あおいと猫

 八鶏千歳やとりちとせは、杉林すぎばやしの古びた石段に向かって気怠けだるげに左足を投げた。陽が傾き出した、午睡ごすいの頃である。先をのぞむと、思わずため息がれる。段数はそう多くない。ただ、これから会う人物のことを思うと、一段上がるにもかなりの労力をようした。

 千聚堂せんじゅうどうが建つ前は、商店街と宿屋を繋ぐこの道が正路せいろだった。すっかりさびれた今となっては獣道も同然の有り様で、雑草と木の根に食い荒らされたづらは、足を置いただけでぼろぼろと崩れるほど劣化れっかが激しい。あえて通るべき道でないことは誰の目にも明らかである。しかし、鬼ノ目堂おにのめどうから千聚堂へ行くには、わざわざおかくれ通りまで迂回うかいするより都合がよかった。

 やっとの思いで石段を登りきると、本堂の裏側に出た。千聚堂は東西に長い入母屋造いりもやづくりである。正面へ回るには、まだ少し歩かなければならない。あー、めんどくさい。足元に敷かれた砂利がゆったりとしたリズムで鳴る。千歳はいつも、結局のところ迂回するのとどっちが早いだろう、とぼんやり思った。

 しばらくすると、正門がちらと姿を現した。観光客の姿もまばらに見える。彼らは案内図を片手にカメラを構えたり、或いはただぼんやり建物を眺めたりしながら、一様にこの地に語られる歴史を瞳の奥に浮かべている。

 千歳はそんな観光客たちには目もくれず、彼らの隙間をするする抜けて、真っ直ぐ本堂の向拝こうはいへ向かった。

 中に入ると、千体もの千手観音立像せんじゅかんのんりつぞうが出迎えた。観光客の目当てはもっぱらこれである。縦に十段、横に百列。整然と並んだ圧巻の光景に、「わあ」とか「ほお」とかいう感嘆詞だけが辺りをフワフワただよっている。それ以上は誰も口を開かない。荘厳そうごんな雰囲気は人々を寡黙かもくにした。

 悠然ゆうぜんと見学する観光客に混じって、やがて千歳もある所でピタリと足を止めた。見上げた先で、いくつもの慈悲深じひぶかい目と視線が交わる。彼は黙ったまま、それをじいっとにらんだ。

「珍しいことがあるもんだな」

 そうして五回も瞬きをしたかどうかという頃になって、どこからかしわがれた男の声がした。「つい昨日にも顔を見たと思ったら、また現れやがる」

 千歳は菩薩ぼさつ柔和にゅうわな顔を睨んだまま、一拍も置かずこれに応える。

「用事がなきゃ呼ばれても来るか」

「そうかい、そいつは態々わざわざご苦労さん」

 声はわずかにからかうような調子で弾んでいる。「用事はないから、帰るがよろしい」

「こっちにはあるんだよ、クソジジイ」

「わははは、クソジジイときたか」

 豪快ごうかいな笑い声が堂内に響き渡る。──完全にもてあそばれている。千歳は眉間のしわを深く刻んで、露骨ろこつに嫌な顔をした。

「手のかかるわらべほど、一人で育ったような顔するもんだ。なあ、千歳よ」

 やがて、視線の先がぐにゃりと歪んだ。歪みは波紋のごとく伝播して、菩薩の輪郭が曖昧になる。少しすると、向こう側からそろそろと何かが出てきた。目を凝らす。それは鼻であり、口であり、額であり、そして一人の老爺ろうやであった。

「さて、クソジジイに何の用かな」

 房主ぼうず恰好かっこうをしたこの老爺は、馬丞山鵲ばじょうさんじゃくといった。千聚堂を管理していた人物で、千歳とはかなり長い付き合いになる。彼は千歳と顔を合わせると、必ずこうしてからかって遊んだ。嫌がられていることなどは、当然、先刻御承知である。しかしもういくつも楽しみのない彼にとって、千歳をからかうことは唯一の娯楽と言ってよかった。

 ゆえに、千歳はこの男のことが腹の底から嫌いだと思っていた。

「仕事の依頼だ」

「そうだろうな」

「手伝え」

「そういう話だろうとも」

 くつくつと喉を鳴らす山鵲を前に、千歳は握り締めた拳をわなわな震わせた。額には青筋が立っていた。

が、釣れたんだよ」


          □


 翌日、あおいはまだ陽のあるうちに鬼ノ目堂おにのめどうを訪ねた。

 明るい時間帯の商店街は恐ろしさよりも寂しさが際立つ。中心街なら一番にぎわう時間帯。彼女は閑散かんさんとした街道の真ん中を歩きながら、この場所が人であふれていた時のことを想像した。

