飛行機、ダッフルコート、コーヒー(三題噺)


 後は搭乗ゲートを潜るだけとなって、僕は搭乗ロビーの椅子に腰を下ろしていた。

 飛行機の発着場を一望できるガラスのデッキを目前にして、ぼんやりとこれから乗ることになるであろう飛行機のシルエットを眺める。

 スリランカ行きの国際便だった。サイズはそれほど大きくはない。一日にそう何百人もの人がスリランカに用があるわけではないのだ。

 僕がわざわざ、スリランカの国際空港へと降り立とうとしているのには理由があった。これまでにその理由を話した友人たちは軒並み首を傾げていたし、恐らく今後誰かに話したところで理解されることはないだろうが、僕がスリランカに行こうとしている理由はコーヒーだった。

 尊い血統のコーヒー、と呼ばれるそのコーヒーは、一部のマニアの間では有名だった。

 数が希少であることに加え、輸送インフラの未発達と政情不安などが重なった結果、めったに市場へと出回らなくなったそのコーヒーを求めて、数々のマニアが当地を訪れたということであった。しかし、アクセスの悪さや情報の曖昧さも相まって、未だにまともなレビューが出回ることさえなく、噂によれば、某出版社のサラリーマン向け雑誌におけるコーヒーの連載記事において、あるジャーナリストが漸くそのコーヒーを口にすることができたという話であった。僕もその記事を求めて都内図書館の閲覧ブースを足繁く回り、ようやく当該記事を目にすることができたのだけど、結果として確認できたその内容は曖昧模糊としていた。スリランカ最大の都市であるコロンボからバスで四時間、更には個人タクシーで二時間ほどかけて導かれる秘境の村に、そのコーヒーが存在している、と記事にはあった。

 そして、実際にそのジャーナリストがコーヒーに口をつけるその写真が、週刊誌のモノクロの紙面には掲載されていたのだが、そもそも真っ黒なコーヒーがモノクロの写真で掲載されたところで、その豊かな香りも、芳醇な滋味も、読者に伝わるはずもなかった。それどころか、そのジャーナリストは食に関するレポートが専門ではなく、どちらかと言えば普段はファッション記事に精通したライターであるとのこともあり、その記事におけるコーヒーの滋味に関する記述は、物足りないものであると言わざるを得なかった。

 ことここに至れば、もはや自ら当地に乗り込んでコーヒーを口にするしかあるまいと決断したのも、そのような理由あってのことであった。

 別に僕はコーヒー専門雑誌のライターを務めていたりなどしないが、仕事の関係上、雑誌掲載のための紀行文をこれまで何度か仕上げたことがある。旅情を綴るプロフェッショナルであるとまでは言わないが、旅行記というジャンルについてはそれなりに習熟した書き手であることを自負しているし、その作業が自分にとって中々に楽しい作業であることも知っていた。要は、このテの紀行文を掻き上げる作業は自分に向いているのである。また、このコーヒーに関する記事を書き上げることで、これまで出版社側との休眠状態にあったコネクションを温められるのではないか、という狙いもあった。趣味と実益を兼ねた遠征旅行というわけだ。

 搭乗ゲートの締め切りまで後三十分近い時間があった。

わざわざ早い時刻に飛行機に搭乗して、エコノミークラスの座席で圧迫感の伴う時間を過ごすことはない――と僕はギリギリまでこの広い搭乗ロビーに陣取り、時間を潰すつもりであった。何しろ、ぼくはこの搭乗ロビーから離発着を繰り返す飛行機たちを見るのが好きだったのである。それは国際旅行に出かける直前の、ちょっとした神経のリラックスであり、旅立ちへのはなむけであった。僕は、これから始まる九時間三十分もの機内における拘束時間のことをできるだけ忘れるべく、眼前に展開する巨大な飛行機が加速しやがて空へと旅立っていく映像以外の全てを、頭の中から追い払った。

すると、不可抗力と言うべきか――自分を待ち受けているであろうエスニックな世界と、そして長い旅路の果てに辿り着く、この世のものならざる滋味のことが自然と脳裏に浮かび上がっていた。思わず口の中に唾液が湧いてくるような、生々しいビジョンだった。

