人類の老境

高黄森哉

人類の老境


「もう十か月よ」


 彼女が唐突にそんなことを言った。十か月というのは、当然、妊娠のことである。僕は、僕達の下に幸せが訪れてから、もうそんなに経つんだなぁ、と思た。


「ならば、そろそろだね」

「そうね。でも、もうちょっと中にいてくれてもいいのに。最近、世の中物騒だから、外に出したくないわ」


 世界は緊張の渦に巻き込まれ、歪んでいる。ロシアがウクライナに攻撃しているからだ。侵攻の理由は謎だが、一説によるとロシア正教の影があるという。なんでもロシアは、ウクライナに教会があるのは、違法だと考えているらしい。詳しいことは判らない。都市伝説だと思って欲しい。


「お医者さんが言ってたわ。成長と共に時間は加速していく。なぜなら、時間は今まで生きて来た人生の何割程度かで評価されるから。最初の一年はそのままの一年、だけど、二年目は二年間生きて来た中の一年、最初の一年の二分の一の感覚のはずよ」

「ほう」

「なら、この子はものすごいゆっくりとした瞬間を生きているんじゃないかしら。私たちが待たされた以上にこの子は待たされている。だから、早く生んであげるべきね」


 想像以上に長い十か月なのかもしれない。その記憶をすっかり失くしてしまう人間は、不思議だ。それとも、忘れた方がいい記憶なのだろうか。


「子供というのは不思議なものね。進化を辿って人間になるのだから」

「そうだね。最初は一つの細胞だった。人類の大元の単細胞生物だ」


 一つの細胞が分裂して、二つの細胞になる。その細胞にくびれが出来て、二つに分裂し、四つの細胞になる。指数的増加だ。


「そして、水生生物になるのよ」

「えらと、水かきがあるんだっけな」


 水かきの名残は、指と指の隙間に見られる。


「そして尻尾が消えて。人になる」


 尾てい骨は尻尾の痕跡。僕はこれが人より長くて、座るとき苦労している。


「生まれてからも、進化は続くようだよ。四足歩行から二足歩行へ進化するんだ」

「そう。だけど、歩いただけではまだ猿と変わらない。それから、じっくりと脳みそを成熟させるの」

「そうだね」


 僕はうんうんと頷く。


「そして、二十歳になって初めて人になるの。これが現代人よ」

「ほう。それでは、それ以降は」

「それは、順当にいけば、私達の未来の姿ね。まず、中年は、」

「ちょっと待ってくれ。それは根拠はあるのかい」

「ないわ。ただ二十歳で進化が止まるなんて、青春信仰的すぎるわ。きっと、その後も人類史的進化をするはずよ」

「でも、それなら、老人なんかは化け物になっていないとおかしいのではないかい。人類が老境を迎えるのは、ずっと未来の話なんだから」

「おかしくないわ」

「そうかい」


 納得した。


「そうよ。まず中年は、贅沢をし過ぎた人類の姿だわ。欲におぼれ、仕事に疲れ、人々は便利な生活のなかで肥えていくの。また、頭髪は今よりずっとすくなくなるわ」

「どうしてだい」

「わからない。身体に刻まれる人類史としてはそうなっている」


 彼女の予測によればそうなるのだろう。なんだか、暗い未来予想図だ。しかし、贅沢をし過ぎてビール腹になることは十分にあり得るとは思う。今でも、昔より人々は運動をしなくなった。


「そして老境を迎えるの。人々はミイラのように痩せこけ、ガンが多発するわ。生殖能力もなくなるはずよ」

「どうしてだい」

「わからない。巨大な飢饉じゃないかしら」

「待ってくれよ。ガンを引き起こす環境に聞き覚えがあるぞ。もしかして、それは放射性物質ではないか」


 考え込んでしまった。未来に核戦争が起こるのだろうか。そして、ミイラのように痩せこけるのだろうか。生殖能力の減退は今も観測されている事象であるが、終着はそうなるのだろうか。時間は加速する。八十歳の一年は、一歳児の一年の八十分の一の速度で過行く。三百六十日を八十で割ると四・五日。八十歳では、一年がたった四日半で過ぎていく。

 未来はさほど先ではない。どんどん年老いて、そしてその先は? 僕はアッと声を上げた。その先はないのである。



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人類の老境 高黄森哉 @kamikawa2001

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