第34話 三日目、温泉

『お前のことはよく知っているさ、なぜならお前は俺で―――』

「私はしゅんなのだから!」『俺はお前なのだから』

「いい加減に俺の名前の漢字を覚えろよ!!」


 トイレから帰還したあと、アネラさんは浴衣姿のままテレビを見ていた。

 流れてくるミステリアスな音声を聞いてすぐにドラマだと分かった。


 そして、案の定、主人公のもうひとつの人格が喋ってるのに合わせて、アネラさんもまた意味の分からないことを口走った。

 もはや主婦の神とでもいうべき領域にアネラさんは達してしまった。


 旅行に来てまでドラマを忘れずに見るなんて、もはや専業主婦プロでも不可能だ。

 ちなみに、このドラマは俺も見てるから、またしても思わぬ形で主人公に感情移入してしまった。


「しゅん!」


 やめろ、そんなゾンビになっていたのに、気づいたら元に戻った人間を見るような目で俺を見るのはやめろ。

 俺がトイレにこもっていたのは何もウイルスに感染したわけじゃないから。


「なんで消すんですか!?」

「そろそろ温泉に入るからだよ!!」


 机の上に置いてあるリモコンでテレビを消しただけで、そこまでのリアクションもいらないから。

 あと、もうちょっとだったのにみたいな顔もやめろ。お前はなんのために京都まで来ているんだよ。

 

「しゅん、私の浴衣姿って綺麗ですか? ―――痛っ♡」

「何度も言わせんな! その浴衣は似合っている」


 これで三度目だ。

 『私の浴衣姿って綺麗ですか』と聞かれたのは。


 着替えた後も、食事の前にもアネラさんは腕を上げて可愛いポーズを作りながら聞いてきた。

 アネラさんは浴衣が初めてなのに、そのあざといポーズを見ているうちに彼女と浴衣の一体感が半端なくなっていた。


 日本人にはないその銀色の髪と水色の瞳はそのしつこさによって完璧にピンクの浴衣に適応してしまっている。

 しかも、アネラさんの雪のように白い肌と浴衣の境界線にも、次第に違和感を覚えなくなっていた。


 さすがはやり手敏腕王女。

 そうやってしつこく聞いてくるのも、俺の認識を阻害するためのフェイクに違いない。


 ちなみに、浴衣に着替えたのも一苦労だった。




「なんでガン見してるんだよ!?」

「なんとなく?」

「なんとなくで俺の大事なところを見ようとするな!!」

「しゅんは私の大事なところを揉んだのに?」


 やめろ!

 目をハートにするのはやめろ! 


 そして俺の黒歴史をほじくり返すな!

 あれは不可抗力男子高校生にとってだ!


 俺とアネラさんの部屋には仕切りがなく、着替える時はアネラさんに後ろを向いてもらうしかない。

 なのに、アネラさんはずっと視線を俺に向けたままだ。


「し、しゅん! これはそういうプレイなのですね!?」

「こら、変なことを叫ぶな!!」


 アネラさんが頑なにこっちを見てくるから、仕方なく余ってる浴衣の帯で彼女の目を隠した。

 なのになぜ、アネラさんが興奮しているんだろう。


「さあ、しゅん! 今の私は無防備です! 襲ってきなさい!」

「襲わないよ!!」


 目隠しされたまま、両手を広げて何かを抱え込もうとするアネラさんだが、放置だ。

 こっちは急いで着替えなきゃならないからな。


 そうこうしているうちに休む間もなく、食事が運ばれてきたのだった。


 

 

怨潜温泉って楽しみですね! ―――痛っ♡」

「お前って絶対変なドラマ見ただろう!!」


 どうしよう。

 ちょっと震えてきた。


 何を隠そう。俺は怖い話とか幽霊が大の苦手だ。

 ホラー映画でも見てしまったものなら、一ヶ月は一人でトイレに行けない自信ならある。


 それなのに、よりにもよってこれから温泉に入る前にそういう誤字をしてくるとは。

 お湯の中に怨霊がうごめいてないか考えちゃうじゃないか。




「…………」


 なぜだ……?

 なぜ誰もいない……?


 半ば強引にアネラさんに温泉まで引っ張られてきたと思ったら、最悪の事態になった。

 更衣室で服を脱いで温泉のほうに行くと、俺以外誰もいなかった。


 やはり古い旅館の閑散期は長い。

 こういう時に限って貸し切りとか勘弁して欲しい。


「あーあ、テステス〜」

「どこでそんなセリフ覚えたんだよ!?」


 不覚にも深く、仕切りで隔たっている向こう側にある女湯のほうから聞こえてくるアネラさんの声に安心感を覚えてしまった。


「しゅん、こっちは誰もいません!」

「お前がいるだろうが!」


 これだけはちゃんとはっきりさせなければ。

 俺の心臓のためにも、言葉の綾だと分かっていても訂正しないと。


 今アネラさんまでいなくなったら、俺は速攻でここから逃げ出す自信はある。

 温泉だからもちろん小声アネラさんに聞こえるくらいで話している。


「とにかくずっとなんか話しててくれ!」

話して差し上げません!離して差し上げません♡

「今はそんな冗談はいいから!!」


 しまった。

 つい大声を出してしまった。


 怖いからアネラさんに話しかけてもらって、その隙にさっさと体を洗う作戦だったのに、まさか漢字を使った巧妙なトリックをしかけてくるとは、ほんとに可愛い憎たらしいやつだ。

 

「しゅん!」

「なんだ?」


 なんだろう……。

 なんでこんなにもアネラさんの声に安心感を覚えるのだろう……。


「ここって婚欲混浴がありませんね!」

「お前の世界にもないだろう!!」


 ったく、人が震えながら頭を洗っているというのに、なんでそんな煩悩まみれなことにしか興味がないわけ?

 漢字を間違えるってことは、アネラさんの世界にも混浴は存在しないのか。


 にしても、痛いところを突いてくるな、日本の深刻な事情を的確に。

 大丈夫、俺はちゃんとお前と結婚するから安心しろ。


 さて、ここからはどうしよう。

 体と髪は洗い終わった。


 今俺に残された選択肢は二つ。

 このまま帰る温泉に浸かるかだ。


 気持ち的にアネラさんのせいで一刻も早くここから脱出したいが、せっかく来た温泉に入りもしないというのももったいない気がする。

 

 えぇっ!!

 こうなったらやけくそだ!!


「ふはーっ、生き返るぅ」


 やはり俺の選択は正しかった。

 肩まで温泉に浸かると、全身の細胞が喜んでいるのが分かる。


「しゅん! 今泉に浸かったでしょう!」

「なんで分かった?」

「ふふっ、それはね……お前は俺で、私はしゅんなのだから―――」

「お前はそれが言いたいだけだろう!!」


 まさかこのタイミングでさっきのドラマのセリフを言われるとは思わなかった。

 しかも人称とか無茶苦茶むちゃくちゃじゃん。


 これなら二重人格ダブルどころか、四重人格クワトロになってしまう。

 主人公めっちゃくちゃ忙しいな。


 にしても、ここ温泉って俺とアネラさんしかいないか。

 そう思うと、少しドキドキしてしまう。


 それからしばらく、俺は思いがけない貸し切りの温泉をアネラさんと二人で過ごしたのだった。

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俺の部屋のベランダはどうやら異世界の姫様の寝室に繋がっているらしい 〜えっちでヤンデレな姫様は俺を離してはくれない〜 エリザベス @asiria

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