薄闇の骸
野原想
薄闇の骸
「よく笑ってよく泣いて、君は疲れないの?」という僕の質問に「疲れるに決まってるじゃん」と君は返した。別に、そんなに深い意味があって聞いた訳じゃないけど、君の答えを聞いてなんか、少しだけ、心の中がぎこちなく揺れて。君がいつものように眩しく笑う。
薄暗い中、君の声だけが、僕の脳を撃った。
「しょうがないでしょ、だって」
まぁ別に、僕には関係ないことだけど。
四月は熱気でも冷気でも無いらしい空気を吸い込むとやけに体の具合がいい気がして空洞なところで渦を巻いているように感じた。そんな中、入学式という面倒なイベントが終わって数日経った今、僕はさらに面倒で厄介な奴に付き纏われていた。入学式が終わってすぐ「ねね、町田蒼夜くんよな?俺ね、大和!佐伯大和!」と鬱陶しい声量で声を掛けられた時に関わるつもりがないという意思を明確に示しておくべきだったと反省している。
「どっか行くん??俺も行きたい!」
「あ!てかさ、蒼夜って呼んでい?」
「俺ら家結構近くじゃね?今日から一緒帰ろーぜ!」
…この佐伯大和という男は僕がどこで何をしていてもこの調子で絡んでくる。今更無視をしようがあからさまに面倒だという態度を取ろうが無駄だった。数日間、肩に乗せられる手を無言で振り払ってきたけれど、それすらも疲れたので休み時間の度僕の席にやってくるこいつに向かって「なんで僕に構うの?暇なの?」と聞く。その質問に対する返答が「暇、ちゃ暇かも!男子高校生なんて暇なもんでしょ?」と言う言葉と誰かを思い出させる笑顔だったから、もう諦めるしかなかった。
「だからさ、仲良くしよーぜ!」
「…だから、意味が分かんないんだけど」
目の前でニカッと笑うこいつを見てると何故か、目を瞑ってしまいたくなる。
なんというかこう、僕には少し眩しすぎた。
その日の夜、少し開けられた窓から入ってくる風は僕の外側に触れるのに丁度良く、そんな風に前髪を靡かせている透さんを数秒ぼんやり眺めて目を背けた。流した視線の先では見慣れた後ろ姿がチャカチャカ音を立てながら食器を洗っている。
「あ〜佐伯くんね〜?」
「…知ってんのか、大森鈴蘭」
背中を覆うストンと下ろされた焦茶色の髪の毛が揺れる。少し呆れたように視線が僕をつついてまたすぐに手元の食器に戻された。
「佐伯くんと私学級委員だもん。も〜、自分のクラスの学級委員くらい覚えておきなよ〜?
ていうか、いつまで私のことフルネームで呼ぶつもり?」
「…これは、線引きだよ。線引き」
不服そうに「ふ〜ん」と口を尖らせた大森鈴蘭。
「でも春は出会いの季節って言うし!大事にした方がいいんじゃ無い〜?そういうの」
その背後、ダイニングテーブルにはカップが三つ。グレーのそれに手を伸ばすようにして引いた椅子に腰を下ろす透さんはうざったい表情を僕に向けた。
「蒼夜は友達出来るの早かったな〜!なんだっけ、佐伯だったか?大事にしろよ〜?」
透さんの表情への違和感や苛つきを少しだけ込める。
「…別に友達じゃない。てか友達居ない透さんに言われたくないです」
「ちょいちょい、酷くなぁ〜い?俺友達いるんですけど〜?」
そう言った透さんはカップにお湯を注ぎながら、思い出したように「え待って?鈴蘭学級委員なったの?俺知らなかったんだけど?」と不満そうな表情を浮かべた。
「逆になんで知らないの〜?ちゃんとデータチェックしてよね〜?」
泡まみれの食器とスポンジを手にした大森鈴蘭がまた呆れたように振り向いた。家族でも何でもないのにお互いのことを理解しようとか、気味が悪い。二人の本当なんて、僕にはこれっぽっちも関係ないから。
カップの中をかチャカチャと掻き混ぜながら「データは暇な時にまとめてチェックしてるから良いんです〜!俺だって暇じゃないの〜」なんてほざく透さんを横目に僕はカップの中、わずかになっているお茶を一口飲む。
「俺だってしっかり教師としての仕事をこなして〜…そもそも!そーゆーのは鈴蘭が自分で報告してくれた方がいいんじゃないのか〜?」と大人気なさを存分に発揮した後で湯気の出ているカップに口をつける。
「あっつ!」
透さんの服にこぼれたそれを大森鈴蘭が手際良く拭き始める。
「も〜透さん!気を付けてっていつも言ってるでしょ〜?」
「悪い悪い、てお前それ洗う前の雑巾じゃない!?」
パーカーの裾にトントンと雑巾を当て続ける大森鈴蘭。
「気にしない気にしない」
「俺は気にするけど??」
うるさく喚く透さんがパタパタと手で乾かす仕草を見せる。
「はぁ…」
少し肩を落とした先で嫌いな匂いが鼻を擽った。自分に纏わり付くその匂いから逃げるように席を立った。
「蒼夜?部屋戻るのか?…ってコーヒーか。悪いな」
「別に、そんなんじゃないし」
僕は自分が口を付けたカップのフチから伝う水滴がテーブルに落ちるのを待つこともせず透さんに背を向けた。
「…ガキじゃないし」
廊下への扉、ドアノブの手をかける僕に向かって「お〜そっかそっか、そうだよな、」と薄っぺらい言葉をかける。
「もー透さん、やめであげなよ」
茶番のようなこのやりとりにも、嫌気が差している。
五月の空気はどこか奥へ奥へ伸びて行くみたいで自分の皮膚が炭酸のように溶け出して吸い込まれているんじゃないかという気持ちにさせられる。というか、自分が持っている空間の感覚と実際の空間がずれている気がしてならない。なんかこう、ちょっとだけ違う。
そして今も重たく色を変えるチャイムが教室の壁に吸収され、スパン、スパン、とスリッパが床に擦れる音が耳に残ってイライラする。
「高校生にもなって家庭科とか何すんだって思うよな〜」
長方形の机に向かい合わせになる形で椅子を並べて座っている僕たちを怠そうに眺める家庭科教師。
「ま、簡単な裁縫だけだしとりあえず提出してくれれば成績つけるから安心しろ〜」
ペラペラと捲って目を通したところで今後役に立つとは思えないような事ばかりが書かれている教科書を指先で撫でて無意味な話を聞き流す。向いに座る大和は妙に真剣にこのどうでも良い話を聞く姿勢を見せていた。
「あ、忘れてた。俺は家庭科担当の三十二歳、高身長イケメンで好きな食べ物はシチューな立花透先生で〜す」
正気を疑うその自己紹介に数名が反応を見せる。
「とーるちゃんて呼んでいー?」
「イッケメ〜ン!」
「彼女いるー?」
学校というのがそもそもこういう場所なのか、皆それぞれが他人に順応していくうちにこういう空間が出来上がってしまうのか。どちらにしても、馬鹿馬鹿しすぎる。
「はいはい、好きに呼んでいいし正真正銘のイケメンだけど彼女はいませ〜ん!ってことで、皆の手元に配られてる裁縫セットとランチョンマットの説明書通りに作業してくれ〜」
動くたびに鳴るスリッパの音がうるさくて、もういっそ作業に集中してしまった方がマシだと思った。
「あ、」
布よりも薄い指先の皮膚を刺した針をゆっくり引き抜く。
「蒼夜指やっちゃった?痛そ〜、ちょい待ち。せんせ〜」
「ちょ、」
滲み出る赤い液体は皮膚の繊維に沿って線のようになった。細いところまでよく出来てる。
「ん〜どした〜?」
「絆創膏ありますかー?」
大和のでかい声はちらほらと雑談が聞こえていた教室の空気をスパンと切った。こいつといると僕まで注目される羽目になりそうで、心底嫌だ。
「あ〜刺しちゃったか〜絆創膏な、準備室のとこまで来てくれ〜」
「ほら蒼夜、行っといで」
善意にまみれたその表情が僕には甘ったるくてベタベタして、気持ちが悪い。
「…余計な事すんな」
このまま動かないとそれはそれで大和がうるさいような気がして仕方なく木製の椅子を引いて立ち上がる。じりりと痛む人差し指に木の破片が食い込んだ。
「った、」
通路を挟んで斜め右のテーブルに座る大森鈴蘭の視界に映った僕は、別に助け欲しそうになんかしていなかったのに。
「町田くん!私ハンカチ持ってるよ〜?」
「…要らない」
ぽたりと床に落ちた赤いそれを見て「ほら」とハンカチを差し出すその手を振り払った。
「…要らないって」
床に落ちたハンカチと自分の想像より響いてしまったその声に呆れた透さんが僕を呼ぶ。
「ほら町田〜早く来い〜」
気の進まないまま冷えたドアノブを捻って家庭科準備室へ入る。透さんはガチャガチャとテーブルの引き出しを漁りながら「ばんそーこーばんそーこー」と口を動かしていた。「お〜あったあった、」と渡されたそれは相当古く見えた。
「…いつのですか、これ」
「お前さ〜目立ちたくないとか言ってるくせにあれはどうなのよ〜」
色の変わった外側の紙をペリペリと剥がして僕の指を強引に自分の方へ寄せた。
「…あんた本当に、嫌われますよ」
「蒼夜に〜?もう十分俺のこと嫌いでしょ?」
こう言う場面でニコッと笑えてしまう人間という生き物が本当によく分からない。この人を恨むことしかできないこの現状すらもこの人のせいだから、どうしたって腹が立つ。
「…うるさいです」
綺麗に巻かれた絆創膏を見て満足げに「よ〜し!」と声を出す。なんで全部音にしないと居られないのか。
「蒼夜もちゃんと提出しないと成績つけられないからな〜」
「…分かってます」
また、冷えたドアノブに指をかける。絆創膏の貼られた左手人差し指はそのドアノブが冷たいことさえ感じられなくて、全部、僕の全部がこうなら良かったのにと考えた。
昼休みのチャイムが鳴ると無意識にあの騒がしさを待つようになってしまった、のに。
「蒼夜〜!俺今日委員会学級委員の集まりあるから昼飯一人で食ってくれな!」
そう言いながらガッツリ載せられる腕の重さに耐えられないわけじゃないけど、その匂いが着くのが嫌で退かした大和の腕が、またぐいっと僕の肩に置かれる。
「…別に、大和と食べるって決めてないし」
「ん〜まぁそうだけど、俺教室戻ってきて蒼夜が別のやつと飯食ってたら凹むかも〜」
大和は大森鈴蘭の横でパンを齧るのに僕には一人で居ろって意味が分からない。ただの我儘なのか僕の許容範囲が狭いのか、なんて事考えさせられている時点で相当うざい、だるい。
「…うざい」
「辛辣〜!でも俺知ってるんよ、大和がそういうこと言うのは俺だけって!だから良し!」
「…ほんと何。早く行けば」
本当は全部バレているんじゃないかと思わせてくるこの態度が嫌いだ。
六月は雨の多い季節なのでどうにも気が重い。なんか湿気で目の奥がギシギシする気がするし。そんな今月も三限終わりの廊下を大和と歩いている。
「俺さ、結構梅雨好きなんだけど蒼夜はどう?」
「…これっぽっちも好きじゃない」
ジメジメとした校内。窓の外では大きな雨粒が落下し続けていて、片手で持っていた教科書やノートを両手で抱えるように持ち直す。
「これっぽっちてどんくらい?俺と蒼夜の心の距離くらい?」
大和はぐいっと肩を寄せて僕の顔に近づきながらニカッと笑った。
「…大和が一方的に詰めてる僕との物理距離くらい」
「そんな褒める〜??」
頭を掻きながら「照れるな〜」と言ってヘラりとする大和。
「…怖い」
こいつが僕の隣を歩くようになってから約二ヶ月。未だにコミュニケーション能力が高くて誰とでも上手く付き合えそうな大和が僕に執着する理由を聞く機会もないまま。まぁ別に、そんな事を知ったところで僕は何も変わらないけど。
「あ!ごめん蒼夜、俺移動教室でノート忘れてきたぽい!取ってくるわ!先教室戻ってて!」
声が、でかいんだよ。この距離でその声量って。
「…分かった」
バタバタと騒がしく廊下を走っていく大和背中を数秒眺める。一人になると途端に雨音がうるさく聞こえてしまって、どうしようも無かった。
階段を上がって1-Bの札が見えてきた辺りで「キャハハー!」と言う高音の笑い声が聞こえてきた。入り口から先、入ることを躊躇った僕はその場から教室を覗く。いくつかの耳障りなそれは一人の女子生徒に向けられていて「やめたげなよ〜」「も〜かわいそ〜」などの半笑いが重ねられている。その言葉に耐えるようにじっと座っている女子生徒は僕から見ても分かる程に唇を強く噛んでいた。彼女は頭の上に手を置かれて「柳さんてさぁ、アトピーってやつでしょ?こんな肌晒しちゃってさぁ、恥ずかしくない訳ぇ?」と言われてもただ耐えるように座っているだけ。めんどくさ、一回離れて…。
「あれ、何してんの?」
