「物語」の加害性、その行き着く先を描いた「物語」

 カクヨムSF研3に参加されていらっしゃったので、レビューを書き込ませていただきます。以下、本文です。

 少なからず荒っぽい部分はあれど、魅力的な題材を扱っている小説だった。『華氏451度』×『ハーモニー』+『虐殺器官』という感じ。あらゆる「物語」が禁止された世界、というドデカい設定をうち出しているのがやはり大きな魅力だが、本編で触れられている通り、現実の人間が、少なからず物語を通じて物事を認識している以上、認識の地盤が根本から制限されている世界を構築するには、もう一つ設定の緻密さが欲しかったように思う。
 まず、「物語」という語はあまりにも多くのものを包括するため、厳密な再定義を行うか、もう少し指す範囲の狭い言葉(適切かはともかく「ドラマ」など)を選ぶ、ないし、造語を作ってしまっても良いように思われる。
 作中で語られる、「物語」が規制された理由は、要するところ、「無数の絶対視された主観(物語)の乱立が、他者への思いやりをなくし、世界を乱したため」であろう。この点は自分好みだし、そうした現在をなんとかせねばなるまいな、と思う気持ちは広くあるだろう。それに対して作中で出した結論は、「物語(=思想の型)」をなくすことで、皆がうっすらと親切にし合える世の中にしよう、というものだった。この場合の「物語」は、例えばソ連崩壊を指して(マルクス主義という)「大きな物語の崩壊」といった場合の「物語」に近いように思えるが、本作においては小説や神話など、一般的な「物語」も規制の対象となっており、それらを全て一括りにするのは釈然とせず、やはり「物語」の切り分けが必要であろうと感じた。
 或いは、あらゆる「物語」を規制の対象にするのであれば、単にメディアを統制する、教育の仕方を変えるといった手段ではなく、手垢のついた手段ではあるが、脳にチップを埋め込むレベルの、もっとラディカルな規制方法が必要なのではないか、と思う。認識手段の根底を形作るものを転換させる以上、それこそ、「虐殺の文法」のような納得感のある仕掛けを行うか、「ファイアマン」のように物理媒体に限るか、どちらかが必要であると感じる。また、広げた風呂敷が大きいので、自己言及的な話にする、という展開の仕方もあったのではないか、と思われる。
 粗さや飛躍の足りなさは感じるものの、個人的には水が合ったのか、読んでいて思考が働かされる、良い読書体験をしたように思う。私的には、強力な主観の多様化・乱立の先に、想像力の拡張によって相互理解を目指す方向へ、現実は向かって欲しい。