任状態だった。

 玉田とは対照的に、取り巻きを除いたクラスメイトの反応は冷めていた。

 少数派だが発言力のある玉田一派と、諦めムードのその他大勢を取りまとめているのは物部さんだった。幸か不幸か、学級委員の物部さんが両者の間を取り持っているおかげでクラスは瓦解せずにここまで来ている。

 不完全な台本と舞台。九月の殺人的残暑。やる気もギリギリなクラスメイトと、現状認識を誤ったリーダー、そして両者を取り持とうと駆け回る物部さん。

 失敗の予兆は、前日リハーサルからも見て取れた。

 そういうのを全部見て、わたしは嫌になって抜け出した。

 クラスメイトのほとんどが野外ステージ制作の裏方で、役者は玉田と彼女の仲間がやることになっている。

「裏方が一人消えても、舞台は止まらないよ」

 台本は玉田が自ら書いたものだった。

 戯曲『ロミオとジュリエット』を下敷きに、内輪ネタと流行りのお笑いネタをちりばめた、さして面白くない脚色で、配られた時に一度だけ目を通したけど読んでいて悲しくなった。

 もう一度舞台を見る。完成間近の舞台の上で、玉田が演技をしている姿が小さく見えた。

 他の演者がセリフを忘れたり、フラフラと落ち着きのない演技をする中、玉田の熱のこもった演技だけが浮いていた。

 玉田はいつだって真剣だった。けど傍から見ていると気持ちが空回っているようだった。

 悪いスポットライトが彼女を一人照らしているみたいに、彼女のだけが熱意が浮いていた。

 本当にそれだけだったら、どれだけ良かったことか。

 窓の向こうの舞台に立つ親指くらいの玉田の姿に手を伸ばし、ぐいとつかむ。


「由芽ちゃんがジュリエットをやればよかったのに」

 椎名さんが目を細める。時々、歳に合わない妖艶さを椎名さんから感じるのはなんでだろう。

「それは断ったって」

「でもさ、美人だもん、みんなそう言ってる」

「わたしが容姿でいじられるの嫌いだって、知ってて言ってるでしょ。それに私は笑えないから」

 かわいいだとか。美人だとか。きれいだとか。

 他人から自分の顔がどう見えているかは、これまでさんざん言われてきたのでよく知っている。

 過去何度もそう言われて、出し物の顔に据えられた事もあったけど、やりたくもなければ身の丈に合わないことをするのは苦痛だったし、実際うまく行かなかった。

 そのたびにみんなが少しずつ私に期待しなくなっているのが分かって、少しずつ自分の容姿が嫌いになっていった。

 決定的なことが起きたのは五月の連休明け、私が学校案内に載せる撮影モデルに選ばれたときのことだ。

 嫌がる私に、周囲はざわめき期待した。撮影は立っているだけでいいのだからと。

 でもわたしにとっては違う。

 大嫌いな私の『顔』が、学校の『顔』になる。そう考えると自分の存在が異質で巨大な存在に飲まれてしまうようで怖かった。

 恐ろしさにおびえて、ずっと撮影の日が来なければいいと願った。

 撮影前日の夜、鏡の中の自分を見て震えた。

 笑えない。

 どんなに作ろうとしても、顔に自然な力が入らない。息が切れて苦しくなるばかりだった。

 その撮影は結局代わりの人がモデルを務めることになった。それ以来何かと理由をつけてカメラを避けるようになった。

 椎名さんと知り合いになったのはその事件のすぐあと、五月の連休明けだった。わたしが部室棟の階段の影で泣いていたとき、彼女はサンショウオと一緒に現れた。

 もちろんカップケーキも一緒だ。

「これは玉田のためにある舞台で、そんなことはみんなも織り込み済み。高校生活のささやかな思い出づくりができればそれでいい。だから表立って誰も文句は言わない」

 実際、撮影モデルに選ばれたことも影響してか、私を主役に推す声もあったけど、今回も私は断った。

「まあ変に目立って、玉田岬から目をつけられたくないもんね」

「もうつけられてるよ。あしたも行方不明になろうかな」

「あらま大変」

 茶化すように椎名さんが笑うのも無理はない。最近の玉田は私のことを敵視している。たとえ第二候補であっても自分を差し置いて主役に推薦されたことと、目立つ容姿とが気に食わなかったのかも知れない。

 役が確定するまでは、無視されるとか、授業の連絡が回ってこないといったちょっとした嫌がらせが続いて、本当に疲れた。

「なんで笑えない人間が主役になれるなんて、みんな考えるんだろう。無理して笑おうとして笑えなくて。最後は疲れるだけなのに」

「そっか。由芽ちゃんにも電極があればいいのにね」

 独り言とも愚痴とも取れない言葉に椎名さんは予想外の言葉に驚く。そんな酷い顔をしないでよー、と笑って彼女は続ける。疑う気持ちが表情に出ていたのかもしれない。

「むかしむかし、デュシェンヌさんという偉いお医者さんが、人間の感情と表情の関係を研究するため人の顔に電極を当てた」

 頬づえをついた椎名さんがコントローラーのレバーを指先で倒すとずっと仰向けになっていたサンショウウオが電極からの刺激を受けて痙攣を始めた。

「それで分かったのは人間は感情に関係なく笑える、ということ。外から受けた刺激に身体が反応し、結果として情動が発生する。そういう考えが生まれるきっかけになったんだよ」