「あなた」という、ハスキーボイスによって僕は我に返った。

 いや、正確に言えばすぐに我に返ることはできなかった。僕は想像の世界に自分の精神を没入させていたために、現実の世界に引き返すことに幾分手間取っていた。

恐らく、僕の思考の混乱を声の人物も悟ったのであろう、僕が何とかその声の人物――赤縁のサングラスを掛け、髪を肩よりも上でばっさり切り揃えた一見して性別も分からないような人物――に視線を向けたところ、その人物は口元に怪訝そうな色を浮かべていた。

「まさかとは思うけど、自分の乗る飛行機をやり過ごそうとしてるわけじゃないよね?」

 僕は自分に投げ掛けられた質問の意味を辛うじて理解することができていたが、どちらかと言えばその人物が一体何者なのかについて想像するのに手一杯になっていた。とは言え、僕は先程から僕がその人物からの質問を、あくまで結果としてだけれど完全に無視し続けているという事実に気付き、慌てて首を振っていた。

「まさか」と僕は答える。「あまり早めに座席に着きたくないだけですよ」

「ラウンジに行って飲み物でも飲めば? その方が、こんな何もないソファーに腰掛けているよりずっと気が利いていると思うけど」

 初対面にして、妙に気に障ることを言う人だった。その身なり――若草色のコートと黄色のタイトなスラックス――を見る限り、裕福な生活をしている人物であるとは想像できたものの、初対面の人物と交わすコミュニケーションにそれほど明るい人物ではないらしい。

「僕はこの場所で飛行機の発着を見ているのが好きなんです」と僕はあくまで冷静に説明していた。「なので、普段国際線に乗る時も僕は大抵こういう場所で飛行機の発着を眺めています。あなたも子供の頃、こうやって飽きもせずに飛行機が飛び立ったり着陸したりするところを眺めたものでしょう?」

「もちろん」とその人物は言った。

「昔はあなたみたいに飛行機の発着を眺めていたことはあるね、それは確かにそう――とは言え、それはあくまで子供の頃のことだから、見たところ三十歳そこらのあなたがこんなところにずっと座り込んでいるのは、年齢相応とは言えないかもしれないけど」

 僕は相変わらずにこやかな笑顔を浮かべていた。多少失礼なところがあったとしても、その人物は僕の精神状態に致命的な影響を及ぼすわけでもなかったのだ。

「どこの国に行くの?」と彼女は僕の笑顔を無視するようにして語り掛けていた。僕は、それでも同じ色をした笑顔を表情に塗りたくっていた。

「スリランカです」と僕は答えた。

「どうしてスリランカに?」とその人物は訊いた。

正直なところこの人物と話を続けることに厭きていたのだが、僕は波風を起こさずにその場をやり過ごすことに決めた。

「コーヒーを飲みにいくんです」

「わざわざ? スリランカに? 九時間以上のフライトを経て?」

「スリランカに行ったことがあるんですか?」と逆に僕は尋ねていた。スリランカへの正確なフライト時間に関する知識は、それほど一般的な知識とは言えない。果たして目の前の人物は頷いていた。

「もちろん」

僕はその人物が話を続けるのをそのまま待っていた。

 その人物は僕の頭の少し上の辺りを見ていた。何かを考えているらしく、その口元は時々ぴくぴくと歪んでみせていた。何かしらの不快なことでも思い出しているのかもしれない。

「悪いけど」と女性は語り始めていた。「あんなところに行かない方がいいよ。コーヒーを飲むんだったらもっといい場所が幾らでもあるもの」

僕は思わず女性の言葉に割り込んでいた。「ちょっと待って下さい――あなたはコーヒーに詳しいんですか?」

 その人物は暫くの間黙り込んでいた。

「イエスでもあり、ノーでもある、といったところかな。私は特にコーヒーに詳しいわけではないけれど、ことスリランカのコーヒーに関してはそれほど無知ではないから」

「その上で、スリランカにコーヒーを飲みにいく行為は推奨できる行為ではない?」

「その通り」とその人物は答えた。

いよいよ話がややこしくなってきた。

当初、僕とこの人物との間に生じていた問題は、あくまでこの人物の態度だけのことに過ぎなかった。しかし、今や問題は、僕がこの場所にいるその根本的な理由へと関係し始めていた。

