季節は重ならない

ルコア

第1話:季節は動き出す

研究者の朝は2通りである。

規則正しいアラームで目を覚まして、決まったルーティンを過ごすもの。

再三のアラームでも起きず、バタバタと最低限の身なりを整えるもの。

でも、だからこそ、同じ家で過ごすのにちょうどいい。

「ねえ、冬菜、私のブラシ知らない?」

「昨日新しいの買ったから、古いのは捨てるって言ってなかったっけ?」

「ああ、そうだ、昨日買ったまま袋に入れっぱなしだ」

行動は性格を如実に反映する。物事はきっちり覚えておくタイプ。

目の前の事に全力なタイプ。

通常は前者の方が優秀と言われるが、それはあくまで本当に一般論である。

何が正解か分からない世の中の真理を理解するのに、一般論はどこまで役に立つのだろう。

「先に行ってるよ、パンはレンジに入れておいたから」

「お、ありがとう!お返しは今夜ね!」

「はいはい、期待せずに待ってるわね」

そもそも当たり前の形さえ変わりつつある世界なのに

「おはようございます」

「ああ、おはよう」

冬菜が研究室に着いた時、部屋には先輩の小坂だけだった。

「今日は凛と一緒じゃないの?」

「中々起きてくれなくて…実験に遅れそうだったので、先に来ちゃいました」

「ふーん…」

それだけ聞くと興味を失った様に小坂はPCに目を移した。

「おはようございますー!」

「はい、おはよう」

冬菜が実験室に向かってから30分後、元気な声が研究室に反響した

「あれ、小坂さんだけですか?」

「他の人は実験や会議で忙しなく動いてるよ」

「なら、私と同じで今日暇な人ですね!」

小坂は同意してやるのも癪なので、目配せだけして仕事に戻った

「先輩、昨日の会話、もしかしたら冬菜に聞かれてたかもしれないです」

「いや、それはないだろ」

PCを叩く手が一瞬硬直したが、視線を逸らさず小坂は返答する

「朝、お前のこと言ってたが、変なとこはなかったぞ」

「そうですか、それならいいんですけど…」

少し不安巣な顔をしていた凛はその表情を若干の笑みに変えながらこちらに向かってきた

「じゃあ、今夜もお願いしますねっ!」

「…っ!」

急に唇に触れてきた凛の指先に驚き、小坂は凛の顔をまっすぐ見つめる形となった

「いつまでも続けられるわけじゃないぞ…」

「分かってます。お互いにとって都合が悪くなったらそれまでの、単なるお遊びの関係です」

触れてきた唇は甘いコーヒーの味がした。

我の強い人間というのはどこの世界にもいるものであるが、研究者という人種はその色がより一層強い気がする。外からやってきた小坂にはそのように感じられた。

【通勤中】

(今朝の凛、やけに眠そうだったな…またゲーム徹夜でやってたのかな?でもそんな声じゃなかった様な…)

揺られる電車の中で冬菜は1人そんなことを考えていた。

(今日の夜はいい匂いのする入浴剤でも入れてあげるかー)

