水棲の光

 母が産気づいたのはとてもよく晴れた夏の日の正午前だった。ファミリーレストランへ向かう途中、それはとつぜんはじまった。

 車を運転している父のとなりで母は顔をゆがませていた。僕はかれらのうしろでビスケットをかじっていた。ビスケットを覆うホワイトチョコレートは袋をあけたときから溶けていて、手や口のまわりをべたべたとよごした。グローブボックスにティッシュが入っていることを知っていたが、僕はシートベルトをしていたしひどく苦しんでいる母にとってもらうことも気がひけ、黙ってゆびをなめていた。

 なにかふつうでないことが起きているとは察していたがそれがなにかはわかっていなかった。ふだん食事の前に食べさせてもらえないお菓子があたえられたこと、いつもと違う道を走っていることからゆきさきの変わったことを悟った。僕はおとなしくビスケットを食べながら、外をながめたり、うめく母を見やったり、ルームミラーの反射に目をほそめたりしていた。

 車を降りるとざらついた蝉の声が耳のすぐそばで聞こえ、容赦のない日射しに全身から汗がふきだした。父はひさしぶりに電池を入れたおもちゃのようなぎごちない動きで母を降ろし、その肩を抱き慎重に歩いた。はじめて見る病院だった。高い壁がどこまでもつづき、入り口などないように見えた。僕はまだチョコレートのかおりがするゆびを咥えふたりのうしろをついていった。

 院内の託児所にあずけられ、名前も知らない男の子とつみきを組み立てていると祖母が迎えにきた。僕はみんなで帰るものと思っていたので病室や受付をとおりすぎてゆく祖母にとまどった。

「父さんと母さんは?」

 駐車場をよこぎりながら僕はたずねた。祖母は父のとめた車でなく、タクシー乗り場に向かっていた。

「ふたりは病院にお泊まりだよ。帰ってくるまでおばあちゃんとお留守番していよう」

「母さんはどこか悪いの」

「どこも悪くないさ。妹ができるんだよ」

 祖母は僕の手をひいてきびきびと歩いた。両親や、幼稚園の先生や、僕の知るおとなのだれよりも健康的な歩きかただった。にぎる手は骨のかたちが痛いほどにわかったが、たるんだ皮膚は絹にふれるようにすべらかだった。

 すっきりと晴れわたった空だった。はっとするほど青く、あざやかで、威圧的だった。充分に白いはずの病院がうすよごれて見えるくらいだった。そのようすから妹は「澄」と名づけられた。

「スミ、はどういう意味なの」

 翌朝、僕は玄関で靴を履く父に問いかけた。日の変わる頃に妹が生まれ、かれはそれを見届け帰宅したそうだ。祖母の部屋でねむっていた僕は洗面所で鉢合わせるまでかれの帰っていたことを知らなかった。

「水や、空や、空気がとてもきれいだったり、すきとおっていたりすることだよ」

「どうしてその名前にしたの」

「そんなふうなきよらかなひとになってほしいんだ」

「母さんはまだ帰ってこないの」

「次の日曜日、お父さんが迎えに行ってくるよ」

父は靴べらを靴箱にしまうと鞄を手にした。そこには仕事帰りに提出する出生届が入っているはずだった。

 週末、父は約束どおり母を連れて帰ってきた。僕は祖母とともに玄関で出迎えた。母の腕には白い繭がかかえられ羽化する前のようにうごめいていた。それが妹だった。敷居の向こうの三人は赤くただれた西日を背負い、ほとんど影に落ちていた。

「お兄ちゃん、ほら、澄よ」

 母は膝を折り僕に赤ん坊を示した。おくるみにつつまれた顔は粉っぽく、湯あがりのような頬をし、くちびるの輪郭はぼやけていた。あわい髪の毛がふわふわと揺れていた。なにもかもがちいさいなかで瞳だけが不相応に大きかった。それはつややかな灰色をしていた。

