緞帳の向こう側、くらやみに触れる:後編

「コモタさんって高飛込の選手だったんですねえ。やっと腑に落ちましたよ」


「うん。水泳部には籍だけ置いて、練習はあっちでやっているんだ。あそこの設備は国際大会の規格も充たしているし、なかなか良いよ」


 ゆったりとした調子で頷いて見せるコモタさんの隣で、私は絹さやのごま和えを口の中に放り込む。

 昼休み、私とコモタさんは中庭のベンチについて並んでお昼ご飯を食べている。

 コモタさんは冷え性なのか、長袖の冬服のままだ。手のひらに乗るほどの小さなお弁当箱の中身はとっくに食べ終えて、ハンカチに包みなおして膝の上に乗っていた。


 あの日を境になんとなく気安い関係になった私とコモタさんは、ちょくちょくやり取りする仲になっていた。運動部の先輩という存在にも関わらずあまりプレッシャーをかけてこない所が楽でいい。


「正直言うと、コモタさんってうちらの間では謎の先輩と化してましたよ。普段の活動に全然顔出さないんですもん」


 私の軽口にもコモタさんはけらけらと笑ってくれる。私は距離が近い人が相手になるほど失言しやすいらしい。そういう性質なのを自覚しているから、普段はそれとなく気を張っている。


 この人と喋っている時だけは、私の中の張り詰めたものがゆるむみたいだ。


「へえ、野呂さんのところって水泳部だよね。縦のつながりが薄いんだ? 体育会系っぽくなくて、いいね」


 中嶋が、なんともいやみったらしい口調で口を突っ込んできた。下の名前は知らない。日曜夕方のアニメのキャラと同じ苗字なのがウケて『中嶋』とばっかり呼ばれているからだ。


 クラスこそ違うが同じ一年生のこいつは、何故かコモタさんにやたらと懐いて行く先々にくっついている。今もわざわざベンチの隣の地べたにレジャーシートを敷いてまで私とコモタさんの近くで弁当箱を広げている。


 私もまたこの不思議な先輩と喋るのが好きなものだから、最近はコモタさんを挟んで軽く牽制しあっているような間柄になりつつあった。

 ……というか、中嶋がやたらと私に突っかかってくるのだ。

 教室に居る時なんかは至って普通というか、地味で目立たない奴のくせをして、コモタさんが絡むと妙にピリピリした態度を取る。


(――こいつ、わかりやすいな!)


 ある時そう思った私は、それ以降中嶋のことをいじりがいのある奴としてまあまあ面白がっている。


「そういえばコモタさん、そろそろインハイ予選が始まりますねえ」


 なのでこうして、中嶋の入って来られない話題を切り出したりもするのだ。

 うわ、面白いくらいに眉間に深々とシワが刻まれている。感情むき出しというか、不器用な振る舞いをする人は私にとって新鮮で面白い。


「そうだね、スミレさん。わからないことがあれば、スマホにメッセージを送って来なよ。わかる範囲で答えたり、代わりに部長に聞いてあげるから」


 コモタさんは穏やかに返す。これはつまり、中嶋が仲間外れになるような話題は後にしましょうね、と暗に告げている訳だろう。大人だなあ。

 『ヤギ』とでかでかとプリントしてある紙パックにストローを差して、じゅるじゅると音を立てて飲んでいる横顔も涼しげだ。ヤギなのに。ヤギ? 何ジュースなの? 


 それはともかく、その後も三人でぽつぽつと世間話が続いてから、コモタさんが「さて」と切り出した。


「そろそろ教室に戻ろうかな。じゃあ、またね。スミレさん」


 そう告げると、丁寧に畳んだ紙パックと小さな包みを片手に持ち、空いた方の手をひらひらと振って立ち去っていく。

 一方の中嶋もいつの間にか小さく畳んでいたレジャーシートを小脇に抱え、無言でコモタさんの後を追う。


「……どうも」


 このまま私を無視するかと思いきや、一瞥して声をかけていく。一応、嫌われている訳では無さそうだ。

 あの妙なピリピリした空気はどうやらコモタさんを相手にしている時だけに出てくるものらしい。良くも悪くもあの人が関わらない所では、中嶋は元の大人しくて目立たない奴に逆戻りする。


