緞帳の向こう側、くらやみに触れる:前編

 なんとも行儀が悪いことに、目の前のその人はベンチに片脚を乗せた体勢のままだった。

 だからプラスチックの座面の毒々しい赤色がコモタさんのかかとやふくらはぎに照り返していて、一見するとそこだけ血色が差したようだ。


 白い肌と黒い髪に黒い学校指定の水着。無彩色の外見は、青く塗られた壁から浮き上がって見えた。

 総じて、塩素くさくて湿った空気に満たされたプールサイドには似つかわしくない雰囲気だ。


 それは一つには、コモタさんの生白い肌が不自然にテカテカと照明を反射しているからかもしれない。


「……何か塗ってるんですか? その、身体に」


「うん? 日焼け止めだけど」


 えっ、ここって屋根ついてますよね? 窓も殆ど無いし、言っちゃなんだけど圧迫感が強くて悪評の元になっているくらいの所なのに? いかにも軽い調子で寄こされたコモタさんの返答に、私はすっかり面食らってしまっていた。そしてその気持ちは、そのまま表情に出てしまっていたようだ。


「でもこれ、ウォータープルーフだよ」


 肩をすくめてそう告げると、コモタさんは手にした真っ白いボトルを再び音高く振り始める。


 不透明な白色のローションを手のひらに垂らす所作には迷いがない。


 疑問は尽きないけれど、当の私もまた学校から遠く離れたこの場に居る手前、これ以上突っ込んた質問をするのは気が引けた。


 それ以上の会話の取っ掛かりもなくしたから、先にプールへ入ることにした。没頭して全身にこってりと日焼け止めを塗っているコモタさんに軽く会釈して、私はその場を後にする。


◇◇◇


 私がコモタさんに遭遇した時から遡ること1時間と少し前。


「もしよかったらさ、帰りにご飯食べて行かない?」


 茅野くんは出し抜けにそう提案してきた。


 木曜日はいつもより時間割がひとつ少ない。そうはいっても私のように部活があるような生徒はどこかへ遊びに行ける訳でもないのだけれど。それでもどことなく気持ちが浮き立つ日なのも確かだった。

 私はいつもより丁寧な手つきで教科書をスクールバッグに仕舞い込むと、ほうっと息をついた。


 そんな時だ。茅野くんが、私の席の前までつかつかと歩み寄ってきた。そして少しはにかみながら、食事に誘ってきたのだ。


 本当は、私にとって今日は特別暇な日という訳では無かった。それなりに真面目な方で通っている水泳部は、授業が早く終わった場合は前倒しにアップを終えて自主練習を始めるのが不文律だ。ましてや私たち一年生に一番求められるのは愚直といっていいくらいの生真面目さなのだから。


「うん、いいよ。部活に欠席の連絡を入れるからちょっと待ってて」


 なのに、私はほとんど反射的にそう返事していた。


 だって、ちょっと良いなと思っているクラスメートの男の子に誘われたんだから。

 それに部活をサボって遊ぶ機会があるとしたら今しかないという計算も働いた。部の中の立ち位置が定まっていて、けれども記録会はまだ先の今の時期なら悪目立ちしないで済みそうだ。


 なんにせよ。私は水泳部のグループチャットに急用が入って欠席する旨を、やりすぎない程度の申し訳なさを滲ませた文面で書き込むと、残りの筆記用具をスクールバッグに放り込み、プールバッグを肩に掛けて茅野くんの元へ駆け寄った。


 ……その時、茅野くんが「迎えの車が待ってるから」と言った意味をもう少し噛み砕いて考えてみる必要があった。けれどもすっかり浮かれていた私には、一階の教室から昇降口まで道のりは短すぎた。結局深く考える余地がないまま校門を出てしまう。


 門柱の脇にローズベージュ色に輝くミニワゴンが停まっていた。茅野くんはその車の方へと歩いて行き、勝手知ったる風に後部ドアを開けて私に座るように促してきた。


 運転席には見知らぬ女の人が座っている。……これってもしかして、と思ってる間に、彼女の方から先に話しかけてきた。


「邦俊の母です」


「……え、と。お世話になってます」


 『クニトシって誰だっけ』って更に一瞬気を取られてしまって、いよいよあからさまに反応がズレてしまった。

 お世話になってます、の『おせ』の発音がつまづく様に口をついて出てしまって、私はもぞもぞと座席で体勢を整えるのをやめてあわてて会釈する。


 そうそう、茅野くんの下の名前は邦俊。仲の良い子達からはトシって呼ばれてたから、なんとなく『トシ』から始まる名前のようなイメージが付いてた。

 ……まだ、彼とはそのくらいの距離感だったのだ。少なくとも私にとっては、だけれど。


 茅野くんはクラスの中ではそんなに目立つ方じゃないし、顔立ちも凄い美形ってほどじゃない。


 だけど、大口開けて笑うタイプじゃないのも、いつもシャツにアイロンがあたってるのも、私にとってはなんだか良いなと思わせるものだった。

 何よりも彼が時間を持て余してる時にする癖らしい、頬杖をついて窓の外をぼんやりと眺める様子がやけに様になっていて、いよいよ気になった。そう、横顔が意外なくらいに綺麗なのだ。


 額が丸く、鼻梁がそこまで張り出していなくて、全体的にまろやかなラインを描いている。だけど鼻がちょっと高いから、鼻先と顎を結んだ線の中に口元がきれいに納まっていて、すっきりとした印象になっていた。


 君の事が気になっています、って素振りをそれとなく送ってみせて、それと、彼との接点をなるべく作って行動する機会を増やして、多分そうした私の態度のどこかで茅野くんも察したらしい。