背後から僕の腰をするりと撫でた手が、焦茶色の髪を揺らして教室の中に入っていく。この瞬間、僕の足はその香りに釣られるように数センチ前へ動いてまた固まる。一人を囲んで揶揄っていた数人の前に立ち、彼女の頭の頭の上に置かれていた手を掴んだ大森鈴蘭。
「はぁ?大森さんだっけぇ?学級委員だからってぇこういうこと、していいんですかぁ?」
「こういうこと、って?何?どういうこと?」
周囲が騒ついて、取り巻きのように周りにいた女子が少しずつその場から離れていく。
「だからぁ、急に人の手掴んだりとかぁ、しちゃっていいんですかってことぉ」
ギリギリと、その手に籠る力が強くなっていくのが分かる。
「うんうん、もっと詳しく教えて?今私が掴んでる白い綺麗な手は、誰の手?」
普段とは違う、ゆったりとした柔らかい口調で。
「はぁ?だからぁアタシの手だってばぁ」
「アタシ、って?誰?どんなアタシ?」
大森鈴蘭の口角が上がったその瞬間、僕の中、喉の奥が、救われたような感覚になった。
「あんた、何?いい加減にしてよ、」
「ねぇ、この手はどんなアタシの手なの?良い子?それとも、悪い子?」
相手の顔にグッと近寄ってまた、にこりと笑った。関係ないはずの僕の肌の下が不気味にドクドクと跳ねている。
「え、ちょ、」
大森鈴蘭から逃げて肩を後ろへと下げる彼女の動きは調子の悪い操り人形みたいだった。
「ね?教えてってば。アタシって、貴女って、良い子なの?悪い子なの?」
甘くて重い毒が充満しているこの空間に、頭が、くらりと揺さぶられる。
「ちょ、もう、分かったから!」
「そう?じゃあ柳さんにごめんなさい、出来るよね?」
大森鈴蘭は腕を掴んでいた左手から、するりと力を抜いた。白い腕にはくっきりと手の跡が残っていて、その赤さと熱を隠すもう一方の手は小さく震えて見える。
「…柳さん、ごめん」
細いその声に、座ったままの彼女が上を向いて真っ直ぐ、下げられた頭と揺れる毛先を見る。
「あ、いえ、大丈夫ですよ。ありがとう」
柳さんと呼ばれていた彼女はくしゃっと乱れた自分の髪を梳かして微笑む。どうして笑っていられるのか僕には分からなかったけどそれも僕には関係ない事だった。そしてその様子を見ていた大森鈴蘭が彼女の肩をポンと叩く。
「柳さん、良かったらどこかで一緒にお弁当食べない?」
さっきまでとは違う表情で彼女に笑いかける大森鈴蘭を見て僕はふわっと体の中身が浮く感覚になった。くたりとよろけた後ろで「おっと、」という声が聞こえて大和に背中を支えられた事に気付く。
「蒼夜?だいじょぶ?」
「…ん、平気」
「そ?じゃあ弁当、食おーぜ!」
スタスタと教室に入った大和は廊下側の一番前、自分の席に教科書とノートを放ってリュックから弁当を取り出す。僕は何だか、少しだけ気になってしまって教室から出ていく大森鈴蘭と柳さんから目が離せなかった。
「…僕トイレ行ってくる。先食べてて」
「りょーかい!気をつけろよ〜!」
「…何に」
ははっと笑う大和の机に教科書類を乗せて廊下へ出た。
騒がしさの中、教室棟端にある階段だけは女子生徒二人の小さな声がよく聞こえた。蓋の開いた弁当箱は階段に腰を下ろした彼女たちの太ももに置かれている。柳さんの顔を見る事も無く弁当に視線を落として口を開く大森鈴蘭。
「嫌じゃ、なかった、?」
「…え?」
弱気なその問いに首を傾げる柳さん。俯いたまま、涙を堪えるように下手な笑顔を浮かべる。
「大森さん見て、私の肌。傷だらけでしょ?本当は人に見せたくないんだけどね。大森さんには見せちゃおっかな」
そう言いながらストッキングを脱いだ彼女はシャツのボタンを外してスカートの裾を捲る。
「今はだいぶマシなんだけどね。昔の傷が酷くて全部跡になってるの」
腕や脚、胸の上も掻きむしった跡が鮮明に痛々しく残っていた。
「嫌で嫌でしょうがない。いくら服を着て隠してもこの傷が私の体から消える事はなくて、私が悪いわけじゃないって分かってるんだけど、私が私であるせいで、私はどんどんみっともない気持ちになっていくの。この肌みたいに心まで、汚くなっていく」
柳さんは自分の肌に爪を立てる。脚や腕に指を這わして、憎そうに、恨めしそうに。
「そんな、」
「そんなことあるよ。大森さんには私の気持ちも肌の痛みも、綺麗になれない苦しさも分からない。何もかも分からないんだよ。さっきもね、ちょっと嫌だった。この肌のせいで助けられてるんだなって思って、すごくすごく嫌だった。一番、惨めだった」
息を吸う。小さい口で、肺の中目一杯に空気を吸い込んだ。
「正義のヒーロー気取りかよって思ったもん。やめてって、そんな事しないでよって。今までも居たの。色々言われているところに割って入ってきて散々自分の正義だけ撒き散らして私のこと助けたような気になってる人。そういう奴が一番私を惨めにしてるんだってそろそろ気づいてよ」
彼女の太ももに血が滲む。
「私の独り善がり、だったかも」
服の裾をぎゅっと握る大森鈴蘭が諦めたように声を出した。
「今更私の機嫌取ろうとか、」
「違う、そうじゃなくて。ああするのが良い子って思っただけって言うか…。それに、言い返さない柳さんにもムカついてひどいこと言った、よね」
僕が今まで見ていた大森鈴蘭はあいつが自分で作った鎧部分だけだったのかもしれない。
「ああ、あの、白い綺麗な手ってやつ?思ったよ、めっちゃやな奴じゃんて。でもそっか〜。大森さんはあれだね、あんまり人間ぽくないね。好きかも、そういうの」
「ほんと…?」
張り詰めていた声のトーンが少し緩くなったのを感じて僕はその場から離れた。今の光景は僕の記憶に存在しても良いものなのかと面倒なことを考えて廊下を歩く。
教室に戻ると席に座った大和がだらりと姿勢を崩しながらスマホをいじっていた。
「…ただいま」
「お〜おかえり!早く食おーぜ!」
手元には包みに入ったままの弁当箱が置いてあり、僕が置いていった教科書は大和のそれらの上に丁寧に重ねられていた。
「…先食べてて良いって言ったじゃん」
「そーだっけ?ま、もう良いじゃん!食お食お!」
いつかこの笑顔に救われたいと思ってしまう日が来る気がして、嫌になる。
「…まぁ、良いけど」
そんな僕は今の僕には関係ないし。
いつも同様の適当な声で「プール?入ってきていいよ〜?」なんて当然のように言われたから、何となく勝手に入らないつもりでいた水の塊に体を沈めることになってしまった。
「つめた…」
ちゃぷ、と足先をつけてみると想像以上に体の熱を奪われていくのを感じて何だか少し、怖かった。僕はプールサイドでしゃがみながら何度も手の平で水を掬って指の間から置いていくのを見ていた。やっぱり何かしら理由をつけて見学すれば良かった。と、数メートル先の屋根の下、ベンチに座っている柳さんを見るとすぐ側に水着姿の大森鈴蘭が居た。
確かにあいつは僕と違ってこういう事は好きそうだし…。
「蒼夜、中学はプール入ってなかったのか?」
僕の意識を引き戻すようにもう既に上半身まで水に浸かっている大和が手を差し出しながら聞いてくる。
「…良いって、そういうの」
外気もまだ大して暑くないのにこんなの馬鹿馬鹿しい。パッと大和の手を突っぱねた時にバランスを崩して足を滑らせる。「ちょ、!」と僕の体に手を伸ばす大和から逃れるように下へ落ちて、そのまま水面に体を打った。段々と音の輪郭が認識出来なくなって、四角い液体に四肢を押さえ付けられて腹を奥へ奥へと押し込まれていく。あ、これだめだ。ぼやける視界が恐怖で、痛みで、崩れていく。皮膚の奥に叩き付けられるそれが怖くて仕方なくて。
バサッと水から持ち上がった僕に駆け寄ってくる大森鈴蘭。
「あの、わ、私保健室連れて行きます!」
そんなことしたら不自然に決まって…なんて、声になるはずも無かった。
「俺が連れてくって!」
「駄目!…あ、とりあえず私が連れていくから佐伯くんは立花先生に知らせてきてくれる?」
無気力な体が強引に大森鈴蘭の背に乗せられる。
「軽っ…」
うるさい。そう思いながらも下から上がってくる体温にさっきまでの恐怖が消えていく現状を、情けなく思った。
中庭を突っ切りクラスメイトの目が届かない廊下まで来て、大森鈴蘭の呼吸が荒く大きくなっていた。
「はぁ、は、もうちょっと、だから、」
「おい、待て、だいじょぶ、大丈夫だから、お、ちつけ」
「な、んで?全然、平気だよ、ほら、」
濡れたままの僕の体をおぶっている背中が揺れる度に大森鈴蘭の目元から大きな涙が落ちていた。感情的になって目から涙が溢れるという現象が僕にはいつまで経っても理解できない。まぁ、こいつの涙の訳とか分かりたくもないけど。
「いいの、だいじょぶ、だ、から」
この言葉の向く先は僕なのか、大森鈴蘭自身なのか。しばらく歩いてから辿り着いた保健室には『養護教諭不在』という札が掛けられていた。大森鈴蘭は震える指でガラガラとドアを開けると、よろりとふらつきながら僕をベッドに座らせた。
「おい…、あんなことしたら怪しまれるに決まって…」
「大丈夫、大丈夫だから…」
僕の声なんか聞こえていないかのように目の中が渦を巻いて見える。水の滴る僕の髪に触れて、見学の柳さんに預けていたらしい小さな巾着の紐を解く。
「これ、私の予備だけど、使っていいよ」
緩やかに上下する肩と、僕の水着にかかる指に、僕の体温が上がった。
「待って、」
雑に閉められたカーテンの隙間から見る僕たちはどんな二人に見えるのだろうかと、一瞬考えてしまった。
「私もう行くけど、ちゃんとお世話頼んでおいたから安心して!」と言う大森鈴蘭の言葉に反応するのも何だか怠くて、「…ん、」と気持ち程度の返事をする。恐怖や疲労に重ねて、気が動転していた大森鈴蘭を宥めることに体力を使い過ぎてしまった。あいつが出て行ってから眠ることも出来なくて何となく、自分の感じた俯瞰感の正体が知りたくなった。顔から首、腕から腹と、横になったまま自分の体を確かめるように触った。くすぐったさが分からないことにもどかしさを感じながら触れる皮膚は少し虚しく、感じられる体温も自分がこの世界に存在していると言うことが突き付けられて気持ちが悪かった。
「失礼しまーす!蒼夜居るかー?」
カーテンの向こう、保健室のドアが開いて大和の声がした。
「…ここ」
声を出してみて体力が大きくすり減っているのを実感する。こんなにもダメになってしまうものなんだ。
「体調ど?」
シャッとカーテンが開けられて眩しい光に大和の影が映る。ベッドの横まで丸椅子を引っ張ってきて腰を下ろす。
「てかめっちゃビビった。帰んなくて平気なん?」
「別に、このくらい平気」
光に目が慣れなくて布団を頭まで被る。大和は「あ、ごめん、眩しかったか」と後ろのカーテンをゆっくり閉めて僕の方へと向き直すと、僕が被っている布団の端をキュッと掴んだ。
「蒼夜はさ、居なくなんないでね」
急に置かれた寂しそうな言葉と表情に、視線が固まる。僕では無い誰かが彼にこの台詞を吐かせているのだと理解して布団の中で拳にグッと力を入れる。
「…普通に話せるんだな」
「え!?今までも普通に喋ってたくね??」
ケロッと明るい顔を見せた大和の手にはまだ強い力が込められたままで、僕にはどうすることも出来なかった。
「…大和にとって僕は、別に何でも無いでしょ」
こんなことが、言いたかったのかもしれない。
「お〜、めっちゃ酷いこと言うよな。でもまぁ、俺蒼夜のそういうとこ好きだから」
嫌われても良いやとか思ったのに、全然かよ。
「そーだ、さっき大森さんに言われて立花先生んとこ行ってきたわ。蒼夜がダウンだって言ったら『多分大森が何とかしてると思うからさ〜スポドリでも飲ましといて〜?』って言われたから買ってきた!後で飲みなね」
立花透と言う大人はそういう男だったと再認識させられる。
チャポチャポと揺らされるペットボトルが妙に可笑しくて「ふは、」と笑いが溢れた。
「うわ、蒼夜笑った?まじ?」
「…笑ってない」
「よっしゃ〜!なんでか分かんないけど笑顔ゲット〜!」
そう言った後で機嫌良さげに鼻歌を歌う大和。
それを聞いていると今まで僕の手首や指先に絡みついていた細く痛い糸が解けていくような気がした。
七月になってから少しずつ、肌というか体のもっと内側の部分が冷たいものを欲している気がする。自分の中の、自分でも分からない感覚が勝手にバランスを取ろうともがく。僕の体なはずなのに誰か知らないやつに掻き回されているようなこれは何だか緩やかな吐き気を誘う。この曖昧な温度から早く抜け出したい。
