酔いどれ迷子のグリムリーパー

神宅真言(カミヤ マコト)

酔いどれ迷子のグリムリーパー

 その人物はベンチに一人座り、一升瓶を片手にぼうっと空を眺めていた。


 いや、正確に言うと人ではない。それが何なのかと問われれば、『人では無い何か』と答えるしかないだろう。その『人ではないもの』を眺めながらそうぼんやりとレイアは思った。


 レイアがここ、瀬戸大橋を本州側に抜けたところに位置する広場に車を停めたのは四国への出張の帰りのこと。運転で強張った身体を少し伸ばそうと車を降り、海の見える公園で気分転換に散歩でもしようと思ったのだ。


 そんな時である、その『人の形をしたもの』を見付けたのは。


 それは成人男性の姿をしていた。大柄だがすらりとした体格、少し乱れたオールバックの鈍銀の髪に整った顔立ち。上質な礼服を着込み、靴はよく磨かれた黒い革靴だ。手には白手袋、ステッキまで携えているという徹底ぶり。


 まるで欧州の貴族のようなそれは──眼だけが、血のように紅かった。


 *


「あの。あなた、何者ですか?」


 レイアがそれに話し掛けたのは、何も興味本位という訳では無かった。術者ではなくても組織の一員だ。不審なあやかしに対して、敵か味方か、はたまた一般人に害が及ばないかなど、取り敢えず可能ならば正体を探ろうと試みるのは当然なのである。


 そのあやかしはレイアの呼び掛けに、一升瓶を抱えたまま彼女を見上げた。その顔に悪意は無さそうで、その表情は不思議そうだった。


「おや、マドモアゼル。俺のこと視えるんだね?」


 何とも見た目通りに紳士的なその言葉に、レイアは面食らった。驚いて固まったままのレイアに、尚もあやかし紳士は話し掛け続ける。


「もしかして能力者なのかな。組織の人だったりする?ああ、俺は死神なんだ。組織の遊撃隊所属のね」


 ああ、と合点がいった。敵意が無いのも当然だ。お仲間なのだ。レイアはようやく警戒を解き、隣いいかしら、と笑顔でベンチに腰掛けた。


「そう、私は組織の構成員よ。イイフシ・レイアっていうの、よろしくね」


 レイアの自己紹介と共に差し出された右手に白手袋の手を伸ばし、死神紳士は優雅な仕草で握手ではなくくちづけを返した。


「美しき同志よ、会えて光栄です。俺の名はライル、十三支部極東方面遊撃隊副隊長ライル。以後お見知りおきを」


 そしてその紳士は燦々と照る太陽の下、死神に似つかわしくない屈託の無い笑顔を浮かべた。


 *


 この世界には様々な危険がありふれていた。怪異、あやかし、呪術、怪物、邪神──。一般の人間には決して視えないそれらは、しかし確実に平和を蝕み現実を脅かそうと、常に暗闇から虎視眈々と狙っているのだ。


 それらと対峙し、人の世の平和を守るべく霊的な防衛に日々奮闘しているのが『組織』と呼ばれる超国家的対魔団体であった。


 そして極東と呼ばれる日本皇国は多くの霊的磁場の存在する太平洋の霊的防衛の重要な拠点であり、また他に類を見ない程の多種多様な能力者や異能の存在が顕現する特異な場所としても注目されていた。ゆえに、組織の中でもエリート中のエリートと名高い遊撃隊の人員が派遣される事は決して珍しいという程の事では無い。無いのだが。


 何故、彼は暇そうに、しかも一升瓶を抱えてこんな公園のベンチでひなたぼっこをしているのか?


 結局は、その疑問に舞い戻るのであった。


「それで、あの。ライルさんはこんなところで何を」


「ああ、ライルで、呼び捨てで構わないよ。代わりに俺もレイアとお呼びしても?」


「え、あ、はい。レイアで結構ですよ。それで、あの」


 ライルと名乗る死神紳士は、ついっとその紅い目を上げた。つられてレイアも視線を追うと、真っ青な空と海の間に浮かぶ、雄大な橋──瀬戸大橋が映る。


「この大きな橋のたもとの公園で、って言われたんだ。大きな島に渡る橋の、えと、本州というのかな。そちら側で待っていれば西支局の者が迎えに来るからって」


 レイアはライルの話す内容に首を傾げた。まず大きな島と言われても、四国は島と呼ぶにはいささか大きすぎるのではないか。そして西支局の者が迎えに来ると言っても、西支局本部があるのは淡路島である。香川では決して無い。


