春と鹿と図書館の夢

そらのくじら

春と鹿と図書館の夢

 世界には、たくさんの謎と、秘密と、夢がある。答え合わせができるその場所は、きっと、私たちの人生の、すぐそばに佇んでいる。



 がらり、と、少し立て付けの悪くなった引き戸を開ける。生徒があらかた帰って静まり返った廊下に、無骨な音が反射した。

「お疲れさま」

 横から、のんびりとした声が飛んでくる。首を右に向けると、蓮見はすみが、こちらを見上げていた。手元には、抽象画っぽい絵の新書本。

 進路相談待ちの生徒のために廊下に並べられた椅子に、扉側の一つを開け、座っている。

 生徒用ロッカーと教室側の壁に囲まれた廊下には、私たちの他に誰もいない。

 私は予定日に休んでしまったから、予定の合う今日、蓮見の前に入れてもらった。進路相談に好き好んで早く来るような生徒はいない。蓮見がもう着いていることだって、私にとっては十分おかしいことだった。

「別に、疲れるようなことじゃないでしょ」

「先生と真面目なお話をするというのは、どうにも緊張してしまうものだよ。ふみちゃん」

 口角をゆるりと上げ、蓮見がそう返す。手元にある紙は、この間回収された進路希望書だろう。蓮見はあの時出していなかったが、今日まで引っ張っていたとは。

「そうかな。先生だって、怒ったりしないでしょ」

「文ちゃんは成績いいから、そんな悠長なこと言ってられるんだよ! もうちょっと頑張りましょうねって、困り顔で言われてみなよ。先生が怒ってるかとか、そういう次元じゃないんだよう」

 蓮見は、両手の人差し指で目尻を下に引き伸ばし、のっとりとした声真似をする。パンダに似てると言われる、私たちの担任の先生を表現しているのだろう。

「罪悪感と情けなさと申し訳なさでトリプルパンチだよ!」

「勉強しな」

「正論パンチやめて。テトラパンチになっちゃうでしょ」

 蓮見が苦虫を噛み潰したような顔をする。後ろ髪と同じ長さの、真ん中分けにした前髪を引っ張って顔を隠した。黒い髪から三角形に浮かび上がる白い顔と、パペットのようなくしゃっとした表情。ギャグみたいな絵面だ。

「なにその顔」

「正論メーカーの同情を引こうと思って」

 私がそう言うと、前髪の間から目を覗かせる。小動物みたいな、真っ黒な瞳がこちらを見つめていた。

「意味ないです」

 一つだけ空いていた扉側の椅子に座ると、蓮見はへらりと笑って、顔を傾けた。

 そもそも、と続ける。足を伸ばして、こつこつ、とつま先をぶつけた。

 蓮見の足元に積まれた布の鞄から、透明なビニールに包まれたキャンバスが覗いている。A4くらいの、比較的小さなサイズだ。

「これ?」

 私の視線に気付いた蓮見が、鞄からキャンバスを取り出す。

 人工的な光が布の上を転がり、絵の具を照らす。太陽光が斜めに差し掛かる机の上に置かれた、白いマグカップの中に八分目まで注がれたコーヒーと、その上に浮かんだ桃色の花びら。明度、彩度ともに高い。これから調整していくのだろう。

 絵について、何かしらアドバイスなりを言おうとして、口を開く。

 しかし、私の唇が音を発することはなかった。私は、油絵にきちんと接したことがないから、何も言うことができない。

「……相変わらず、上手いね」

 結局、こんな当たり障りのない言葉しか言えない。

「本当!?」

「うん」

「嬉しいなあ。文ちゃんが誉めてくれるなんて」

 蓮見は、私が誉めると、いつも眠そうな目を開いて、嬉しそうにそう言った。

 これは、一緒に絵を描いていた頃の名残だ。以前、私と蓮見は同じ絵画教室に通っていた。

 高飛車を極めていた私になぜかひっついて、懐いていた。初対面の時も、文ちゃんに似た人に会ったの、空に飛んでいちゃったんだけど、という謎発言をかましていて、よく転けてもいたから、私は不思議な妹分ができた気分で、蓮見と一緒にいた。

 そこでは私の方が、蓮見より先輩だった。その時は、私の方が上手いところもあって、口も回ったから、蓮見は、私を偉い人みたいに扱うときがあった。

 筆を手放した私より、もう、蓮見の方が圧倒的に上手い。でもあの頃のまま、蓮見は私に接している。

 蓮見は、にこにこと笑って、キャンバスを閉まった。

「蓮見は美大受けるんでしょ? なら、別にいいんじゃない?」

「それは……そうなんだけど」

 鞄を床に置きながら、蓮見は曖昧な声を返した。手元の本をぱらぱらと捲り、蓮見は唇をもりょもりょと動かす。太陽光の差し込まない廊下は冷たい。

「文ちゃんは、もう、描かないの?」

 伺うようにこちらを覗きながら、蓮見がそう言った。いつも通りの不安そうな目に、おどおどとした口調。もう少し、はっきり喋ればいいのに。

 こちらが悪いことをしている気分になる。

「私は描かないよ」

 蓮見は、今は大手の画塾で絵を続けて、私はやめた。蓮見には、それが多分、寂しいのだと思う。

「そっか……」

「うん」

 この話題になると、蓮見はいつも口籠る。何か言いたそうに曖昧に口を動かし、しばらくしてから口を閉じる。そんな蓮見を、切り捨てるように即答した。それが、蓮見の言葉を閉じ込めていることも知っている。

 それでも蓮見に、絵のことを言われるのは、どうしても嫌だった。

「それに私は、勉強ちゃんとやんなきゃいけないからさ」

 先生の、これから半年頑張って、と言う声が蘇る。高校一年生になった時から、受験のために勉強してきて、それもあと半年で大詰めだ。

 私の成績は、ぼちぼち良い。

 このままの調子でいけば、難関大学と言われる大学だって、行けないわけじゃない。けど、それだけだ。本当に頭の良い子とか、勉強が好きな子が、もっと別にたくさんいることは分かっていた。