夕方、大和が学級委員の仕事で遅くなるからと久々に一人で学校を出た。いつもは四六時中大和が騒々しく喋るせいで余計なことを考える暇もないけど今日は何だかやけに色々考えてしまった。俯きかけた顔を上げると雲がぐんぐん動いていた。奥の見えない大きなその白に美しさを感じて表面の隠す苦みに気づかないふりができるようになってしまう。雲の背景が赤くなり始め、それに気づいた時にはもう『立花』の表札の前に着いてしまっていた。鍵とドアを開けて玄関で鞄を下ろすというこの一連の動作も、さっきまでの考え事のせいでいつもより重苦しい。落ちる気分に流されるように足元を見ると揃えられていない革靴が目に入った。
「靴は揃えろって、何回言ったと思って…」
少し屈んだところでリビングの扉が数センチ開いていることに気づいた。そして、その扉から聞き覚えのある声が漏れ聞こえてくる。僕は何となく音を立てないように扉に近づいた。
『鈴ちゃん、佐伯くんが好きなんだ…!』
潜めるようなその声と雨音が微かに僕の耳に届く。何故かガツンと、頭の中が揺れた。扉の隙間から中を覗くと透さんがいつもの席に座ってテーブルに肘をつきながらぼんやりとパソコンの画面を眺めていた。
『誰にも言わないでよ〜?』
『言わないっ!やった、鈴ちゃんと私だけの秘密だね…!』
こんな話、校内でするなんて馬鹿なんじゃないのか。
『鈴ちゃんと私だけの秘密だね…!』
違う。繰り返される音声を聞いて、これは録画された過去の映像だと気づいた。あいつは今日大和と学級委員の仕事をしているはずだし、さすがにこんな話を学校の監視範囲内でする訳がない。やっぱりあれは嘘、なんだ。
『ね、鈴ちゃんは佐伯くんのどこが好きなの?』
軽くドアノブにかけていた左手の指先にふと、力が入ってしまう。キー…っと音を立ててリビングの扉が開く。
「あ、」
扉の音と僕の声に体を跳ねさせる透さん。
「そ、蒼夜!?なんだ〜、帰ってきてたのか〜!」
焦りを隠すような手付きでパソコンを閉じる。
「帰り、今日は早かったですね。何にしてたんですか?やけに間抜けな顔してますけど」
「あ〜!ちょっと、仕事のメール?が来ててな〜!蒼夜も、帰って来てたならただいまくらい言ってくれても良いんじゃ無いのか〜?」
大きく身振り手振りをして視線をあちこちへと散らばせながら僕の肩をぽんぽんと二回叩いた。多分この人はすごく賢くて、それ以上に阿呆なんだろう。
「…そういえば透さんの笑顔って、なんかこう、顔の筋肉同士がギクシャクしてますよね」
肩に乗る手を退かして制服を脱ぐ。
「え、待って?何で俺急にディスられてんの?」
でも僕は、そんなこの人に、期待をしてしまう。
「くしゃっとした笑顔が可愛い的なのありますけど、透さんのはギクシャクした笑顔です」
「待って〜?めっちゃ酷いね?もう人前で笑えない。お嫁に行けない…」
本当はすごく賢いはずなのに哀れでどうしようもない、この人に。
「…お嫁に行くつもりなんですか」
僕の背後、柔らかいオレンジ色に染められた空をカラスが横切り、苦くて重い匂いが僕の鼻先を掠める。
その後、陽が落ちてから帰ってきた大森鈴蘭はやけに機嫌が良くて「なになに〜?なんか良いことあったんじゃないのか〜?」なんてうざく絡みに行った透さんに「んん〜?別に何も無いけど〜?あ、次の土曜日出かけてくるから〜」と言った。大袈裟に驚く顔をして僕の方を見る透さんを無視してスマホを開いた。
「…大和か」
座っていたソファの布が、少し音を鳴らす。
「え!?何で!?あ、いや、」
「違うの」
暗くなったスマホの画面に、視線を落とし続ける。
「あっと、ちっがわないんだけどね!?あ、いや、あの、そうです…」
顔が赤くなるこいつを見ていられない。
「まじ〜!?どこで何して何色のパン食べるの〜?」
「…あんたはちょっと黙っててください。…手、洗ってきて。オムライスある」
スマホをソファに置いてキッチンへ立つ。
「あ、そうそう〜!蒼夜が作ったんだぞ〜?」
ガッと僕の肩を掴んだ手を指先で弾く。
「…透さんがケチャップライスをマヨネーズと七味で作ろうとしたからですよ」
「ええ〜?だめだったか?」
顔色を落ち着かせながら荷物を床に下ろす大森鈴蘭。
「蒼夜くんのご飯〜!レアだね〜!」
本当はこんな事思ってもないくせに人間みたいに嘘がつけるようになってしまった大森鈴蘭はさっと手を洗って、手際良く食器を並べる。なんで大和と二人で出掛けることになったのか気にする義理もない。
それから数日、カレンダーの日付が青くて今日がその日だと気付く。昨日と変わらず繰り返される日々の中で、僕は今日もこうして自分の部屋でベッドに寝転んでいる。大森鈴蘭が大和のを好きだと言うことも、透さんが僕たちに嘘を吐いていると言うことも、僕からしたら単なる事実でしかないから僕は、明日からも自分の気持ちを囲う体にだけ触れて居られればそれでいい。
空が黒くなってから大和に家の前まで一緒に歩いてくる大森鈴蘭は小さな紙袋を指に引っ掛けてクルクルと回している。自分の部屋の窓ガラス越しに玄関前を眺めるのが習慣になってしまって誰が来る訳でも無いこの景色を飽きずに見ていたいと願う程でもなかった。
「ただいま〜!蒼夜く〜んちょっと降りてきて〜!」
一階から上がって来る大森鈴蘭が僕を呼ぶその声。隣に大和がいること分かりきっていて、二人が並んでいるところを見るためにわざわざ降りるなんてくだらないとしか思えないけど、放っておく方が面倒なことになるというのも僕が一番よく分かっているから。
スウェット姿で仕方なく階段を降りると、やっぱり想像と一つも違わない光景があるだけで溜息を吐きたくなった。
「はいこれ、蒼夜くんにプレゼント!」
「一緒に選んだんよ〜!蒼夜何が欲しいのか意外と分かんなくてな〜!」
差し出された小さな袋を義務のように受け取って中身を確認すると青いハンカチが入っていた。
「…何これ」
「誕生日プレゼント!蒼夜くん今日でしょ?」
…は?誕生日?僕の?誕生日ってなんだよ。僕にプレゼントとか、ふざけてる。
「…いらない」
「そんなこと言うなよ〜!二人で選んだんだってば!」
だから…。
「だからいらないって言ってんだよ、」
ハンカチと袋をそのまま床へ落として部屋へ戻る。ああ、余計なこと言った。
八月に入ってから自分の体温で目を覚ますことが増えた。まぁ、こんなのは体の構造の話で僕の何かが関係しているわけじゃ無いから気にもしないけど。
夏休みに入ってからも大森鈴蘭はいつも通りの時間に起きて朝食を作る。和と洋を繰り返すその朝食を食べると、今日一日何かしなくちゃいけないような感じがしてとりあえず課題を開いてみたりする。科学、数学、英語。着々と進んでいくページにすら、達成感を感じられない僕が長期休みを有意義に過ごそうだなんて、端から無理な話だったのかもしれない。印刷された文字に飽きてリビングに降りると大森鈴蘭は居なくて、しばらくソファに寝転んでスマホをいじった。数分後、大きな眠気を感じて瞼を閉じたところに透さんの独り言と、ドンドン重たい足音が聞こえてくる。
「アラームって何回セットしてもスヌーズにしても聞こえないんだよな〜」
この人も大和とは違うタイプの声量がおかしい人で。ガチャ、と扉が開いて酷い寝癖頭の透さんが僕を見つけた。
「お〜蒼夜、早いな〜」
ソファの上で体を起こしてスマホを放った。
「あんたが遅いんですよ、もう十二時過ぎてます」
「なるほどな〜」
僕のお話なんか聞いちゃいない透さんはダイニングテーブルに自分のカップを置いてコーヒーの粉を入れる。
「そ〜いえば、蒼夜は耳良かったよな〜?」
お湯を注ぎながらそんな音を言ってくる透さんを無視した。
「やっぱり俺が五感のバランスミスったのかな〜?嗅覚はちょっとアレなんだっけ?」
「ちょっとアレって何ですか。自分では分かんないですけど、なんか周りと違う感じがするんで匂いの話はしなくなりました」
当てつけのような僕の口調に「はは〜」と軽い笑い声だけを滑らせる。
また、この匂いだ。コーヒーの。
「俺も耳良かったら朝ちゃんと起きれんのにな〜」
「透さんの場合は聴覚とかじゃなくて神経レベルでダメなんだと思いますけど」
「ま〜たそうやって酷いこと言って〜。俺悲しいんですけど〜?」
「…思ってないくせに」
僕のその言葉は、玄関のドアが開く音に重なって、僕にしか聞こえなかった。
「たっだいま〜」
「あれ、鈴蘭?出かけてたのか〜」
左手に大きなビニール袋を持った大森鈴蘭がリビングに入ってくる。
「ちょっとコンビニ行ってたの〜!急に甘いもの食べたくなっちゃってさ〜!」
そう言いながら袋から取り出されたものはシュークリームやケーキ、羊羹に菓子パンと見事に甘いものばかり。
「お〜!いいな!」
「透さんも蒼夜くんも一緒に食べよ!まぁ透さんの奢りだし!」
テーブルの上に並ぶ甘味に手を伸ばす。
「あ、お前、また俺の財布から抜いたな〜!?」
「家中にぽいぽい放っておくからいけないんですよ」
席はいつもと同じ。棒の正面には笑顔の大森鈴蘭が、斜め左には透さんが座る。
「それじゃ〜!いっただきまーす!」
「…いただきます」
正直、どの食べ物も匂いと味が違うからそんなに気は進まないけど、甘いものは何となく複雑な匂いの中にも甘さが混じっている気がする。
「そーだ、鈴蘭は触覚の代わりになんかないの?」
「なんかって?ああ、蒼夜くんの耳みたいなやつ?え〜、何もないかも〜!言われてみれば蒼夜くんだけずるいよね〜」
シュークリームを頬張る大森鈴蘭は不服そうに僕の顔を見る。
「僕がどうこうしたんじゃない。それに、あんまり得なこともないって」
「え〜?そうかな〜?盗み聞きとか出来るじゃん?」
「…しないよ、そんなこと」
僕の意思で盗み聞きをしようと思ってしたことなんて一度もないし。
口に入れたクリームが甘くて、頬の内側が、ジーンとした。
「…ごちそうさまでした」
食べ終わったケーキの皿を流しに片付けてリビングを出る。
「ま〜た蒼夜部屋戻っちゃったよ」
「透さんが余計なことしか言わないから防御反応じゃない?」
「いやいや、今日のは鈴蘭じゃな〜い?」
この会話だって、廊下の僕に聞こえてるって分かっててしてる。こんなことをする二人が僕のことを好意的に思っているよう、家族だと思っているように振る舞ってくるあの偽物の時間に浸って居られるほど僕は馬鹿になりたくない。
自分の部屋の窓から入ってくる光から感じる温度を手に取るようにして僕の中のどこかに閉じ込める。窓を開けて少し見下ろすと、ガソリンの甘い匂いがふわっと香ってきた。奥の方までこの匂いに満たされて怖いものも嫌なものも気持ち悪いものも、その存在すら知らないところに行けたら良いのに。そうぼんやり考えているとうちの玄関前からこっちを見上げている大和が目に入った。
「え」
僕の顔を見てニカッと笑った大和。
「急に顔見せたくなっちゃって!」
「…普通見たくなるものじゃないの」
ガチャリと玄関の扉を開けるとニコニコの大和が立っていて何だかここまでぼぉっとしていた頭の中がぐわっと晴れた。
「蒼夜〜」
ニコニコした表情のまま倒れ込むように僕の背に手を回した大和。
「うわ、っと…なにどうしたの」
「ん〜?言ったじゃん。俺の顔見せたくなっちゃってさ」
僕の肩にぐりぐりと顔を埋める。大和の声が、僕の中に吸い込まれていくみたいだった。
「…顔見えないけど」
「そんなに俺の顔見たいの〜??」
「…ほんと、どうしたの」
俺の背中をさすってからぽんぽんと優しく叩いた。
「生きてるね〜、心臓動いてる」
透さんの作った偽物の心臓を撫でるように言う大和。
「当たり前でしょ」
「ね、今日蒼夜んちでご飯食べてい?」
僕の体の中に、声を落とし続ける。
「…別に、良いと思うけど」
「まじ?やった!」
バッと顔を上げた大和はいつも通りうるさくて鬱陶しい大和だった。
九月って嫌いだ。どの時間帯も暑くて気怠い。自分の中から色んなやる気が失せていくのを感じてどうにもイライラしてしまう。僕はいつからこんなにも環境に揺さぶられるようになってしまったのだろう。それもこれも、夏休みが明けてすぐ文化祭というイベントの準備で校内が騒がしくなって周囲が浮かれているせいだ。迷惑でしかないこの期間をどう乗り切ろうかと言う事にしか思考が回らない僕も大概、この空気感に支配されてしまっているんだろう。