 その頃の私は、中嶋に対しても「コモタさんを先輩として立てているんだなあ。慕ってるんだな」程度にしか思っていない。


 そんな認識を改めないといけなくなったのは、それからしばらく経って夏休みに入った後のことだ。


 それは猛暑日の、しかも真昼の出来事だった。


 見慣れた大きな日傘に隠れた二人の人物。傘の下からにょっきり突き出た背中から下は、うちの学校の制服を纏っていた。一人は当然ながら夏服、けれど、もう一方の人は冬服姿だ。


 あの下で何をしているのかを、覗き込むまでもなく私は知っていた。


 中嶋とコモタさんはけっこうな頻度で一緒に下校していた。終礼チャイムが鳴ると同時に中嶋が足早に教室を出るのは、同じクラスの子から聞いたことがあるし、ごくたまに時間が押した時などはコモタさんが直接ふらりと教室まで顔を見せにやって来ているとも。


 中嶋はいつも首元に大きな絆創膏を貼っているらしい。服の下に隠れているのがちらりと見えることがたびたびあった。


 なにより、滅多に人が来ない中庭の、植木の陰でコモタさんが中嶋の首筋に覆いかぶさっている現場を、私は眼にしたことがある。


 コモタさんの、ガタガタの歯並びと尖った犬歯。晴れた日の渡り廊下を日傘をさして歩く姿。肌を覆い隠す服装。卵豆腐やすりおろした野菜のような、消化に良い物しか入っていない小さな小さなお弁当箱。

 プールサイドで、強い日焼け止めを時間をかけて全身に塗りこむ姿。


 見る人が見ればすぐわかる、そうでなくても接していればおのずと気づく。あの人はドラキュラ病だ。

 けれど私は、コモタさんが普通の人であるかのように接してきた。決して、差別をしないとか、そんな立派な気持ちからではない。


 単に、面倒だったから。

 私にとってドラキュラ病の人はドラマや本の中に出てくるような遠い存在でしか無かったから。だから、どうしていいかわからないまま、『普通』に接するのがコモタさんにとっても良いことだよね、という言い訳に逃げて見ないふりをしてきた。


 私と中嶋の違いは、きっとそこにある。


 少なくとも中嶋はコモタさんのありのままを受け入れている。その方法はともかくとして。

 私から見れば、それって暴力じゃないの? とか、感染らないの? なんて気持ちが先に立ってしまうし、そういったことを抜きにしても、なんだかいやらしく感じるけれど。


 あの二人、幸せなのかな。

 いつ見ても、あまりにも当たり前のような顔をしているものだから、私にはよくわからなかった。


 結局、夏休み中にコモタさん、そして中嶋と接点があったのは、それきりだった。


◇◇◇


 そんなこんなで夏休み明けの、そろそろ肌寒くなってきた頃合いのこと。

 私はカフェで頭を抱えていた。


「…………」


「野呂さん、まず約分しよう。sineθのことは一旦忘れて、式をそろえれば……」


「してるんだけど、答えが合わない」


「ああ……」


 そんな絶望的な顔をしないで欲しい。そこまで点数に差はなかったじゃないか。


 私たち……私と、茅野くんは今、カフェで勉強会をしている。休み明けのテストであまりに冴えない点数を取ってしまったから、遅まきながら焦りを感じ始めたのだ。

 今のうちに取り返しておかないと、後々大変なことになるのでは……と感じたのは茅野くんも同様だった。お互いに成績は同じくらいだったけれど、一応は得意科目が分かれていたのでこうして教えあっている形だ。


 先輩であるコモタさんや、地味に成績優秀者な中嶋に助けを求めようかと思ったけれど、やめておいた。

 夏休み以来、私たちは疎遠になっている。正確には私から連絡する頻度を下げた。二人も何か察するものがあったのか、それとも慣れっこなのか、理由をしつこく聞いてくる素振りもない。


 一方で、茅野くんとはこうして付かず離れずの関係を維持していた。ショートメッセージは二往復程度だけど毎日しているし、何度かはこうしてカフェで一緒に勉強したりもする。

