水棲の光

花村渺

極夜

 世界の終わるものがたりはたくさんあるが、わたしたちにおとずれたそれはあまりにもひそやかではじめはだれも気がつかなかった。

 その日から世界は夜だけになった。昼だった場所ではしだいに暗くなり、夜だった場所では朝が来なかった。太陽の気まぐれかひときわ厚い雲がかかったのかと思われたが、どれだけ待ってもとばりはおりたままだった。

 それからいくつかのふくざつで難解なできごとがあり、結果として人間をはじめとするありとあらゆるいきものが死んでいった。わたしはひとより体温が高かったので暗くつめたい世界でもまだどうにか生きていた。この星に残された人間はわたしとおなじようなひとばかりだった。しかしこの状態もそう長くはつづかないだろう。気温は下がる一方であるし、作物は育たず、今あるたべものもじきに尽きてしまう。その困難からのがれる手段はなく、たとえ思いついたとしてもそれを実行するための人手はすでになかった。

 ともに暮らしていたるうが死んでしまったので、わたしはかれを埋葬するために外へ出た。今夜は電気の供給される日であったので道なりに街灯がともっていた。放たれる光は白くするどく、明るくはあるものの静かな夜に似つかわしくなかった。月はないが星は見えるので宇宙のどこかに太陽のあることはたしかだった。

 しばらく歩いてゆくと煙草屋の前のベンチに女がひとり座っていた。女は薄着で素足にヒールを履いていた。彼女はこちらに気がつくとわたしの腕のなかに目を留め、おさなげに首をかしげた。

「それはうさぎ?」

「いいえ。チンチラです。ねずみの仲間なんです」

「そう」

 わたしは女がたいせつそうにかかえているものをゆびさした。

「それは?」

「娘よ。こどもで体温が高いから大丈夫だと思っていたのだけれど、そううまくはいかないわね」

 こどもはフェルトのコートにつつまれていた。青ざめたくちびるも袖口からこぼれる手もおもちゃのようにちいさかった。コートは赤く、覗く肌の不吉な象牙色をよけいにきわだたせていた。

「寒さはこたえるけれど、この子が腐るところを見ずにすむから助かるわ」

 どこかで虫が鳴いていた。しかしそれがほんとうに虫なのかはわからなかった。今この世界になにが生き、なにが暮らしているのかを正確に把握しているものはだれひとりとしていないだろう。虫ではないべつのいきものの発する声かもしれないし、草のさざめきや空気のこすれあう音、あるいはわたしの耳鳴りなのかもしれなかった。

 女はそうしたものがなにひとつ聞こえていないかのようにうつむいていた。ほそい首すじにほつれかかる髪の毛先は傷んでいた。ふくらはぎはつめたくすきとおり、ヒールのエナメルは剥がれかかっていた。

 彼女はこどものまつげを爪で数えながら言った。

「ねえ、もし良ければわたしとおしゃべりをしない? この子のはなしを聞いてほしいの。もちろん、あなたのチンチラのはなしも聞くわ」

「すみません。おさそいはうれしいけれど、用事があるんです」

 埋葬のためにとは言わなかった。さいわい、るうは女のこどもとちがってすこし見ただけでは死んでいるとわからなかった。

「そう、残念だわ。お気をつけて」

 わたしは会釈し女と別れた。途中でふりむくと彼女はこどもをかかえなおし、あやすようにその背を叩いていた。

 交差点をふたつ通りすぎ、そのまままっすぐ歩くと高架橋が見えてきた。そこはかつて電車が走っていたが、もちろん今は風のほかに撫でゆくものはいなかった。夜闇を横断するコンクリートはぼんやりと光って見えた。

 坂道をくだると高架下の道路になにか横たわるものがあることに気がついた。近づいてみるとあおむけの男で、そのあたまの下はいっそう黒く濡れていた。染みは街灯とアスファルトのおうとつでところどころがきらめいていた。

「思ったよりも低かったんだ。けれどもう動くことができないから、しかたなくこうしている」

 男はばつが悪そうに言った。かれもまた薄着で、そのよそおいは夜の気温に長く耐えられるものではなかった。

「星を見ているのかと思いました」

「ただ見えているだけさ。べつになにも見ていない」

「今夜はとくべつ星がきれいだから」

「星がうつくしいのはだれかがそう思うからだ。だれもうつくしいと思わなければ星はうつくしくないし、価値を見いだすものがいなければどのような価値もない」

 かれは視線だけをわたしに向け、いぶかしそうに目をほそめた。

「それはなんだ?」

「チンチラです。一緒に暮らしていたんです」

「そうか。すまない、もうよく見えないんだ」

「これは?」

 わたしは男のまわりに散乱している魚の死骸を見やった。

「ネオンテトラだ。水温が維持できず死なせてしまった。せっかくだから連れてゆこうと思って」

 男は軽く咳きこんだ。のどのすきまからむりやり押しだしたようなかすれた咳だった。呼吸は苦しげだが顔に表情はなく、瞳もしんと凪いでいた。

「まったくぞっとしないな。昼が消えて、たくさんのいきものが死んで、そうしてただ星がきれいなだけだ。世界の終わりをえがいたものがたりはいくつもあるがこれほどおもしろくないものはまれだろう」

