拝啓、何も云えなかった君へ

※死について触れている内容になるため苦手な方は回れ右でお願いします。





さようなら


 それはなんてことない別れの言葉。子供の時は教師や身近な大人へ、大人になってからは目上の人へ。普通の人間であれば、当たり前に日常に溶けている、そんな言葉。でも俺は、この五文字をいまだに受け入れることができていない。

 夕日が少しずつ街の向こうへ沈む様子を、俺はただ眺めていた。知らない街、でもよく知った、少しだけ不思議な街。支離滅裂な記憶を頼りに、俺は目的地を目指している。

「すみません」

 振り返った先には老人がいた。道を尋ねたいのだろうか。手元にはこの街の地図らしき紙を持っている。面倒な事になった。俺の頭に浮かんだ率直な感想はそれだけだった。誰か代わりにいないのか、俺の代わりになってくれるような人は。そうあたりを見回しても、いつの間にか河川敷に出ていた所為で誰もいない。そこまでしてようやく、俺は老人へ返事をしたのだ。

「どうしましたか」

「いやあ、ね。勘違いであれば申し訳ないんだが、何か、お探しではないかい?」

 俺は咄嗟に持っていたスマホをポケットにしまった。男性はそれを見て確信を持ったようで、にっこりと笑いかけて来た。

「ああ、すみません。別に警戒させたかったわけではないんですよ。ただ、近所の子が最後に話してくれた人物と特徴が似ていたもので……」

ああ、彼女だ。図らずも彼女の痕跡を見つけて、俺は胸が高鳴った。それと同時にあれが夢ではなかったのだ、と鈍器で頭を殴られたような気持ちにもなる。

「……そうですか。失礼ですが彼女、とは?」

男性はタナカ、というらしい。タナカは杖を時折地面の上で躍らせながら、〝彼女〟について話してくれた。

「高校生くらい、の女の子でね。名前は最後まで教えてくれなかったよ。『名前はただの記号だから』だなんて随分と大人びた事を言っていてね。私は便宜上お嬢さん、娘さん、と呼んでいたがね」

彼女らしい、なんとなくそう感じた。人との関わり合いは最低限で良いと話していた事を覚えている。その日は酷く雨の強い日だったようで彼女のポツリ、ポツリと発する言葉は雨が地面を叩く音に度々かき消されてしまい、俺は話の半分も聞こえていなかった。彼女もそれを承知のうえで自嘲的に笑った後、最後にこういったのだ。誰とも深くつながりたくないの、と。

「彼女……は、どんな事を話していましたか」

「う-ん……それが、色々な話をした気がするんだがこれといって残っていないんだよ。ただ、酷く落ち着いた子で浮世離れしていた、そんな印象だね。そんな彼女が最後に会った時、地面を見つめながら話し出したんだよ」

そこまで言ってタナカは一呼吸置いた。夕日は三分の一を残して街の向こう側に沈んでしまっていて、河川敷を通る風は冷たい。落ちまいと枝にしがみつく葉を風が揺らし、俺とタナカの周りを通り過ぎていく。コツ、とタナカの杖が地面を叩いて、彼は話を続けた。

「お嬢さんは独り言のように、『私がいなくなったらきっと、黒髪に金縁の眼鏡をかけた男の人がここに来てくれるよ。耳に真っ赤なリングのピアスをして』とだけ言ったんだ。そしてそのまま去っていった」

ああ、彼女だ。俺の視界が急に歪んだ。すぐに頬を伝った感触に、それが涙だと気づく。なんだ、流れるじゃあないか、と頭のどこかで冷静な自分が言ってきた気がした。

「ああ、やっぱり貴方か。お嬢さんが話していた人は」

「……っ」

返事をしたつもりが、言葉には音が乗っていなかった。それでも俺はタナカに伝わるよう、何度も何度も頷いた。

「あ、あの……彼女の事、も「おとうさーん?」」

やっとのことで俺が声を出した時、遠くからタナカさんを呼ぶ声がして、俺と同年代くらいの女の子が近づいてきた。肩ではあはあと息をしているその女の子を見てふと、彼女はこんな風に息を切らしたことがあったのだろうか、などと思ってしまった。

「ああ、うちの父がすみません。すぐに知らない人に話しかけちゃうんです」

「え、あ……いえ……」

「ほんとにすみませんでした!ほら、おじいちゃん帰るよ~」

俺へ軽く頭を下げた女の子は、タナカさんを半ば強引に押しながら来た道を引き返して行った。俺は少しの間その二人を見送っていたが、ポケットからスマホを取り出してカシャリ、と一枚風景を切り取った。

「次は……」

彼女とのメッセージが連なるそこに写真を貼り付けて、俺は次を目指した。夕日はすっかり街の向こう側に行ってしまい、少し空の端を紫に染めているだけだ。

トークルームには既読にならないままの写真やらメッセージが羅列している。そのどれもがこの街で撮った物や感じた事で、彼女の日常に足を踏み入れられたのかもしれない、なんて意味もなく考えてみた。

 街灯が照らすアスファルトを歩くこと二十分。スマホは目的地に着いたことを音声で教えてくれた。顔を上げればすっかり古ぼけた建物が一つ。看板には〝――図書館〟と書かれている。図書館だけ辛うじて読めたが、その手前は掠れてしまって読めない。それでも俺は其の図書館の名前を知っていた。

「……ひだまり図書館」

彼女がよく本を借りていた所。彼女の名前はわからない癖に、この図書館の名前ははっきりとわかる。ここの本の匂いが好きだ、静かな空間が好きだ、とそう話していたのを俺はまだ、覚えている。