「文ちゃんは成績いいから、きっと大丈夫だよ。いっつも頑張ってるじゃん」

「そんなことないよ」

「文ちゃんはテストの点数も高いし、勉強も頑張れるし、かっこいいよね」

 背もたれに体重をかけながら、蓮見は他人事みたいにそう言った。手の中で毛先を弄んでいる。

 少しすると、蓮見は視線を上げて、口を開いた。

「あんまり頑張りすぎちゃだめだよ。頑張りすぎてもいいことないよ」

「……それ、いつも言ってるけどさあ、なんの根拠で言ってるのよ」

「なんだったかなあ」

 顎の手を当てて、上体ごと大袈裟に体を左に傾ける。雑に梳かした黒髪が揺れ、螺子の緩んだ椅子が、ぎしり、と音を立てた。

「昔、誰かに言われたんだよ。そんなこと」

「なにそれ」

 私がこぼすと、蓮見は再度体を揺すり、目を閉じて、唇を尖らせる。後ろの壁から、先生がこんこん、と机に書類を当てる音が聞こえた。そろそろ、次の面談時間なのだろう。

 もう行くわ、と呟き、立ち上がった。続いて、蓮見が立ち上がる。

「つまりは、あんまり気張らない方がいいってことだよ」

「強引にまとめすぎじゃない?」

 扉の向こうから、先生のぱたぱたと言う足音が聞こえる。

 蓮見が、手に持っていた本を学生鞄に無造作に突っ込んだ。

 革製の重厚な佇まいだったそれは、五年間の蓮見の酷使のせいでぼろぼろになっている。今も、中に無理矢理詰められた油絵の具一式で、本来想定されていない形状に膨らんでいた。

「じゃあ、私は面談行ってきます」

「うん」

「私面談終わったらそのまま画塾行くから、文ちゃんは先帰ってていいよ」

「そう」

「じゃね〜また明日〜」

 蓮見が、歪んだ鞄を持ち、よろよろとした足取りで教室の扉を開ける。先生と蓮見は一言二言話した後、そのまま奥の、机を向かい合わせにして作った面談用の席に向かった。

 開けっ放しになった扉を、ため息と共に、そっと閉じた。

「……どうしようかな」

 今日は塾がないので、このまま帰っても良い。参考書と問題集を詰め込んだ鞄を肩にかけ、校舎の正面玄関に向かう。六年生の教室は、他の学年と少し離れたところにあるので、校舎を出るのも一苦労だ。

 教室のある最上階から、階段を降り、生物室や物理室を抜ける。今日は小学生の受験生のための説明会があるとかで、部活動は禁止だ。大抵の生徒が帰った後の校舎に、人気はない。

「図書室開いてるかなあ」

 静かな校舎に、声が響く。重い足取りで、図書室に向かった。中学一年生の頃からずっと図書委員を務めているから、自習室よりも落ち着いて勉強できる場所だ。

 本館と図書室をつなぐ、二階の渡り廊下を歩く。左側が校舎に面し、右側半分は屋外に露出したこの通路は、玄関アプローチから流れてきた花びらや落ち葉がまばらに散る。

 踏み締めると、革靴の裏で、落ち葉がぐしゃ、と泣いた。

 足元に落としていた視線を、天に移す。だんだんと昼が長くなり、空はまだ明るかった。彩度の高い藍と淡黄檗色、奥行きのある桃色のグラデーション。少しづつ遅くなる日の入りが、着実に近づく卒業という文字を、私たちに教えてくれる。

 早足で進むと、図書室にはすぐに辿り着いた。左に曲がり、足早に向かう。ただ残念なことに、鉄製の両開きの扉には、マグネットで貼られた、本日は閉館です、の文字。思わずため息をついた。

 その時、ぴゅう、という間抜けな声が、横から飛んできた。聞いたことのない鳴き声に、顔を右に向ける。

「え」

 先ほど私が立っていたところに、白く発光する、小さな鹿が佇んでいた。枝分かれの少ない、滑らかな角を持つ、若い雄鹿。

「え、ええ、し、鹿?」

 よく見ると鹿の口に、深緑色の表紙の単行本が咥えられていた。背表紙には、請求記号のシールが貼られている。藤色の枠に、丸い枠。マーカーペンで書かれたと思われる手書きの丸文字。

 間違いなく、うちの図書室の本だ。しかも、かなり古い。

 白い体に、真っ黒な瞳が浮かび上がっている。ぱちりぱちり、と二回瞬きをすると、鹿は勢いよく頭を振る。鹿の頭から、あっけなく、二本の角が落下した。

 満足気に、ぷう、と鳴くと、鹿は踵を返し、勢いよく走り去っていく。

「ま、待て!」

 鹿に向かってそう叫ぶ。鞄を抱え、走り出すために足を前に動かすと、足首に、しゅるり、と何かが巻き付く感触があった。

 視点を下に動かすと、先ほどの角が、足元でゆるやかに点滅している。

 咄嗟に掴むと、そのまま、急いで鹿を追って走り出した。

 二本の角は、左手の中で温かく脈動し、生き物のように震えている。

 雄鹿は、通路を勢いよく走り、校庭に続く階段を駆け降りた。そのまま旋回し、校舎に走る。重たい足取りで、必死に雄鹿を追う。煉瓦作りの校舎の壁に手をつき、荒くなった息を吐いた。

「大体! どうして鹿が学校にいるのよ、しかも、なんか光ってるし!」

 顔を顰めて、小さく叫ぶ。そうしている間にも、鹿は先に進み、視界から消えかかる。意地になって、必死に足を動かす。

 動きにくいブレザーがうざったい。膝より長いスカートが足に絡みついてくる。

 同級生の皆のような短いスカートにベストなら、もっと動きやすかったのだろうか。汗が額から滲み出て、頬を伝い落ちて、スカートの灰色に、濃いシミを作った。

 追いかけてしばらくすると、雄鹿は塀と校舎の細い隙間に体を滑り込ませる。

 暗い小道を、雄鹿の体が淡く照らした。続くように隙間に潜り込み、歩いているのと変わらない速度で、緩い傾斜を降る。

 そのまま進むと、小道を小道たらしめていた塀と校舎裏の煉瓦はその感覚を広げ、二畳程度の空間が現れた。地面は乾いた青草と雑草、小さな花が覆い隠している。校舎の壁には、煉瓦に同化して、緑青色の扉が据え付けられていた。