「これもだれかのものがたりでしょうか」

「現在進行形のものがたりなどないよ。あとから語られるがゆえのものがたりだ」

 男はそれきり口をつぐんだ。まばたきをくりかえしているので死んではいないようだったがそのおとずれも近いのかもしれなかった。しゃべりだす気配もなく、わたしは「おやすみなさい」とだけ告げその場をあとにした。

 わたしは高架橋に沿って歩いていった。やがてかすかな水音が聞こえ、思ったよりもはやくゆくての道と大きな川の交差する場所へ出た。道路の下が水門になっているのだった。その流れはおだやかで、みなもに浮かぶ葉や小枝はほとんど動かなかった。

 わたしはガードレールをまたぎ土手をすこしくだり、そこで土を掘った。土はつめたくやわらかく、今わたしをつつむ夜とおなじ肌触りをしていた。

 穴はすぐに掘り終えることができた。わたしはワンピースの裾で手をぬぐい、ずっとかかえていたるうをそこへ寝かせた。しかしどうにもおさまりが悪く、どの角度から見てもふしぜんだった。横向きにしても、うつぶせにしても、さきほどの男のようなあおむけにしても駄目だった。どれだけ工夫しても納得のいく姿勢はひとつもなかった。

 なぜそんなことになってしまうのかわからずわたしはとほうにくれた。るうのからだはその土とおなじくらいに冷え、はんぶんひらいた口の奥はその穴とおなじくらいに暗かった。かれとこの空間はうまく調和するはずだった。

 なにかヒントを得られないかとポケットをさぐれば、なかからは錆びたヘアピンと外国の硬貨、クッキー缶に巻かれていたリボン、喫茶店でもらったブックマッチがあらわれた。わたしはてのひらとるうとかれの沈む穴を見くらべ、マッチ以外をポケットにもどした。

 パッケージは湿っていたが擦りつけた先端には問題なく火がともった。軸のみじかいせいで熱源がゆびに近く、あたたかさよりも皮膚のけずられるようなむずがゆさを覚えた。その穂さきをるうに近づけようとしたが動物の被毛は人間の髪とおなじに燃えにくいことを思い出し、わたしはしまったばかりのリボンをとりだした。つやつやとしたサテンのリボンだった。そのかたはしに火をつけ、るうに垂らした。

 ちいさな火はちらちらと揺れながらリボンを侵食した。ゆっくりと咀嚼するように焦がし、黒く溶かしてゆき、やがてるうに燃えうつった。しかしそのささやかな炎はみるみるうちにしぼんでしまい、わたしは火を絶やさないようつぎつぎマッチを擦りるうの上にほうった。最後の一本を擦ったとき、軸が折れおやゆびの関節に火が触れた。刺すような痛みにおどろきとり落とすと、それは地被を燃やしはじめた。

 わたしはあわてて立ちあがったが、あしもとの炎の広がりがあまりに緩慢だったので道にはもどらずガードレールに腰かけた。日の光のないせいで草むらは端から端まで枯れ果てていた。水気のないぶんよく燃えそうだったが、四方は川とコンクリートにかこまれているのでべつのなにかに延焼することはなさそうだった。

 ぱちぱちとかろやかに爆ぜる炎を見つめながら、わたしはるうに思いをはせた。もう肉のいくらかはとろけてしまっただろうか。それともまだ四肢を覆うやわらかな被毛がくすぶっているところだろうか。この花弁のようにちいさくたよりない炎がかれをきちんと灰にしてくれるのか、どこか遠いやすらかな場所まで送り届けてくれるのか不安だった。

 しかしかれを穴に横たえたときの違和感はすでに消え去っていた。かれはすでに炎の一部であり、その輪郭はうしなわれていた。わたしは正しいことしたのだと思う。光合成のおこなわれないこの世界の酸素はきっと残りわずかだろう。その貴重な酸素を、わたしたちが生きてゆくうえで欠くことのできないそれを消費し、炎は赤く、死者のために舞いゆらぐ。それはとても良いことだった。

 今や炎は草むらぜんたいに広がっていた。恐怖のような感情はなく気分はむしろ高揚していた。これほどあざやかなものは久しく目にしていない気がした。おなじ炎でも街灯の下より夜闇の底を焦がしているほうがうつくしかった。この炎がもっと大きければ遠くからは朝焼けのように見えただろう。そうでないことが残念だった。

 ひときわ強い風が吹き、高いところへ火の粉が散った。ワンピースが鳥のつばさのようにはためいた。全身が粟立ちわたしはじぶんを抱きしめた。服の上からでも凍えた体温がつたわった。それをごまかしていたるうはあたり一面にあかあかと咲き乱れていた。



2021.9

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