「妙な色の目だね」

 祖母が僕の左肩から覗きこんで言った。

「うちの家系にいただろうか」

「成長するにつれて落ち着くそうよ。とくべつめずらしいことでもないらしいわ」

 母は立ちあがり、かかとを擦り合わせてサンダルを脱いだ。父は静かにその背を支えていた。かれは祖母の前だといつもおとなしかった。

 母がシャワーを浴び祖母が夕食の準備をしているあいだ、妹は父に任された。僕がこども部屋のかたづけを終えリビングに入ると、かれはソファに座り、息をひそめなければならないほどの音量でテレビを見ていた。すじばった腕のなかで妹はおとなしくまるまっていた。

 父のとなりに座ったもののテレビは報道番組で、退屈した僕は妹の足の裏をくすぐって遊んだ。手のひらにくるんでしまえそうにちいさな足がゆるゆると動いた。それをくりかえしているうち、彼女のやわらかな左足の裏に痣があることに気がついた。痣は父のこゆびの爪くらいの大きさで、あぶられたような赤色をしていた。

「ねえ、怪我をしているよ」

 そう告げると父は妹の足を見やり、「ああ」とうなずいた。

「生まれたときからあるんだ。色が違うだけで痛みや痒みがあるわけじゃないらしい。心配いらないよ」

 夕食は鮎の塩焼きだった。妹をあやすために母が席をはずしていたので食卓はぴりぴりと緊張していた。父と祖母は不仲で、僕の前ではそのそぶりを見せないよう気をつけていたが向かいあったときの目線やことばを交わしたときの声音、すれ違うときのしぐさにたがいへの嫌悪がにじみでていた。母の入院していた一週間、僕は食事が憂鬱でしかたがなかった。それがまだつづくのだとかんがえると嫌気がさした。

 祖母にほぐしてもらった身を食べているとなにか薄いものが歯茎に刺さった。爪のさきでつまんだそれはほとんど感触がなく、ガラスに絵の具をぼかしたような繊細な銀色をしていた。

「おや、残っていたのかい」

 祖母はちいさな目を大儀そうにまたたかせた。

「おまえのぶんはとりのぞいたつもりだったんだがね。お皿によけておきなさい」

 鱗は完全な円形ではなく、ふくらませた風船のように先端がにぶくとがっていた。見覚えのあるような気がして僕はそれを照明にかざした。鱗の透明な部分がランプシェードの赤色を透かした。唾液できらめく輪郭をながめるうち、妹の痣だとひらめいた。そのまま見つめていると、ゆびさきのひとひらと記憶の痣がぴたりとかさなり、さかいめがうしなわれてしまったように感じた。

「遊んでいないで食べなさい」

 父が祖母の前でだけ聞かせる静かな口調で言った。僕は鱗を皿のふちに擦りつけ、箸を持ち直した。


…………


 僕と妹はまわりよりも遅れて水からあがり、ふたたび最後尾にならんだ。先生の合図でこどもたちはひとりずつプールに入りそれぞれの姿勢とはやさで泳いでいった。妹は僕と手をつなぎ、自由なほうのおやゆびで水着に付着したしずくをひとつぶずつ拭っていた。僕はたえまない反響の下へさしこむように問いかけた。

「どちらがさきに行こうか」

 妹はタイルの目地を見つめ「わたし」とこたえた。しかし僕の前にならび直すようなことはせず、半歩下がったまま水のつぶを潰していた。僕は彼女の手をひいて列を詰めた。

 ひとつ前にならんでいたこどもがまんなかまで進んだところで、先生は僕たちをふりむいた。

「それでは、ゆきましょうか」

 ことばにつづき、かすかに息を呑む音がした。彼女の視線は妹の足に固定されていた。僕は言った。

「生まれつきなんです。だれかに迷惑をかけるようなものではありません」

 先生は僕と妹の目を交互に覗きこみ、力強くうなずいた。

「ええ、そうでしょうとも。なにも問題ないわ。さあ、どうぞ。あなたにはすこし深いかもしれないから気をつけてね」

 妹はおそるおそる僕から離れはしごにふれた。そこから水に浸かるまでの動作は足を踏みはずしたのかと思うほどにすばやかった。彼女はなにかをたしかめるように僕を見つめた後、飛びたつようなかろやかさで底を蹴った。