「お、凛藤りんどうさん。いらっしゃい」

 かたむいた看板の文字を読み上げてから戸を叩くと、少ししてタタラが出迎えた。亜麻色あまいろの髪とゴールドのピアスが陽に照らされて、きらきら光っている。

「……初瀬さんって、イケメンだったんですねえ」

 ぼそり、ため息じりに漏れたあおいの言葉に、彼は釣りがちの目を細めて微笑ほほえんだ。「なあに、突然」

「昨日は暗かったからよく見えなくって」

「そう? 俺はちゃんと見えてたけどね。美人だなあって」

「わあ。お世辞せじ

 店先でひとしきり笑ってから敷居しきいをまたぐ。昨日さくじつ少し慣れたかと思われた店内の香りが再び鼻腔びくうを刺激した。彼女は「くさい!」と表情で語るのをこらえられなかった。

「あ、ごめん。匂いキツイよね」

ひひへ、へひひへふいいえ、平気です

「結構換気かんきしてるんだけどねえ。俺はもう慣れちゃったからわかんなくて」

 彼は商品棚の影から〝最強消臭〟と書かれた消臭剤しょうしゅうざいを引っ張り出して、「やっぱり増設ぞうせつするか」と呟いた。

「タバコですよね、八鶏さんの」あおいは開き直って、鼻を軽くつまんだ。

「そうだよ。よくわかったね」

「八鶏さんが吸い始めたら匂いが強くなったから」彼女は昨日の様子を思い浮かべながら、ぷかぷかやるふりをする。「カッコいいですよね、アレ。なんていうんでしたっけ」

煙管キセル

「そう。キセル。使ってるとこ、初めて見ました」

「まあ見ないよね、今どき」

「おしゃれですか?」

「さて、どうかな」

 ふふふ。タタラはわたげを吹くように笑うと、空っぽの帳簿机ちょうぼづくえを見ながら続けた。「唯一の楽しみなんだ。大目に見てあげて」

 あおいはなんだかよくわからないまま、そういうことなら、とうなづくだけに留めた。


 鬼ノ目堂の店内は、明るい時間帯でも薄暗かった。左右の隙間なく建物が密集みっしゅうしているために、窓からは陽が入らないのだ。ひょっとすると、灯りがいていない分、昨夜よりも暗いかもしれない。

 あおいは商品棚の近くまで寄って、一体何を売っている店なのかとまじまじ観察した。しかし、そこには店の外にでも落ちていそうな枯れ葉や、何に使うのかわからない道具があるばかりで、彼女の興味を引くものはひとつとして置いていなかった。ガラクタと何が違うんだろう。彼女は首をかしげた。

「そういえば、八鶏さんは?」

 彼女はふと、話題の人物がいつまで経っても現れないことに気がついた。呼びつけておいて、お寝坊ですか。彼らだっておりこうに出勤しているというのに。視線の先では、大物ニワトリが仲良く床を散歩している。

「今ねえ、ちょっと出かけてるんだよね」タタラは、気まずそうに視線を流した。「もう少ししたら帰ってくると思うんだけど……」

「出かけてるって、あんなに派手な格好で?」

「まあ、そうだね」

 驚きのあまり、あおいは一際高い声を響かせた。和服を着た長髪の巨人が街中を歩いていたら、絶対目立つのに。気づかないもんだねえ。彼女は小上がりにどっかり掛けながら、ぽてぽて歩く二羽に話しかけた。当然、返事はなかった。

「八鶏さんって」カラスの鳴き声を二度ほど聞いてから、あおいが再び口を開いた。脳裏では、あの特徴的な長髪が揺れている。「……正直に言ってもいいですか?」

「どうぞ」

 タタラも彼女の隣にゆったり掛けた。

「最初、けっこう怖かったです。こんな近くで、『このガキか』って」

 あおいは右手を目の前に掲げて、千歳の顔がどれほど近い距離にあったか示した。オバケかと思った、と言うと、タタラは笑いながら彼女に同意した。

「俺も、最初は怖かったなあ。あんな見た目だし、愛想はないし、口も悪いし、デカいし」

「そう、なんですか。……なんか意外です」

「そう?」

 あおいは小さく肯定した。「二人は何だか、すごく仲がいいように見えたから」

「仲がいいかは……どうだろう。俺達は友達じゃないからね。ぶっちゃけ、何考えてるかわからないことの方が多いし。四六時中〝ああ〟なんだから」

 タタラは頬杖をついて、ほとほと呆れたように言った。社交性ってモンがまるでないのよ。──実際、彼の言うことはもっともだった。あの数時間のうちに千歳はただの一度も口角を上げなかったし、他人を「おい」だの「お前」だのと呼んで、態度はまったく暴君のそれであった。

