遊園地、サラリーマン、カブトムシ(三題噺)


 よく一人で遊園地に行く。

 遊園地と聞いて、数万人を収容するテーマパークを思い浮かべる人だっているかもしれない。しかし、私が通っているのは地方都市の商業地区の一角にある、小さな遊園地である。名を花園ランドという。

 花園ランドは前運営が経営権を手放し、施設を競売に出したところで地元の好事家によって買い取られた、重ね重ね小さな施設である。

遊園地の目玉はゴーカートとメリーゴーランドであり、ゴーカートに関して言えば、休日であれば子供の一人や二人が興じている姿が見られるほか、メリーゴーランドに関して言えば、馬群は乗り手から開放され、お互いの順位に拘ることなく健やかに周回を続けている。そのような現状は、恐らくは現経営者に容赦ない赤字の雨を降らせているはずだったが、施設の運営が滞っている気配は全く見られなかった。

 何がそこまで現経営者を駆り立てるのだろう、と私は折に触れて不思議に思う。何故そこまでして、花園ランドが運営状態にあることを維持し続けなければならないのであろうか――その辺が今一つとして分からなかった。

 そんなゴーカートとメリーゴーランドをそれぞれ見遣ることのできるベンチに、私は座り込んでいた。

 私は、基本的に遊園地へやってきたところで遊具に乗ることは無い。三十を過ぎた男がメリーゴーランドに一人で乗るわけにもいかないし、ゴーカートに興じるわけにもいかないのである。

 では一体何をするのかと言えば、メリーゴーランド前のベンチの腰掛けて、単に流れ去っていく時間を眺めるのである。

 まるで、過去と現在の境界に腰掛けているかのように、である。そんな一時は私を癒してくれた。私という媒体を通して、時間は滔々と流れ去っていく。そんな情景を見守っていると、私は自分が時間監視員になったような気がした。その進行に異常は無い、万事問題無し――と私は架空の書類にサインをする。架空のハンコを捺す。世はなべてこともなし。

 そんな風に時間の流れを見守っていると、普段の勤務によって疲れた心を、部分的にではあれ癒すことができるような気がした。

「お疲れでいらっしゃいますか」とカブトムシは訊いた。

 きっと私は疲れているのだろうと思う。

 何せ、ベンチの手摺にしがみついたカブトムシに話し掛けられるくらいなのだから。というか、脳が重大な損傷を来していると言うべきかもしれない。それも、恐らくは致命的な、不可逆な損傷を。

 とは言え、私はそのような状況に感慨を覚えたわけではなかった。自分がその奇妙な幻想を体験していることに対して、特に何かしらの感情を覚えたわけではなかった。

 私は悲しくもなかったし、また感興一つあるわけでもなかった。

 カブトムシの声を私は聞いた――そんな自己認識を持っただけである。ただ単純に、私はカブトムシの声を聞いているだけなのだと。

「聞けよ、無視すんな」と突如としてカブトムシは口調を荒げた。カブトムシにもあるいは事情があるのかもしれない。明らかに自分の声を聞いているにも関わらず、それを無視する人間に対して怒りを剥き出しにする類の事情が。

 そんな風に思うと、私の中から微かにカブトムシに対する同情心のようなものが湧き上がらないでもなかった。

「虫だけに」と私は呟いていた。

「下らねえこと言ってんじゃねえよ」とカブトムシは言った。

昨今ではカブトムシの前でもジョークを言うことができない。世知辛いものだ。私はカブトムシの前でこれ見よがしに大きな溜息を吐いていた。

「別に俺はジョーク全般に不寛容というわけではねえよ」とカブトムシは私の心を読んだかのように口にしていた。私がカブトムシの方をちらりと見遣ると、相変わらずカブトムシは微動だにせず、そのベンチの手摺にしがみついていた。日本人の民族的な勤勉さにも比肩するような粘り強さであった。

「俺はな」とカブトムシは宣言していた。「そんなしょうもない言葉遊びをジョークの一種だと思い込んでいる、お前の傲慢さに腹が立つのさ、ええ? そんなもんがジョークと言えるか」