文化祭期間になって誤算だったのは、学級委員が文化祭委員を兼ねるとか何とかで大和がしょっちゅう本部に駆り出されるようになったことだ。
「あの、町田くん」
そしてもう一つ。この状況も今までだったらあり得なかったのに。
「…え、なに」
柳さんと直接話すのは初めてで、声のトーンを間違えた気がした。
「良ければ一緒に帰らない?」
意図が分からない。
「…なんで」
「なんとなく、だけど。駄目かな?」
彼女は少し伸びた爪を自分の首に食い込ませるようにした。そっか、痒いのか。僕にはいまいち分からない感覚だけど、鎖骨や腕などに最近引っ掻いたような傷が残っていた。
「…分かった」
「ほんと?嬉しい!」
僕の肌も、掻き壊せばこんなふうになるのだろうか。
正門を抜けてから肩についていた髪の毛を持ち上げた柳さん。
「あっついね、髪の毛結んでもいい?」
傷の付いた手首を、ゴムが擦った。
「なんで僕に聞くの」
「え?あ、ほら、ちょっと見苦しいからね?」
髪の毛が隠していた首の後ろは背中まで続いている大きな掻き傷があった。
「…好きにしなよ」
彼女は苦笑いしながら髪の毛を括り始める。
「…伸びたね、髪」
「あ、でしょ?夏はね〜首が痒くなるから毛先が当たらないように伸ばして結ぶの」
何度も薬で溶かされたような肌は、やっぱり見られたくないものなのか。
「学校にいるときもそうしてればいいのに」
下の方で括られた癖のある髪の毛がちょこんと揺れた。
「だって、」
「あんな性格のやつが隣にいたらもう何も言われないと思うけど」
僕の顔を見て驚いたような表情をする柳さん。その後でふわりと空気が緩んで口を開いた。
「確かに、それもそうだね!あの、ちょっと謝るらせて」
何か、諦めたような雰囲気で上を向いて背を平たく伸ばした。
「…は、?」
「あのね、私の友達、?が佐伯くんのこと気になってるみたい、で?」
気まずそうな、清々しそうなその表情が少し面白かった。
「僕が言うのもなんだけど、柳さん友達一人しかいないじゃん」
なんかちょっと表情が緩む。
「そうなん、だけど、だからその、ごめんなさい。その子のために何かしてあげたくて町田くんから佐伯くんの話聞けないかなって思って誘ったの。ごめんね」
パチンと手を合わせた柳さんが足を止めて、それに釣られて僕の足も止まった。
「そんなことだろうと思ってた。別に気にしない」
「…なんか私、佐伯くんが町田くんと一緒にいる理由分かったかも」
「何それ」
動き出した僕らの足は同じスピードで、案外心地良いとか、思ってしまった。
次の日の柳さんは癖のついた茶色の髪の毛を高い位置で括っていて「え、衣灯めっちゃ可愛いんだけど!なんでなんで!」という大森鈴蘭の声が朝の教室に響く。ぐいぐい迫ってくる大森鈴蘭から目を逸らして一度、席に座る僕を見た柳さん。
「ふっ、…なに」
僕の隣に居座る大和がスマホから顔を上げる。
「え、蒼夜?笑った??なんで??」
「…なんでもない」
勝手に機嫌を良くした大和がいつもと同じ鼻歌を歌う。
夏になってから透さんの僕らに対する絡み方が今まで以上に鬱陶しくなってきている気がしてならない。夏の暑さのせいにするよりも明確にこの人のせいにしてしまった方が楽だということも分かっていて、透さんからかけられる言葉を僕の視界に入る前に透明にしてしまう。夜、皿洗いをしているこの時間は水の音のせいでどんな音もぼんやりと輪郭を滲ませていくからなんとなく好きだ。「お〜い蒼夜、鼻歌なんか歌ってご機嫌か〜?俺のことは無視するのに〜?」
透さんは鬱陶しくも僕の視界にわざわざその適当な顔を見せに来る。その神経が本当に意味不明で、どうしてこの人がここまで生きてこられたのかという疑問が毎度拭えない。
「…歌ってないです」
「え〜歌ってたと思うけどな〜?…ところでその歌さ、どこで聞いたの?」
ニヤニヤと動いていた表情筋が急に脱力して、僕の目の奥を捉えた。
「なんで、そんなこと」
「良いじゃん、教えてよ」
いつものテンションですり寄ってくるみたいに見せかけて僕の触れられたくないところにその熱のない手を伸ばしてくる。
「…大和がよく歌うんで」
「佐伯が?あ〜なるほどな〜!そっかそっか!」
また一瞬にしてパッと明るくなる表情に、僕の感情が動く隙すら与えられなかった。
十月はこれといったイベントもなく落ち着いていて僕的にはすごく過ごしやすかった。でも何だか、何かに、誰かに急かされているような感覚がして身の回りの言葉が全て僕のすぐ横を通り過ぎているみたいだ。なのに、さっきから隣の部屋の会話が聞こえてきて、た耳を塞ぎたくなる。ベッドの軋む音がして目の前に広げた教科書の文字が歪んで見えた。
「きゃ〜、二人で寝っ転がるには流石に狭いね〜」
「でもなんか、こういうの楽しいね」
形を取り戻す英文に、二人の声が混じって。
「ごめんね?一回だけ、一回だけ言ってもいい?」
声量の落ちたその言葉も、僕にははっきりと聞こえてしまう。この先何となく、聞いてはいけないと分かっているのに今更耳を塞ぐこともできなかった。
「鈴ちゃんの肌は、白くて、綺麗で、羨ましいなぁ」
柳さんのその言葉にしばらく黙ったままの大森鈴蘭。音しか聴こえていない僕にはあいつが今どんな表情なのか、どれほど苦しい目を柳さんに向けているのか少し想像することもしなかった。
少しして、ギシギシとベッドが音を立てる。
「ちょ、鈴ちゃん?ごめんね、怒った?」
それでも聞き慣れたあの声は聞こえてこない。僕はもう教科書を開いていたことも忘れそうになっていた。
「顔近いよ、どうしたの?きゃっ、」
彼女の高い声を隠すみたいに大きく布が擦れる音がした。
「えええ、なになに??重いよ〜」
布団の中に籠ったようなその言葉の後、ようやく聞き慣れた声が僕の耳に届く。
「私ね、衣灯と同じじゃないの」
「…え、?」
ドクンと、何かが跳ねた。無いはずの心臓が助けを求めているみたいに動く。
「アンドロイド、っていうやつ。私は、透さんが作ったアンドロイドなの」
どんなものなんだろう。自分の肌に触れている、体温を感じ取っているそれが自分と同じ人間ではなくて、ただ他人が作っただけの機械なんだと知る感覚は。皮膚の下の鉄の塊まで見透かしてしまうような恐怖に、僕だったら変えられないかもしれない。
「そっか、そうなんだ、」
「怖い?」
そう尋ねる大森鈴蘭の声は真っ直ぐで、柳さんのどこかまで形を変えずに刺さっただろう。
「逆に、ちょっと気持ち悪いこと言っていい?」
「え、?」
想像していたどんな反応より彼女の真意が読めないその言葉に、僕も指先に力が入った。
「私は鈴ちゃんの思考が好きなの。鈴ちゃんが鈴ちゃんであるためのそのドロドロした掴めない思考。人間だったら触れることないそれにいつか触れるかもしれないって思ったら、ちょっと、というか、かなり、ドキドキした」
「…ん〜?私よりも難しい話した?」
緩んだ声色に、僕の指先の緊張も解けた。
「そーかも。私の事、怖い?」
「あ〜なるほどね〜、全然怖くない」
二人にとってこれが正解なのか僕には分からないし考える権利だってないから鞄に突っ込んであったイヤホンを取り出して普段より大きい音で音楽をかける。
大和に勧められた曲の感想、どうせ明日ウザいくらい聞かれるだろうし。
数十分が経って窓ガラスの向こうかオレンジ色に透けてくるのを感じる。イヤホンを外すと、細かい衣摺れの音と小さな声が聞こえた。
「私ね、触られても全然分からないの」
「今こんなにくっついてるのに?」
「うん。だから、もっと衣灯が欲しい」
「ふふ、いーよ」
僕はまたイヤホンを付け、少し窓を開けてから潜るように眠った。
『俺の好きな絵本ではな〜??』
『…透さんそればっかじゃないですか。絵本とか小説とか映画とか。そういうのは自分が主人公だって自覚のある主人公が居てやっと成り立つんですよ』
パッと目が覚めるととっくに日は沈んでいて、触れた耳が少し痛むほど冷たかった。
「…さむ」
耳から外れたイヤホンを拾って一階へと降りる。キッチンには作りかけのシチューが置いてあって、隣接している透さんの作業部屋から二人の話し声が漏れていた。僕は耳がいいから、どうせ聞こえるし。
「お前、本当にいいのか〜?」
背中を預けたドアの向こうから漏れる透さんの声はペラペラしているようだけど、どこか心配を含んで聞こえた。ガチャガチャとなる機械音に当たり前の懐かしさを感じてそんな自分に少し呆れる。
「良いんだってば〜!ほーら、これも貴重な実験データでしょ?早く、やって」
ストンと落ちる語尾のトーンに、何の話をしてるのかすぐに理解した。
大森鈴蘭は柳さんに、あの柳衣灯という人間に、愛されたいんだ。
「データか〜、それ言われると弱いんだよな〜。しょーがない、じゃあ、腕置け」
透さんの部屋から聞こえてくるこの会話は、どうしようもなく…。
「馬鹿だな」
自分から溢れたセリフに驚いて、袖で軽く口を抑えた。
だから、僕には関係ない事なんだって。
ジューっと何かが焼ける音がして数秒後、透さんが「うわ〜痛そ〜だな、」と言った。
「だから痛くないんだってば〜。…でも、痛い方が良かったかも」
「やめてくれよ〜、痛がられたら俺こんなこと出来ないって〜」
「そりゃそーか!ありがとね、透さん!ご飯にしよ!蒼夜く〜ん!そこ退いて〜」
…バレてる、よな。
開いた扉の奥から出てきた大森鈴蘭の腕には何箇所か目立つ火傷の跡が出来ていた。
「…お前、本当に性格悪いな」
腕の傷に視線をやる僕から目を逸らしたまま、ケロッとしている。
「え〜?だって衣灯が悲しそうだったからさ〜!それに、」
「そっちじゃない」
僕が隣の部屋に居るって分かっててわざと、全部聞かせるみたい。
「え〜?なんのこと〜?」
「…もういい」
視界のピントを大森鈴蘭に合わせる前に、その柔らかい笑顔が僕のすぐそばに寄って言う。
「あ、私と蒼夜くんは運命共同体、だからね」
耳元にずっと残りそうなそれを振り払うように彼女の肩を押す。
「…気持ちわる」
「っはは、ごめんごめん〜!ご飯にしよっか!今日蒼夜くんの好きなシチューだよ!」
柳さんは、もう全部、知っているんだろう。こいつのことも、僕のことも。
「…別に好きじゃないし」
十一月になると胸や腹の中だけじゃなく太ももや指の中まで冷たい空気が充満していてゾワゾワする。僕の体なんかでもあったかいものが食べたいとか思うなんて少し呆れた。
「そういえばさ、聞いちゃいけないのかと思って聞いてなかったんだけど、蒼夜って立花先生のなんなの?」
帰り道、もう数十メートルで家に着くこのタイミングで投げかけられたこの質問。僕は大和に嘘を吐く。だってそうするしかないから。
「…ちょっと遠い親戚」
「じゃあ大森さんも?」
冷たい風が僕の指先を痛める。冬のせいだと分からなかったらどうしようもなく不安に思うことしか出来ないこの痛みに慣れてしまう事の方が、僕は怖かった。
「そう。…僕もあいつも家族、は遠いところに居るから。高校の間はあの人の家に居ることになった」
本当は家族なんて、居ないけど。
「な〜るほどな〜」
鞄を大きく揺らしながら歩く大和のことを、僕は何も知らない。
「…大和は」
「へ?何が?」
「家族、どんな感じ」
聞いてから後悔した。知る必要なんか無いのに。僕がそんなこと知っても僕は大和の何にも、なれないのに。ああ、間違えた。
「蒼夜からなんか聞いてくれたの初じゃね〜?俺んちはね、父さんと母さんと、あと妹!」
「…妹」
こんなの、間違ってる。
「そ〜年子なんよ!だから一個下!っと、蒼夜んち着いちゃったな〜」
『立花』の表札の前で数センチ、大和の方へと伸ばした手を無理やり引っ込めた。
「…じゃあ」
「お〜!また明日な〜!」
明日も朝早くこの家の前まで僕を迎えに来るであろう大和に手を振られながら僕は家の中に入った。重いドアが閉まって、暖かい空気に押しつぶされそうになる。
「あ、蒼夜くん帰ってきた〜!今日はね〜、お鍋だよ!」
キッチンに立つ大森鈴蘭の後ろ姿が見えて、あまり嗅いだ事のない匂いがした。
「蒼夜〜早く手洗ってこっち来い〜」
「…分かってますよ」
暗い玄関で落としたその声が透さんに届いているかどうかなんてこと、僕にはどうだって良かった。
ぼわんとしたから上がってくる煙が顔を撫でる。三人で鍋をつつくのは初めてで、自分の作った人形と同じ飯を食べることを透さんがどう思っているのだろうかと、考えた。