 もしかして、明石海峡大橋と間違えているのではないだろうか。レイアは恐る恐る尋ねてみる事にした。


「あの、ライル。あなたどうやってここに来たの」


「本国から、えと、本国というのはイギリスなんだけれど。あちらから転移の魔術を使ってだね。間違えないように地図を見ながら座標を指定したよ」


「その時に、座標を指定する際に使った地図、覚えてる? その地図には、大きな橋は何本あった? オーストラリアみたいな形の島に伸びる橋は幾つあったかしら?」


「橋は一本だけだったよ。何故そんな事を聞くんだい?」


 レイアは納得した。ああ、つまり。


「ライル、その地図は古かったのね。今はもう一本橋があるのよ。もっと東に、これよりもっと大きな橋が出来ているのよ。本当の待ち合わせ場所はきっとそちらだわ」


 ライルは天を仰いだ。


「ああ、俺はまたやってしまったんだね。俺はいつも迷子になるんだ。方向音痴と言うのかな、地図を見ていてもすぐに迷ってしまうんだ。今回は転移魔術だから大丈夫だと思ったのに」


 嘆く死神の様子に、レイアは笑いを噛み殺しながら同情の言葉を掛けた。


「ねえ、悲しまないで下さい。それならば後で私が転移術式で送りますから」


「ああ、あなたに遭えた事は不幸中の幸いだ。あなたに遭えなければ、俺はこのまま日が暮れるまで此処で来ないであろう人をずっと待ち続けていただろう」


 ライルはそう、にっこりと笑った。レイアもつられて笑い、そして懸念が一つ解決したついでに、気になっていた事を確かめてみる事にした。


「ところでライル、その瓶は一体? どうやら日本酒のように、それも半分ほど減っているように私には見えるのだけれど」


 レイアの疑問に、ああ、とライルは微笑んだ。


「これはね、ここに到着して直ぐの頃だったかな。高齢のご婦人が俺を見付けてね。あなたは異国の神様だと言って拝んで来るんだ、俺は死神だと断っても、いいやあなたは極楽浄土に人を導く神なのだと。あれには参ったね、俺はそんなご大層な者じゃあないのに。──それでこれはお供えですと、このお酒をくれたんだ。断るのが忍びなくなってね、申し訳無くも頂戴したという訳さ」


「それでそのまま飲んじゃったと」


「いやあ、喉が渇いてね。ひとくちのつもりで開けたら、香り高く口当たり良くて、ついつい。この国のお酒は佳いねえ、うん」


 にこにこと答える酔っ払いに、レイアは苦笑を返した。ああ、と溜息を一つ。転移術式で送るのはもう少し酒が抜けてからの方が良いのかも知れない、そんな事をレイアは思った。


 *


 不意に、ライルの眼がすぅと細められた。それまでの柔らかだった雰囲気が、急にキンと張り詰め、ひやりと凍るような澄んだ冷たい物に変わる。


「ライル、どうしたの」


 息を飲むレイアに、静かに、と人差し指を立ててジェスチャーを送り、ライルはすっと立ち上がった。その鋭い眼は青く穏やかな瀬戸内海と、その上に白く浮かぶ瀬戸大橋に向けられている。


「──来る。……レイア、これを預かっていてくれないか」


 ライルは一升瓶を大事そうにレイアに託すと、ス、と白手袋に包まれた指を空に走らせた。素早く描かれる紋様は零れる燐光に彩られ、ひとつの形を成して行く。同時に整った唇から紡がれる澄んだ言葉は力となり、万物の法則を説く呪文となってライルの纏う空気を鮮やかに変容させてゆく。


「──目覚めよ!」


 最後の言葉と共にステッキが空間を裂いた。噴き出す粒子が色を持つ風となり、死神紳士の全身を洗って行く。ともすればどこかあどけなさすら感じさせていた笑顔はなりを潜め、その笑みは獰猛な獅子の如きそれに変わってゆく。


 ──はためくマントは闇より深く、左の眼には美麗な装飾の片眼鏡。そしてその手にはステッキに代わり、大きく禍々しい、しかし何処か優美ささえ感じさせる巨大な鎌が握られていた。


 同時に、海を割る地鳴りの如き音が周囲に響く。


「あれは……」


 ゆっくりと海面から首をもたげたそれは、まるで竜めいた姿をしていた。顔面を蒼白にして立ち尽くすレイアを座らせ、ライルは紳士らしからぬ笑みで彼女を落ち着かせるように肩を撫でた。


「シー・サーペント。──本来はこんな内海に居る筈の無いものだが、何故迷い込んだんだか。何せ獰猛な奴だ、早くどうにかしないと被害が出かねない」


「な、なら応援要請を──」


「そんなものは要らない。俺一人で充分だ」


 ライルは笑い、大きく跳躍した。一足で音も無く地を走り抜け、飛ぶように空を蹴り、踊るように風に乗り、瀬戸大橋に飛び乗るとケーブルを駆け上がり、橋を吊す主塔の上にその姿を現した。