「えらく口の悪いカブトムシだな」と私はカブトムシの方を初めて正面から見据え、そう口にしていた。私の心には珍しく苛立ちが巣食っていて、それを心の外に引きずり出さなくては気が済まないような気持だった。

「では、君の方からジョークを示してくれ。一方的に罵られるだけならばともかく、それだったらこちらとしても納得がいく」

「偉そうな人間様だ」とカブトムシは呟いていた。

「お互い様だ」と私は言った。そして、ふと思いついて――あるいは余計なことだったかもしれないが――それに付け加えていた。「カブトムシ様」

 カブトムシはさっきから姿勢を全く変えていなかった。当然と言うべきか、カブトムシには表情と言うべき表情がないので、カブトムシはその感情表現を完全に言語に依存せざるを得ない。つまり、ジェスチャーやその他の副次的な情報によって、カブトムシには自分の意志を伝えることが根本的に不可能だった。それでも、私はカブトムシの殺気を如実に感じることができた。カブトムシは相変わらずその六本の手足で、ベンチの手摺にしがみつき、その虚ろな瞳とキチン質の体皮に光を反射させているだけである。それでも、私にはその外骨格の内側に、硬直した筋肉の強張りを想像した。その硬直に、深い怒りの感情が含まれていることを直感した。何の言語も、何の表情も、何の身振りをも介さずとも、このカブトムシは自分の感情を伝えることができるのである――と私は感心していた。

大したものだった。

 しかし、そのような激情がカブトムシの中で潮のように引いていくのを私は感じ取った。彼の精神と肉体にどのような変化があったのだろう。私は気になった。何なら、心配になったと言ってもいい。

 カブトムシが呼吸を整えることができるくらいの間があった。勿論、その呼吸は聞こえなかったけれど。

「じゃあ、こういうのはどうだ」とカブトムシは語り始めていた。どうやら、ジョークの触りの部分に着手したらしい。

「俺は森の中にいる」

「森の中にいる」と私は復唱した。私は、カブトムシが示す模範としてのユーモアを、心行くまで楽しむことにした。

「森の中の切り株の上に腰掛けている」とカブトムシは言った。「まあ、俺の身体の構造上腰掛けるという動作は不可能に近いんだが――とにかく、俺は切り株の上にいる」

「切り株の上にいる」と私は繰り返した。

一瞬、カブトムシが言葉を飲み込む気配がした。

私の不可解な復唱が神経に障っているのかもしれない。私はその意を察して黙り込んだ。

カブトムシが一度途切れた語勢を再び獲得するまで、幾らかの時間が掛かった。

「そして――」とやがてカブトムシは語り直していた。「森の出口に繋がる道から、何かがやってくるんだ。そう、それは何だと思う?」

「何だろうね」と私はのんびりとした口調で答えた。私は、言葉を返しながらに自分がカブトムシの創作に加わる資格を有していないのではないかと思っていた。私は、カブトムシが指摘する通り、自分のことをユーモアの感覚の欠落した人間なのだろうと考えていた。私は本来、カブトムシに対して罵倒の条件としてのジョークを要求するような立場にはないのだと。

私は、そのような考えから発言を最低限の相槌に留め、ただカブトムシが創作を再開するのを待ち続けていた。

「正直なところ」とカブトムシは言った。些かの迷いを含んだ、打ち明け話をするような口調だった。「自分で言っておいて何だが、ジョークというものは難しいな」

私はその告白に驚きつつも、「けだし」と最終的に答えていた。「ジョークは難しい。動議採択。可決に一票」

 カブトムシは黙り込んでいた。あるいは、私のユーモアのセンスに感嘆しているのかもしれない。かなり長いことカブトムシは黙り込んでいた。

「まあいい」とカブトムシは最終的に口にしていた。

まあいい?