 彼らを称するとすれば、横柄な無頼漢と気の良い優男。このデコとボコのような二人が仲良しだなんて、普通は信じられない。とはいえ、単に店長とバイトという関係にもしっくりこない。あおいには、何故だか二人が深いところで通じ合っているように見えたのだった。

「友達じゃないなら……、兄弟とか、親戚とか?」

「違う違う」タタラの右手がひらひら踊る。「それどころか、知り合ったのもつい二年くらい前の話だよ」

的な間柄あいだがらでは?」

「全くないねえ」

「全くですか?」

「全くだねえ」

 なんてこった。彼女は愕然とした。力を失って半開きになった口元からは、魂がもう腰の辺りまで出てきているようだった。友達とは──。彼女の脳内では、猛スピードで辞書が引かれた。一体、その関係性を決定づけるのは、重ねた年月ではなく、ハンドシェイクを交わしたかどうかなのか? おしりを嗅いだら即親友なのか?

「男子って、もしかしてみんな〝そう〟なんですか……?」 

「さあ……。それは人によるんじゃないかなあ」

 タタラは可もなく不可もない回答を提示した。

「俺とせんはほら、持ちつ持たれつなところがあるから。俺はあの人に助けてもらったし、あの人は俺がいないとこの仕事を続けられない、って具合に」

「持ちつ、持たれつ……」

「一体何を悩んでいるんだい?」

 お兄さんに相談してごらんなさい。そう言わんばかりに、タタラは姿勢を正して胸を張った。胡散臭いなあ、という印象は、とうに消えていた。あおいは躊躇ためらうことなく、ぽそりと答えた。

「お二人が持ちつ持たれつなら、わたしと猫の場合はわたしの持たせすぎ、……みたいな」

「何だそれ」重たい空気を払うように、タタラは努めて明るく振る舞った。

「毎日一緒に登下校して、服屋さんでもドーナツ屋さんでも、どこでも一緒に行ってくれて、困ったら助けてくれて……。もちろん感謝してたけど、代わりに何を返してたか考えたら、何も……。甘えたまんまで、何も返してなかったなって」

「二人は幼馴染なんだっけ」

「そう、ですけど……。知り合って二年しか経ってないお二人より、仲良しじゃ、なかった、かも」

 あおいはそう言ってうつむくと、唇を一文字にきゅっと結んだ。

 真実、あおいは猫のことを何より好きだった。何でもわかっているつもりでいたし、何でも言い合える仲であるつもりだった。当然、猫もそうだと思って疑わなかった。ところがどうか。猫が姿を消してからというもの、そんな自信はすっかり消えてなくなってしまった。あの瞬間、彼女は何か言おうとしなかっただろうか。あの瞬間、嫌そうな顔をしなかっただろうか。あの瞬間、自分は彼女の気持ちを考えただろうか──。考えたところで詮ないことが、脳味噌の中を無限に泳いでいる。そうしてそのうちに、長い思い出のどこを切り取っても、自分が彼女に対して悪いことをしたような気がした。

「比べるもんじゃないよ」

 小さく丸まった背中を見つめながら、タタラは続けた。

「俺達はたまたまそういう相性だっただけだよ。せんは誰に対しても──良くも悪くも気を遣わないから、俺もあの人に対してはそうしてるだけ。男とか女とか関係なくさ、どういう関係になるかは、時間じゃなくて相性の問題じゃないかなあ。それに、人間関係のことは一人であれこれ悩んだってしょうがないよ。相手がいてはじめて成り立つものだから」

「……です、よね」

 タタラは尚も気落ちした様子の彼女の顔を覗き込んだ。そしてニヤリと口角を釣り上げて、わざとらしく悪い顔をした。

「知ってる? そういうの、〝一人相撲〟っていうんだよ」

「……ちょっと、イラッとしました」

「あははは、その調子その調子」


          □


 しばらくして、玄関の引き戸が乱暴にひらいたかと思うと千歳ちとせしかめ面をして帰った。床の板目を踏みつけながら中程なかほどまで来て、開口一番「随分良い身分だな、お前ら」