「蒼夜がさ、佐山と仲良くしてるの俺安心するんだよな〜」
「…なんですか急に」
透さんと僕の会話など耳に入っていない様子の大森鈴蘭は小皿によそった肉を頬張って何度も何度も咀嚼していた。憂鬱な気分が拭えないままする食事は口の中の違和感も、向かいに座る二人の言動も、やけに気になってしまう。
「いやぁ〜、それぞれ佐伯とか柳とかとな?高校生らしく友達できてるみたいで良かったな〜って思ってるわけよ」
こんな事で分かり合おうと思っても無駄だと、この人に作られてしまった偽物の頭で理解しているはずなのに。
「…普通に?高校生らしく?友達?…あんた、何言ってんですか?」
「お、なんか言いたいことあんのか〜?」
あんたのそういう、適当な態度が、ぶっ壊れるほど、ムカつく。
「僕が大和と、友達ごっこしてるの誰のせいだと思ってるんすか」
腹の中から上がってくる熱を帯びた空気を、必死で抑え込む。
「蒼夜くん、私と衣灯はちゃんと友達だし蒼夜くんと佐伯くんだってそうでしょ、?」
皿の上に揃えて置かれた箸に指先を添わせるお大森鈴蘭が目に涙を浮かべながら言う。
「は?何言ってんの?自分が安心するために僕を巻き込むなよ。大体その、ちゃんと友達ってなんだよ。根本的に友達になれないって分かってるからそんな言葉になるんだろ」
グツグツと音を立てる鍋を掴んでひっくり返したかった。そんな僕の欲にも気づかないでその鍋に箸を突っ込む透さんは本当にいつもの、何も考えていない声で僕に、言った。
僕の方を、見る事もなく。
「そんなことばっか言ってないで〜、せっかくの学校生活な訳だし親友とか、そんなのが居ても楽しんじゃないのか〜?」
こんなの、おかしい。
「怖ぇんですよ!絶対居なくなる誰かに寄り掛かるのが!」
煮える間も無くフチごと溶けきってしまった僕の腹を治すことができるのもこの人だけなんだと思うと、もうずっとこのままでも構わなかった。
「…もう良いです」
汁も具材も残った皿の上に箸を置いた時、思いの他力が入りすぎて中身が全て溢れた。でも正直、今の僕にはそんなことを気にしている余裕は存在しなくてその状況を見ていないかのようにリビングを出る。階段を登る足の感覚がなんだか鈍い。眼球の奥に人間と同じ肉や筋肉が有るかのような気持ち悪さを覚えた。
二階、階段目の前『蒼夜』と書かれたプレートの掛かる部屋に入って扉を閉める。そのまま冷たい床に寝転んで背中を丸めた。分からない。この硬い床と何も変わらないはずの僕が自分の手の平に食い込むほどの爪の跡を付けているなんて阿呆らしくて悔しくて。このまま平面に溶けてしまいたいと思うのにまだ微かに聞こえる二つの声に縋りたいとも思ってしまう。月も出ていないこの薄暗い部屋でまつ毛を揺らした涙は、不正解に違いなかった。
十二月ってこういうものなのか。吐き出す息が、うっすらと白い。横を歩く大和の吐く息は僕のそれよりも濃かった気がする。何度も二人で歩いた帰り道を今日も当たり前見たく一緒に歩いていてそれがふと、重くなった。
「んでさ〜、俺の妹本読むの好きだから〜…蒼夜?聞いてっか?」
「ごめん、僕忘れ物、したかも」
家の前まで来て今更、足が止まってしまった言い訳をするみたいにそう言う。
「めっずらし〜!なになに、蒼夜も人間ぽいとこあるじゃ〜ん!」
「…当たり前でしょ」
って、何の気無しにそう返せる僕でありたかったけど。
「んで、何忘れたん?あ!ダーリン、いってらっしゃいのキス忘れてるわよ〜!ってやつ?」
「…誰がダーリンなの」
僕に合わせて足を止めてくれたこいつに、嘘を吐くことしかできない。
「俺しかいないっしょ?」
テンポの良い大和との会話を全て可視化してしまいたいと、欲張った。
「…そ」
「って!もっと照れるとかしてくんね〜の?」
「…してあげない」
逸らしたくない目を、逸らしてしまう。
「っふは、いいよいいよ忘れもの取ってきな。俺も一緒に行こっか?」
「…ん、良いって。じゃあ」
「そ?分かった、じゃーな!」
大和は僕に手を振る。でも僕は手なんか振ったことないし、そのまま大和に背を向けて忘れものなんかしていない学校の方へ向かって歩いた。十数歩進んだところで少しだけ振り返ってみると大和はもう角を曲がってしまっていて僕の目には映らなかった。そのまま向き直って家に入ろうとすると、トンッと何かにぶつかる。
「あっと、すまないね。大丈夫かな?」
「え、あ、大丈夫です。すみません」
透さんと同じくらいの背丈の男の人が柔らかい目で僕を見下ろしていた。
「…じゃあ、僕は」
そう言って家へ入る僕のことをずっとそのまで見ていた彼のことが、なんとなく怖かった。
二月。僕に害の誰かが持つ目的の惰性で生活しているこの感覚がいつまで続くのか。曖昧なまま。だからと言って暗闇というわけでもない。煮え切らない僕の日常にもどうしてか、仕組まれたような展開が用意されている瞬間というものが存在する。煩わしいそれを無視できる僕ではないと分かり切られているようで心底腹が立つし最近の家の中は重たい匂いがしてどうも疲れる。まぁ、なんとなく訳は分かってる。これはチョコレートの匂いだから。それに学校なんて場所にいたら自然と耳に入ってきてしまう話題、バレンタイン。随分都合の良いイベントに浮かれるなんて、阿呆らしい。
片された夕食の食器を視界の端で滲ませてから透さんの横顔に視線を落とす。
「透さん、僕たちに話してないこと、ありますよね?」
僕から声をかけたのがそんなに珍しかったのか不思議そうに僕を見る二人。平日夜、呑気にコーヒーを飲む透さんと家事をこなす大森鈴蘭。僕はいつもどんな顔をしてここにいたんだろう。
「何だよそれ。ねーよ、なんも」
てもピラピラと動かす透さん。その仕草が、僕は嫌いだ。
「はぁ…。これですよ、これ」
僕の手の平に置かれた紙切れを見て透さんの表情が変わる。
「おっまえ、これどっから拾ってきたんだよ」
「あんたが捨てたゴミの中ですよ」
「蒼夜、ゴミ漁る趣味とかあったのか…?」
僕から目を逸らしてもいつもの姿勢だけは崩そうとしないこの人が、この男が、この大人が、僕は苦手で。
「ちっがいますよ、茶化さないでください。普段自分でゴミまとめるなんて事絶対にしない透さんがしっかり袋の口縛ってたから気になったんです。なんか、『実験において、規約、内容詳』ってあんたのせいで言葉切れてますけどこれ、明らかに大事なやつですよね」
「ちょ、透さんそんなのあったの?」
洗濯物を畳んでいた大森鈴蘭が、ひょいと僕の手の中を背後から覗く。
「あ〜学校側から言われてるのが二つか三つ?あったような〜?」
「そんな曖昧な…。何でそういう大事なこと言わないんですか」
背後から大森鈴蘭の髪の毛が僕の頬を掠める。
「忘れてたんだよ。何だったけかな…。あ、えっと、アンドロイドだってバレちゃいけないってのと、データの紛失改竄をしてはいけないってやつだったかな〜」
「…そんなの、違反のしようがないですね」
僕の手のから紙切れを摘んだ透さんの手がなんというか、変に冷たくて、この人のどこまでがこの温度なのか少し知りたくなる。
「んま、こんなの一応の建前だよ。破ったからって直接お前らに何かある訳じゃないし。俺はこんなくだらないルールよりも面白いデータが取れる方がありがたいからな」
透さんの本心を囲う箱を開くことも壊すことも、僕にはできない。
「それにしても、こういうことはちゃんと教えてよね〜?」
「はいはい、次からは気ぃ付けますよ〜。あ、そういえば鈴蘭、ちゃんとチョコ渡せよ〜?」
「えっ!?いや、え、あの、分かってるよ…!」
『どうしてわざわざ僕達に見つからないように捨てたんですか』『まだ何か隠してることがあるんじゃないですか』と、頭の中に浮かんだ言葉をかき消せないまま僕は部屋に戻る。
僕は透さんの何を知っているんだろうと少しだけ考えて、すぐにやめる。
だって、僕には関係ないことだし。
三月の空気は僕の周りに留まった。いつまで経っても僕から離れていかなくて、僕もどこにも行けなくて。全ての行動が、許されていないことみたいに感じる。
『今日、学校行かね?』
月の始まり、休日に来た大和からのLINE。意味が分からなくて『なんで』と返事をすると『とりあえず迎えに行くわ!』とクマのスタンプ付きで返信が来る。本当になんで。
「いや〜まじ急に卒業式の準備終わってないから学級委員のお前らだけでも来てくれって言われて流石に渋ったけど、蒼夜来てくれたから案外楽しかったわ!」
あったかい廊下を二人で歩く。
「僕は疲れただけだったけど」
「またまた〜、そろそろ俺に会いたくなってたんじゃないの〜?」
僕より重たい段ボールの箱を持つ大和がいつもよりゆっくり、歩く。
「…うるさい。そういえば大和の妹、おんなじ学校なの」
「え?ああ〜いや、あいつ頭良いからさ、違うとこ行ったよ」
「…そう」
大和も、こんなだけど学力高いのに。
「あ、ね、これ返したらちょっと教室寄ってかね?」
職員室へ運ぶように言われたそれを一度持ち直す。
「…なんで」
「誰も居ない教室って、なんか面白そうじゃん!」
「…分かんないんだけど」
大和に預ける生き方が、心地いい。
「そ?じゃあ決定な!」
「…会話して」
手ぶらになり教室へ入る。ベランダへの扉を開けて二人でコンクリートに上靴を下ろした。扉の上半分だけがガラスになっている扉を閉め、柵に手をかけながら前のめりになる大和。
「風、めっちゃ気持ち〜ね〜」
大和がそう言うなら、気持ちが良いような気がした。
「うん」
大和は乗り出していた体を戻して僕の顔を見る。僕の全てがバラバラになりそうなこの感覚が、大和にバレないように。
「ね〜、本当に気持ちぃな〜って思ってる?」
「…なに、思ってるよ」
遠くから流れてくるガソリンの甘い匂いが体に染み込んでいく。
「え、だって鈴ちゃん結構不器用じゃなかった〜?」
扉ごしにはっきりと聞こえた柳さんの声。
「そんなことないってば〜!」
「うっそだぁ〜、ランチョンマットよれよれだったじゃん」
そんな二人の声は少しずつ近づいてきて、引き寄せられるように教室に入ってきた。
数十分前に体育館で見た柳さんの表情を思い出す。大森鈴蘭に呼び出されて一緒に準備を手伝わされた彼女はとても楽しそうに見えて、その隣にいた大森鈴蘭も同じだった。
「蒼夜、ちょ、っとごめん」
「えっ」
大和にグッと肩を抑えられて下に沈んだ体を支えるみたいに、冷たいコンクリートに手を付いた。
「何で隠れんの…別に良いじゃん」
「いや、ほら、なんかもうタイミングがさ?」
そんなことないはずなのに、なんでか言えなかった。
「誰も居ない教室新鮮〜!」
聞こえてくる声は僕が普段聞いているものとは違う気がした。
「ね、ちょっとここ座って」
窓際の席に腰を下ろしてからぽんぽんと布を叩く音がして「ええ〜何で膝の上〜?」という柳さんの少し嬉しそうな声が聞こえた。
「良いじゃん!ね、おいで〜」
しゃがんだ足で体重を支え続けるのもしんどくなってきて、そのままそこに腰を下ろすと大和も僕の背中に背を合わせるように座った。そして理由も分からないままぼーっと辺りを眺めているとポケットにしまっていたスマホが振動した。
『ごめんな〜』
『帰れないんだけど』
『ごめんて。ちょっとこのまま』
手をあわせて頭を下げているクマのスタンプが送られてきて、別に良いかという気になる。
「ん〜なんか、衣灯がいると安心する〜」
大森鈴蘭の声に、意識を戻される。
「私も安心はするけどさ〜、ちょっとこれ、なんか違くない?」
『俺たちも後でやる?』
『大和の上は不安定そうでやだ』
『何で自分がだっこされる側なのよ』
一度離れた背中に、とん、と体重がかけられる。
「やっぱこれちょっとずるいよ?そういえば鈴ちゃん擽ったくないならやってみていい?」
あ、この話はだめだ。
『大和』
「あっはははは!ちょ、まっ、て、壊れる壊れる!」
気を逸らそうと別の話をしようとしたけど、ガタガタと揺れる椅子の音に肩が強張った。
映画や本で触れたような女子高校生を、見せられている。大森鈴蘭の声と椅子の音が止んで数秒、風の音だけを拾った。
「…嘘つき〜、ほんとは効かないくせに」
「涙目〜、ごめんて。もう〜衣灯は優しいなぁ〜、」
僕の背中にくっつく大和はあったかくて、服越しでも心臓が動いているのが伝わってきた。