今更になって僕はこの人物と会話をし始めたことを後悔していた。最初から、無視をするなり、あるいはとっととこの場所を離れて彼(彼女?)の言う通り、ラウンジで飲み物でも飲んでいればよかったのだ。

「まず第一に」と僕は言った。僕としても、引っ込みがつかなくなっていた。

「僕は昔雑誌のライターをしていたことがあるんです。その上で、今回の企画は避けては通れないものになっています。僕はこの企画――スリランカにコーヒーを飲みに行くという間の抜けた企画を通して、出版社とのコネクションを温め直したいんです」

 女性は黙っていた。どうやら、話を続けるよう促しているらしい。

「第二に」と僕は言った。「僕はコーヒーが好きだし、コーヒーの情報に関しては一般的なレベルより些か詳しい。その僕が聞くところによると、スリランカには世にも妙なる滋味を含んだコーヒーが存在しているらしい。そのため、僕の個人的な心情から言っても、その味を確かめないことには収まりがつかない」

「なるほど」と目の前の人物は言った。

 話の帰結がどうなるかなんてことには拘泥せず、この場からすぐにでも離れるべきなのかもしれなかった。それでも僕は目の前の人物と相対し続けていた。

「でも、あなたは根本的な点で間違っている」と目の前の人物は唐突に口にしていた。

 僕は一瞬呆気に取られていた。きちんと言葉を聞き取ったはずなのに、その言葉の意味をよく理解できなかったのである。

「根本的な部分で間違っている?」と僕は繰り返した。

「そう」とその人物は答えた。

「つまり、スリランカには世にも妙なる味わいの滋味なるコーヒーなんてものは無いってこと」

 僕は言葉を失っていた。

その僕を表情の無い表情で見つめながら、目の前の人物は言葉を継いだ。

「すなわち、貴方の好奇心が満たされることは永遠に無いし、そもそもそんなものが無いのだから、結局は貴方のコーヒー紀行も未達のまま終わるってこと」

 僕は愕然としていたものの、無理に脳髄から語るべき言葉を引きずり出そうとした。そうしないではいられなかったのである。

「でも、僕は――」

「『尊い血統のコーヒー』」

 その言葉を聞いて、僕は完全に動きを停めていた。

 多分だけど、思考もまた停まっていたことと思う。頭の中の空洞を、飛行機が発着する時のような虚ろな音が響いていた。

「言ったでしょ、スリランカのコーヒーには詳しいって」

 二人の間で完全に会話が止んだ。

「でも――」と僕は尚も言い募ろうとしていた。それでも、その言葉に継いで出てくるべき言葉を見つけ出すことはできなかった。幾ら何かを語ろうとしても、頭の中には空洞のようなものが詰まっていて、その空洞からは虚ろな風音のようなものしか出てくることはなかったのである。

そんな僕の様子を見ながら、目の前の人物は溜息を吐いていた。

「私もスリランカに昔行ったことがあるけど、そんなもの結局どこかの誰かのでまかせだったよ。かれこれ一週間は探し回ったかな――色んな村に行って、色んな人に話を聞いたけれど、現地の人で『尊い血統のコーヒー』なんて名前に憶えのある人物は一人もいなかった」

 僕は黙り込んでいた。喋るべき言葉を見つけることなんてできなかったし、そもそもそんなものは存在していないのかもしれなかった。

「悪いことは言わないから、今回の旅行はキャンセルしたら?」

 僕は、ラウンジの座席に座り込んだまま動くことができなくなっていた。目の前の人物もまた話すべき言葉を失ったのか、呆れた様子で肩を軽く竦めていた。

 時間がただ流れていく。遠くから人々のざわめきと、そして飛行機の離発着を告げるアナウンスが聞こえている。僕はその間、目の前の人物の膝の辺りに視線を向けていた。呆然としてしまい、何一つとしてまともな言葉を発することもできなかった。