私の表情の変化にカブトムシは言及せず、話の続きに取り掛かっていた。

「とにかく、道の向こうから何かがやってくる……まあ何でも良い。そうだな、熊公にでもしておこう」

「クマか。いいんじゃないか」と私は合いの手を入れた。カブトムシが頷くような気配があった。気配だけで、実際に体を動かしたわけではないのだけど。

「クマが、森の出口に繋がる道からやってくる」と、カブトムシは話を続けた。

「クマは……そうだな、サングラスを掛け、アロハシャツを着ていたとしよう」

「ほう」と私は相槌を入れる。再びカブトムシが頷くような気配があった。

「それで――当然俺は熊公にこう言うわけだ、『クマさん、あなたは何故アロハシャツを着ているのですか?』と」

「そう言うだろうね」と私は力強く同意した。クマがアロハシャツを着ていれば誰だってそう訊くだろう。

「すると、クマはこう答えるわけだ――」カブトムシは、一拍溜めた。

「『他の服を全部洗濯しちゃったんですよ』と」

 私は少しだけ笑った。カブトムシが目配せをする気配があった。勿論、カブトムシの目玉が実際に動いたわけではないのだけど。

「どうだ? 面白かったか?」とカブトムシは心なしか達成感のある声で言った。

 私は微笑みの残滓のようなものを口元に浮かべて、暫し視線を地面へと落としていた。

「少し」と私はカブトムシに視線を傾けつつ言った。私は他人の言動に関して正直に感想を述べるタチなのだ。こと笑いに関してはウソはつかない。

 私のその感想に、果たしてカブトムシがどのような感想を持ったのかはよく分からなかった。一見して、私の感想に不満を抱いているようにも見えたし、あるいは、自身のジョークに対する評価として、私の評価を妥当に思っているようにも見えた。よく分からなかった。

 カブトムシは黙り込んでいた。その佇まいには、一種瞑想的な雰囲気さえ漂っているように思えた。

「いいか」とカブトムシは長い沈黙の後に口を開いていた。

「ジョークってものは、単なる言葉遊びじゃない。話の背景とかが大切なんだ」

「なるほど」と私は言った。カブトムシに笑いについて説かれていると、その意見の内容が平凡であったとしても、その言葉は実際以上に新鮮に響いた。何しろカブトムシの言うことなので、大抵のことは新鮮に響くのかもしれない。

「まあ、そんなところだ」と、カブトムシは最初に比べれば、かなり落ち着いた口調で話を結んでいた。

「正直なところ、俺のジョークも決して満足なものではなかったと思う。それでも、大意を示すことには足りただろう」

「確かに」と私は答えていた。私は、カブトムシの発言に対して満足のようなものを覚えていたし、また、カブトムシに関しても私と同様のようだった。カブトムシは私に訓示を垂れることに深い満足を覚えているらしかった。

「俺はそろそろ行く」と暫く後にカブトムシは言った。そして、こちらをちらりと見たような気配を見せた。勿論、実際に体を動かしたわけではないのだけど。

「何か、俺に対して言っておきたいことはあるか?」

 私は一拍だけ迷う素振りを見せた。

実際には心は決まっていたのだけど、カブトムシの手前、私は迷う様子を見せていた。

「特に無い」と私は答えていた。カブトムシと続けるべき会話を、私はこれ以上思いつけなかったのである。

カブトムシが、頷いた気配があった。私は、その黙っていると、えらく寡黙に見える――すなわち、普通のカブトムシと同じに見える――カブトムシのことをじっと見つめていた。

「じゃあな」とカブトムシは唐突に言うと、そのキチン質の翼をぱたりと開け、内側から琥珀色の透明な羽を展開していた。そして、その琥珀色の羽を力強く羽ばたかせ、公園のベンチの上から去っていった。ブウン、という鈍い音が聞こえた。

 彼は上空へと舞い上がり、その、僅かに雲の欠片の残る、青い空の隙間へとその身を躍らせていた。私は、彼の姿が雲の間から差す陽光の中に紛れ、完全に見えなくなってしまうまで、空の切れ間を仰ぎ続けていた。

 私は、彼の姿が見えなくなった後も、暫くの間ベンチに腰掛け、じっと眼前にあるメリーゴーランドのことを眺めていた。私は頭の中を空っぽにして、その場に座り込んでいた。数人の人が私の前を通り過ぎ、別の遊具へと、あるいは遊園地の出口へと歩いていった。その間、私に声を掛ける人間は一人としていなかった。

 随分と時間が経った後、私は腰を上げた。

「さて」と私は言った。

「病院に行こう」

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