これが当たり前なんだ。
「鈴ちゃんは分かってないよ」
「…何を?」
幼い子供を包むような声色。
「私がそれだけ鈴ちゃんに溺れてたいか、」
「何それ、ど〜ゆ〜こと?」
大和は僕の肩に頭を乗せてぐりぐりと動かす。ただ、二人の会話を聞いているしかなかった。
「意地悪だよ…」
「…ん、ごめん」
「ねぇ、絶対に、私の中から居なくならないで。ずっと、幸せでいて」
その場から動けなかった僕にまた大和がLINEをしてきた。
『蒼夜も俺に溺れたい?』
背中に、熱が走る。
『声量が馬鹿になりそうだから嫌だ』
『溺れたら声出なくね?』
『…そうじゃない』
二人の会話を聞いてバレてしまえばいいと思った、のにだめだった。これからも人間のふりをして大和の隣に立たないといけないんだと苦しくなって。大森鈴蘭がアンドロイドだと知らない大和は今の二人のことを、どう思ったの。
五月になって、透さんが体調を壊した。僕は看病なんてするつもりなかったのに、大森鈴蘭が「本当は蒼夜くんに任せるの不安なんだけど今日委員会もあるから行かないといけないの!薬と食べ物はここで!あ、あと、リビングのソファーで寝かせてね?ずっと見てられるように。なんかあったら私に連絡して、病院の電話番号これだから!え〜っと、あとは…」なんて言いながら僕がやるしかない感じにして家を出たから仕方なく学校を休んで透さんを看病した。昼間、食べられるものを食べて薬を飲んでからソファーで眠った透さんをダイニングテールから見ていたら退屈で、少しずつ瞼が落ちてきた。
「やめて!!壊さないで!!!僕の雛さん!!!!」
透さんのその声でハッと目が覚める。ファタ、と音を立てて見慣れない栞が床に落ちた。喉が張り裂けそうなその声は一度家の中に響いただけだったけど、僕はその声と言葉が、頭から離れなくて。ゲホゲホとむせた後で眠る僕にブランケットを掛けた透さんが自分の部屋に戻ってもテーブルに突っ伏して寝たふりをするしかなかった。
頭の中で繰り返されるその言葉と一緒に、ぼんやりと思い出した。
『私とマスターって親子みたいな感じでしょ?』
ギィーと椅子の背を歪ませる、ただのマスターだった頃の透さん。
『そんな面倒なものになった覚えはないんだが〜?』
『だからさ!』
『無視かよ』
まだ声の出し方も知らなかった僕はただ二人の会話を見ているだけだった。
『名前、マスターにつけて欲しいの!』
『え〜面倒くさいんですけど〜』
『ちょっと〜!一番の大仕事でしょ〜?』
完成したばかりの体に適当な布を被った大森鈴蘭が透さんの肩を揺らす。
『え〜』
『血とか繋がってないってことじゃん?だから欲しい、証明みたいなの!』
『んなこと言われてもな〜、』
作られた脳は、この状況をしっかり理解出来る程に高性能だったんだ。
『何でもいいよ!好きなものでも初恋の人の名前でも!』
『…何でそんなこと知ってんだ〜?』
『高性能アンドロイドだから!』
『俺が作った、な。んん〜じゃあ、スズラン、とか?』
初めて聞く単語に、なんとなく好奇心を煽られたのを覚えている。
『なに?それ』
『花の名前だ、白い花』
『可愛い!それにする!』
透さんにとって鈴蘭って、なんなんだろう。
五月の夜は何度繰り返しても生ぬるくて好きになれない。電気をつけずに部屋のベッドの上に寝転んで自分と天井の間を切り取るように眺めた。
「蒼夜く〜ん!今日の分のじゃむ持ってきた〜!」
大森鈴蘭が部屋の前から僕を呼ぶ。毎日毎日飽きずに、透さんが僕たちに作る身体維持薬を僕のところまで持ってくる。
「…そこに置いといて」
「だめだって〜!蒼夜くんそのまま寝ちゃうもん!入るよ〜?」
中に透明な液体が入った注射器を持って部屋に入ってくる大森鈴蘭が視界に入って、仕方なく体を起こす。
「はいこれ、私がやったげようか?」
「…出てけよ」
注射器の中で、液体が揺れる。
「前にさ、一回やったことあったよね」
「プールの…」
「そうそう!蒼夜くん自分でやるって言ってたけどめちゃくちゃ手震えてたし!」
僕は、自分の腰に手を滑らせる。僕とこいつの体にはズボンの上からじゃ分からない小さい突起を爪で引っ掛けると親指の爪と同じくらいの小さな挿入口があり、そこに一日のエネルギーを凝縮した液体を注射器で注入することで僕たちは動いていられる。その液体のことを、大森鈴蘭は勝手にじゃむと呼んでいる。僕はガソリンみたいなもんだと思っているし、心の中でそう呼んでいるけど。
「そういえば私、佐伯くんに好きって言ったんだよね」
僕がズボンをずらした時、大森鈴蘭は僕を見ながらそう言った。
「…え」
「あ、でも付き合うとかそういうのじゃないし、そもそも私振られてたと思う!」
僕の手の下に敷かれていたスマホが光る。大和からの、何気ないLINE。
「…そう」
「その顔、蒼夜くんて可愛いよね」
「は?」
勝手に僕が持っていた注射器を奪って僕の腰に差し込む。
「ちょ、なんで、」
「八つ当たり〜!良いじゃん、今日ぐらい」
大和から、スタンプが送られてくる。いつもと同じ、クマのやつ。僕の中に流し込まれてく液体を見て、誰の心が満たされるんだろう。
六月という季節と正面から上手く付き合おうとするのは僕には向いてなくてやっぱり湿度のせいで爪先やらなんやらがいつもと違う感じがするし、去年あんなことになったプールにも今年は入らなかった。その分、見学の柳さんとは結構いろんな話が出来たけど。
意外と辛い食べものが得意だとか。
長女で歳の離れた妹や弟がいるから自分だけのものが欲しいとか。
癖っ毛を治すのに毎朝三十分以上かかるとか。
柳さんの話は結構面白くて、生ぬるい気持ち悪さも紛らわしてくれた。
大森鈴蘭から帰りが遅くなると連絡があった夜、二人でカップ麺にお湯を注ぎ背中の奥で光っているテレビの音だけをぼんやり聞いていた。
「…透さん、僕たちに話してないこと、ありますよね?」
不意に、ぽろっと声になってしまったけど、聞くなら今しかないと、腹を括った。
「お〜?なんかデジャブだな〜!今度はなんだ〜?」
透さんはいじっていたスマホを伏せてテーブルに置いた。
「前に学校側から言われてるルールを破っても直接僕たちになんかある訳じゃないって、言ってたじゃないですか」
「あ〜そんな話したな〜?嘘なんかついてないぞ〜?」
「分かってます。だから僕、言いましたよ。僕たちに言ってないことありますよねって」
この人が案外馬鹿じゃないって、僕とあいつの存在が証明しまっているから。
「…もしかして、この前の聞いてたのか?」
「はい」
僕が怯んでちゃどうしようもない。
「…なるほどなぁ〜。ま、お前ら相手に隠し通せるとは思ってなかったし先にバレたのが蒼夜で良かったって感じだな〜」
「そういうの良いんで、早く僕の聞きたい話してください」
こんなこと聞く資格あるのか分からないから、もうそんなこと忘れちゃえ。
「学校から提示されたルールってのは、前に話したアンドロイドだってばれちゃいけないってのと、データの紛失改竄をしてはいけないてやつ以外に、アンドロイドが人間に恋愛的好意を抱いてはいけないってのがあったんだよ」
ああ、だからあのバレンタインの時期に言わなかったのか。
「…リーチじゃないですか」
「え?」
「は?だって柳さんには僕たちがアンドロイドだってバレてるし、」
「佐伯のことも、だな。確かにこりゃリーチだ」
「んで、お前らに害がないってのは本当な。直接的にも間接的にもお前らに危害が加えられることはない。でもその、ルールはルールだから一応罰則はあってな」
あの日、透さんの言葉を聞いてしまってから色々想像はしていた。
「一つ破ると、その、俺の頭に埋め込まれたチップが俺にトラウマを見せるっていうガキみてぇなやつでな」
透さんのトラウマ、脳のチップ…。
「二つ破るとそのトラウマから来る副作用の体調不良が悪化するってな感じ」
「先月のはそれですね」
「そ〜な、まさか蒼夜に看病されるとは思わなくてな〜」
「…僕も不本意だったんです」
僕の向ける急かすような目に、透さんが気まずそうに口を開く。
「三つ破るとなんつーか、俺の欲しいものが手に入らなくなる、みたいな感じだな」
「透さんの欲しいものって、なんですか。僕たちじゃ、あげられないものです、よね」
困ったように眉を下げた後で「よし!」と手を叩いた。
「簡潔に教えてやろう!俺は孤児院育ちでな?でもその孤児院がひでぇとこで、俺はそこの大人達に色んなことをされた。水を張った風呂に何度も頭を押し込まれたりな〜」
僕がプールでどうしようもなく怖くなったのはこの人の…。
「でもある日雛さんっていう優しいお姉さんが来たんだよ。孤児院の子供達に優しくして最悪な大人達から守ってくれた。子供達の憧れのヒーローで、天使みたいな人だったよ」
透さんが言ったその言葉が、透さんらしく無いなんて思ってみたけど。
「でもな〜俺が気づいちゃったんだよ、雛さんが人間じゃないって。なんか、アンドロイドが危険視されている時代の中で人間とアンドロイドの共生を、って政府や世間にバレないよう雛さんを作って孤児院に送った組織があったらしくてさ〜」
よく動く手先でゆったり手振りをする。
「でも壊されちゃったんだよ。俺がアンドロイドだって気づいたせいで。そんで、」
「もういいです。もう、大丈夫なんで」
「そ〜か?あ、麺伸びる!蒼夜、早く食べろ」
カップ麺の蓋を剥がして「あちっ」と声を出す透さんに安心する。
「…はい」
八月の赤のせいで僕は大和をうちに呼んだ。柳さんと買い物に行くんだと家を出た大森鈴蘭にも、「昔の知り合いに呼び出されてな〜」と早くに出掛けた透さんにも嘘を吐いてるみたいで体の中身が数回ふわりと浮いた。自分の部屋の窓から大和が歩いて来るのを確認して玄関へ降りる。
「よっ!ど〜したん?てか蒼夜に呼ばれたん初めてでドキドキしちゃったて〜!」
自分で呼んだのにここに立つ僕が何も言えなくて、ただ大和の顔を見た。
「ほんと、どーしたん?そんな顔しなくてもだいじょぶよ?俺ちゃんと来たから」
丁度一年前、この場所で大和に背を撫でられた。あの時大和が僕にしたみたいに、大和の肩に顔を埋める。
「………好き」
心の内側から溢れてきた言葉に釣られるようにと言うよりもそれを口に出してしまったことや大和に伝えてしまったことへの罪悪感に耐えられなった僕を、大和は優しく抱きしめた。僕がその手をすぐに振り解けなかったのはなんでなのか、考えるまでもない。
「大和が僕にするそのハグは、残酷すぎるね」
やっと大和の腕の中から逃れても、眼球の奥が熱くて痛くて千切れてしまいそうで、怖かった。いつも歩いていたフローリングが冷たくて、八月なのにこの冷たさが、気持ち悪かった。
「…ど〜ゆこと?」
こんな僕が一番気持ち悪いんだって、分かってるけど。
「分かってるくせに」
笑いたいと思ったから、笑った。笑えているのかなんて、分からなかったけど。
「…ごめんな」
僕のどこへも触れなかった大和を、僕は知らなくて、どこから後悔したら良いのかも、怖くて考えられない。
九月夜の蒸し暑さの中、僕と大森鈴蘭は「明日は文化祭だから早く帰って寝ろよ〜?絶対だぞ〜?」と明らかに怪しい事を言っていた透さんが何をしているのか確かめる為に家庭科室の壁に背をついて、準備室にいるであろう透さんの様子を伺っていた。見回りの教師をやり過ごし、タイミングを見て家庭科室に来てから、かれこれ二時間が経過した。家庭科室の窓から差し込む月明かりに横顔を照らされた大森鈴蘭が「私たちって透さんのこと何にも知らないもんね〜」と笑ったから「そういえば、俺の好きな色って言ってた」なんて口を滑らせた。
「なにが?」
「…僕の名前」
別に、隠したい訳じゃないけど。
『マスター、今の時間は?』
『ん?23時42分だけど?』
『じゃあ、それでいいです』
『は〜?名前だぞ?良い訳ないだろ〜?一号はちゃんと決めたって〜のに』
あいつの話が出たことが、なんでか少し嫌で。
『…今は、夜と言うやつですか』
『そ〜だけど?』
『夜の色は黒ですよね』
『だな』
『じゃあ、黒い夜、とかでいいです』
『名前になってないしそんな厨二病みたいの勘弁してくれ。俺の趣味見たいだろーが』
『…厨二病ってなんですか』
『あ〜、そーゆーめんどいのは後でな〜?名前…名前な〜、俺も考えるのめんどいから俺の好きな色にすっか〜。そんでその夜って字も入れて蒼夜とかどうよ』
