先輩はコーヒーばかり飲んでいた

烏川 ハル

先輩はコーヒーばかり飲んでいた

   

 入口のベルがカランと鳴る。お客さんが来た合図だ。

「いらっしゃいませ」

 定型の挨拶を口にしながら視線を向けると、入ってきたのは私より少し年上の男性。

 中央で分けた髪型と黒縁の眼鏡から、いかにも真面目そうな印象を受ける。私が密かに眼鏡先輩と呼んでいる人だった。



 私がアルバイトしている喫茶店は、最近流行はやりのチェーン店ではなく、昔ながらの純喫茶だ。

 店内の調度品はコーヒーと同じ茶色で統一されて、照明は少し控えめ。落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 大学からは歩いて十数分。この辺りも学生街のはずだが、お客さんはスーツ姿のサラリーマンや地元のおじいさんたちが中心で、あまり学生は見かけない。

 大学の友人と鉢合わせる心配がないからこそ、ここをバイト先として選んだくらいだった。


 そんな中、少し前から一人の若い男性客が頻繁に訪れるようになっていた。

 服装からするとサラリーマンではなさそうだ。オムライスやナポリタンなどの軽食もメニューにあるのに、彼が頼むのはいつも一杯のコーヒーだけ。学生にしては贅沢なお金の使い方だな、と感じていた。

 毎日のように飲むならば、チェーン店やファストフードの方がお財布に優しいはず。それどころか自分でコーヒーメーカーを買った方が安上がりかもしれない。

 でも、わざわざこのお店に通うのだから、よほどここのコーヒーが好きなのだろう。マスターもそう考えているらしく、彼が来るたびに嬉しそうな顔になっていた。


 そんな男性客が同じ学部の大学生だと気づいたのは、たまたま校舎の中で彼を見かけたからだ。

 一時限目の授業のために三階の講義室へ向かう途中、階段で私の前を歩いていたのが彼だった。一階から一緒だったようだが、三階までの私とは異なり、彼は四階へ上がっていく。

 四階にあるのは講義室ではなく、いわゆる研究室ばかり。利用するのは学部の四年生と院生だけだ。ならば彼は私より先輩ということになる。

 その日から私の中で、彼のニックネームは眼鏡先輩となっていた。



「アメリカンコーヒーをひとつ」

「かしこまりました」

 眼鏡先輩は今日もコーヒーを注文する。ただしコーヒーの種類はいつも異なっていた。アメリカンやブレンドみたいな定番を頼むのは珍しく、私には馴染みの薄いコーヒーの方が多かった

 例えば、ターキッシュコーヒーとかダッチコーヒーとかだ。どちらも特殊な抽出器具を用いたコーヒーで、ここでアルバイトするまで私は飲んだことがなかった。前者は舌の上にザラッとした感触が残るし、後者は水出しという点で、私はちょっと苦手だ。

 でも眼鏡先輩は、どんなコーヒーも満足そうに飲んでいる。注文したコーヒーが来るまでは文庫本を広げているのだが、それをわざわざ鞄にしまって、コーヒーを味わうことに集中している様子だった。

 よほどコーヒーが好きなのだろう。



「あの男の子、うちの全メニュー制覇しちゃったね」

「あら、そうなんですか」

 マスターとそんな会話を交わしたのは、眼鏡先輩がお店に通い始めてから一ヶ月以上が経過した頃だ。

 彼はコーヒーしか頼まないのだから、全メニューといってもコーヒーに限った話のはず。

 また、ただ単にメニュー制覇が目的ならば同じコーヒーは二度と頼まないだろうに、そうでもなかった。だから彼は純粋にコーヒー全般が好きで、色々と楽しんでいたのだろう。

 私はそう思ったのだが……。

 それから一週間くらいして、眼鏡先輩はお店に来なくなってしまう。


「あの男の子、どうしてるのかな? 病気とか怪我とかじゃなければいいけど」

 常連客が来なくなるとマスターは心配するたちで、眼鏡先輩もその対象となった。

 彼が同じ学部だとは告げていないので、マスターを安心させるようなことは何も言えなかったが……。

 四月になって、四年生に進級した私は、大学で眼鏡先輩と再会する。

 一年間の卒業実習のために配属された研究室に、眼鏡先輩がいたのだ。彼は院生で、私から見れば二つ上の先輩だった。



 大学の研究室では実験ばかりでなく、論文を読むなど勉強する時間も長い。

 各自一つずつ机が与えられており、お茶やお菓子を口にしながら勉強する者もいる。ならばコーヒー好きの眼鏡先輩は、いつもコーヒーを飲んでいるはず。

 そんな想像とは異なり、一週間ほど観察しても、彼が飲んだのは緑茶と紅茶のみ。

「先輩って、コーヒーが好物じゃないんですか?」

「ああ、そうか。君はあの喫茶店の……」

 不思議に思って尋ねると、そこで彼はようやく気づいたらしい。私とは既に面識があったのだ、と。

「まあ嫌いじゃないけど、大好物ってほどでもないよ。実は僕の趣味は小説を書くことで……」

 眼鏡先輩は、少し恥ずかしそうに説明してくれた。

「ちょうどあの頃は、執筆中の小説の主人公がコーヒー好きでね。それで味の描写の参考にしたくて、僕も飲み歩いていたのさ」




(「先輩はコーヒーばかり飲んでいた」完)

   

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

先輩はコーヒーばかり飲んでいた 烏川 ハル @haru_karasugawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