「山鵲さんの所に行ったんだろ? 好きで行ったのに八つ当たりしないでくれる?」

「誰が好きで行くか」

 千歳は二人を小上がりから払うと、鼻で大息おおいきを吐きながら定位置にどっかりと掛けた。そのまま流れるように煙管を手に取って、葉を詰めてから火を点ける。そして、ぷう、とうまそうにひと吸いした後で、気怠そうに話し始めた。

「猫の捜索を、山鵲に任せてきた」

「……サンジャク?」

「千聚堂の爺さん。この辺りはあいつ等の管轄かんかつだから、任せた方が、たぶん早い」

 昼間の情景を思い出す前に、千歳はやや早口で答えた。あおいは更に謎が深まったぞと言わんばかりに首を傾げているが、構いはしない。それどころか、いよいよ質問しようと手が上がりかかったのを見て「深くは聞くな。俺はあいつのことが嫌いなんだ」と耳を塞ぐ始末だった。

「それで、どれくらいで見つかりそうなの?」腕を組みながらタタラが問う。

「あいつらのことだ。かかっても一週間、早くて三日ってとこだろうな」

「三日!?」

 あおいは目も口もいっぱいに開けたまま、信じられないとばかりに呟いた。そんなに早く見つかるのなら、わたしの五十日間って何だったの? ばかみたい。言いたいことはいろいろあるが、結局ひとつも言葉にはならなかった。悔しい。けど再会が目前もくぜんに迫ったことは喜ばしい。彼女は頭をかき混ぜて短く唸った。

「三日、かあ……」

「とはいえ、コッチとしちゃ見つかってからが本番だけどな。言っただろ、俺達はネコを見つけたその先に用があるって」

 昨日の言葉を思い出す。確かに、そんなことを言っていたかもしれない。あおいは記憶の糸を懸命に手繰たぐった。

「〝見つけたその先〟って、やっぱり猫がいなくなったのは攫われたからってことですか?」

「まあ、そんな感じだな」

「お二人はその犯人を捕まえたいってこと?」

「そういうことだな」

 タタラは、淡々と答える千歳の肩を肘で小突いた。「適当に返事するな」とじっとり睨むと、彼はバツが悪そうに頭を掻いてから、咳払いをひとつした。

「初めに言っておく。これから俺達の目標となるのは三谷町猫という

「どういうこと?」

「三谷町猫という──〝鬼堕おにおち〟だ」

 聞き慣れない言葉に、あおいは眉根まゆねを寄せる。

「鬼にちると書いて鬼堕。負の感情に支配された人間の末路まつろだ。堕ちたら最後、誰にも視認しにんされず、助けも無いまま、孤独と苦痛にさいなまれながら彷徨さまよい続けることになる」

 それはもう、永遠に。言い切るなり、鬼ノ目堂は静まり返った。想定外の展開に取り残されたあおいの脳味噌は、どう返事をしたものか考える隙間すきまも無く停止している。一体何の話をしているのか。彼女には理解できようもなかった。

「ええっとお……、好きな漫画の話でしたっけ」ようやく絞り出したのは、冗談じょうだんであってくれという願望のかたまりだった。

「まあ、そうなるよね。普通は」

「無理矢理にでも理解してもらわなきゃ困る。ここが全ての肝なんだ。例えばネコは何故、今日までお前の捜索網そうさくもうに一切引っかからなかったのか。何故目撃情報の一つも得ることが出来なかったのか。時間は十二分にもあったはずだ。なのに何故か。わかるか?」

「それは、わたしの努力が、足りなかったから……」

 あおいは口をもごもごさせた。舌がひどくかわいている。ようやくしぼり出た言葉は、だんだん尻すぼみになって、やがて心音にかき消えた。

 しばらく、沈黙があった。彼女は目の前の大男から「いかにもその通りだ」と糾弾きゅうだんされることを恐れて、視線を下げたまま無駄に瞬きした。ところが、彼は彼女の答えをピシャリと否定した。「それは違う」

