しかし猫には分からない

外清内ダク

しかし猫には分からない



 隣の客が猫だってことに気づいたとたん、私はそわそわし始めた。

 行きつけのカフェは常のように盛況で、女の子グループのおしゃべりがあちこちから止めどなく押し寄せてくる。彼氏からの連絡がなかなか来ず、騒音にいっそう心を掻き乱され、私はスマホの画面をイライラと叩き続けていたのだ。なのにこのやかましさの中にあって、猫はひとり、カウンター席に静かに腰を下ろし、飲むというより嗅ぐという感じでのんびりコーヒーを愉しんでいる。

 目を奪われた。猫。カジュアルジャケットの襟元から覗くうなじ。その流水のように滑らかな毛並みの下に、力強い筋肉が確かな肉感を伴って秘め込まれている。触れたい、と私は反射的に欲望した。あの毛の中に手を差し入れて、猫の肉の弾力としなやかさを直接感じたい。彼の肉は熾火おきびのように熱いだろうか。秋風のように涼しいだろうか。

「試してみますか?」

 不意に猫がカップを置いた。私は戦慄する。猫がこちらへ目を向ける。猫は笑わない。ただ目を細めるだけだ。けれどその笑みならぬ笑みが、私にはっきりと告げている。「見えていますよ。あなたの思いが」――恥ずかしさのあまり私は頬を火の色に染め、それでいて目をそらすこともできず、猫のひげの震えを凝視する。

「試してご覧なさい。あなたの手で」

 もう一度、猫の美声が私の子宮に低く響いた。



   *



 ビルの隙間の、唸りをあげる室外機のそばで、私は猫と向かい合う。胸と胸が触れ合いそうなほどの近さ。断続的な心臓の破裂音を彼に聞かれてしまうかも。たとえ聞かれなくたって、私のはしたない興奮をとっくに承知なのだろうけど。

「本当に……」

「ご遠慮なく」

 私は、腕を、持ち上げた。

 ゆうに頭一つ半ほども背の高い彼のうなじに指を絡めれば、私は半ば彼にぶら下がるような形になる。猫の硬い毛が私の指をちくちくと突き、その下の意外にふっくらとした筋肉が私の体重を力強く受け止め、火傷しそうなほどの体温に私の皮膚はつられて脈打つ。私は彼に胸を寄せた。厚い胸板にあごを乗せ、自分がなぜこんな痴態を曝け出しているのかも分からぬまま、乱れた息を彼の襟首に吐きかけた。

「なぜ分かるの。私の気持ちが」

 私の声を浴びて猫の毛が震える。

「ひょっとして、あなたのカーディガンはピンクなのでは?」

「それは……そうだけど?」

「やあ、あたった。

 あなたのようなひとには、きっと華やかな色が似合うと思ったのです。

 とても素敵な色だそうですね。しかし猫には分からない」

 猫はまた目を細めた。さっきと同じ表情のはずなのに、私には妙に寂しげに見える。

「赤色盲。赤やピンクは、猫には墨を流したようにしか見えない。けれど人間には分かるのでしょう?

 羨ましく思いますよ。あなたが僕を羨んでくれるのと同等か、ひょっとするとそれ以上にね」

 トート・バッグの中でスマホが振動するのが聞こえた。LINEじゃない。電話をかけてきたんだ、彼氏が。ずっとこれを待ち望んでいたはずなのに、何故か今、電話に出るのがおっくうで、私は振動音を黙殺した。5秒。10秒。堪え性のない着信音は、わずか12秒で止んでしまった。

 肉の熱。炎にも似たそれが、指先から、私の胸へ、腹へ、更にその奥へと侵入してくる……

 読まれているだろうか。私が今、何を欲望しているかも。

 してくれるだろうか。私が今、されたくてうずうずしていることを。

「もちろん。貴女あなたがそれを望むなら」

 猫は低く喉を震わせ、しなやかな腕を背に回して、私を強く抱きしめた。



THE END.

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しかし猫には分からない 外清内ダク @darkcrowshin

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