鬼ノ目堂
現在では見る影もないが、その昔、かすみ町の中心地といえば
旧霞商店街と呼ばれて久しい街道の東西南北には、全高八メートルはあろうかという大きな門が建っていた。その昔には商店街のシンボルとして人々に親しまれた朱色も今やすっかり日に焼けて、塗装はところどころ剥げている。街道はといえば、雑草に
あおいは門の
──やっぱり、イタズラだったかなあ。あおいは
はじめから、この
そもそもの話、五十日前からここまでただの一歩も進んでいないのだから、今さら待ちぼうけたからといって、損をすることなど何もないではないか。待てるだけ、待ってみよう。彼女はそんなふうに自分を納得させると、冷えた空気を肺いっぱいに吸い込んで気合を入れ直した。
「ああ、よかった! まだ居た!」
夜のゴーストタウンに
一体何事か。警戒しながら顔を上げると、そこには大学生風の青年が息を切らして立っていた。
「凛藤あおいさん、だよね?」
「そうですけど……」
あなたは? 彼女が尋ねるより先に、青年は身体中の酸素を吐き出しながらへなへなとその場にしゃがみ込んだ。
「あのお、もしかして、きのめどうさん……ですか?」
青年の様子を見て、あおいはピンときた。
「き……?」
「十七時に、ここで待ち合わせの」
あおいはメモ紙を広げて(宛先は間違えてたし、大遅刻ですけどね、と内心
「おにのめどう!
「〝おに〟……」
「俺は
「はつせ、さん……」
彼女は差し出された手をおずおずと握った。〝しょせ〟じゃないのかあ、とは、言わずに飲み込む。どんな仙人じみた老人が現れるのかしら、なんて想像していたのが
「寒い中、だいぶ待たせちゃってごめんね。教授の話が長引いちゃって」タタラは彼女の様子など気にも留めずに続けた。
「いいえ、全然。待ってたのはわたしの勝手だし……」
「ここは寒いから、さっそく移動しようか」
「あ、これからどこかに行くんですか?」
「そ。〝きのめどう〟にね」ニヤリ。いたずらっぽく
じゃ、行きますか。そう言うと、彼は南門を
──商店街の中にお店って。タタラの背中に目を向けながら、あおいは少し思案した。旧霞商店街の中を歩くのは、彼女にとって初めてのことではあった。しかし、かすみ町で生まれ育った人間ならば、こんなところに廃屋以外の建物がないことくらい誰でも知っている。もし、本当にバイトを
とはいえ、性善説を唱えながら人事を尽くすより他に、できることなど何もない。まあ、悪い人には見えないし。コケツニイラズンバ
「凛藤さんは今……えっと、一年生か」
「あ、はい。高校一年です」
「
「はい」
「そっかあ」
道中は、
初瀬タタラはかなり社交的な性格らしい。あおいは警戒と持ち前の人見知りでエラーを繰り返したが、彼のアシストのおかげで会話が途切れることはなかった。
「懐かしいなあ。実は俺、卒業生なんだよね」
「へえ。初瀬さんは大学生、ですか?」
「うん、大学二年。電車で通ってるから、駅降りてすぐ死ぬほど走ってさあ」
「ええ、遠くないですか?」
「遠い遠い。おかげで冬なのに汗だくんなっちゃった」
──やっぱり大丈夫かも。
旧霞商店街は、噂に
「……ところで、鬼ノ目堂って、何のお店なんですか?」
「説明しづらいんだけど……。そうだなあ、
「なんでも屋……?」
「まあその、心構えとしては、できることは何でも屋……みたいな」
「はあ……」
怪しさは増すばかりである。
そんな町中でも流行るかどうかわからない業種をゴーストタウンで? 彼女の
「やっぱり怪しいよねえ」
「あ、いえ……。そういうわけでは……」
あおいは慌てて取り
「めちゃくちゃ怪しくて全然信じられないと思うけど、協力はできるはずだから」
□
「先に謝っておきたいんだけど」タタラは引き戸に手をかけながら言った。
「たぶん、中も大して暖かくないと思う。一応ストーブを点けておくよう頼んだけど……、アテにならなくて」
果たして、店内もまったくの
「俺、店長呼んでくるから。凛藤さんは入って適当にしてて」
「あ、はい」
彼は慣れた足取りで奥へ行ってしまった。
一人ぽつんと残されたあおいは、どうしたものかしばらく考えた。大人しく中で待つべきか、外で待つべきか。そして結局、身を切る風の冷たさに耐えかねて意を決した。背に腹は代えられない。たとえ寒さは同じでも、この風がないだけましというものである。
「おじゃましまーす……」
タタラの
そうしてようやっと鼻腔をせき止めて呼吸することに成功したとき、突然、彼女の脚になにやら
視界不良の中、得体の知れない感触。あおいは声にならない悲鳴を上げながら、パニックに
「もお、
お化け屋敷じゃないんだから! 彼女は今すぐにでも逃げ出したいのを
「なあんだ、びっくりした。かわいいやつめ、
二羽は、ずいぶん人に慣れているようだった。突然スポットライトが当たっても
謎の毛玉X改め大物ニワトリのおかげで
「何だ、人間のガキじゃねえか」
チカチカする視界を慣らしていると、
顔を上げると、すぐ目の前で、身長2メートルはあろうかという和装の大男があおいを見下ろしていた。二羽がいそいそと逃げる。