『別に、僕はなんでもいいですけど』
『考えた甲斐のない奴だな〜。ま、これでいいならこれで申請出しちゃうかんな〜』
「現在時刻も黒い夜もやばすぎ〜!っはは、あーだめだ面白すぎる、」
床に手をついてドタバタと笑い転げる大森鈴蘭。
「うるさいな、そこじゃないだろ」
「あ〜、透さんの好きな色だっけ?私たちそんなことも知らなかったんだね、やっぱり寂しいよ、そういうの」
笑いすぎてか、透さんのことを考えてか、ぽろりと流れる涙を、月が透かした。
「…あのさ」
溢れた文字を、掬えない。
「よく笑ってよく泣いて、君は疲れないの?」
なんとなく、ぼんやり、ずっと気になっていた。答えを聞きたいような、聞きたくないような。でも今更、やっぱり無しだなんて、言えないし。
「疲れるに決まってるじゃん」
別に、そんなに深い意味があって聞いた訳じゃないけど、君の答えを聞いてなんか、少しだけ、心の中がぎこちなく揺れて。君がいつものように眩しく笑う。
薄暗い中、君の声だけが、僕の脳を撃った。
「しょうがないでしょ、だって怖いんだもん」
「…は?何が」
しゃがんでいたその姿勢を崩してペタンとその場に座り込んだ大森鈴蘭。
「蒼夜くんはさ、匂いがちゃんと分からない代わりに耳が良いでしょ?それで、私もなんかないのか?って透さんに聞かれたじゃん、結構前だけど」
去年の夏、そんなことがあったような気がした。
「その時、特にないかな〜って言ったんだけど、本当はね、多分、味覚が、ね」
「…なんでその時言わなかったんだよ、ていうか今そんな話、」
「蒼夜くんが思ってる逆、味がしないの」
「え、」
「匂いはするんだけどさ、ほら私、触覚も無いでしょ?だから何食べても気持ち悪いんだよね〜。喉の奥に食べ物っていうのを流し込むだけだから。私たちは透さんが作ってくれるじゃむがあるから食べなくても平気だけど、そうはなりたくなかったの。人間じゃないから、人間みたいにしたかったんだよ、私は」
「…そう」
「なんかそれ蒼夜くんらしくないな〜。良いんだよ、蒼夜くんには関係ないことだし」
それは、なんか違う。
「…でも、」
「待って、蒼夜くん。静かに」
廊下の向こう側から誰かが歩いてきて家庭科準備室と廊下を繋ぐ扉が開く音がした。僕の口に被さった大森鈴蘭の手は紛れもなく温かくて、人間ごっこなんてそんなものは、似合わないと思った。そのまま準備室に入った二人の会話が始まるまで少しの間が存在した。
「立花先生は、何がしたくてこんなことしてんすか?」
聞き間違えるわけのない大和の声に、僕と大森鈴蘭の表情が変わる。どうして二人がこんな時間に二人きりで。こんなことってなんだよ。
「わっかんないんだよね〜。何がしたいんだろーな、」
「…でも分かってますよね、もう。俺が佐伯大成の息子だって」
分からないことだけが増えていくこの現状から、抜け出したかったけど。何も言わない透さんがどんな顔だったかすら、ぼやけて分からなくなる。
「…先生の夢って、なんでしたか?」
「何、俺の夢〜?…茶化して良い?」
「いっすよ」
急に何が始まったのかと突っ込みたかったけどそんなことができる状況では無かった。
「じゃあ、お嫁さん!ど?正解?」
「正解とかないすけど、面白いんで正解にしときますね」
ギーっと椅子の倒れる音がして大和が「ああー!」と大きな声を上げた。
「俺今日父さんに嘘吐いてここ来てんすよ!お願いします、蒼夜を、俺に下さい」
は?あいつ、何言ってんだ??僕見る大森鈴蘭は僕では理解出来ない表情をしていた。
「…え、ちょっとそれは予想外なんだけど〜?」
「え、あえ?え、いや!今のはちょっとミスりました!そーじゃなくて!」
大和の言っていることを理解しようと頭を回転させていると、くらりと目眩がした。
そういえば昨日の夜、ガソリン入れるの、忘れ…。
「え、ちょ、蒼夜くん、!?え、」
小さな声で僕を揺る大森鈴蘭の奥で、月が大きく光っていた。
昨日聞いた話を噛み砕く余裕も時間もないまま迎えてしまった文化祭。ただでさえこういうイベントは苦手なのに今日はいつもより気が重くて憂鬱だった。柳さんは「校内の美味しい物、衣灯が食べたいもの全部食べよう!」と意気込んだ大森鈴蘭に連れて行かれたし。そんな中、模擬展の休憩時間が被って教室隅で二人きりになってしまった僕と大和。
まぁ、気まずいと思っているのは僕だけな訳だけど。
「おにぎりの具がサンドイッチなのとサンドイッチの具がおにぎりなん、どっちの方が強いか議論しようぜ」
「…いいよ」
大和から出てくる下らない言葉に縋り付きたくて、厄介な気持ちも記憶も全て忘れて捨ててしまいたかった。騒がしいはずなのに腕時計の針の音がよく聞こえ、なんか喋らなきゃ、と思ってしまった。僕は、こんな風になるために居るんじゃないはずなのに。
「…こんなとこにいないで一人で回ってくれば」
「なんでぇ、やだよ。ここで蒼夜と話してる方が楽しいんだって」
僕の方を見るでも、笑うでもなく、ただただ口から溢れたその言葉をどこかに閉じ込めておきたかった。でも、こんな返答が聞けるんじゃないかと期待してあんなことを言った僕は、もう僕の望む僕にはどうしたって成れないんだと悟る。
「…僕と話してて楽しいやつなんか居ないよ、大和以外は」
「んなこともないと思うけど、それならそのほうが都合はいいかもな〜」
都合なんか、良くならない方が良いに決まってるのに。今の僕には、上部の都合より大事なものが思い当たらなかった。
しばらくして終わった休憩時間の後は面倒なあれこれを忘れられるほどに忙しかった。今までクラスメイトに名前を呼ばれる機会なんてそんなになかったのに何度も何度も、呼んで呼び慣れているかのように皆自然と僕の名前を呼んだ。
「あ、町田くんこっち手伝ってもらえる〜?」
「町田くん町田くん、あっちお会計お願いしていい?」
この瞬間だけは、自分が皆と違うんだって思わなかった。忙しなく動く手元や表情に嬉しくなって、そのこと罪悪感を感じることもない。
「蒼夜〜俺なんか昼飯テキトーに買ってくんね〜!焼きそばの匂い嗅ぎすぎて違うもんも食いたいっしょ?」
昼時、財布を片手にした大和が言った。
僕の嗅いでいる焼きそばの匂いと大和のそれは違うんだよ、なんて一瞬瞼が重たくなる。
「…うん、ありがと」
大和が人混みの中に居なくなって数分後、校内の人口密度がピークになった頃に校内放送の緩いベルが鳴って聞きなれない声が聞こえてきた。
『二年三組大森鈴蘭と町田蒼夜はこの学校の生徒を監視している危険なアンドロイドだ』
変声機のかかった不気味な言葉を聞いて流れていくはずの言葉一つ一つが僕の皮膚や爪を小さく引っ掛けて大きく抉った。
「なに、これ、」
言葉の後に聞き覚えのあるメロディーが頭に流れ込んでくる。
「これ、大和の、」
思い通りに動かない手でスマホを取り出して透さんに電話をかけるが、一向に繋がらない。
「…何でっ、」
僕の名前を知っているクラスメイトが騒つき始めて、いくつもの視線が僕に刺さった。
「町田蒼夜って、町田くんのことだよね…?」
「大森さんと柳さん、どこ行ったか知ってる人いる?」
「はぁ?あたしただの機械に説教されたわけぇ?めっちゃ腹立つんですけど」
怒りか不安か、湧き上がってきた感情が痛みを誘発する。手のひらが、頭が、体の中が、痛くて重かった。
「蒼夜!!大丈夫、来て!」
教室の入り口から僕を呼ぶ大和に酷く安心して、無意識の内に手を伸ばしていた。
「良かった、行こ」
大和に手を引かれて家庭科準備室まで人を掻き分けながら歩く。誰かと肩がぶつかっても頭を下げる余裕も無くて喉に引っかかる空気を必死で吐き出すことしか出来なかった。
慣れた手付きで準備室の鍵を開ける大和に対しての疑問も、はっきりと言葉にならない。崩れるように床にへたり込んで大和に背をさすられる。
「ちょっとさ、そのままでいいから俺の話聞いてくんね?」
少し上を向いた僕の頭に手を置いて、僕の視界をもう一度床へ戻す。
「俺、去年の夏に聞いちゃったのよ。父さんがうちの学校に電話しててさ、『息子の情がアンドロイドなんかに沸いたらどうしてくれるんだ。どうせ実験が終われば壊すそんなものに』って言ってて」
大和の、父さん。
『俺が佐伯大成の息子だって』
思い出す昨日の言葉、自分の出来る表情を探した。
「ああ、きっと父さんにはそういう経験があるんだろうなって思った。でも、それ聞いて蒼夜のこと、もっと大事だと思っちゃった」
大和が僕の頭を撫でる。手の平、奥の方にある熱まで伝わってきてしまいそうで怖くなる。
「居なくならないでよ」
僕の頭に大和の額が乗っかってグリグリと痛みを感じた。
『急に顔見せたくなっちゃって!』
去年の八月、僕の家で一緒に食べたオムライスを思い出しながら大和の頭に手を乗せる。
「…やっぱり僕の顔が見たかっただけじゃん」
「え?あ〜、そうね。てか蒼夜、俺の言ったことめっちゃしっかり覚えてんのな」
軽くなった頭を上げて大和の目の中に居る自分を見た。
「でもさ、いつかは居なくなるよ」
爪の整えられたその手を掴む。
「ん?…だから壊されないように、」
「違うって、大和が。いつまでも壊されずに動き続ける僕は、成長もしないし老いもしない。でも大和はここからまた少し身長が伸びたりして」
「かっこよくなるから」
「…そう言うことじゃないけど。歳も取るでしょ」
「イケオジ目指すって」
「…だからそうじゃない」
力が入って大和の手の甲に僕の爪が刺さっても、大和は表情を柔らかくするだけだった。
「ん〜まぁそうなぁ、俺は人間だからいつか死ぬよね〜」
「じゃ」
「じゃあさ、俺が死ぬ前に、俺が殺してあげるよ?それなら、いい?」
「…できんの」
「できる!任せろよ」
「…ふっ、手震えてるけど」
僕を人間にしてくれるのは、大和なのかもしれなくて。
「あ、蒼夜笑った?」
「うん、笑った。ていうか、なんで焼きそばパン?」
「ん?あ、結局匂いに釣られたんよ」
「ふは、」
それから数分して透さんともう一人、同じような体格の男が家庭科準備室に入ってきた。
「…お前達は来てたか〜。でも良かった、誰にもなんもされてないな?」
透さんの心配の声よりも、僕は綺麗にスーツを着た男が、気になって。
「それは、大丈夫です…。あの、すみません。僕と会ったこと、ありますよね?」
「え、蒼夜会ったことあんの?」
数歩近寄って顔を見上げる僕を見て笑った彼の目の下にはうっすら隈が出来ていた。
「ああ、あるよ。あの時は肩、すまなかったね。怪我は無かったか?でも、怪我なら直してもらえるもんな。透に」
「…父さん、蒼夜になんかしたの」
この人が、大和の父さん…。大和のこんなこんな顔、こんな目、初めて見た。
「何もしてないって。な?ああ〜でも、さっきの校内放送も何かした、の内に入るのかな?」
大和が僕を庇うように、僕と男の間に立った。
「ま、まぁ、とりあえず話を、」
透さんがそう言ったタイミングで僕のスマホが振動し、ポケットに手を突っ込む。
「お、鈴蘭じゃん。出ろ出ろ」
透さんが、応答と書かれた画面に触れてスマホを耳に当てる。
「…何」
『何じゃないよ!』
電話越しに聞こえるいつも通りの声に透さんと大和の表情から安堵が伝わる。
『今佐伯くんとか透さんもいるよね?』
「…まぁ」
もう一人、厄介な人も居るけど。
『衣灯がね、放送室まで来て欲しいって』
「ちょ、蒼夜、スピーカー」
大和が僕のスマホの画面をタップする。
「大森さん、何?もっかい」
『衣灯がね、どうにかするから放送室まで来てって言ってるの』
大和は僕の顔を見て、すぐ画面に視線を戻した。
「分かった、すぐ行く。ほら蒼夜、行くよ」
大和に腕を掴まれて準備室を出る。トン、とぶつかる大きな肩に恐怖はなかった。
生徒や校外から来た人たちの居ない場所を選びながら放送室へ向かった。
「あ、こっちこっち、先生達もなんかめっちゃ怒ってるから!」
「…そりゃそうだろ。学校側もグルの実験だし」
声を潜めながら、鍵が開いたままの放送室に入る。
「とりあえず私に任せて。あ、佐伯くんはちょっと手伝って」
「分かった」
テキパキと準備をする柳さんは少し後ろで見ているだけの僕たちの方を振り向いて「鈴ちゃんと町田くんはそっちで待ってて。先に謝っとくね、ちょっとだけごめんね」と手を合わせてちょんと肩を押した。マイク前に戻った柳さんはそこに置いてあった紙にスラスラと何かを書いていく。
