No time for postmortem

橘 紀里

Root Cause Analysis

 だいたいこいつはなんでよりにもよって一番会いたくない時に限ってやってくるのか。よう、と彼に向けて陽気で人懐っこい笑みを浮かべた顔は、いつもは雑に残っている無精髭がきれいに剃られた上に、ぱりっとしたダークグレーのスーツを着こなし、こざっぱりとした髪を自然に流していて、どこからどう見てもビジネスマンだ。


 一般的で平均的な大学生の彼にはおおよそ接点のなさそうな相手に周囲がざわつく。ようやく日常に復帰したところだというのにこんなところでつまずいてたまるか。内心でそう毒づいて足を早める。

「誰が一般的で平均的だって?」

 ニッと不穏に笑った声に、止まりそうになった足をぎくしゃくと無理やりに動かす。ここで立ち止まったらおしまいだ。

「おーい、アサギ。待てって」

「うるさい、人混みの中で呼ぶな」

 これ見よがしに大声で名を呼ばれ、ついに立ち止まった彼に、周囲が何事かと視線を送ってくる。しまった、と思った時には時すでに遅し。ニヤニヤ笑う男はすかさず彼の腕を掴んで歩き出す。身長差は五センチもないはずだが、見かけより遥かに荒事に馴れた男の腕の強さの前になす術もない。雑踏の中で暴れるのも面倒で、結局引きずられるようにそのままついていく羽目になった。


 連れ込まれたのは、カフェというよりは喫茶店という名称がしっくりくる古めかしい店だった。相手——髙橋はしごだかのタカハシはメニューも見ずにコーヒーとクラブハウスサンド、とカウンターに向けてオーダーすると、懐から煙草を取り出して火をつけた。銀色のごつごつしたライターは初めて会った時にも持っていたのを思い出す。高校の生徒指導室、というどう考えてもそんなものを見せびらかしていいはずのない場所で。

「よく覚えてんな」

 視線から内心を読まれる不快さに顔を顰めると、さらにくつくつと楽しげに笑う。元教師で普段は澄ました大人の顔をしているくせに、自分に向ける表情はやけに子供っぽいのが隙を見せているのか罠なのかはいまだに判然としないから警戒は解けない。


 深いため息をついていると、髙橋は煙草を咥えたまま何やら首を傾げた。まじまじと彼を見つめ、それからああ、とくぐもった声を上げると何かを合点したように頷いた。

「髪、切ったのか」

「気づくのおっそ」

 思わず脊髄反射で突っ込むと、まあなあと無精髭のないやけにすっきりした顎を撫でながら頷く。肩よりも長かった髪を切ったのはつい数日前。再会してすぐに切らなかったのは、何がしか未練があったせいで、それを断ち切るためにばっさりと思いきりいってやったというのに。

「背格好まで変わるわけじゃねーし」

「だいぶ印象変わるだろ、普通」

「まあ、そこはそれ、お前なんか存在そのものが派手だし」

「あんたほどじゃねーよ」


 歌舞伎町で再会した際にはだいぶ不意打ちで動揺したが、それから数度の邂逅——というか直接的な呼び出しを経て耐性もずいぶんできたから、自然口調もだいぶ砕けたものになる。少なくとも、もはや教師ですらなく、一方的に呼び出され搾取される間柄となれば遠慮などする余地はゼロだ。


「勿体ねえな、せっかく似合ってたのに」

 頭に伸びてきた手を身を引いてかわしたところで、ウェイターがコーヒーを二つとサンドイッチを運んできた。見上げれば、肩より長い髪を緩く結んだ青年が見下ろしていた。優美な弧を描く眉も薄い唇も、こんな場末の喫茶店には不似合いなほど整っている。そんな様子は人によっては嫌味に見えるものだが、接客業だからか、その笑みはごく自然で柔らかい。

「迷惑かけられてるんだろうから、こいつにつけておきますよ」

 悪戯っぽい光をその目に浮かべてちらりと髙橋の方を見やったが、それ以上は何も言わずにきびすを返してカウンターへと戻っていった。なんとなく既視感がある気がして、ついでに思い当たった節が凄まじく嫌な感じがして額を押さえた。

「何だよ?」

「……あんた、ああいうのが好みなのか?」

「あ? まあ顔は綺麗だが性格が悪いから無理だな」

「そうなんだ」

「安心したか? ああ何だ、ちょっとお前に似てるからか」

 口をつけたばかりのコーヒーを噴きかけて、ぎろりと睨みつけたが相手はどこ吹く風だ。

「冗談は顔だけにしろ」

「古めかしい言い草だな。とりあえず美味いから食えば?」

 差し出されたのは薄くスライスされたトーストでレタスとトマトとチーズ、チキンとベーコンを挟んだわりとしっかりとしたサンドイッチだった。何か裏があるのかと勘繰りたくもなったがさすがに外で何か仕込むほど悪辣あくらつでもないだろう。そう判断して一切れつまんで口に入れると、思いの外香ばしい香りと新鮮な野菜の食感、ついでマスタードともう少し複雑な味がした。