 雄鹿が、ゆっくりと、お辞儀をするように首を垂れる。それに合わせたように、扉の取手は独りでに傾き、錆ついた音を立てながら、のんびりと開いた。

 当然のような顔をして扉を潜る雄鹿を追って、中に入る。

「……ここ、図書室の倉庫?」

 入ってみると、そこは、図書室の倉庫だった。滅多に使われない分厚い本や、昔書かれた古い本、図書室が所有している資料も保存されている。表に出ている本は、定期的に除籍本として捨てられるが、ここの本が処分されたところは見たことがない。相応の価値があるものなのだろう。

 埃が空中を舞い、木製のくたびれた本棚が所狭しと並んでいる。その一つ一つに、保護フィルムに包まれていない剥き身の本がぎっしりと詰まっている。

 請求記号が貼られている本もあれば、貼られていないものも多い。

 雄鹿は、埃の中を、水を切るように進んでいく。綺麗に並んだ背表紙をなぞりながら、その後を追った。

 ここの本は、全て、ひっそりと眠っているようだ。陽の光にも当たらず、適度な掃除と点検の中、安全に保管されている。

 ただ、読まれない本が生きていると言えるのか、それだけが疑問だった。

 ぴゅい、と前から声がする。私から逃げていたはずの雄鹿は、こちらを振り向き、早くこい、と呼んでいた。口元には、深緑色の、単行本。

「はいはい」

 ゆっくりと、雄鹿の後を追う。雄鹿は、迷いのない足取りで、倉庫の奥に進んでいく。本棚の中を、蛇行しながら進んでいく。

 しばらく歩いて、あれ、と疑問に思った。

「倉庫って、こんなに広かったっけ?」

 そう言った瞬間、本棚の奥から、ちりん、と、鈴の音が響いた。加速する雄鹿を、またも走って追いかける。

 歩を進めると、奥から、蝋燭のような、薄い暖色の光が見えた。本棚を抜けると、無限に続く闇の中、一本の街灯が立っている。街灯の下には、煉瓦造りの道が続いていた。レトロな金属の細工に嵌められたガラスの奥に、蝋燭の炎が揺れている。

 街灯の向こうから、鈴の音と共に肌寒い風が駆け抜け、前髪を揺らした。

「え?」

 さあ、と指先が震えた。

 どう考えても、おかしな事態だった。

 後ろを見ても、どこまでも続く本棚に、真夜中のような闇。

 鞄から携帯を出して、電源ボタンを押す。いつもなら繋がっているはずの電波が、全く立っていない。思わず、まじかあ、と呟いた。

 これは、まずい。大変まずい。

「どうしよ」

 蹲って、頭をかく。ぐしゃ、と髪の毛をかき回した。冷たい、嫌な汗が滲む。

 手の中で、一本の角が、その身を揺すった。顔を上げると、角は浮かび上がり、空中で蠢く。そのままゆるやかに形を解き、白い光と共に形を変えた。

 からん、と軽い音を立てて、床に落下する。恐る恐る拾うと、幾何学調の模様の鍵山に、四芒星と円が重ねた形の紋章が刻まれた頭。抵抗のない滑らかな素材で作られた、手のひら大の鍵だった。

 よく見ると、四芒星の真ん中に、小さな穴が空いている。なんとなく覗き込むと、格調高い西洋建築の建物が見える。

 天井と思われる高い視点で、建物のなかを覗き込んでいる真ん中には、本を持つ、黒髪の女性が歩いていた。瞬きをすると、その人が、こちらに気づいたように、振り返る。

「うわ!」

 驚いて、思わず目を離す。もう一度覗いたら、今度こそ目が合ってしまいそうで、もう見ることはできなかった。

 前を見ると、永遠に広がっているように見えるような夜色の闇と、一本の街灯。白く光る雄鹿。退屈そうに、蹄で床を引っ掻いている。

 なんだか、とても疲れた。

 重く息を吐いて、立ち上がる。私が立ち上がると、雄鹿はこちらを見上げ、徐々に歩き出した。

「仕方ないよなあ」

 鞄を右肩にかけ直し、鍵をスカートのポケットに捩じ込む。一本になった鹿の角を、左手で握り締めた。雄鹿を追って、ゆっくりと歩を進める。

 白い雄鹿の光だけが、私にとっての道標だった。

 五分ほど歩いていると、道の端に、ガラス片と鉄製の枠が落ちているのが分かる。よくよく見ると、壊れた街灯のようだった。もともとは、この道に沿って並んでいたのだと思う。

 今は、前を歩く雄鹿だけが、この場にある唯一の光だった。

 さらに向こうに目を向ければ、足の折れた机や穴の空いたポスト、積まれた本、綿の出たぬいぐるみ、捻れた大木。朽ち果てた、誰かの何か。

 歩き続けると、道の先に、先ほど見た街灯と同じ光源が見える。前を歩く雄鹿は、もう焦ったりせず、私に合わせて歩く。

「今度は螺旋階段か。まるでファンタジーだね」

 道の端には、螺旋階段の入り口が、のっそりと佇んでいた。少し錆びた金属の軸と、そこに嵌まる硝子細工。こんな状況じゃなければ、うっとりする美しさだ。

 雄鹿が先に、階段を下がり始める。私も、手摺をなぞりながら、階段を一段一段踏み締める。かん、かん、と心地の良い高い音が、足元から飛んでいく。一段下がるたびに、体重が減ったように、足取りが軽くなる。

 いつまで下がっても、少しも疲れなかった。時折、顔の横を、何かが横切る。それは本だったり、ティーカップだったり、時計だったり、簪だったり。あの道に並んだものたちも、いつかの昔に、ここから打ち上げられた残骸だったのだろうか。

