地下室の少女
三鹿ショート
地下室の少女
父親が入院をしたと聞き、取るものも取りあえず病院へと駆けつけた。
寝台で眠っている父親に様々な管が繋がっているところを見ると、病状は良くないのだろう。
医者から説明を受け、相槌を打っていたものの、内容のほとんどは頭に入っていなかった。
それほどまでに、父親が倒れたということが衝撃的だったのである。
幼少の時分に母親を失って以来、父親は私が孤独感を覚えないためにと、常に私のことを優先してくれていた。
そのためか、私は父親に反抗することはなく、親子の仲は良かったといえよう。
私が社会人となり、ようやく恩返しをすることが出来るようになったと思った矢先の出来事は、私に冷や水を浴びせた。
***
父親の着替えなどを取りに実家へと向かう足取りは、今までに感じたことがないほどに重かった。
道中の公園に立ち寄り、長椅子に座って項垂れていると、いつの間にか陽が沈んでいた。
大きく息を吐きながら立ち上がり、歩みを再開させる。
ようやく実家に辿り着き、鍵を開け、中に入った。
私が独り暮らしをするために出て行った頃と、まるで変わっていない。
何時戻ってきても不安にならないようにと気遣ってくれていたのだろうか。
そう考えると、自然と涙が流れてきた。
衣服の袖で涙を拭いながら、父親の部屋へと向かう。
着替えなどを用意している中で、机の上に置いてある紙切れを発見した。
そこには、震えながら書いたような文字で、地下室の掃除とだけ記載されていた。
意識を失いかけながらも、父親が必死に書いたものなのだろうか。
遺言ではなく、ただの指示だと考えながら、私は地下室へと向かうことにした。
居間に敷かれている絨毯を取り除き、取っ手を掴んで引っ張ると、地下室へと続く階段が姿を現した。
電気が点いたままであるらしく、居間からも内部の様子が見える。
そこで、人間の脚のようなものが見えた。
見間違いではないかと思い、瞑目し、深呼吸をしてから、再び目を開ける。
人間の脚は消えることなく、そこに存在していた。
一体どういうことなのかと困惑しながら、ゆっくりと階段を下りていく。
地下室には、一人の少女が横たわっていた。
聞き耳を立てたところ、彼女から寝息が発せられていることに気付いた。
死体ではないことに安堵しながらも、同時に、疑問を抱く。
何故、彼女はこのような場所で眠っているのだろうか。
地下室の扉は、自身の力で開閉が可能だが、絨毯が敷かれていた状況を考えると、彼女は閉じ込められていたということになる。
まさか父親が眼前の少女を監禁していたとでも言うのだろうか。
そのようなはずはないと即座に思考を霧散させようとしたものの、彼女の周囲には多くの飲食物が散らかっていたため、疑いが消えることはなかった。
我が父親は、何を考えていたというのだろうか。
思考する私の気配に気が付いたのか、彼女は目を覚まし、私に意識を向ける。
だが、取り乱すようなことはなく、近くに転がっていた飲料水を口にすると、
「あなたがあの人の息子なのでしょうね。一体、これからどうするつもりなのですか」
そう尋ねてきたが、質問の意味が分からなかった。
首を傾げる私に対して、彼女は昨晩の食事を語るような調子で、
「あなたの母親の生命を奪った私をどうするのかと、訊いているのです」
私は、耳を疑った。
***
私の母親は交通事故が原因でこの世を去ったと聞いていたが、彼女いわく、
「自動車が行き交う道路に突き飛ばしたらどうなるのかを、知りたかったのです」
幼い彼女が一人で道を歩いていたため、私の母親は心配そうに声をかけたらしい。
彼女が自宅の場所を伝えると、私の母親は彼女の手を握り、共に帰宅しようとした。
信号機の色が変化するのを待っていた中、彼女は先ほどのような疑問を抱き、それを実行したらしい。
当然ながら、幼い彼女が私の母親を突き飛ばしたということなど、誰も考えなかった。
しかし、成長していく彼女が様々な問題を起こし、反省の色を見せないその姿から、私の父親は彼女のことを疑うようになった。