 ようやく二人きりで話す機会が増えてきて、でもあだ名で呼ぶのも踏み込み過ぎかなあと私はちょっと悩んでた。


 それなのに、いきなり彼の母親が運転する車に私は乗せられている。

 たぶん、茅野くんに悪気はない。茅野くんのお母さんにとってはどうなのだろう? 少なくとも、何か意地悪な態度を取られている訳ではないけれど……。


 助手席に座って母親と談笑している茅野くんの姿は教室で目にする時よりもずっとくつろいで見えた。やっぱり、家族の前だからなのだろう。それに、親が運転している自家用車というのは雰囲気としては半分くらいは自宅みたいなものだしね。それは、私自身の経験からも想像ができる。


 私はよく知らない親戚の話とか、茅野くんの生活のことなんかの情報を、親子は矢継ぎ早に交換しあっている。

 そうした断片に聞き耳を立てていると、どうやらこの車が向かっているのが飲食店では無さそうなことが私にも飲み込めて来る。


 なんでも、茅野くんはサッカースクールに所属しているらしい。そこは地元のサッカーチームのユース候補……より、ちょっと落ちるくらいのレベルの人が学ぶ所なのだそうで、週3回のトレーニングに通っている……のだ、そうだ。


「それじゃあこの後は茅野くんは、そのスクールで練習するんですか?」


「そうよ? 練習帰りがお夕飯にはちょうどいい時間だもの。悪いけどちょっと待っててね。……それともスミレちゃん、お腹減っちゃったかしら」


 慌てて茅野くんのお母さんに「いいえ、大丈夫です」と返しながら、私は挨拶の時に彼女へ名乗りそびれていたのを思い出していた。

 大人の人相手に失礼を働いてしまったのも確かだけど、ともかく私の名前を、茅野くんのお母さんはあらかじめ知っていたらしい。

 それはたぶん茅野くんが私、野呂スミレの名前を添えて彼女に「同行させていいか」と打診していたことを意味する。


 私は、こうした彼らの一連を丁寧な人達だと思うべきなのか、それとも別の何かを意味していると考えるべきなのかを迷いながら辺鄙な山道を行く車の揺れに身を任せていた。


 そして現地に着いたのだけど。…………けれども、こんな辺鄙な場所の駐車場の真ん中で事の経緯についてあれこれ言って見せるのもばかばかしい気がした。


 なので私は「茅野くんが練習している間、私も泳いできます。自主トレしないと勘が鈍っちゃいそうで」などと適当な理由をつけ、彼らのもとからさっさと立ち去ってしまう。


 茅野くんも、そのお母さんも快く送り出してくれた。もしくは思う所があったところでおくびにも出さなかっただけかもしれないけど。


 ともかくあの人たち、意外とスポーツマンが好きみたいだ。茅野くんが文化系っぽいのは見た目の雰囲気だけだったのだろうか。サッカー少年だったらしいしな。ユースに落ちたからレッスンを受けている、って言っていたけど、それってけっこう気合が入っている……のか、な? 正直、陸の上の競技にはあまり詳しくないので感覚が掴めない。


 てくてくと歩く間もたっぷり思索にふけることができる。なにしろ、駐車場がだだっ広いからね!

 私は上手く整理できない気持ちを吐き出すように、足元の小石を歩くついでに蹴とばした。


 私が連れてこられた先は郊外にある総合体育館と銘打った施設だった。

 県内のはずれならではの安い地価にあかせて準備した広大な敷地に、およそ運動にまつわる設備が片端から詰め込まれたような場所だった。陸上競技のトラックやテニスコートはもちろんのこと、天然芝の競技場や屋内スケートリンクまで揃っている。

 当然、プールだってある。競技会仕様の、ここいらでは設備が充実した方だ。


 私は何棟かある屋内競技用の建物の中でも比較的背が高い、四角く真っ白な建物へと向かって歩いて行った。


 ――そして、いざ水着に着替えて泳ぎに行った先でコモタさんと出会い、今に至るというわけだった。


 ウォームアップを済ませると競技用の50mプールに入り、泳ぎ始める。さして気合を入れる訳でもない、流す程度のペースで淡々と水を掻き分けて進んでいった。どのみち備え付けの時計では正確なタイムは測りようがない。


 泳ぎながら考えるのは、今しがたプールで出会ったコモタさんのことだった。


 あの人、なんで部活も出ないでこんな所に居たんだろう。遊び歩いていたり、塾に通い詰めているなら、心情としてわからなくもない。……あまり尊敬はできないけど。でもわざわざこんな遠くまで泳ぎにきているのだから、いよいよ不可解だ。尊敬した方が良いの? どうなの? 


 そして私も、なんでここに居るんだろう。


 4往復、200mを2セットこなしてプールから上がると、コモタさんがプールサイドをすたすたと歩く姿が眼に入った。と言っても、こちらに向かっている訳ではないようで、フロアの奥まった一角に足を向けている。


 その進行方向に視線を向ければ、その先には並外れて深いプールと、そこに備え付けられた高飛び込み台がそびえたつのが見えた。


 どちらも素人が生半可に使えば事故が起こるような設備だから、普段は近づくだけで監視員さんに注意される一角だ。けれどコモタさんは迷うことなく階段を上がっていったし、現に職員から止められる素振りもなかった。


 あんな高い位置からでも私の姿が見えたのだろう。コモタさんはこちらに向けてちらりと手を振ってみせると、くるりと背を向けて迷いなくその身を空中に投げ出した。


 コモタさんの身体が矢のように一直線の軌道を描き、水の中へ吸い込まれていく。

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