 とん、という、今までとは一味違う感触が、足の裏に伝う。どうやら、階段はここで終わりらしい。

「へえ」

 五メートルほど先。暗闇の中に、豪奢な扉が嵌め込まれていた。上部に取り付けられた色とりどりのステンドグラスから、鮮やかな光が溢れ、私を照らす。近くによれば、私の身長の二倍くらい高い。 

 木製の扉の横には、文字の刻まれた金属プレート。図書館、と言う文字が読める。その前にあったであろう何らかの言葉は、劣化して、読めなくなってしまっていた。

 扉の表面には、直接精緻な模様が彫り込まれている。両開きの取手まで手を滑らせる。左の扉には鍵穴が取り付けられ、中から、眩い光が溢れていた。

「まあ、これだよね」

 右手を開き、白い鍵を見る。

 根拠のない確信を胸に、鍵を差し込んだ。

 元からそうであったように、鍵はするりと飲み込まれ、鍵穴を塞ぐ。時計回りに、力をかけた。鍵は右にあっけなく回り、がちゃん、と何かが外れた音がする。

 右手で鍵を掴んだまま、力一杯、左手で扉を押す。

 錆び付いた音を立てながら、扉がゆっくりと開いた。



 扉を開けると、そこは、ゴシック建築の建物の中だった。シャンデリアと等間隔に設置された灯りが、真昼のように室内を満遍なく照らしている。

 雄鹿は、扉が開くなり、するりと私の横を抜け、瞬きの間に、本棚の向こうに走り去ってしまった。もちろん、図書室のものと思われる単行本を持ったまま。

「どうしようかな」

 ため息を吐きながら鍵を鍵穴から抜き取り、スカートのポケットにしまう。

 目の前には、入り口を見張るように、半円形の受付カウンターが置かれていた。しかし、中に人影は見当たらない。

 その奥には、またしても、どこまでも続く本棚。げんなりする。

 ただ違ったのは、倉庫の本棚と違い、隅々まで手入れされているのが一目瞭然だったことだ。

 上を見ると、ドーム状の天井には、ところどころにモザイクで空が描かれている。天から降りる、ヤコブの梯子。見事な夕暮れ。青く染まった海に潜る太陽。

 視線を横に滑らせると、壁と柱に張り巡らせた金の細工。高い壁には、細長い窓が嵌められ、上部は、扉と同じステンドグラス。天使と思しき人物や剣を持った青年、花を抱える艶やかな女性が、その身を輝かせながら見下ろしている。

 それら全てが、隅々まで磨かれ、美しさの限りを尽くしていた。

 おもむろに窓に近づく。私は、ずっと螺旋階段を下がっていた。ここは相当深い地下のはずだ。外は、どうなっているのだろうか。

 扉が付いていた壁から左に曲がり、一番端の窓に寄る。

 窓ガラスに触ると、冷たさが指を刺した。窓霜の白が表面を覆い、向こうが見えない。

 よく見ると、上のステンドグラスは嵌め殺されていたが、下の、私の腰から頭一個分ほど高いところまでは開けられるようになっていた。

 鞄と角を、一旦足元に置く。窓枠に指をかけた。

「かったいな!」

 引き戸になっている枠に思いっきり両手で力をかけると、いきなり、勢いよく窓が開いた。右に滑った窓は左の窓枠に当たり、動きを止める。

「うわ!」

 窓に吸い込まれるように強い風が、私の背にぶつかった。咄嗟に、目を瞑る。ブレザーの裾がはためき、髪が勢いよく暴れた。

 風の次に私を襲ったのは、冷たい空気だった。窓の向こうから広がった冷気はあっという間に私を飲み込む。髪の先が凍てつき、肺が痛かった。

 髪を両手で抑え、恐る恐る目を開ける。

 外は、夜だった。

 真っ黒な空と、そこに、七色の星が輝く。歯ブラシで飛ばした絵の具のように、さまざまな白が夜空を弾け、天の川を作っていた。

 下を見ると、図書館の外壁と思われる壁と、その下の岩肌。そして、藍と紺の雲。藤色や霞色の線がその中を駆け回っていた。

 水平線まで続く光景に、息を呑む。

 凄まじい勢いの風が、ごうごう、と耳の奥で叫んだ。雲は勢いよく蠢き、彼方に流れていく。髪を抑えていた両手で、耳を防ぐ。強く強く、瞼を閉じた。

 変わらず、後ろからは、まるで外に誘うように、強く風が、私の背中を押す。

 その時、からん、と、軽い音が耳の奥で反響した。風でスカートが揺らされ、ポケットから鍵が落ちたようだった。

 その音で我に返ったように、私は必死に窓を閉める。開けるのが大変だったのが嘘だったように、あっけなく、窓は閉まり、再び、館内に静けさが戻った。

「な、なんだったんだ。今の」

 頬を触ると、指先と顔の冷たさに驚いた。壁に背を預け、体育座りで座り込む。

 一息つくと、ゆるゆると足を伸ばした。思い返せば、ずっと走りっぱなし歩きっぱなしだ。

 先ほどまではカウンターが陰になって分からなかったが、ここは、本棚がぎっしり埋め尽くしているだけの空間ではないらしい。

 背中合わせに置かれた本棚は十分なゆとりを持って六列で並び、真ん中には大きな通路がある。椅子や案内板、小さな机が置かれているようだ。横幅はそんなに長くない。おそらく、二十メートルやそこらだと思う。

 問題は、奥行きが未知数だということだ。

「いくら長くても、端が見えないって、どういうこと……」

 長い、というか、遠い。私が入ってきた扉がある壁。そこから続く脇の壁には、定期的にステンドグラスが嵌め込まれ、その間には、本棚とソファが規則的に並んでいる。

 その壁に、終わりが見えない。

 遠すぎて、先がどうなっているのかはわからないが、永遠に続いている、ように見えた。まるで、よくできたCGみたいだ。

「一点透視図法って、本当だったんだなあ」

 中学二年生の時の美術の授業を思い出し、そう呟く。眠くて、疲労で頭が痛い。それでも、ここでうずくまっていては、状況は悪化するだけだ。何かしら行動しなければ。少なくとも、先ほど雄鹿を追いかけることで、真っ暗闇からは抜け出すことができた。