「こっちだ、デカブツ。俺が相手してやる」


 ライルは右手だけで鎌を構え、大きく振る。その刃は空を裂き、見えぬ刃を巨大な海蛇の鱗に突き立てた。海面を荒れさせていた巨体がのたうち、大きく開けた口が叫びを上げる。


 シー・サーペントの首が大きくしなったかと思うが早いか、その口から凄まじい勢いの水流が迸る。標的とされたライルは主塔から海蛇の頭目掛けて跳躍し、水流の上を軽々と飛び越え、空を渡って空中で大きく鎌を振りかぶった。


 海蛇の紅い瞳が驚愕に見開かれる。その巨大な瞳に、迫るライルの鎌に集められた燐光が反射し、きらきらと光った。


「──シャットダウンだ」


 光に彩られた刃が一気に振り下ろされ、シー・サーペントの眉間に突き刺さる。その刃は爆発するが如く光を溢れさせ、そのまま真っ直ぐに海蛇の頭を貫き、一直線に巨大な身体を真っ二つに引き裂いた。


 断末魔の絶叫が空を震わせる。震動で瀬戸大橋の橋桁が揺れ、通行していた車が緊急停車するさまが見えた。


 頭から裂かれたシー・サーペントの身体は一気に実態を失って光の粒となり、その粒子はきらきらと目映く輝きながらほどけ、溶け、散り、まるで泡のように弾け消えて行く。


 それはまるで現実感の伴わない映像のようで、ともすればファンタジックなその光景に、水流の名残が架けた虹が更なる幻想めいた彩りを添えた。


 呆然とするレイアはただその一連の出来事を目に焼き付けるしか術が無く、震える手で酒瓶を握っているのがやっとだった。呼吸を忘れたように息を詰め、やがてこちらにとぼとぼと歩いてくる人影を見付け、ようやく大きな溜息を吐いた。


「ライル!」


 海水を頭から被ってしまったらしき死神は、まるで無理矢理風呂に入れられた猫のようにずぶ濡れて、水をボタボタと垂らしながらしょんぼりとこちらに近寄ってくる。


「……ああ、服が」


 巨大な敵を殲滅したばかりとは思えないとても情け無い嘆きに、レイアは笑いを噛み殺しながらポケットから数枚の符を取り出した。一升瓶をベンチに置いてライルに近付き、濡れ鼠となった紳士に向かって符の力を解放した。


 ふわりと符の効力がライルを包むと、一瞬の後に彼の姿は元のパリッとした紳士に戻っていた。驚くライルにレイアは微笑み、洗浄と浄化の符を見せる。


「驚いたな、こんな術式があるなんて。やはり術の種類の多さに於いて極東は群を抜いているという訳か」


 感心するライルに一升瓶を返し、レイアは笑った。


「この国の人は綺麗好きですから。随分昔からあるらしいですよ、この術式は。……ああ、お疲れ様でした。見事なお手並み、流石ですね」


「いえいえ、そんなに大層なものではありません。酔いどれのお遊戯ですよ」


 大事そうに一升瓶を抱え直した死神に、レイアは堪えきれず噴きだした。


 *


「ありがとう、マドモアゼル。恩に着るよ」


「いいえ、お気になさらず。……西支局の方にはこちらからも連絡を入れておきましたから、大丈夫だと思いますよ」


「重ね重ね、感謝だよ」


 死神紳士が微笑んだ。立ち上がるとすらり高い背に、見上げるレイアの心臓がどきりと大きく跳ねる。彼は優美な礼をしたが、しかし左手に抱えた一升瓶がそれを台無しにしている事には気付かない。


 符を取り出してレイアは転移術式を起動すると、彼の瞳を見詰めた。最上級のルビーめいたその輝きは美しく、しかしどこか悪戯っぽい輝きを宿している。


「ありがとう、美しき同志よ。またいつかどこかで」


「ええ、──今度は迷子にならないでね、酔いどれ紳士さん」


 ふふ、と二人の笑いが重なる。青白く光る式の紋様が死神を筒見、やがて青空と同化するように掻き消えた。術式は彼を一瞬で明石大橋のたもとに移動させたに違い無い。


 残ったのはレイア一人、残されたのは微かな酒の香り。レイアは瀬戸大橋を振り仰ぎ、もうすっかり虹の消えたそれを眺める。


 明石海峡大橋も同じような外観をしているが、大きさが違う。長さは勿論のこと、レイアが思い浮かべるのは主塔のことだ。──明石大橋はバッテンが四つ。彼が今頃視ているであろう橋を思い、レイアは表情をほころばせる。


「また、遭えるかしら」


 そう呟くと、一人歩き出す。空はどこまでも青く、海はどこまでも凪いで。


 青に浮かぶ大きな橋は、燦々と降る太陽の下、変わらずに輝き続けていた。


 *

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