「ただ、一つだけ助言しておこうかな」と目の前の人物は言った。

 僕は、表情まで虚ろになってしまったような気がしながら、視線をその人物へと合わせた。

「そういう時は、でっち上げてしまうこと」と目の前の人物は言った。

「でっち上げたとして、誰もそんなことが嘘だって暴くことなんかできやしないんだから。元々、『尊い血統のコーヒー』は偽物だったんだから、そもそもその真偽を確認することなんて至難の業でしょう? だったら、貴方はこのままスリランカに行って、少なくともスリランカの地理にだけでも詳しくなっておいて、その旅行記をメインに紀行を完成させればいいんじゃない? そのついでで、『尊い血統のコーヒー』の話をでっち上げればいいよ」

「でも、そんなことをしたら――」と僕が言いかけると、目の前の人物は笑いながら首を振っていた。

「大丈夫、誰にも分かりやしないから」と、特に根拠があるとは思えない言葉をその人物は口にしていた。

 その人物は口元に微笑みを浮かべている。

「悪いけど、私も飛行機を待ってるの。そろそろ行くね」

「待って下さい」と僕は慌てて言っていた。語るべき言葉を何とか取り戻すことができていた。「そもそも、何であなたはスリランカになんか行ったんですか? それに、どうして貴方は『尊い血統のコーヒー』を何日もかけて探し回って――」

 そこで、僕は再び言葉を失っていた。

 僕は、言葉を語りながらに、僕自身の思考の力によって到達するべき答えを掴み取っていたのである。

 目の前の女性はくすくすと笑っていた。

「世の中なんてそんなことばかりだよ」と彼女は言っていた。

「引っ込みがつかなくなったら、誰にも分からないような嘘を吐くことさえできれば、意外とその後のことなんかどうにでもなるよ」

 僕は、口をあんぐりと開けたまま、その言葉を口にする女性のことを眺めていた。女性は、相変わらず表情の分かりにくいサングラスを掛けていたものの、どうやら僕のことを比較的友好的な目で見ているようだった。

 彼女は踵を返し、僕の前から一歩一歩立ち去っていく――そう、『彼女』だ。

 彼女が翻す、若草色のダッフルコートを、僕は雑誌のグラビアで見かけたことがある。その雑誌は、ファッション雑誌だった。そしてそのグラビアは、雑誌で活躍する編集者とライターに焦点を当てたグラビア記事だった。

 編集者たちの座談会の体裁を取ったその特集で、彼女は確かこう言っていたはずだ。

『一生懸命に吐いた嘘は、怠惰な真実よりも余程好意的に受け止められる』と。

 そして、僕はそんな彼女が出版社の主催する雑誌上で、幻のコーヒーについての記事の主筆を務めていたことを──更には、つい最近その記事を図書館の閲覧ブースで読んだことを──ようやく思い出していた。すっかり彼女の姿が小さくなってから、僕は小さく首を捻り、自分の頭を手のひらで数度撫でた。

 フライトの時間が迫っていた。僕は、自分が自律的な意識を失ったロボットであるように思えた。目的としていたはずのものは完全に虚構だったのである。それを知って尚、僕は九時間半のフライトを経てスリランカのバンダラナイケ国際空港へと向かうべきなのか、自分でも決めかねていた。

 それでも、迷いの中でいつのまにか腰が上がっていた。

 とっくに、ラウンジの人混みの中で彼女の姿は消えていた。僕は、自分がロボットになった気がしながら、スリランカ行の国際便の搭乗ゲートへと足を運ぼうとしていた。

 仮に虚構でも良いではないか、と思う。

 目指したはずの場所に、目指すべきものがなくとも――そのことが事前に分かっているとしても――僕がその場所でできうるのは、あるいは丁寧な嘘を作り上げることだけなのかもしれない。それならそれで、良いじゃないかと僕には思えた。

 頭の中は空っぽになっていたけれど、それはそれで迷いは無かった。僕の足は真っ直ぐと動いていた。それが仮に惰性であっても、構うものか――そんなことを思いながら、僕の体は、搭乗ゲートのまばらな人混みの方面へと吸い込まれていった。

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