 そもそも最初、雄鹿を追いかけ始めたりしなければ良かったのだが、それは今回棚に上げておく。後悔なんて、後でいくらでもできるのだ。

「前進あるのみ、てね」

 膝に手をつき、億劫そうな体を起こす。鞄を肩にかけ、角を握り、鍵はポケットへ。

 本棚へ歩を進める。左から一列目と二列目の本棚の間の通路に入った。改めて見ると、見事な建物だ。空気は澄み渡り、蝋燭とステンドグラスの光が、本棚に明るい影を落とす。

 本棚の間を進んでいくと、棚一つ一つに、番号が振られているのが分かった。八〇〇、八〇一、八〇二、と、一つずつ数が増えていく。その中の本の背表紙には、八〇二、ユーラシア、欧州、一、と文字と数字が振られている。

 八〇五、と書かれた本棚から、アジア、と書かれた本を取り出す。分厚い左綴じに、重厚な革表紙。

 何度も触られた革特有のてらつきと、背バンドの出っ張り。紙と革の重さが、ずっしりと腕にかかる。紅葉色の表紙には、箔押しと金箔で何かが記された形跡があったが、劣化して、読み取ることはできなかった。

 表紙を開くと、薄い、半透明の遊び紙。

 目次には、ずらっと、アルファベットと数字の識別番号が並ぶ。その後ろに、八〇六と数字が続いた。さらに、ばらばらな数字が追う。ただ、九〇〇番台になるものはない。

「なにこれ」

 本を抱え直し、本文を一気にぱらぱらと捲る。目次の次からは、病院のカルテのようなものだった。顔写真と、文章が並ぶ。馴染み深い顔立ち。アジア人の顔だ。

 あるページから、顔写真が赤子のものに移る。上の数字は、八〇五ー八〇六。やけに少ない文章量。後ろ半分はその調子で、白紙に近いページが続いた。

 本の前半にページを戻す。

 若い男性の写真。文に焦点を合わせると、ずき、と頭が痛んだ。適度な大きさで書かれた日本語の文字列は、私の目を通って、頭蓋骨の中に手を入れてくる。

 稲穂で黄金色に染まった田んぼと、手元にある籠。土の匂い。

 山の間に沈みかけている太陽。麻の着物の硬い感触。

 穏やかな風に、髪が揺れる。

 誰かの記憶が直接脳を劈いて、割り込んでくるような感覚。目の前に書いてある文字一つ一つが、私に語りかけてくる。

 気持ち悪さを吹き飛ばすように、勢いよく本を閉じた。

「ここで、物に触るのはやめよう」

 口を抑え、本を元の場所に戻す。膝に手をつき、重く長く、息を吐いた。

「うん。それがいいよ」

 突然、横から声が飛んできた。え、と呟いて、横を見る。そんなに時間は立っていないのに、誰かの声を聞いたのが、ひどく久しぶりに思えた。

「君、さっき覗いてきた子だろう? なんだか、すごいいろいろべたべた触ってたいけれど、あんまり良くないよ。危険かもしれないじゃあないか」

 そこにいたのは、私よりも少しだけ背の低い女性だった。

 腰まで伸びる長い黒髪を、緩く太い三つ編みにまとめている。上背があるわけでもないのに幼く見えないのは、その顔に、軽く化粧が施されているからだろうか。

 生成色のブラウスと、半球状にパニエで膨らませた、緑と茶色のチェックのジャンバーワンピース。スカートから伸びる脚は、黒地に白で海月が書かれた、可愛らしいタイツが覆っている。足元には、鈍く光る、低いヒールの革靴。

 両手には、子山羊の革を使った白い手袋が嵌められ、先程私が開いたのと同じような本が抱えられていた。

「特にここは、あんまり読むのに向いていないよ。折角来れたんだから、せめて楽しんで帰りなさい」

 女性は、右手で空中を指差すと、軽く時計回りに回す。その動きに合わせ、私の背が、勝手に、ぴん、と伸びた。

「ついてきなさい」

 そういうと、女性は軽い足取りで、歩き始める。荷物を拾い、よく分からないまま、私はその後を追った。

 女性に連れられ、しばらく経つと、大きな広場が現れた。真ん中に、木製の丸い机と、二脚の椅子が置かれていた。机の上では、アンティーク調の陶器のティーポットと、セットと思われるカップが二つ並んでいた。

「どうぞ」

 椅子の一脚の背を持ち、女性が引く。慌てて駆け寄り、腰掛けた。赤いクッションが、柔らかく私の体を支える。鞄を横に置き、角を机の上にのせた。

 女性が、角を一瞥する。

「それで、お客人は、どうしてここにいるのかな」

 向かい側の椅子に座りながら、女性がそう言った。持っていた分厚い本を机の上に寝かせる。両手を顔の前で組み、顎を乗せた。

「えっと、雄鹿を追っていたら、いつの間にか……」

「雄鹿を」

「……はい」

 ふむ、と女性は右手をくるり、と回す。そのまま手を上にむけ、本棚の奥に向かって手招きをする。

 向こうから、軽い足音が聞こえてきた。

「その、君の言う雄鹿って言うのは、この子かな?」

 女性の言葉と同時に、あの雄鹿が、女性の足元に走り寄ってくる。女性は、雄鹿の頭をするりと撫ぜた。鹿は後ろ足で立ち上がると、咥えていた単行本を、そっと机の上に横たわらせた。

「私の本!」

 両手を机に置き、勢いよく立ち上がる。ここまで来た目的を忘れた訳ではないのだ。その本を追って、ここまで来たのである。

 手を伸ばすと、女性が、私の手が届く前に、本を取り上げてしまう。

 私の声に驚いたように、雄鹿が走り去った。本棚の影に、身を隠す。

「生憎だけど、これはうちの本だよ。君のじゃない」

「いや、私の本ではないですけど。その本は絶対、うちの図書室の蔵書のはずです!」

「図書室?」

 女性は顎に手を当て、ああ、と呟いた。多恵子さんのところの、と続く。知らない名前に、首を傾げた。

「多恵子さん? 誰ですか?」

「ああ、いや。知らなくていいんだ。ともかくね、これは、元々うちの本だったのだよ。昔、時間的には六十年くらい前かなあ、ここに来た人に貸したのだよ。今日取りに行くと決まっていたから、取りに行ったというわけさ」