やがて、父親が問いかけると、彼女は悪びれる様子もなく、自らの罪を語った。
「私にしてみれば、呼吸をするようなものです。呼吸をすることに対して、いちいち説明する必要は無いでしょう」
その態度に、父親の中で何かが弾けた。
これまで悪事など一度も働いたことがなかった善人は、一瞬にして黒く染まった。
彼女を地下室に閉じ込め、毎日のように苦しみを与え続けたが、死に至るような行為に及ぶことはなかった。
それは、彼女を何時までも苦しませるためだった。
飲食物を地下室に常備していたのは、彼女が餓死しないようにと配慮した結果だろう。
優しさと残酷さが混ざったその思考を父親が抱いていたことに、驚きを隠せなかった。
だが、父親が母親との思い出を語っていたときの姿を見れば、どれだけ妻を愛していたのかが分かる。
だからこそ、全てを失うことになるとしても、彼女が許せなかったに違いない。
父親が私に書き置きをしていたのは、事情を知れば、同じような行動に至ると考えたためだろう。
しかし、私の中には母親に関する思い出がほとんど無かった。
物心がつく前にこの世を去ったことを考えれば、当然だろう。
ゆえに、私が彼女に対して特段の感情を抱くことはなかった。
だからといって彼女を解放することになれば、父親の悪事が露見してしまうことになる。
「明かすつもりはありません。報復されたとしても仕方が無いことをやったのですから」
彼女が私の父親に対する恨み言を吐くことはなかった。
まるで機械のようである。
何に対しても感情を抱くことなく、ただ目の前の現実を受け入れている。
私は、彼女に恐怖を覚えた。
彼女を解放してしまえば、私の母親と同じような目に遭う人間が現われるのではないか。
もしかすると、父親は彼女の監禁を私に任せるために、書き置きをしたわけではないのかもしれない。
父親は私と同じような思考を抱き、地下室の掃除、つまり、彼女の始末を、私に頼んだのではないか。
彼女は無表情のまま、私を見上げる。
私が誰に明かすこともなく、二度と地下室の扉を開けなければ、やがて食料も底をつき、彼女は自然に餓死するだろう。
おそらく、彼女は私を恨むことはない。
だが、私が平気ではいられない。
この世から去る時間が確実に近づいている人間を放置して気分が良くなることなどない。
かといって、彼女の監禁を続けようとも思わなかった。
頭を悩ませた私は、父親が余計なことをしたことに、腹を立てた。
しかし、即座に後悔した。
私のために人生を捧げてくれた父親を恨むなど、あってはならないことだ。
だが、父親があのような書き置きをしなければ、悩むこともなかったのである。
懊悩する私に、彼女が近付いてくる。
やがて、彼女は接吻するかのような位置に立っていた。
監禁されていたものの、彼女が発する匂いは異性を惑わせるようだった。
一瞬だが、そのことに思考を奪われていたためだろう、彼女がそれまでとは異なり、素早い動きをしたことに気が付かなかった。
何をしたのかと疑問を抱くと同時に、私の首から赤い液体が噴出し始めた。
立っていられなくなり、私はその場に倒れ込んだ。
呼吸ができず、激痛に襲われ、意識が遠のき始める。
彼女は声にならない声を出す私を見下ろしながら、
「私はあなたの父親の行為を明かすことはありません。恨みを持つ人間に報復されることは当然でしょうが、それを他の人間に責められたくはないですから」
見れば、彼女の手には、鋭利なものが握られていた。
おそらく、飲料水が入っていた容器を削って、尖らせたのだろう。
彼女はその武器を衣嚢に仕舞うと、階段を上がっていきながら、私に声をかける。
「あなたがそのような目に遭ったのは、こうしなければ、私が安全に脱出することが叶わないためです。恨みも何もありません。私という人間の前に姿を見せたことが不運だったとしか言えませんね」
しかし、私にはもう何も聞こえていなかった。
地下室の少女 三鹿ショート @mijikashort
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