 妹の泳ぎはうつくしかった。水をかくときはゆびのさきまで力にあふれ、水面を破り、ふたたびそこへさしこむまでのあいだは仔猫の背をなでるように優しかった。からだのどこにも無駄な力が入っていなかった。動きのひとつひとつは洗練され、宙に舞う飛沫は銀色にかがやいて見えた。息継ぎは少なく、忘れた頃にほんの一瞬だけ顔を見せた。その際も下半身のバランスは崩れなかった。

 彼女のまわりにあるものは、からだを避けてきざまれる水面の深い皺とつまさきから飛び散る光のかけら、それだけだった。ほかのこどもたちが立てるような荒々しい水音もなければなまぐさい塩素の匂いもなかった。彼女は水の一部であり、水もまた彼女の一部だった。しだいに華奢な肢体の輪郭がほどけ、彼女と水の成分がたがいを侵すかに思われた。

 すべるように進む妹を見つめたまま、先生が感心したようにたずねた。

「これまでにもどこかで習っていたの?」

 僕は遠ざかってゆく水泳帽をながめ、「いいえ」とつぶやいた。家族で海に行ったときに父が教えたくらいだった。妹は二十五メートルを泳ぎきり、入るときとは対照的な、未練がましいようすではしごをのぼった。先生は僕にプールへ入るよう命じた。


…………


 四年生になりクラスが変わっても妹をとりまく環境に変化はなかった。彼女は前の年とおなじように僕の部屋をおとずれ、教科書や文房具の有無をたずねた。

「授業、休んだら?」

 プール開きの前日、僕はそう提案した。妹はパッケージにつつまれたままの消しゴムを弄びながらかぶりを振った。

「いまさら意味ないわ」

「去年より増えたって、そんなふうに言われずにすむよ」

「痣なんてただのきっかけだもの」

 妹はかたくなに拒んだ。状況の維持や改善よりもすこしでも多く水にふれることを優先しているようだった。年度のかわるに合わせ、彼女はスイミングスクールを退会していた。それもまた痣が原因のようだった。

 いちどだけ妹の下校するすがたを見たことがある。一学期の中間考査を終えた翌週で、僕は友人とともにかれの家へ向かう途中だった。今にも降りだしそうな空模様に友人が傘を買いたいと言い、僕たちはコンビニへ立ち寄った。

 友人がアイスクリームやスナック菓子をながめているあいだ、僕は雑誌コーナーの自己啓発本を繰っていた。社会人向けの内容で対人関係についてのアドバイスが主だった。感情共有の項目を読んでいると視界の上部にあざやかな色彩が混ざり、顔をあげると駐車場の向こうに小学生の集団が歩いていた。仲が良いのかと思ったが、どうやら数人がひとりをとりかこんでいるようすだった。その閉じこめられているのが妹だった。

 妹はまっすぐ前を向き、アスファルトをうがつようないきおいで足を繰りだしていた。適度にひかれた顎やぴんと伸ばされた背筋からは威厳さえ感じられた。まるで周囲の障壁など存在していないかのように、彼女はじしんの歩幅と姿勢を厳格に保っていた。

 とうとつに、妹が歩道へ倒れた。周りのだれかに足をひっかけられたようだった。こどもたちはいっそう華やぎ手を叩いて喜んだ。色とりどりのランドセルがほの暗い日射しに濡れていた。甲高い笑声が空調の合間を縫って聞こえてくるかに思えた。

 妹は立ちあがると手と膝を払い、それまでとおなじ速度で歩きはじめた。機械的な動作だった。場面そのものが切りとられたかのように、さきほどのできごとは彼女のどこにも痕跡をとどめていなかった。目線は数メートルさきの地面にきつくむすびつけられていた。


…………



2021.9

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水棲の光 花村渺 @hnmr

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