「そんなことを言われましても……それが本当だったとしてですよ、六十年間はうちの本だったわけですし」

 眉を寄せる。納得していない様子の私に、女性はぐらぐらと頭を揺らし、ぐぬぬ、と唸る。そもそも、目の前の女性が六十年も生きているとは、とても思えなかった。

 そこまで考えて、はて、と思う。

「あの、その本のことは置いておいてなんですが、そもそも、ここはどこなんでしょうか」

「ここ? ここは図書館だよ。それで私は、ここの管理人。司書みたいな仕事をしているんだ」

 どうやら、この女性は、ここの管理人らしい。管理人さんは、口角をあげ、にまりと笑った。革表紙をなぞり、上に、単行本を重ねる。

「はあ。いやあの、ここが図書館だって言うのは、分かるんですが」

「じゃあ何が疑問なんだい」

「……どう考えても、おかしいじゃないですか。大体私は、学校の地下に、こんな場所があるなんて、知らなかったのですが」

 周りを見回すと、煌びやかに光る内装が見える。左手の奥には、私が入ってきた扉のある壁が見える。しかし右を見ても、その先は、永遠に続いているようにしか見えない。

 こんな建造物が、実際にある訳がない。しかも外は、あんな様子だ。

「そう言われると難しいなあ」

 管理人さんは、目の前に置かれたティーポットを掴むと、ゆったりと、カップに向けて傾けた。注ぎ口から、ゆったりと、栗色の紅茶が溢れ出す。カップの七分目まで注がれた紅茶を、前に差し出される。

 視線を落とせば、自分の顔が反射して、こちらを睨み返していた。

「ここはね、全ての知識の集まる場所なんだよ。どこにも繋がっていない代わりに、どこにでも行くことができる。いつでもない代わりに、永遠を見ることができる。ただずっと、人類の全ての記録を保存し続ける」

 ファンタジーだよねえ、と言いながら、管理人さんは自分の紅茶にミルクを注いだ。

 私も、続いてミルクを流し込む。白が茶色の中に、緩慢に侵食し始めた。八分目まで注がれた液体を、スプーンでぐるぐると混ぜる。

 マーブル模様はすぐに均一にならされ、私の姿は、もう写り込まない。

「君も、本を一冊、開いたから分かるだろう? ここには、世界の全てが記録されている。もちろんそこには、人の人生も含まれる」

「……私は、帰れるんですよね? その、多恵子さん、とやらも帰れたんだから」

「うん。そこは心配しないでいいよ。そもそも、ここは異物を受け付けない。君も、すぐに送り届けられるだろう」

 管理人さんは、にこりと笑うと、雄鹿から貰った本を持ち上げた。両手で、閉じた本を、ぎゅっと力を込めて圧迫する。すると、本は光り、一枚の紙に姿を変えた。

「おかえり」

 呟くと、管理人さんは、おもむろに、元々持っていた革表紙の本を開く。先程の紙を摘み、見開きの間に寄せると、紙は吸い付くようにページの間に収まった。ページの端が滲み、ページ数が二つずつずれる。

「これで、私の仕事は終わり」

 本を閉じ、机に寝かせる。カップを持ち、紅茶を一飲み。

「その鍵が、ここに訪れるための対価だね。いただくよ」

 管理人さんが、私のスカートのポケットを指差す。私は、ポケットから慌てて鍵を取り出して、机の上に置いた。管理人さんが、鍵を人差し指で叩く。鍵は、ゆったりと形を解き、煙になって、天井に登っていった。

「でも、君にはまだ役目がありそうだ」

「え?」

 こちらを、管理人さんの瞳が真っ直ぐ突き刺す。視線を、机の上に置かれた角に滑らせた。対の角が消えても、淡い光を放ちながら、確かにそこにある。

「君はもう一度、ここに来る。そう決まっているからね」

 管理人さんが、ぱちん、と指を鳴らす。すると、机の上の角は緩やかに振動しながら、先程のものと似た鍵に、姿を変えた。

 ただ違うのは、鍵山がないことだ。

 鍵山がない鍵というのは、どうにも間抜けで、不完全さが目立つ。

「そちらの鍵は、渡しておこう」

 管理人さんの人差し指が私を指すと、鍵は、私の左手に近付く。鍵は再度光ると、溶け込むように、その中に入り込んだ。

 開くと、手のひらに、藍色の四芒星が浮かび上がる。

「な、何ですか。これ」

「鍵だよ。使い方が分かったら、またおいで」

 管理人さんが立ち上がり、こちらに歩いてくる。私の前で立ち止まった。管理人さんの体から伸びる影が、私の体を覆う。

「ま、待ってください! 私、もう一度ここに来る気なんて」

「世の中に、偶然なんてない。全て必然で、決まった道筋で、運命だ。そして、君はもう一度ここに来る。そう定められているから」

 私の言葉を遮って、管理人さんがそう言った。腰をかがみ、私の頭を撫でる。毛並みに沿って、髪を梳かすように、丁寧に、ただただ優しく。

 突然、鐘の音が鳴り響いた。

 頭に置かれたままの手を払い、管理人さんを見上げる。管理人さんは、本棚の奥を見つめると、微笑んで、私に向かって、口を開いた。

「またね。おやすみ」


 そうして私は目を覚ます。

 やや硬いマットレス。柔らかい寝巻きの肌触り。カーテンの隙間から漏れる、桃色の朝日。いつも通りの朝。

 目覚まし時計がなるまで、あと、二十秒。



「それで、朝起きたんだよね」

「随分クオリティーの高い夢だね」

 私の言葉に即座に返したのは、同じクラスの由良だ。私と由良は、悪友というか何というか、意味もわからずよく一緒にいる、何とも言えない関係だ。同じ理系選択者で、中学一年生の時から、ずっと一緒に図書委員をやってきた。友人が少ないからか、大抵、昼休みは二人で食事を取る。