「……美味い」

「だろ? 他のは全部レトルトだが、これだけ謎のこだわりの手作りらしくてな。食パンからドレッシングまで」

「マジで?」

「趣味が高じて有機認証まで取って畑運営中らしいぞ」

「もはや趣味レベルじゃねえだろ」

「パンを焼くためのでけぇかまもあるんだってよ」

「セレブか」

「まあそんなとこ」

 言いながら、髙橋がテーブルに置いたスマートフォンの画面に映っていたのは一ヶ月分のカレンダーだった。びっしりと細かい文字で埋め尽くされたそれは、さすがに文字が小さすぎて詳細がわかるほどではなかった——のに、明らかにモノクロのはずのスケジュールの一部がやけにその存在を主張してくる。


『鷹の巣、17:00』


 鷹狩りでもすんのかよみやびだな、くっそ似合わねえ、と内心で突っ込んだがこの男の人脈は大概ろくでもなく変なところに繋がっているから、あまり詮索しない方が吉だ。そう考えてただ黙って残りのサンドイッチを遠慮なく取り上げて咀嚼する。髙橋はさほど気にした風もなく、むしろニヤニヤと笑うばかりだ。

「……何だよ?」

「お前が飯食ってるとこ見んの初めてだな。なんか小動物を懐かせた気分?」

「うるせえくそオヤジ。用がないならもう帰るぞ」

 言ってから、失言だったと気づいた時にはもう遅い。

「用があれば付き合ってくれんのか?」

 煙草を灰皿に押しつけながら、スマートフォンの画面をスライドさせる。何をしようと——させようとしているのかに気づいて視線を逸らしてそのまま立ち上がった。

「おい、飯だけタダ食いか?」

「食わせろなんて言ってねーし」

 そっちが勝手に差し出してきたんだろうと無理を通せば、それ以上は珍しく何も言わずに髙橋も腰を上げた。

 レジに立つと、先ほどの美形が穏やかに微笑みながら伝票を受け取る。髙橋は無造作に万札を置くと、そのまま釣りも受け取らずに店を出ようとする。雑だがこと金勘定に関してはうるさいはずなのに。怪訝に思って眉根を寄せた彼に、男はただまた不穏な笑みを浮かべるばかりだ。その後ろから、静かな声がかけられた。


「オーナーのの方は順調だそうだ」


 さっきの有機だかオーガニックだか、ともかくも野菜関連の話かと聞き流しかけたが、隣でぴくりと体を強張らせるのが視界の隅に入った。目を見開いたその横顔と、振り向いた先の青年の面白そうに笑う顔が対照的で、おそらくは厄介ごとの匂いしかしなかったから、そのまま脇を抜けて店を出ようとしたその時、ボーンボーンと絵に描いたような古時計が、五回鳴った。

 同時に、入る時には気づかなかった、ガラスのドアにプリントされた古めかしいタイポグラフィが目に入る。


『喫茶 鷹の巣』


 意味不明のダサい店名の、黒いはずのその文字が、先ほど食べたクラブハウスサンドの瑞々しいトマトのような——あるいは鮮血のような赤で浮かび上がる。


 警告アラート致命的クリティカル——システム停止レベルだ。あるはずもない架空の音が、冗談でなく頭痛がするくらいのボリュームで脳内で鳴り響く。店の扉が開き、カラン、というのんきなベルが鳴った瞬間、ほとんど無意識に隣に立つ男を突き飛ばしていた。同時に響いたのはパン、という乾いた音、とわずかに遅れてやってきたのは衝撃と——激痛。


 その場に倒れ込んだ彼の脇をスーツ姿がすり抜けて、入ってきた人物を殴り飛ばす。硬い何かが地面に転がる音と、怒号がやけに遠くに聞こえた。恩人に駆け寄るよりも先に闖入者を制圧しようとするあたりが根本的にじょうなんてものがない奴らしいな、と彼の口が笑みを形作るのと、視界が闇に閉ざされるのはほとんど同時だった。


 だから、目を閉じる一瞬前の視線の色にあの男が呆気に取られた理由も、どうして庇うなんて愚かな真似をしたのかも、そもそも呼び出されるたびに顔を合わせてしまった理由も何もかも、たぶんきっとわからないままなのだろう。


 その予感だけが、確かだった。

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No time for postmortem 橘 紀里 @kiri_tachibana

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