お互いに少しだけ気遣う関係、これが彼女らにとって最適の位置関係

【実験室にて】

今日は静かだなと思いながら、細胞の培地交換をしていた冬菜に声をかける人が一人。

「八神さん、今時間良い?」

静かな実験室に広がる柔和な声。冬菜達のグループ長、齋藤が辺りを見回しながら、こっちに向かってくる。

「はい、大丈夫ですよ」

冬菜は今日は凛のための入浴剤を買うために早めに帰ろうとしていたが、それが叶わないことを理解した。

「先週始めた実験の件ですか?それとも来年の予算の話ですか?」

先手を打った冬菜に帰ってきた言葉は意表を突くものであった。

「いや、新人の件だよ」

「新人?」

「初めまして!日向 雨です」

冬菜の目の前に現れた子は溌剌とした声で自己紹介をした。

「今日からこの子は君の部下だ、しっかり育ててやってくれ」

「え、そんな連絡一度も…」

研究員4年目で部下を持つには適しているが、まさかこんな突然だとは。

若干の緊張を声色に混ぜながら答えた。

「…初めまして、よろしくね」

内心は驚きが大きかったが、変に新人に気を遣われても申し訳ないのでにこやかに返答した。

「詳しくは後でチャットするから」

齋藤さんはそそくさと帰って行き、残されたのは、笑顔の新人と戸惑いの先輩社員だった。

変わらない日々が動き出した音がした。

「まずは軽く自己紹介からしよっか」

作業を中断し、新人に椅子に座る様に促す。彼女はありがとうございますと返事をして、私の隣に座った。

「改めまして、私は八神冬菜、今4年目で普段は細胞触ったりする実験をメインにやってるかな。とりあえず分かんないことあったら私に聞いてね」

「はい、よろしくお願いします!」

ニコッと笑う彼女の表情は、さっきまで静かだった実験室の一角の彩度を上げた。

「ちなみに齋藤さんから、今日これから何やるとか聞いてる?」

指導者としては好ましくないが、何も聞かされていない者にとっては仕方のない一手だった。

「いえ、OJTの先輩紹介するから、とりあえずその人の言う事に従って、と」

なんということか、絵に描いたような丸投げであった。

「…そっか、じゃあ、居室でコーヒーでも淹れながらちょっと話そうか…」

行先が不安な気持ちを少しでも落ち着けたかった。多分そう…

反応的にコーヒーは好きそうで良かった。

私の後ろを歩く姿は親に付いて歩くペンギンの様に見えた。

女子の平均身長よりも低い私よりも低い彼女は愛嬌溢れる雰囲気を纏っている。

人間関係は上手くやりそうだな、なんて初対面の人間にはちょっと失礼な感想を持ってしまった。

コーヒーを入れる音が居室に響く。

朝は小坂さんもいたけど、戻ってきた時は誰もいなかった。

隣の机を見ると凛が出社してきているのが分かった。

「砂糖とミルクはいる?」

さっきからそわそわしてる新人に質問を投げかける。

「はい!両方お願いします!」

私も最初はあんな感じだったのだろうか。いや、もう少しおどおどしていた気がする。

分かってはいたが、新人用の椅子もないので、凛の椅子に座らせた。

「はい、砂糖とミルク入りね」

甘いのが苦手な私にとって久しぶりの匂いを感じながら、先輩らしく振舞う。こんなことをされた記憶はないが。

「ありがとうございます!」

なんというか、可愛い。

一人っ子の自分に妹がいれば、願わくばこんな子が良いと思わさせるような反応をする。

「すみません、気を使わせてしまって…」

「いや、いいよ。私ももう少ししたら、ここに戻ってくるつもりだったし」

とりあえずチャットで斎藤さんに今後、この子をどうしていくか聞いた。返事はまだない。

幸いにも今日やらなくてはならない仕事は終わった。腰を据えてこの子に向き合うとしよう。

「じゃあ、まあ、とりあえず、あなたの事を詳しく教えてもらえる?」

まずは情報収集。そこから指導方針を考える。急ごしらえの後輩指導は行き当たりばったりにしかならないので、とりあえず部下との接し方とか書いてある本を帰りに買うことを決めた。

「はい!昨年3月に大学院を卒業しまして、この研究所にやってまいりました!学生時代は細胞を扱う系の実験がメインでして、配属先のOJTが色々あって私を見ることが出来なくなったので、この様な中途半端なタイミングで先輩のところにやって参りました!」

…なんとまあ同情してしまう…

「了解…何となく状況は分かったよ…」

齋藤さんも別部署の人から急に振られたのだろうな…

まあ、縁あって私のところに来てくれたのだから、出来る範囲でお世話しようと心に決めた。

「最初は他の研究員に挨拶が普通なんだけど、今日は皆忙しいみたいだから、明日にしよっか」

「はい!」

人が居ないなら、物を見せるしかない。

いつもより静かな研究所を新人に案内する事にした。

「ここは1つの大きな樹を囲む様な4つの棟から構成されていて、今居るこの棟が【人棟】、向かって反対側が【動物棟】、右側が【細胞棟】、左側が【九十九棟】それぞれ役割に特化した機能を持ちます」