「うるせえな。おい、タタラ。このガキか?」
「お客さんに向かって『ガキ』はないだろ。見下ろすのもやめろ。ただでさえデカくて怖いんだから」
大男の影からタタラが顔を覗かせた。湯呑みの乗った盆を手に、大男を
「ごめんねえ。この人、
千歳はタタラの紹介に眉を
「そうは言っても、目的は一緒なんだから」
「一緒かどうかはまだわかんねえだろ」
「ああ、そんな態度じゃ一生かかってもわからないだろうね」
何だと。やんのかこんにゃろ。二人をはあおいを置いてけぼりにして、子供のケンカじみた
「すみません、わたし話が全然見えなくて……」
やがておずおず挙がった手によって、試合終了のゴングが鳴った。タタラは心底すまなそうに割って入った彼女の顔を見て、早々にファイティングポーズをやめた。
「ごめんごめん、こんなことをしてる場合じゃなかった」
□
「わかってるだろ、
一人さっさと奥の小上がりに移動した千歳は、
「で、ネコが何だって?」
彼女がタタラに促されるまま小上がりに掛けると、千歳がめんどうくさそうに
独特な雰囲気を
「ええっと、この前の百鬼行列に二人で行って、はぐれちゃって……」
「……」
「それから、行方不明っていうか……。二ヶ月も探したけど、見つからなくって」
「……」
「け、警察からも、目撃情報とかまだ
「……」
「……そ、んな感じ、です」
言い終わると同時に、鬼ノ目堂は沈黙した。
千歳の顔を盗み見ると、表情を変えないまま相変わらず煙を
大物ニワトリの二羽がちょっと歩いては床を
「行列は何日前だ?」
「え、あ、に、二ヶ月前……くらい?」
「正確に」
「──ちょうど、五十日前だね」
あわあわ慌てるあおいの代わりに、タタラが答える。彼はスマートフォンのカレンダーを見つめながら、あちゃあ、という表情を隠せない。かたや千歳は半開きの目をさらに細めると、ため息ついでに呟いた。「頃合いだな」
「お前」
「〝凛藤さん〟」
「リンドウ、俺はネコについて多少の情報を持ってるし、探し出すのも……まあ、そう大して難しいことじゃない」
「じゃあ……!」
「が、お前に協力するかどうかは、お前の目的次第だ」
空気がぴりつく。指先ひとつ動かすことさえ
「
「目的……」
「どうしてウチに来た」
「それは……猫の情報を、少しでも得られるんじゃないかって、思って」
「情報を得てどうする」
「……探す、に、決まってるじゃないですか。……何が、言いたいんですか?」
一瞬、千歳がタタラに何か確認するような視線を送った。それから煙管を置き台に立てて、
「俺達の目的は、ネコを見つけ出したその先にある。つまり見つける必要があるんであって、べつに
「俺はそんなふうには思ってないけどね」
「……だから、お前がこの件をすべて俺達に
あおいには、彼の言い分の半分も理解ができなかった。要するに協力しろと言っているのだろうという所までは理解ができる。しかし、それがどうして命を張るだの何だのという話になるのか。彼女の頭上には
「こっちの都合だがお前の意思を先に聞いておきたい。ネコの為に命を
息を呑む音がした。あおい自身だったか、他の誰かだったかはもうわからない。じわじわと腹の底から広がっていく緊張感が、彼女とその他との境界を
遠くで時報が鳴る。四つの目が、
「猫を救けられるなら。わたしの命くらい、いくらでも」
「よし」千歳は満足げに頷いた。
「たった今から、俺達は協力関係だ。ネコを見つけ、救出するまで俺は俺の持てる全てを惜しまない。だからお前も、ネコに関する情報は出し惜しみせず全部渡せ」
「い、命はどこで賭けたら……」
「それも含めて、お前には説明しなきゃならないことが山程ある。……だが、今から説明してたら日付変わっちまうからな。
気がつくと、時刻は二〇時を回っていた。スマートフォンには母親からの着信が三件。あーあ、これは説教コースだなあ。あおいは渋い顔で液晶を睨む。
窓の向こうは
「遅くなっちゃってごめんね」
タタラはそんな彼女の顔色を伺いつつ、無造作に放置したままの上着を羽織った。「お家の人、何て?」
「大丈夫。遅くなるかも、とは言ってあるから、たぶん『何時に帰るの?』っていう連絡だと思います」
「そっか」タタラは内心ほっと胸を撫で下ろす。
「まあ、
「おい、お前は帰るなよ」
「お先に失礼しまーす」
「おい」
「冗談冗談。凛藤さんを家まで送ったら戻るって」
「え、いやいや大丈夫ですよ。そんなわざわざ……」
「未成年をこんな時間に一人で帰すわけにいかないでしょ」
世の中こういう不審な人もいるんだよ。千歳を指差しながら言うと、あおいはふっふっと息を弾ませて笑った。
二人肩を並べながら外へ出ると、雪が降っていた。
通りで寒いわけよねえ。わざとらしく吐いた
「あの、八鶏さん」
「どうぞ、よろしくお願いします」
「……おう」
少しの
彼の背中を見送ってから、あおいとタタラも揃って
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