 入口を開けようと近づいて、チェーンがかけられている事に気が付いた。そもそも無人となった建物に侵入する事すら犯罪である。俺は急にあの頃から現実に引き戻された感覚に泣きたくなった。早いとここの場を去らなくては、気持ちがあふれ出して、大声で叫んでしまいそうだ。そう思った俺は慌てて踵を返し、スマホを片手に歩き出す。向かう先は決まっていた。

 目的地に到着しました、と無機質な声で言われた場所は、小さな食堂だった。年老いた老夫婦が二人で経営している、こじんまりとした古き良き食堂。俺は暖簾をくぐって、迷わずに一番手前の席に座ろうとした。

「すみません、そこは指定席なんですよ」

椅子に手を掛けたところで、後ろから声を掛けられる。振り向けば老夫婦の奥さんがコップを片手に微笑んでいた。

「すみません、予約席なんですね」

「いいえ、違うの。予約席じゃあなくて指定席。ある女の子をね、ずっと待っているのよ」

俺はその隣のテーブルに腰を下ろしながら奥さんに話を促した。奥さんは初め驚いていたが、少しだけ嬉しそうな顔をして話し出した。

「ある女の子がね、よく食べに来たのよ。五の倍数の日だけね。いつも同じ席、同じメニューでにこりともせず淡々と。いつも一人で食べにくるからご家族は?って聞いたんだけど、女の子は曖昧に笑うだけで、とうとう家族構成も何もわからなかったわ」

そんな関係でなんでこの席が指定席になるのか、俺にはそれがわからなかった。

「最後に来た日はね、五の倍数の日じゃあなかったのよ。いつも何も話さないのに、何故かその日だけはポツリ、と一言話したの」

そこまで言って奥さんはふふ、と笑った。そして首にかけたネックレスを引っ張り出した。

「それは……」

「これね、その子が置いていったのよ。きっといつか誰かが取りに来るから、それまではこの席に誰も座らせないで欲しいって言ってね。その人はきっと迷わずにここに座ろうとする筈だから、って。二十年誰も来なければ質に入れても構わないって言ってたわ。そして今日がその二十年の日。ねえ、これも何かの偶然かしら、ね」

奥さんの視線が俺の右耳に注がれる。俺は少し気恥ずかしく感じながら答えた。

「それをあげたのは僕、です。彼女へのプレゼントでした」

「あらあら、まあ……じゃあこれは貴方へ、という事なのね」

奥さんはそう言ってネックレスを渡してきた。俺はそれを手に取り、プレゼントを贈ったあの日を思い出す。街中で見つけたそのネックレスはとても華奢で繊細で、彼女にぴったりな気がして衝動的に購入してしまったものだった。帰宅してから彼女には会った事も無ければ、住所も知らないという事に気が付き、絶望したのを今でも覚えている。結局購入したのに隠しておくこともできず、彼女に打ち明けると、彼女は大笑いしながら自分の街にあるという郵便局を指定してきたので、そこに送ったものだった。

「あり、がとうございます……」

漏れた吐息の所為で変に句点が入ったお礼を、奥さんは微笑んで受け入れてくれた。少しして出してくれた蕎麦は優しく出汁がきいていて、少しだけ、しょっぱかった。

 奥さんにお礼を言って店を後にした僕は最後の目的地に向かった。彼女からの最後の写真、この街で一番古い橋の上。近くに新しく大きな橋が出来たせいか、車どおりは少ない。すっかり暗くなった中でオレンジ色の優しい街燈が僕の周りをぼんやりと明るくしている。

「ごめんね、すっかり遅くなってしまったよ」

橋の縁に手を掛ければ、すっかり冷えた欄干が僕の体温を奪っていく。あの日送られてきた写真からは温度までは伝わってこなかった。当たり前の事を少しセンチメンタルに思ったところで、僕は顔を上げた。

「二十年、君の痕跡を探し続けたよ。急に連絡を取れなくなって、何度もあの郵便局に行った。でもわかっているのは写真でもらった首から下だけで、顔も判らない上に名前だってわからない。それでも僕は探し続けた。君が死んだ事を知ったのは、二年前。なんでそんなことになったのかを調べるのに一年。まあ、それは結局誰も知らなかったけど……死ぬ前の足取りを知ったのは半年前。君は本当に秘密にするのが好きだね。それとも、話そうと思える相手がいなかったのかい?そのおかげで僕はとても遠回りをしてしまった。でもギリギリだったけど、ようやくここに来れた。君が死んだ日と同じ時間に」

 僕は腕に力を入れて体を持ち上げた。欄干に腰かけて空を見る。最後に来ていたメッセージを眺める。〝さようなら〟装飾も何もないその言葉で僕を縛り付けた君は、再会した時、なんて言うのだろうか。

「ふふ、怒られてしまうかもしれないな。でもそれでも――」

そっと後ろに寄りかかる体勢で、そのまま身を投げた。遠くなるはずの星空が近づいてくる気がして、そして暗転。視界が赤で埋め尽くされたところで、僕の意識は途切れた。




 ――昨夜、○○橋より人が飛び降りたとの通報があり、警察が捜索したところ遺体を発見しました。死亡したのは四十八歳の都内在住の男性で、飛び降りる寸前に「今、君に会いに行くよ。赤いピアスを目印に」と言っていたのを聞いた住民がいる事から、警察は自殺の可能性が高く、事件性はないとみています。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る