「お前が見つけられなかったのは、ネコが堕ちていたからだ」

 弾かれるように顔を上げると、鋭い眼差しと再び目が合った。

「鬼堕は人が視認しにんできない存在──というより、存在感が限り無くゼロに近いって言ったほうがいいかな。普段の生活でも、意識の外にある物は視界に入ってても気づかなかったりするじゃない? それと同じ。なにかのきっかけで堕ちた人間は、普通、すれ違ったって隣にいたってわからない。いくら探したって見つからない。当然目撃情報もない。だから、決してあおいちゃんの努力が足りなかったとか、探し方が悪かったとか、そういうことじゃないんだよ」

 あおいはほほの肉を噛んで、鼻の奥がつんとするのをこらえた。わたあめのようなタタラの声が、彼女の心のやわい所を撫でる。

「……やめてください」

「断言する。これはお前のせいじゃない。お前が関与できないところで起こったことだ」

「やめて」拒絶するように声を荒げると、その弾みで、彼女の中の何かがぷちん、と切れた。そういう音がした。

「わたしなんかきっと、猫に迷惑をかけすぎたから嫌われちゃったんです。猫はさらわれたわけでも、鬼になっちゃったわけでもなくて、ただ私のことが嫌になって、それでいなくなっちゃっただけなんです。あの時、わたしが猫の言うことを聞かなかったから。振り返りもしなかったから。隣りにいるのが当たり前だと思って、大事にしなかった。……だから猫は怒って、どこかへ行っちゃったの」

 次第に、視界がじわりとにじみ始めた。これまで堪えてきたものがついに決壊したような具合で、もうどうにも堰き止められそうになかった。ゆがんだ輪郭が手のこうで弾ける。彼女はそれを、ただ眺めた。

「……人が堕ちる原因は、二つある」小刻みに震える肩を見つめながら、千歳は独り言のようにぼそりと呟いた。「一つは心をくすこと。もう一つは、鬼堕に堕とされること」

 彼は静かに続ける。

「思考は海のようだと、山鵲がよく言っていた。俺も、それはその通りだと思う。良くも悪くも身を任せればどこまでも果てなく流れていって、ふと気付くとひとおきの上に浮かんでいる。そのまま岸に上がる努力をしなければ、いずれ沈んで、あとは落ちるだけ。〝心を失くす〟というのは、そうやって、自分のものでもなければ真実でもない感情におぼれることだ。今のお前のように」

 防災無線が遠くで鳴っている。この時期、かすみ町では平日の十六時に『愛の鐘』が流れる。町の子供たちにとっては、これが帰路に着く合図である。あおいや猫も例に漏れない。彼女はそんな耳慣れた音楽を聴きながら子供のように泣き、千歳とタタラは黙って彼女が落ち着くのを待った。


          □


「さっきの話だけど」タタラはあおいにティッシュペーパーを手渡しながら口を開いた。

「三谷町さんは、あおいちゃんの分まで持つの、好きだったんじゃないかと思うよ。そうじゃなきゃ、長いこと一緒にいたりしない」

 あおいは遠慮なく鼻をかんで、最後にひとすすりした。そうかな、と呟いた声は、思いの外頭の中で反響した。

「でも、どうして言い切れるの? 私のせいじゃないとか、猫がその、オニオチだとか……」

「それは、あおいちゃんが〝むすび〟だからだね」

 またおかしなワードが出たぞ。彼女は身構えた。何ですかそれ、と問うと、千歳が慣れた調子で答える。

「鬼堕を視認でき、唯一確実に救うことが出来る、鬼堕と強い精神的繋がりを持った人間のことだ。俺達は結と呼んでる」

「わたし、鬼なんか見たことないのに……。結って何でわかるの?」

 千歳は彼女の様子をじいっと見つめた後で、最後の煙をふ、と吐いた。そして灰吹はいぶきに燃えさしを落としながら、やはり淡々と答えた。

「それは、お前に俺が視えているからだ」

 ゆっくり顔を上げた彼女の目は、皿の様に見開かれていた。二人の視線が重なる。

「俺は、鬼堕だ」

 ウソでしょ、そう言ったつもりが、僅かに空気をんだだけだった。

 あおいには、この八鶏千歳という男が──少々奇抜な格好をしていることを除けば──至ってただの人に見えた。アニメや映画で描かれる幽霊のように透けてもいなければ、顔色も悪くない。〝目に見えない存在〟にしては輪郭がはっきりしているし、〝鬼〟というのに角がどこにも見当たらない。

