溶けて、絡まる
※後半に少しの暴力表現があります。ご注意ください。
粉っぽいなあ。
やれ桜が満開だの、巣立ちの時だの、新しい出会いだの。そんなイベント事にてんやわんやしている人たちを尻目に、私は家路を急いだ。顔に張り付いた化粧がひりひりと肌を刺激する。それがただただ不快で、私は眉を顰めた。
「ちょっと、そこの人」
遠くで誰かが声を上げた。微かに耳に入るほどの音量だったにもかかわらず、何故だかとても耳に残る声だった。それでも私の足は止まらない。さっさと帰って仮面のようになったあれやこれを全て流してしまいたい。
「ねえ、君」
また同じ声。やはり少しだけ遠い。私はその声を無視して歩道橋に足を掛けた。しかし、くん、とジャケットの裾が引っ張られて、足はそのまま歩道橋の一歩手前に落ちる。
「……なんですか」
不機嫌さなど微塵も隠す気のない声に、引っ張った主はふ、と小さく笑った。その笑みにどこか懐かしさを感じた気がしたけれど、月と街灯に照らされたその人物の名前は出て来ない。
「変わらないね」
不意に言われた言葉に私は首を傾げた。やはりどこかで会った事があったのか。頭の奥で何かがチラつく。
「すみません……以前、どこかで……」
「ああ、そっか。ごめんね、自己紹介しなくちゃ」
そう言って丁寧にお辞儀をしたその人は微笑んだ。それこそ”花が綻ぶ”という表現がぴったりな、柔らかい笑みだった。胸が一瞬高鳴ると同時に、頭の奥に鋭い痛みが走る。
「小金井薫」
「え?」
「名前。小金井薫だよ」
「はぁ……」
名前を聞いても全く覚えがなくて、私は曖昧な返事をした。相変わらず微笑んだままのその人が、女性なのか、それとも男性なのか。見た目からも名前からも、とんと見当がつかない。
「面白いね、多重人格って言うんだっけ、それ」
その言葉は何故だか聞いた事があった。真っ白い部屋に真っ白いベッド。窓から見えるのはただただ青い空――
「ああ、ところで君、今」
「な、なんなんですか!?」
急に頬を撫でられて、私は咄嗟にその手を振り払った。何故だか嫌な予感がした。それが何なのかわからないけれど、捕まったら最後、逃げられないような、そんな感覚。小金井は振り払われた手をもう片方の手で撫でながら、それでもなんだか満足そうに微笑んでいた。
「そうか、君、じゃ駄目なんだね」
「な、にを言って……」
頭の中で誰かが、ガンガンと警鐘を鳴らしている。痛みに震えながらも私は少し後ずさった。瞬間、バランスを崩して座り込む。どうやら歩道橋の段を踏み外したようで、思い切り尻もちをついてしまった。
「そそっかしいのは、どの君でも同じ、か」
揶揄う様な言葉に不気味さが増す。一体、私の何を知っているというのだろう。頭の痛みが酷くなってきた。顔に張り付いた化粧が花粉と混じって、気持ちが悪い。早く家に帰って全て流してしまわないと。
「す、みません……私、帰らないといけない、ので……」
「どこに?」
「どこにって、自分の家に決まって……え?あれ……」
帰る場所なんて、自宅以外に無い。無い、はずなのに、私は小金井に問われて初めて、自宅の場所がわからない事に気が付いた。小金井に引き留められるまではまっすぐ家に向かっていたのだ。そんな事あってたまるか、と何度も思い出そうとしたが、自宅の外観以外、何もわからない。
「君の家はどんな家?」
「あの、白い壁に青い屋根の、一軒家……いや、住んでるのはマンションだったはず……あれ?」
記憶の中の家がぶれる。この割れそうな頭痛の所為だ、それから目の前にいる訳の分からない人物の所為。いやに耳に残る声で私の脳内をかき乱してくるから、それできっと思考が鈍っているのだろう。
「君の家は一軒家だっただろう?」
「あ、そう……一軒家。一軒家だった……かな……」
「そうそう、良い子。連れて行ってあげるよ。ほら、一緒に帰ろう」
そう言って小金井が掴んだ手を、今度は振りほどけなかった。引かれるがままついて行くと、桜の木が密集して咲く公園を通り過ぎると、小さな一軒家が姿を現した。白い壁の、青い屋根。ああ、ここを私は知っている気がする。
「お帰り。ずっと待っていたんだよ」
小金井はそう言って私を家の中へ引き入れた。甘い、甘い、バニラの香り。その香りをかいだ瞬間、僕は強制的に起こされた。十五年前、僕を苦しめた出口の見えない恐怖に。
「あ、ここ、は……」
「ああ、思い出してくれたんだね。嬉しいなあ」
月明かりで照らされた小金井は、当時と変わらない笑みを僕に向けて来た。警鐘を鳴らしていたのは僕自身。半袖、短パンで外を走り回っていた少年時代の僕だった。小金井薫、その名を僕は知っている。だってその名前はあの時、僕をここに閉じ込めた――
「あの後名前も変えて、女の子の恰好なんてしているからさ、見つけるのに時間がかかっちゃったよ」
「ひっ……来ないで……」
「しかも、多重人格とはね。確かに君は可愛いから、女の子でも通るけど」
そこまで言って小金井は僕の頬を撫でた。ぞわりと走った悪寒に震えが止まらない。小金井はそんな僕を楽し気に眺めて、そしてこう言った。
「僕には愛しい男の子にしか、見えないよ」
かちゃん、と手元で音がする。冷たく固い感触にそれが何か、だなんて視線を向けなくてもわかった。視界が小金井の顔で占領され、彼の瞳に怯えた表情の僕が映る。そう、“彼”。小金井薫は男だ。そんな事に今更気が付いたって、僕にとっては絶望でしかない。
「今度こそずっと、一緒に居ようね」
小金井は恍惚とした表情で僕の首に両手を回した。狭まる気管、入って来ない酸素、滲む視界。
「愛しているよ」
その言葉を最後に、僕の意識は真っ暗な闇にトプン、と沈んだ。
短編集 幻野まひる @gennomahiru
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