短編集

幻野まひる

外は、夏

「危ないから、貴方はここで待っててね」

 この家を出て行く人から、必ず言われる言葉。頭を撫でてくる手はどれも優しくて、少しだけゴツゴツしている。この家には沢山の人が来る。しかし、すぐにいなくなってしまうの。

「駄目だよ、ここから出てはいけない」

玄関から堂々と後を追おうと踏み出した私を抱き上げて、誰かが言った。レディを持ち上げるなんてとても失礼だけれど、私は優しいから許してあげるの。でも降ろしてもらうために、嫌味を言うくらいはするわ、勿論。

「そんなに怒らないで。ほら降ろしてあげるよ」

そう言って困ったように笑いながら私を降ろした誰かさんも、やっぱり次の日にはこの家から出て行ってしまった。もしかして私に怒って出て行ったのかしら、なんてその度に少しだけ思っていたのだけれど、その答えを聞くことはできないのだから、と気が付いてからは考えるのを止めた。

「初めまして、お世話になります」

 木造の建物に野太い声が響く。また今日も新しい住人が入ってきた。最近入ってくる住人は皆、若くて坊主で、そして揃ってガリガリ。格好良さなんてまるで無いし、皆どこか暗い。そして決まって夜中に泣くのだ。母さん、父さん、ばあちゃん、じいちゃん、それに誰か知らない人の名前。優しい私は仕方なく部屋に入ってその人達に寄り添ってあげるの。皆初めは驚いて、でもその後は私を撫でながら眠りにつくわ。私はいつも彼らが寝たのを確認してから、部屋をそうっと出て行くの。

 そんなある日、いつもとは違う男の子が入ってきた。見た目は皆と同じ。でも男の子は笑顔だったの。

「初めまして!金田国丸です!短い間ですが、よろしくお願いいたします!」

大きな声が舎内に木霊したわ。死んだ魚の目みたいな連中と違って、国丸の目は琥珀色に輝いていた。いつもなら翌日には出て行ってしまうのに、国丸は二日経っても出て行く様子はなかった。それに夜中に泣くこともしない。よほどここが気に入ったのかしら、なんて思いながら私は朝、別の人達について外に出ようとしたの。そこで私を抱き上げたのは、にっこり笑顔の国丸だった。正直、その人懐こさもちょこちょこ動き回るのも、なんだか犬みたいで好きになれない。

「君はここの住民、かな?」

わかりきった事を聞いてきた国丸には、パンチをお見舞いしてあげる。痛がって顔を抑えた国丸から降りて、私は食堂へ向かった。数十歩後ろで国丸が私を追いかける音が聞こえる。でも私は怒っているのだから、止まってなんてあげないの。

「こんな豪華な食事、毎日用意するの大変でしょう?」

「そんな事気にしないでいいのよ。だって貴方、〝逝く〟んだろ?」

「あ…………はい」

いつもここに来ると皆、この会話をしている気がするけれど、挨拶なのかしら。正直良くわからないわ。そしてその度に少しだけ寂しそうに笑うのも皆、一緒。

「いただきます」

 サツマイモの甘露煮、煮干しでお出汁をとったお味噌汁、それから真っ白なご飯が茶碗に山盛り。あとは沢庵と梅干、裏山で捕まえてきた鹿の肉。ここの食堂は毎夜同じものを作って、その日引っ越してきた人達に振る舞っている。国丸はもう三回目の夕食。まったく同じメニューだと言うのに、彼は本当に嬉しそうに食べている。

「あら、また来たの?あんたも食べる?」

 食堂のおばちゃんは優しくて好きだ。お皿に乗った煮干し、それからご飯。ここに来れば、いつでも私に出してくれる。国丸は食事に夢中になりながらも、時折私に視線を向けてくる。これも皆おんなじ。私が可愛すぎるのがいけないのよね、今日もまた虜にしてしまったわ。

「なんだ、お前も欲しいのか?」

そう言って国丸はサツマイモの甘露煮を私に一つ、分けてくれた。別に羨ましかったわけじゃあないけど、仕方ないからもらってあげる。だってレディはそういうものだって昔、誰かが言っていたもの。それにしてもこのサツマイモ、甘さが足りないわ。ぼそぼそしているし。美味しい美味しいって言っている国丸は、貧乏舌なのね。

「ご馳走様でした」

 国丸は両手を合わせてから席を立った。空っぽになった食器が、国丸が歩くたびに少しだけカチャリ、と音を立ててお話しているみたい。国丸はその後、まっすぐに風呂場に向かった。

「お前も入る?」

国丸の言葉に私は拒否の態度を示す。破廉恥ね、と見上げてみたけれど国丸はそれに気が付かないまま、浴場へ入っていった。ここに来る人達は揃って私を誘うけれど、生憎私はレディなの。レディは自分を安売りなんてしないものよ。

 風呂から出た国丸は部屋に置かれていた手紙を開いた。せっかく温まって赤くなっていた国丸の肌は真っ青になっている。夜だからかしら、と私は思った。だってどの人も、夜には真っ青になって震えていたから。

「なあ、一緒に寝てくれないか?」

そう言いながら私を抱き上げた国丸の頬を、仕方ないなって返事の代わりに撫でてあげて、ベッドに潜り込んだ。レディとしてはしたない、って言われそうで毎回びくびくしてしまうけれど、これが私の仕事だから仕方ないの。国丸の体はすっかり冷え切っていて、でも抱き着かれるとそこからじんわりと温かさが伝わってきた。

「お前は柔らかくて暖かいね」

国丸の言葉に、少しむっとしたけれど私は許してあげるわ。だって何かに怖がって震えている人に怒るほど、私は子供じゃあないもの。少しして国丸の寝息が聞こえてきた。いつ泣いていたのか、顔には涙の筋が二つ、残っている。

「おとう、おかあ……ナツナ……」

私を抱いて寝ておいて、別の女の名前を呼ぶ国丸。なんだかとても苛々としてベッドから抜け出したけれど、少ししてぽっかり空いたそこに戻ってあげた。だって国丸、顔を顰めて酷く寒そうにしているんですもの。その日私は初めて、国丸と寝た。満月の綺麗な夏の夜だった。



「お前ともこれでお別れだな」

 いつもと全く違う服装をして国丸は私にそう言った。寂しくなるわね、って珍しく素直に言った私の言葉は国丸には伝わっていないようだ。それでも寂しそうに笑って私の頭を撫でてくる彼。部屋はすっかり綺麗に整頓されている。結局国丸も私を置いていくのね。玄関に向かっていく国丸に向かって声を掛けたけれど、もう国丸は私の頭を撫でてはくれなかった。

「危ないから、君はここで待っているんだよ」

 居なくなる皆と全く同じ言葉。これが別れの言葉だと、私は知っている。嫌よ、行かないで。私の甘えた声は玄関に響いた。それでも国丸は玄関から一歩外へ、足を踏み出した。

「君のお陰で昨日はよく眠れたよ。ありがとう……シロ」

国丸の言葉に私は一言、ニャア、と返した。雲一つない真っ青な空が玄関の向こう側に広がっていた。

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