「からかってます……?」疑いの眼差しを向けるがしかし、彼はまじめな顔で首を傾げた。

「俺が? 何のために」

 目の前の自称鬼堕の顔には、理解不能とハッキリ書いてあった。嘘はついていない。ように見える。が、果たして信じてよいものか。悩ましい。彼女は苦々しく思いながら眉間に力を込めた。

「もし、八鶏さんが本当に鬼堕で、わたしが結だとして、そうしたら、初瀬さんは? 初瀬さんだって八鶏さんのことが見えてるのに、それって変じゃないですか?」

「何が言いてえ」

「だからつまり、わたしに都合がよすぎるんじゃないか、って」

 思って。言い切る前に口ごもったのは、千歳があまりにもあからさまに「めんどくせえな」という顔をしたからだった。むしろ、「めんどくせえな」と言っていた気さえする。そんなほどに。

「めんどくせえな。都合がよくて悪いことがあるのかよ」

「ないけど、都合が良すぎて騙されてる気がしてきたの! 何のために騙そうとしてるのかはわからないけど!」

「めんどくせえなあ」

 いよいよ貧乏揺すりも露骨になってきたところで、タタラが間に割って入った。「ごめんごめん、それはねえ……」と言いながら、千歳の顔を力任せに押し退ける。

「それは、俺がこれの結だから。──というか、俺達の方もある程度アタリ付けてからあおいちゃんに会ってるからさ、都合がいいのは当然といえば当然なんだよね」

 まったくその通り、と言わんばかりに、千歳は押し退けられたままウンウン頷いている。「第一コッチは行列のその日に悪鬼を探し始めてんだからな」

「アッキー?」

悪鬼あっきね。せんや三谷町さんと違って堕ちたくて堕ちてる、言葉の通り悪い鬼堕だよ。奴らは鬼堕になる謂れのない人を、手当たり次第に堕として回ってる。仲間が欲しいのか何なのか、理由はわからないけど」

「それで、その悪鬼ぃと、猫に、どんな関係が……」

 あおいは混乱のあまりショート寸前の頭をかき混ぜた。これはテストに出るんだっけ? 公式はどれを使うんだっけ? 北条誰だっけ? 見かねた千歳は、机の上で転がっていた鉛筆を右手で手繰ると、顧客管理用の台帳に何やら字を書き出した。

「一、百鬼行列に悪鬼が現れる。二、ネコが堕とされる。三、俺達が悪鬼捜索を始める。四、お前の情報が入ってくる。これが時系列。で、会ってみたら俺のことが視えるもんだから、堕ちてるんだなって話になってるわけ。わかったか」

「な、なるほど……?」

 ぶっきらぼうに差し出されたノートには、大振りな字が踊っていた(実際、彼の筆跡は『踊っていた』と表現するのが適切なほど崩れていて、常人には到底読み解けるものではなかった)。あおいはそれを受け取ると、羅列された項目を眺めながら自分の五十日間を想った。それから、想像の中にいる猫のことを。

「だいたいのことは、何となくわかりましたけど……。それで、結って何をすれば?」

「仕事は単純。ネコが見つかったら、ゆるせ」

「ゆるすって、わたしたち別にケンカしてたわけじゃ……」

 千歳は再び、慣れた調子で答える。

「前提として、鬼堕と結の関係は宥恕ゆうじょ受諾じゅだくだ。鬼堕は結に罪を恕されることで解脱げだつ──つまり、人に戻ることができる。それ以外の方法は、基本的にはない。結が恕し、鬼堕が受け入れる。理屈どうこうじゃなく、そういう仕組みだ」

「むずかしすぎる……」

 あおいは唇を噛みながらスマートフォンを叩き、「ユウジョってどれですか」と検索画面をタタラに見せた。指し示された言葉の意味は、読んでも何だかわかるような、またわからないような気がして、結局ひとつも助けにならなかった。

「俺のイメージとしてはさ、罪を恕すっていうか肯定って感じなんだよね。存在の肯定。『大丈夫だよ、戻っておいで』──みたいな」

「あ、それならわかりやすいかも」

「そうでしょ」

 得意げに笑いながら、タタラは千歳の顔をちらと見た。彼は視線の先で、苦虫を噛み潰したような渋い顔をしている。べ、と舌を出して見せると、顔中の皺という皺をみるみる中心に集めて、ついにはそっぽを向いた。