入社からずっと在宅だったという彼女は物珍しげに窓から棟を眺める。

「どの棟も下層が居室で上層が実験室になってて、担当の棟にしか入れない様になってる。私はここと細胞棟が担当だよ」

担当の証である桃色と深緑色で縁取られた社員証を見せる。

「あなたはどこの棟担当かな?」

彼女ははっとして白衣の内側に隠れていた社員証を急いで取り出した。

「白、ですね…」

その声色はせっかくのOJTに頼れないことを悟った悲しみを表していた。

「なるほど…」

OJTの声色は想像とは別ベクトルのハードワークを理解しつつ、冷静さを装ったものだった。

「白ってどの棟ですか…?」

不安げに聞いてきたのは、私の顔が若干強張っていたからではないと信じたい。

「…白は九十九棟、特別で優秀な人だけが担当できる…それ以上は私も知らないんだ…ごめんね」

不穏な空気が2人の間に漂う。

「…あっ、でも心配しないで!ちゃんと白の先輩が私の直属にいるから、その人から色々聞けるよ!棟以外の業務は私が全力で教えるから!」

「……分かりました!よろしくお願いします!」

出会った時と元気度合いが逆転しそうだったが、何とか持ち堪えた。

その後は順調に進んだ。出社してから業務までの流れや更衣室の使い方、とりあえず研究以外のことは一通り教えられたと思う。その研究が最も私には教えづらいのだが…

「あっ小坂さん!」

渡りに船とはこのことだと実感した。少し先の部屋から小坂さんが出てくるのが見えた。

「八神か、どうした?」

不思議そうに応答した先輩は訝しげに私の隣に視線をずらした。

「そちらは…?」

「初めまして!今日から八神さんの下につくことになりました、日向雨です!よろしくお願いします!」

こんな時期に新人?と不思議がった様子だが、少し困り顔の私を見て、軽く頷いた。

「そうか…よろしく」

にこやかではなかったが、それでも何となく歓迎している雰囲気は出ていた。

「先輩、今時間よろしいですか?ちょっとご相談が…」

せっかくのチャンスだ。今のうちに話しておきたい。

「…ああ、すまん。後にしてくれないか。九十九棟に急用が出来てね」

「あ、それなら急用ついでにこの子を連れて行ってくれませんか?この子九十九棟担当みたいで…」

一瞬目を少し大きく見開いた後、先輩はため息をついた。

「急用という言葉の意味を再確認しろと言いたいところだが…まあ良い、付いてこい新人」

そう言うと先輩は颯爽と歩き出した。

「じゃあ、あの先輩に付いて行ってね。大丈夫、ちょっと無愛想だけど根は親切な人だから」

雨ちゃんは、はい、と頷き、先輩の後に付いて行った。

とりあえず一段落。少し落ち着けるな。

そう思ったのも束の間。後ろから声がかかる。

「おーい、冬菜。何してんの?」

「あ、凛」

今朝ぶりの同期が軽く手を振りながらこちらに歩いてくる。

「ちょっと色々あってね…」

私はこの1-2時間程度であった出来事を凛に簡潔に伝えた。頷きながら聞いているが、想像していたより驚いている感じはしなかった。

「驚かないの?急に九十九棟担当の後輩が来たんだよ?」

「いや、実はちょっと事前に色々噂を聞いてて…」

隠し事ではないにしろ、情報共有が漏れていたことに、ほんのちょっぴりバツが悪そうに凛は答えた。

「九十九棟での共同研究先の教授が、博士学生の就職先を探してたみたいで、完全に違う畑なんだけど、ちょっと強引に送り込んできたみたい」

「当の学生は純粋な子でそういう裏の事情とか知らないで来たんだけど、現場としては予定外だからOJTも上手いこと用意できなかったみたい…」

なるほど…徐々に背景情報が読み取れてきた。

「…そういうことか、教えてくれてありがとう」

後でお菓子でもあげて少し優しい世界にしてあげよう。

雨ちゃんのためのお菓子を買いに売店に来た。お昼過ぎだからか他の人はいないようだ。

「ちなみに今日は何してたの?」

同じ家に住んでいても業務状況を話す機会は少ない。

「今日はね、マウスといっぱい遊んで"楽"の感情を与えてきたよー」

チョコレート菓子を手に取りながら、凛は続ける。

「やっぱりこの実験は良いね。やってるこっちが幸せになってくるよ」

今の気分に合いそうなお菓子を見つけたようで凛の顔のニコニコ度合いが一段階上がった。

「で、冬菜は何してたの?」

レジで会計しながら聞いてくる。

しょっぱいお菓子か、甘いお菓子かそんなことを考えながら答える

「細胞のお世話してたんだけど、途中から雨ちゃんが来て、それ以降は研究所の案内とかだったよ」

なるほどー、と凛は軽く相槌を打つ。

分かりきっていることもしっかりと言葉にすることで新たな発見が生まれることがある。そんなふとした瞬間の積み重ねが人間関係を深めるのだろう。

雨ちゃんが居室に戻って来るまでは静かに時間が過ぎていた。

2人してパソコンに向かって、資料作成をしながらたわいも無い話をしていた。

誰か他に帰ってくるかと思ったが、そんなこともなく仕事場でこんなに冬菜と話すのは久しぶりだなと感じていた。

思っていたより仕事は進んだ。

終業時間間近になってやっと小坂先輩と雨ちゃんが帰ってきた。

九十九棟に初体験後にしては雨ちゃんの様子は別れた時と変わらなかった。

先輩と家の方向が同じらしく、2人で帰っていった。先輩は少し面倒そうだったが。

お菓子は明日に回そうか、冬菜にそう言って私もPCの電源を落とした。

「夜ご飯どうする?」

隣を歩く冬菜が冷蔵庫の中身をメモしたスマホを見ながら聞いてくる。

「そうだな、昨日はカレー、一昨日は肉じゃがだったから魚系にする?」

「ありだね、刺身でも買って帰ろうか」

同居では食の好みが合うことがある意味1番大事なのではないかと最近思い始めた。

「小坂先輩、今日はありがとうございました!」

隣で笑う後輩のテンションは棟から出てきてから少し高くなっている。

初めての物を見たことによる高揚感が滲み出ている。

「まあ…用事のついでだったからな」

急な出会いだったが、印象は悪く無い。

やはり私には明るいやつがちょうどいい。

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