最終話 春を連れてやってきた

 事業所では先輩職員や利用者から「田吾作」と呼ばれ続けているが、僕は田川だ。別に不満とかそういうわけではない。名前は記号だ。それ以上の何もないと思っているので、「田吾作痴漢丸」とかひどいあだ名をつけられない限り、文句はない。



「おい田吾作。ちゃんと車いすを押せ」


「押してるじゃん」


「なにが『じゃん』だ。何か変なことを考えているだろう」

 グループホームはマンションの一室を借りている。


 寮みたいにして、事業所内でしっかりサポートした方がいいという意見もあるが、お金はたくさん必要になる。お金の無い事業所、補助金があるとはいえ、新施設建造は難しい。


「あっ、小沢さん。この前藤堂さんのチョコレートケーキ食べたでしょ」

 藤堂さんは朝からあるはずのチョコレートケーキが無いことでパニックになったらしい。


「なにを言う。食べてなんていない」


「そうだよね。あれ賞味期限切れていたみたいだし、そういえば小沢さんお腹の調子悪かったよね」

 残った外箱に書かれている賞味期限が一週間くらいオーバーしていた。


それを知った藤堂さんは朝からトイレに入っている小沢さんを見て、何か思う事は無かったようだが、職員は感づいていた。


「何がいいたい」


「別に何も、事と次第によっては名村さんに報告かな?」

 小沢さんは目に見えて焦りだした。


「報告なんかすることない。どうせ捨てたこと忘れていたんだ藤堂の奴」


「小沢さんホーム着いたよ」


「いやダメだ。ちゃんと話をつけよう」


「はい、池波さん。今日も頑張って過ごされていましたよ。なぜかお腹を壊されているみたいですね」


「そうですか。分かりました。病院にお連れしたら、長澤さんに報告します」


「田吾作、池波。別に報告しなくても俺はぴんぴんしてるぞ。大丈夫だぞ」


「じゃ、お疲れ様です。失礼します」


「田吾作、話をしよう。話せばわか……」

 小沢さんは扉の向こうへと消えていった。


 さて帰るか。


 こういうやり取りを毎日していたあの頃が懐かしい。もう数か月経つ。


 小沢さんがこの世から永遠に隠れてしまったことが信じられない。

 小沢さんのお墓には誰よりも通った。誰もそれを止めなかったし、それに触れることも無かった。


 今は藤堂さんと一緒に帰っている。藤堂さんは以前グループで帰っていたが、とある利用者を叩いてしまい一対一で対応することとなった。春になるとみんな落ち着かない。そわそわするのは季節が上向きだからだろう。藤堂さんも一緒だ。なぜかは分からないがパニックになって、他の利用者を叩いた。


「田吾作。まだ小沢がいる気がするよ」

 藤堂さんの口から積極性を持って、小沢さんの名前が出たのが久しくて思わず止まってしまった。


 小沢さんの死で色々な人が悼み痛んだ。


 今思えば、小沢さんは血圧とコレステロールが高かったし、油もの好きだったし、よく考えれば車いすから下りることが無かった。

 車いすからおろせばよかった。プロに任せてトレーニングしてもらえばよかった。


 結局、善意を押し付けて小沢さんを殺してしまった。一番残酷な感情、善意。


 小沢さんが観に行きたい野球も行けなかった。お出かけでプラネタリウムに行ったら必ず小沢さんはいびきをかいて寝た。居眠りする機会も永遠に失われた。


 もうずいぶんと回復したから仕事を休むことはない。それに週一日のアルバイトだ。


 それをこなす。仕事は果たす。



「田川君、こんな夜中まで勉強かい?」

 専門学校で目をかけてくれている先生が自習室に来たのは想定外だった。


 見るともう自分以外の生徒はいなかった。もう最終下校時刻過ぎたのか、急がないと。


「ゆっくりでいいんだよ」


「すみません」


「そういえばここに来る前は福祉施設で働いていたんだね。なんで辞めたの?」


「辞めていませんが、求められる仕事にしては賃金が釣り合わないからです」


「そうか。どんな仕事でも当てはまることだろうけど、その辺どう考えているの?」


「本当にそうなのか実体験で考えたいと思いまして」


「生徒の前で話をする気はない?」

 立ち上がろうとした僕を先生は手で制した。


「話をするって……」


「そんな堅苦しいことではなくて、経験を話して欲しいんだ。ここ福祉について学んでいる生徒も多いでしょ。だからこそ、その子たちの為に話して欲しいんだ。返事は一か月待つよ。それまでに考えておいで」


 このことを長澤さんに相談したら、いい顔も悪い顔もしかねていた。今度の保護者会に出席するように言われ、そこで保護者の意見を聞くことになった。


 保護者会当日、難色を示す保護者もいた。自分の子どもが見世物にされようとしているのではないか、という不信感からだ。


 一家族を除いて他は拒否をした。名前も性格も話すことは止めてくれとのことだった。一家族は小沢さんの親御さんだった。


 自分の子どもが人の心に残るなら、残して欲しいという気持ちだった。


「良いところも悪いところも出してください。あの子の事を若い人たちの心に残してください」

 元々、小沢さんの家は小沢さんに対して冷たいところがあった。


 保護者会に来るのはお母さんだけ、お父さんは亡くなっているし、お兄さんは書類上でも関わって来なかった。


 インプラントのお金もお母さんが出したし、でももう支援はしないと事業所に連絡してきたのはお兄さんだった。


「はい、頑張ります」


「頑張ってね。お話の書類や映像、また見せてくださいね」

 翌日、先生に受諾の返事をし、勉強と両立しながら会の準備を始めた。


 小沢さんは車いすに乗っていて、下半身不随で、コレステロールが高くて、知的障害と精神障害を抱えていて、可愛い女の子ときれいな女の子、若い女の子、人妻に目が無かった。

 でもそれしか話さないのは小沢さんが大きく誤解をされてしまうことになる。


「そういえば、日記を書いたりしていないのか?」

 専門学校の先生は内容で苦しんでいる僕にそう尋ねた。


「備忘録くらいならありますけど」


「それを使ってみなさい」

 家に帰って、残しておいた備忘録を取り出した。結構内容が詰まっている。これを要約すればいいのか。


 まずは関係性を発表するのにこれは必要だろう。


 僕は小沢さんの事を話すのに、日記の一部を開いた。


 一週間後、専門学校の講堂で話しを始めた。

「おい、田吾作。俺は昔女を何人も囲って、夜の街を歩いていたんだぜ」

少し暑さは気になるものの紅葉がきれいな公園をゆっくり歩いていたところ、突然、何を言い出すのか、小沢さんは話し出した。

 そういうことから、九十分の発表が始まった。

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小沢さんの憂鬱 ハナビシトモエ @sikasann

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