「結が恕すだけじゃなくて鬼堕がそれを受け入れきゃいけないってことは……、もしも受け入れられなかったらどうなっちゃうの?」あおいは念の為メモをとりながら、ふと浮かんだ疑問を口にした。「それってありえる?」

「大いにありえる。で、その場合はほら、あの人みたいになるってことだね」

 タタラは千歳を指差しながら答える。

「あれが、結の宥恕を拒否し続けて幾星霜いくせいそうの生きた化石」

「ええ? あ、そっか。そうだよねえ。八鶏さんが鬼堕で初瀬さんがその結ってことは……、戻ろうと思えばすぐ戻れるのに、どうして元に戻らないんですか?」

「どうでもいいだろうが、俺のことは」千歳は皺を集めたまま言った。

「もしかして、初瀬さんが恕さないから……とか?」

「恕した恕した」

「ですよねえ、さすがに」

「さすがにね」

「おい、話を戻せ」

 いい加減になって千歳が声を荒げると、タタラは「はいはい、悪かったって」と適当に返事した。「で──、何だっけ」

「ええっと、猫が見つかったら何をすればいいかはわかったから……、それまでは?」

「待機」千歳が即答する。「見つかったらタタラが連絡入れるから、しばらくじっとしてろ」

「それだけ?」

「それだけだ」

 なんだか大雑把おおざっぱな作戦だなあ。あおいは不安に思いながらも、とりあえず頷いた。スマートフォンのメモ帳には、「はつせさんからの連絡をまつ」とだけ記しておく。

 あおいの胸中は、どうにもそわそわし出していた。冷静でいようと努めても、あと三日で再会できるのだという期待感が隠せない。会ったらまず何て言おう。とにかく謝らなくちゃ。頭の片隅では、そういう妄想が勝手に膨らんでいる。

「まあ、お前は連絡を待ちながら、何事もなくフツーに事が済むよう祈っとけ」

 一瞬、彼女に視線をやってから、千歳は再び煙管に火を点けた。煙を吐く度、店内の匂いが濃くなる。

「……わかった」

 あおいはスマートフォンをポケットに仕舞い込むと、背筋を伸ばして肺の空気を入れ替えた。脳へと向かうヘモグロビンに「しっかりせよ」と逐一ちくいち言い聞かせる。それから鼻をぎゅっとつまんで、口の中でくさ、と呟いた。


          □


「──やっぱり、いいように利用されてるだけですよね。私達。彼に」

「そうかい?」

「そうですよ。甘やかしすぎだと思います」

 夜半よわ、人気の消えた千聚堂に二つの声が響いていた。一方はしわがれた老爺のもの。もう一方は、弦楽器の音色のようにハリのある若い女性のものだった。

 物音ひとつしない静寂の中、彼らの声だけが空気にさざ波を立てる。

「ほいほい引き受けないで、たまには追い返せばいいのに。あの朴念仁ぼくねんじん、当然引き受けてくれるもんだと思って、高括たかくくってるんですよ。ほんと、むかつくったらないわ」

「まあまあ、そう言いなさんな。瑞希みずきだってそのうち、向こうの手を借りる時があるかもしれねえだろう? 持ちつ持たれつってやつさ」

「持ちすぎなんですよ」

 瑞希と呼ばれた女性は、声音を尖らせてぷつぷつ文句を垂れた。どうしてこう甘いんですか、と言うと、老爺──山鵲はくつくつ喉を鳴らして笑いながら、

「この狭い社会、支え合いながらやっていこうってことだな」

「またそれ。そろそろお説法の種類、増やしたらどうですか」

 二人が会話を区切ると、堂内は再び眠ったように静まり返った。時折、境内けいだいの木々が弱い風になびいたのがわかるくらいで、あとはほこりが床に触れる音すら騒々そうぞうしく思われるほどだった。

 ややあって、山鵲が咳払いをひとつした。

「まあ、うまいことやってくれ」

 彼の信頼したような物言いに、瑞希はわざと大袈裟に息を吐く。それから一拍間を置いて、一際強い声音で念を押した。

「いいですか。山鵲さんが言うから手伝うんですよ、私は」

「ちゃあんと、わかってるよ」

「ずっと、わかっててくださいね」

「わかってるとも」

 彼が言葉を終えると同時に、正面の木造扉がギイと鳴いた。ちょうど人が一人通れるだけ空いた隙間から、月光が差し込む。千聚堂には誰の姿もない。千体の観音像だけが、彼らの会話を聞いていた。

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猫に暁 七辻 @nanatsuji777

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