 ……茅野くんのお母さんと会ったのはあれっきりだったし、あの一件は二人の間ではなんとなく触れないままだ。


 なので、こうして茅野くんと私の二人がかりで頭を突き合わせてあれこれ考え込みながらワークと向かい合っているのだった。


「算数から数学に名前が変わった時も絶望だったけど、これもうお絵描きじゃん。お絵描きをなんでわざわざ文字にしなきゃいけないの。実際に見て、触って、測ればいいだけなのにさあ」


「どっちかというと、文字や記号から手触りのある物を作るための考え方なんじゃないかな」


 私の言いがかりじみた嘆きに、茅野くんはやけに真面目くさった返事をよこした。わざわざ嫌味だな、と思わなくもない。そう感じた途端に、自分でも表情がやや固くなったのがわかる。私はそれをごまかすようにすっかり冷めたマロンラテを一口飲んだ。

 ……甘い。美味しくない訳じゃないけど、私は栗のホコホコした食感も好きだったんだなと自覚する。シロップの香りだけでは満足できない。


「えっと」


 テーブルを挟んだ向かい側で、茅野くんが口元に手を当てて何かを考え込むそぶりを見せている。

 どうも私は、夏休み前のコモタさん達との関わりで他人の感情を逆撫ですることを厭わなくなってきたらしい。


 だから、じっと茅野くんの言葉を待つ。

 こちらから気の利いた言葉をかけてあげなければ、と焦らなくなった。その人が何を思って、どう感じているのかは、その人にしかわからないのだから。


 言葉にすれば当たり前のことなんだけれど、ここには『普通』の人達しか居ないと思っていると、そのことをつい見失ってしまうのかもしれない。


「設計図とか間取りみたいに、記号から本物を想像するのが好きなんだ。俺の親が大工からかもしれないけど……あ、母親の方がね」


「えっ!? 感じのいい奥様~って雰囲気の人だったよね。意外だなあ」


「いやいや、格好だけだよ! 二の腕とかバキバキだから、あの人。普段は作業着にメットでそこらを駆けずり回ってるから、休みの日にはああして気合入れて女装するんだって言ってた」


「女装って」


 そこで思わず噴き出してしまった。


「でも格好いいね」


 私が素直な感想を述べると、茅野くんは静かに瞬きをした。もしかしてこれ、驚いているのかな。どうやら茅野くんは、けっこうボーっとした所のある男の子らしい。

 例えば中嶋の思い切りの良すぎるスイッチのオンオフや、コモタさんの徹底したマイペースさとも違っている。物事を大事に抱えて考え込み、その分ちょっと流されやすい。


 今の私の言葉も、彼はじっと噛みしめているんだろうな。


「……サッカースクールにさ、無理やり連れ出しちゃった事があったでしょ?」


 なので、彼の説明を待つまでも無く、ことの経緯は予想が付きつつあった。だけど、彼の口から説明をきちんと聞こうと思う。


「普段はバスに乗ってスクールに通ってるんだけど、その日は母親が現場のない日でさ……たまたま送ってくれる事になってたんだ。それで、帰りは外食しよう、どうせなら友達も連れておいでって」


「待ち時間はどうするつもりだったの?」


「メインの体育館って併設の喫茶店があるんだけど、あそこで待ってもらうなりしようかなって話していたんだ」


 なるほど。私が話を聞く前に『泳いできます』とさっさと居なくなったのだな。


「母親が……だけど、野呂さんのこと誉めてたよ。『あやつ、自分をあやす方法を知っているな』って」


 私は本日二度目の大笑いをする羽目になった。


「茅野くんさあ、それ、多分本人には伝えない方がいい奴だよ! 確かに誉めてくれては居るみたいだけど」


 つまりは、私が状況にドン引きしていたのも、モヤモヤしたまま泳ぎに行く口実で一旦離れたのも、茅野くんのお母さんには全部見抜かれていたらしい。

 その上で怒ったり当てこすってる訳ではないのは、息子である茅野くんの悪びれなさから察せられた。もしかすると茅野母子は、見た目の品の良さに惑わされるだけで思ったよりも真っすぐというか……単純な性質なのかもしれない。


 私は手元のワークに視線を落とす。

 三角関数の単元を倒せたら、彼を映画にでも誘ってみようかなと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

暗幕は一級遮光 納戸丁字 @pincta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