 机を向かい合わせに付け、お弁当箱の中をつつく。中央に鎮座するミニハンバーグを、箸で割いて、口に放り込んだ。

「絵描いたら? 描けそうじゃん」

 おかずカップに入ったきんぴらごぼうを漆塗りの箸でつつきながら、由良がそう言う。

 味噌焼きにされた小さな鯖と、きんぴらごぼう、卵焼き、いんげんの胡麻和え。最近料理にハマったという由良は、ここ最近、妙に凝った弁当を持ってくるようになった。

「……いいよ。そういうのは」

「前は出してたじゃん。何回かコンテストとかにも出して、賞も貰ってたし」

 由良の言う賞というのは、うちの自治体で開いている、中高生対象の絵画コンテスト、それに入賞したことだ。

「今は勉強しなきゃだし。もう、終わったことだよ」

 ハンバーグを飲み込み、そう返す。窓の外を見ると、昼食を終わらせた下級生が、校庭を駆け回っている。

 生温い空気に、小鳥が鳴き出し、若葉が瑞々しく太陽光を反射した。

 私の通う学校は、昔ながらの女子校だ。由緒正しき校風に、自然に囲まれた校舎。木々が生い茂るアプローチと、小さな裏山。暖かい春の到来に、山全体が喜んでいるようだった。

「そういう発言は良くないよ。自分の過去の発言と行動に、真に意味を与えることができるのは、今と未来の自分だけなんだから」

「名言じゃん」

 真顔でそう言う由良に、揶揄うようにそう返す。乾き切った声だ。

 由良の方を見ないように、下に視線を落とす。由良の瞳は、たまに怖い。いつもはちゃらちゃらしてるのに、たまに、私の奥に語りかけてくることがある。

「文子の言葉だよ」

 由良の、よく通るメゾソプラノが、空中に溶け出す。視線を向けると、アーモンド型の茶色の瞳が、こちらを真っ直ぐ見つめている。真剣な表情。

 こういう顔に、私は弱い。へなへなと背中を丸め、お弁当箱の横に突っ伏す。

「そんなかっこいいこと、私は言ってない……」

「じゃあ、ちょっと美化したかも」

「なにそれ」

 くく、と喉を鳴らす。こうやって逃げても、私のことを放っておいてくれる。できた友人だ。

 外から風が頬を撫で、クリーム色のカーテンを揺らす。教室の中で思い思いに固まり、お弁当をつつく同級生たち。笑い声が辺りを包み、食後特有の、ゆったりとした感覚が、頭の回転を鈍くする。

 肌色だけの左の手のひらを見て、目を細めた。

「文子〜寝るな〜」

 旋毛を、由良の人差し指が押す。うん、と言って、体を伸ばした。残ったおかずとご飯を、口に運ぶ。

「今日は昼休みから実験だよ。五、六時間目じゃ終わらないって、先生言ってたじゃん」

「ああ……そうだったね。化学室だっけ。白衣、持って行かなきゃ」

 理系クラスは、こういうことがたまにある。二時間で収まり切らない実験を、昼休みと合間の休み時間を潰して終わらせるのだ。それ以外にも、定期テスト直近になると、補習として昼休みに召集されることもある。

 今日も、ちらほらと生徒が立ち上がり、移動し始めていた。

「ほら。食べ終わったなら、私たちも行くよ」

 由良は、風呂敷を結び、鞄の中にしまう。机の中から教科書と参考書、鞄の中から白衣を引っ張り出し、机に積み上げた。うん、と返す。巾着袋にお弁当箱をしまい、鞄に入れた。

 立ち上がり、由良の後を追って、廊下に出た。

 教材と白衣を、ロッカーから引っ張り出す。

「……文系はいいよねえ」

 ロッカーに背を寄りかからせながら、由良がそう言った。その視線の先には、教室側の壁に寄り掛かって談笑する、二人の同級生。足元には、学生鞄が二つ並んでいる。

「私たちとは、そもそも授業数が違うからね」

 高二で行われる科目選択で、文系と理系は授業数に変化ができる。文系が、水曜日と金曜日を除いて午前中で帰れるのに対し、理系選択者は、場合によっては月から土曜日までぱんぱんの授業数だ。

 うちの学校は、文系に関しては、推薦枠が大量にある。ほとんどが受験をする理系の方が、基本的には大変だ。

「やりたいこと、向こうにないし、仕方ないよ」

「分かってるんだけどさあ〜。文転、結局しなかったし。けど、なんか納得いかないよね〜」

「それは、そう」

 ばたん、とロッカーを閉じた。金属製の硬い音が鳴り、私たちの前を通り抜ける。由良を追い越し、化学室に足を向けた。

 化学室に行くには、一階まで下がらなきゃいけない。一番使うのだから、せめて二階にしてほしいものだ。

「私、受験やめることにしたんだ」

 階段の手前で、由良が口を開いた。突然の話題に、目を丸くする。

 由良は、高二で塾に行き始めた時から、ずっと推薦か受験か迷っていた。

 そういう壁にぶち当たった時、大体話を聞くのは私だった。だから今、こう言われても、思ったより衝撃は受けていない。

 私の学校が推薦枠が取れる大学の中には、普通に受験するのなら難関大学と言われるような大学もある。由良の成績なら、もっと上を狙えるから。それが、由良が受験組にいた理由だった。

「推薦にするの?」

 聞くと、うん、と声が返ってくる。からっとした、晴れた日の空のような声だ。ここ半年は、この話題をする時は、いつも重い声をしていたから、安心した。

「一般受けるつもりだったんだけど、なんか、推薦でも良い気がするしてきちゃったんだよね。推薦先の大学だって、普通に偏差値高いじゃん?」

「それはそうね」

「頑張ればもっと高いところ行けるだろうけど、わざわざそこに行く意味が分かんなくなってきて。別に、私がやりたいことは、ぶっちゃけどこでも出来るから」

 階段を下がる。右斜め前の、由良の顔を見る。すっきりした表情に、思わず、目尻が下がる。

「他にやりたいこととかあるの?」

「うん。まず、ここ一年くらい溜めてた本を読みたい。あと、大学がやってる高校生向けのスクールみたいなのがあるんだけど、それに参加しようと思うんだ。日程的に、受験勉強と両立が厳しそうなんだよね」