「さっき、衣灯に口説かれちゃった」
僕の耳に顔を寄せてそう言った大森鈴蘭は見たことないほどにニヤけていて得意げだった。
「…何それ」
「私が鈴ちゃんの太陽になって熱で独占しちゃうから、って言われた」
自慢げに自分に肩を僕の肩にぶつけてくる。
「佐山くん、いけそう?」
「よゆーよゆー!」
一度深呼吸をした柳さんがマイクの電源を入れて手元のカフをあげる。
『みなさ〜ん!文化祭楽しんでますか〜?』
普段の柳さんからは想像もつかない、派手で、ギラギラと強い声。
『先程、この後から始まる企画の予告音声を流してみました〜!』
大森鈴蘭が「衣灯、」と小さく柳さんの名前を呼んだ。
『実はこの学校に通う町田蒼夜くんと大森鈴蘭ちゃんは生徒を監視している危険なアンドロイド!?という設定なので〜、校内を歩く二人に見つからないようにしてくださいね!』
指で追いかけていた手書きの文字を大和に向けて差し出す。
『見つかってしまった人には2-Bの焼きそばを一つお買い上げいただきますよ〜!ということで放送を終わりま〜す!』
柳さんがカフを下げてマイクの電源をオフにすると、また僕のスマホが鳴った。
「…なんですか」
『凄かったな〜今の。んで、もっかい皆でこっち戻って来れるか?』
「…分かりました」
電話を切った後で「…戻ってきてくれって」と言うと「大丈夫!鈴ちゃんも町田くんも私が守ってあげるからね!」と笑う柳さんが僕らの背中を押した。
「柳さんかっこよすぎじゃん!俺の役目取られてるし〜!」
大和の手が肩に乗ってそのまま放送室を後にした。
ガラガラと家庭科室のドアを開けると透さんが椅子に座って俯いていた。
「…ごめんな、」
ドアの閉まる音に合わせて発せられたその声は今までに聞いた事ないくらい弱くて呆れた。
「鈴蘭と蒼夜のことも、全部俺の我儘なのに…。柳と佐伯も、迷惑かけて悪かったな」
椅子に座る透さんは、ただ俯くだけで。
「ちょ、透さん、そんなこと言わないでよ。誰も透さんのせいだと思ってないよ?」
透さんに駆け寄り肩に手を乗せて優しく摩る大森鈴蘭の声が、空気に溶けていく。
「そーっすよ!むしろ悪いのは俺と父さんの方だし!先生なんも悪くないっすよ!」
透さんにこの色が、似合わなすぎて。
「笑わせんな!」
腹の底から持ち上げた声は、異様に気持ちよく喉を抜けた。
「こんなとこまできてフッツーのつまんねぇ大人でしたとか、オチにもなんねぇよ。いつも『俺の好きな絵本ではな〜?』なんて夢みてぇなぬるい話ばっかしてたくせに蓋開けてみたらこれって、まじで、笑わせんなよ」
赦されたくないのに救われたいその顔が、僕を見上げる。不気味に上がった口角。
「って、これで良いですか。ガキすぎるんですよ、あんた。まぁ僕も言いたいことはもっとありますけど今日はこれで勘弁しときます。人に怒られたい大人とか、拗らせすぎです」
いつの間にか僕達の後ろにいた佐伯大成が拳でドアを叩いてドンッ!と衝撃音を立てた。
「お前たち、雛さんと透のコピーのくせに、幸せになろうとすんなよ」
「…父さん、!」
自分と父の両方を宥めるような大和の口調は、僕の心を落ち着かせた。
「やめてください、僕とこの人じゃこれっぽっちも似てないですから。はぁ、心外です」
「ちょ、こんな時まで、本当に酷いね〜?」
大和の不安そうな顔を一瞬、見て見ぬふりをした。
「ふざけるな!!!」
佐伯さんが大森鈴蘭の肩や腕をつかんで教卓の上に押し倒す。周りに置いてあった椅子同士がぶつかって大きな音を立てた。
「お前が、お前が死ねば…!」
「父さんやめて!!そんなことしても和夏は、!」
自分の腕を掴んだ大和を振り払った佐伯さんの服のポケットからスマホが落ちて、動画が流れ始める。
『…こほん、えーっと、これはシスコンのお兄ちゃんのための動画でーす!』
病院のベッドの上に座った少女がにこやかに手を振っている。
『シスコンじゃね〜っての!』
カメラのこっち側からそう突っ込んだのは紛れもなく大和だった。
『私が眠った後も、お兄ちゃんの決意が揺らがないように何回でもみてくださーい!』
この言葉の後大和が何かリアクションを取ることは無かった。
『前にも言ったけど、私が増やしたいのはさ、生きるための選択肢じゃなくて私が私でいるための選択肢なんだよね。生きていく中で仕方なく何かを選ぶんじゃなくって、私でいるためなら死ぬことだって選べるような私でいたいじゃん?そーゆーこと!』
動画はそこで終わって、力の抜けた佐伯さんが諦めたようにスマホを拾った。そのスマホを大森鈴蘭の体重が乗っている教卓に置いてその作り物の肌に傷をつけないよう優しく起こした。誰が最初に口を開くべきなのか誰にも分からない時間が流れた。
「蒼夜。今まで言ってなくてごめん。俺、前に妹居るって話したじゃん」
「…年子の」
「そうそう、二年前に病気なって今は目も覚めなくて寝たきりなんよ。そうなってから母さんも起きてられなくなって。さっき和夏が動画で言ってたろ?俺がドナーになればよかったんだけど、さっきみたいに丸め込まれちゃってな〜」
寂しそうに話す大和を見て、僕に居なくならないでくれと吐き出した保健室の大和を思い出す。
「俺だってな大和を犠牲にしたくはなかった」
半笑いで諦めたようにそう言う佐伯さんはギギギと椅子を一つ持って来てそこに腰掛ける。
「でも医者に言われたんだ。今、研究が進められてて、誰かがドナーにならなくても人工的に作ったパーツで生命維持が出来るようになるって。だから待ったんだよ、待てば和夏が元気になると信じた」
僕の隣に立つ透さんがぎゅっと手を握りしめているのを見てなんとなく、今からとうに知っていたはずのことをもう一度、思い知らされるのだと察した。
「でも、いくら待ってもその日は来なかった。医者を問い詰めたら言うんだよ、パーツは政府に引き渡したって。そっから先はだんまりだった。でもな、急に越してきた立花の表札と、そこから出てくる二人を見て分かったよ。透だって。そんでもって女の形をした方にそのパーツが使われてるってことも」
大人しく佐伯さんの話を聞くことしかできない僕らは佐伯さんから目を逸らすことも、してはいけないことのような気がした。
「名前も鈴蘭て。未練タラタラって感じだな。雛さんが絵本に挟んでた押し花の栞、まだ持ってんのか?さっきの歌も懐かしいだろ。雛さんがよく歌ってたよな〜?」
透さんが大声を上げた日に落ちたあれが鈴蘭の押し花で、大和が歌ってたあの歌も…。
はっ、と笑った佐伯さんはゆっくり立ち上がって僕たちの前まで歩いてきた。
「もう一個の、そうお前。お前はそっくりだもんな。昔の透に。透のDNAでも使ってんだろ?でもこっちも似てんだよ、雛さんに。あれだろ人工パーツって昔に壊した雛さんの一部」
視点が定まらなくなっていく透さん。
「政府はよ、お前と雛さんのこと調べてお前の弱み握って利用してるだけなんだよ。実験が上手くいったら雛さんと同じ型のアンドロイドを量産しようとしてるんだって気づいてんだろ?」
段々と当てつけのようになってきた丁寧な説明は、じわじわと僕の肌を焼いた。
「そんで実験が終わったら用済みのお前らは壊されて政府に研究の権利も移るってわけだ。生徒が減ってた学校側としては実験場所を提供するだけで立て直し資金を貰えて結局損するのは俺らだけなんだよ」
吐き出されたその言葉に触れるように大森鈴蘭が笑った。
「私は、佐伯くんが好きなんです」
「…は?」
低い佐伯さんの声が大森鈴蘭を睨んだ。
「だから私が壊れて佐伯くんの大事な人が助かるなら私はそれが嬉しいよ?」
頬を伝う液体が温かい陽に照らされる。
「ちょっと無愛想な蒼夜くんの心を解いた佐伯くんを好きになったの。でもそれって、蒼夜くんがいたからじゃん?蒼夜くんがいなかったら見られなかった一面ばっかり好きになった私は、本当に佐伯くんのことが好きなのかな?」
そう言って、ボロボロと泣いた。その目から出る水滴を、僕は今初めて涙だと認識した。
大森鈴蘭がその目元を強く擦る。赤くなる程に痛いほどに、擦って少し、爪でその薄い皮膚を引っ掻いた。
「好きっ、好きだけど…」
滲む赤いそれを血だと認識して、二つの液体が混ざるのを見ていた。
「私が佐伯くんに思ってる好きって、嫌いと同義なの。ごめんね、ややこしくて」
人差し指を大和の心臓の位置へ当ててグイッと押した。
「私は好きな人と、その人の大事な人を助けたいからこうするみたいに見えてるかもだけど本当はもっと汚い理由かも。衣灯、全部あげるよ。衣灯が欲しがってた私のドロドロしたところ、全部。だって私衣灯のこと愛してるもん」
大森鈴蘭の綺麗な笑顔を見て、空気が喉に引っかかった。
「鈴ちゃん…私も、」
柳さんの言葉を遮って「あ、」と声をあげる大森鈴蘭。
「佐伯くんさ、衣灯のこと押さえててくれるかな?」
「え、鈴ちゃん?」
柳さんが踏み出した一歩を牽制するように笑みを浮かべる大森鈴蘭。
「なんで、」
助けられたい大和が、縋るように聞いた。
「だって決心鈍るじゃん!いいから、佐伯くんの決心でもあるでしょ?絶対離さないで」
「…分かった」
くっと口角を上げた大森鈴蘭は、普段と何も変わらないように見えた。
「よし!ところで透さんさ、首絞めたら壊れるの?私って」
「一応、それぞれのパーツに栄養を運ぶ細いチューブを張り巡らせてるから、人間みたいにしたら、機能は停止して。記憶も、無くなると思う」
「そ、思ったより楽そうで良かったね〜非力な蒼夜くんでも出来そうだし!」
僕が何かを言う前に、また大森鈴蘭が口を開く。
「あ〜あ、いつか消える肉と骨と欲の塊になりたかったな〜」
薄闇の中、皆に聞こえる声量でそう言った。昨日の晩みたいに月に照らされていた横顔も、透かしたときに見えてくるようなこいつの中身も、僕はやっぱり好きじゃない。
「…それも欲じゃん」
「確かに〜!」
グッと僕の服、襟を掴んで引き寄せた。ぼんやりと当たる陽の光が僕の皮を剥いでいく。
「蒼夜くんは、なれるといいね」
僕にだけ聞こえたその声が、合図のような気がした。
「…死ね」
彼女の首に手を掛けて、精一杯力を込める。
「いや!!やだ、鈴ちゃん!!やだ!やめて!!お願い!!ねえ、ねえってば!!!」
僕の服を掴んでいた指先がだんだんと緩んできて、僕は少し怖くなる。
「町田くん!!!!ねぇ!!やだやだ!」
「柳さん!」
菱井に柳さんを抑える大和の声も、怖かった。
「やめて!!お願い鈴ちゃん!!離して!いや!!」
喉が張り裂けるほどの叫びを聞いても、苦しそうな大森鈴蘭の目が僕に言う。絶対に止めるなって。だから僕は、彼女に、オオモリスズランに抱いていた憎しみを全て。
「返して!!私の鈴ちゃん返してよ!!!」
僕のシャツを引いていた力がゼロになるその時、叫び声のする方に動いた眼球を、僕は殺した。
数日後の夜、大和の妹の意識が戻ったと電話があった。向こうから佐伯さんや大和のお母さんらしき人の声が聞こえた。うちでは、何かあった時に騒ぐ奴が居なくなって、僕の下手な返事だけが大和に届いてしまう。電話を切ってからも、思い出す。飽きるほど見た彼女の笑顔と、柳さんの叫び声。
「私の鈴ちゃん…」
そう声に出して、怖くなる。柳さんはあの後僕に言った。「許せる時が来ても許さない」と。
ソファーの背もたれに顔を埋めて瞬きをすると硬い布に僕の涙が吸い込まれた。しばらく作業部屋にこもっていた透さんが部屋から出てきて「ちゃんと助けるから」と僕の肩を一度、ぽんと叩き、青いハンカチを僕の手に置いた。いつも通りコーヒーを持って部屋に戻る透さん。重たくて苦い匂いだ。
「…ありがとうございます、」
扉の奥から少し大袈裟に出した「あ〜」なんて声で僕を引き寄せてコーヒーを啜る音がする。
「にっが…。はは、やっぱガキだなぁ」
ドア越しに聞こえてくるこのセリフは、すんなり僕の中に落ちた。
四月は熱気でも冷気でも無いらしい空気を吸い込むと、やけに体の具合がいい気がして、
空洞なところで渦を巻いているように感じた。そして今日、三年生になった僕たちのクラスに転入生が来た。だってほら、春は出会いの季節、だから。
「初めまして、大森鈴蘭です」
薄闇の骸 野原想 @soragatogitai
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