 電極から強い刺激を受けたサンショウウオのカラダが大きくくねり始める。椎名さんのレバーの動きに合わせてローリングする。

「そんな簡単なものじゃないと思う。私の場合は……」

「笑うための電極があれば必要なときに笑えるし、そうすれば由芽ちゃんも楽しくなるよ」

 それはつまり、口角を指で引っ張って笑いを作るのとかわらないんじゃないか。そんなことで笑えるようになるとは思えない。


「麻木さん、やっぱりここにいた」

 ふと振り返ると物部さんがドアの前に立っていた。いつまでたっても作業に戻らない私を呼び戻しに来たのだろう。

 ジャージ姿の物部さんは髪をゴムでひっつめてポニーテールにしていた。

 作業中に抜け出してきたのか手に金槌を持っている。いつもの鋭い眼光はどういうわけか椎名さんに向けられていて、少し物騒な雰囲気をまとっている。

 椎名さんは完全に物部さんを無視したまま、サンショウウオの操縦を続けていた。

「ごめんなさい、すぐ戻るから」

 罪悪感と居心地の悪さでそう返事するのが精一杯だった。

 窓の外を見ると日が傾いて、野外ステージに暗く長い影を落としていた。

物部さんは私の視線に気づくと、ふっと息をついて隣に腰掛けた。目元から力が抜けて、ほほえんでいるようにも見える。

 そっか。この子は笑えるんだ。

「気にしないで。麻木さんがどこにいるのか、少し気になっただけ。ステージは完成間近で人手は余ってるし、勝手に抜ける子が出るのは仕方ないもの」

「だけど……」

「主役を断った事、気にする必要ないよ。今はあまり雰囲気良くないかもしれないけれど、楽しいことはまだまだ他にもたくさんあるし、楽しければ笑えるし」

 ただ真面目なだけじゃなくて周りもよく見ている。みんなが物部さんを頼るわけだ。

 物部さんがロミオ役に変わってから、クラス全体の雰囲気が良くなったような気がする。それに情緒不安定気味だった玉田もなぜか上機嫌だった。

「そうかな」

「そうだよ。……そういえば、連絡先は交換したけど、まだ麻木さんと一緒に遊んだことないよね。明日終わったら空いてる?」

「特になにもない、けど」

「決まりね。じゃあ、わたし戻るから」

 あっという間に遊びに行く話が決まった。えっとデート?

「麻木さんは、どうする?」

 よく考えたら、私は生物部とは関係ない部外者だ。他の部員からしたら邪魔なだけだし、いつまでもここに入り浸っているわけにも行かない。

 椎名さんがどんな反応をするか少し気になって横目で姿を捉える。

 椎名さんは何も言わなかった。私も物部さんも最初からいなかったみたいに遊んでいる。

 生物室を一緒に出て物部さんの後ろについていく。後ろ姿は小柄だけど、背筋はまっすぐで実際よりも大きく見えた。

 階段を踊り場まで降りたところで、物部さんが振り返って隣にやってくる。

「麻木さんは生物部に入りたいの?」

「いや、別に実験とか好きなわけじゃないし……」

「じゃあ、椎名さん?」

「まあ、一緒にいると妙に落ち着くというか……、なんで?」

「最近、麻木さんの様子がおかしいから。ずっと表情も硬いし」

「椎名さんには近づかないほうがいい」

 こんなふうに誰かのことをはっきり言う物部さんは初めてだった。

「なんで椎名さんを悪く言うの、少し変わってるけど悪い子じゃないし」

 物部さんが肩を強く掴んでくる。生物室に入ってきたときと同じ意志のこもった目で私を見つめる。

「離して、痛いよ。なにか証拠とかあんの?」

「詳しいことは言えない。椎名さんがあのカップケーキを口にするところ、見たことある?」

「ほっといて。私がどう感じるかなんて関係ないでしょ」

「自分の感情をもっと大事にしなさい」

「いきなりなに?」

「誰にも不幸になってほしくないの。私は未熟だけど問題があるなら話して」

「問題って。それ、わたしの方に問題があるってことかな」

「麻木さん誤解してる、そうじゃなくて……」

「ごめん無理」

 わたしは逃げ出した。

 待って、と物部さんの声が追いかけてくる。私は聞こえないフリをして階段を駆け下りる。

 もうすぐで一階にたどり着こうという踊り場の一歩手前、足を踏み外して転びそうになる。

 こらえて踏みとどまった足首が悲鳴をあげ、私は掃除道具の置き場になっていた階段下の影に転がり込む。

 声を殺して涙する。今は誰にも見つかりたくない。恥ずかしくて死にたくなった。

 文化祭も、学校も、自分も、何もかも嫌になって、また逃げ出したくなる。

 出なくてもいい。

 誰かにそう言ってほしかった。


「どうしたの、由芽ちゃん」

 見上げると、椎名さんの姿があった。どれくらい時間がたったのかわからない。気づけば西日が作る影が椎名さんのカラダから伸びて、長い尾を引いていた。

「遅いし、ウチに来なよ。カップケーキもあるよ」

 あのときと一緒だ。

 わたしは椎名さんについていこうと決めた。

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