 楽しそうに語る由良に、肩の力が抜ける。友人が楽しそうにしているのは、嬉しいものだ。残り少ない高校生でいられる時間。悔いのないように過ごしたい。

 ただ、受験仲間の同志が減ってしまったのは、少し、心細かった。

「やりたいことがあるなら、いいんじゃない? やりたいことやるのが一番だよ」

「うん」

 いつもより、声のトーンが高い気がする。こういう時に、もっと素直に喜べれば、それがいいのだろう。けれどこれくらいの方が、多分、私たちには丁度いい。

 悩みごとの多い学生。毎回毎回真剣に考えていたら、疲れてしまう。

「あの、いろいろありがとね」

「何が?」

「文子はよく、私の好きにすればいい、やりたいようにすればいいって言ってくれたでしょう? 先生も両親も、そういうこと言ってくれたけど、文子の無関心が、私には心強かったよ」

 由良の言葉に、口をもごもごと歪ませる。純度の高すぎる好意や感謝を受けると、どうにも黙ってしまう。

「大したこと私はしてないでしょ。努力したのも、決めたのも、由良なんだから」

「……うん。私はやめちゃったけど、文子のこと、応援してるからね」

 早口で、由良にそう返す。これで、由良の進路相談に付き合うことも無い。

 果たして私は、由良のように、自分のやりたいことに向かって歩いて行けているのだろうか。

 絵を描くのをやめた時。科目選択で理系を選んだ時。受験を決めた時。ずっと、何かに流されているだけなような気がする。行きたい大学も学部も、学びたいこともあって、将来の夢だってある。多分、過去に戻れても同じ選択をすると思う。

 それでも、この選択が本当に正しかったのか、今でも自信が持てない。正体の分からない不安が、のったりと、背骨に棲みついている。脳の回転が遅くなる。

 由良は、自分で決めて、行動した。私は、どうだろうか。

 俯いて、足元を見る。

 ぎゅ、と教材を持つ指に力を込めた。

 化学室のある一階に着くと、段ボールを持った下級生が、大声を上げながら段ボールを抱えて走っていた。

「文化祭の準備かな」

「……ああ、文化祭。そっか、もう、準備始めてるのか」

 隣で、由良がそう言った。中学生が、ゴミ捨て場の段ボール置き場から、比較的綺麗なものを選んで、教室と往復する。

 クラス団体がこんなに早く準備を始めているわけがないから、多分、どこかの部活だ。

「後輩ちゃんたち、しっかりやってるかなあ」

 笑いながら、由良がそう言う。うちの学校は、高校二年生で部活動は引退する。由良は吹奏楽部に入っていたから、後輩たちのことが気がかりなのだろう。

 私は中学校で部活はやめてしまったから、去年は委員会だけでの参加だった。

「なるようになるよ」

「冷た! 図書委員長は、後輩のこと、心配じゃないの?」

「そういうのは……別に」

 図書委員会は、部活に比べて学年の縦のつながりが弱い。それに、私は一昨年、高校一年生の時、忙しいとかで一個上の先輩に責任者を放り出されていたから、引き継ぎ意識が薄かった。ちなみに、その先輩は、去年、よく図書室に来ては手伝ってくださったから、いいことにしている。

 この二年、私のぽんこつな指示に付いてきたのだ。あとは勝手に、後輩たちがなんとかする。

 私より、よっぽど優秀にこなせるだろう。

「困ったら、何か言ってくるでしょ。そん時は、手伝えばいいよ」

「ま、過干渉は良くないよね」

 懐かしいなあ、と言って、由良が後輩たちを眺める。壁を曲がり、化学室に歩いて行った。後輩たちに背を向け、その後を追う。

 文化祭の馬鹿騒ぎが、何だか、とても遠いものになってしまったような気がした。

「文子! そろそろ始まりそうだよ!」

 由良が、化学室の扉を押さえながら、そう言った。駆け足で向かい、化学室に滑り込む。扉を閉め、自分の席に向かった。


 実験を急いで終わらせ、先生が猛スピードで板書するのをノートに写していくと、二時間はあっという間に過ぎ、放課後。

 ぐい、と両手を伸ばし、凝った肩を鳴らした。

 由良は、今日は早い時間から塾があるらしい。私の授業は八時からなので、大分余裕がある。借りた本を返すために、図書室に向かった。右手の先で、本を入れたビニール袋が揺れる。

 美術室や音楽室、化学室などの特別教室に混じって、高校三年生の教室は、他学年と切り離され、東館に押し込まれている。

 そして、最短経路で行くなら、高校三年生の教室から図書室に行くには、美術室の前を通らなければならない。

 廊下を歩いていると、向かう方向から、上機嫌な口笛が聞こえてきた。見ると、美術室の扉が薄く開いているのが見えた。反対側の音楽室の扉は固く閉じられ、いつもの騒がしさはない。

 口笛の音は、どうやら、美術室の中から聞こえてくるようだった。

 ちらりと覗くと、見慣れた後ろ姿。蓮見だ。

「蓮見、まだ帰ってなかったの?」

 美術室の中に入り、蓮見に声をかける。突然聞こえてきた声に驚いたのか、勢いよく蓮見が振り向いた。

「あれ、文ちゃん? どうしたの? 竹井先生に用?」

 竹井先生というのは、美術の先生の一人のことだ。私たちの学年は、入学からお世話になっている。

「いや。蓮見が見えたから」

「へえ」

 筆をパレットの上に下ろし、蓮見が体をこちらに向ける。作業用の鈍い青色のつなぎに、雑に縛られた一つ結び。前には、学校の勉強机より一回り大きい、Fサイズの三十号のキャンバスが置かれている。昨日見た絵とは違うものだ。

 キャンバスの中には、丸い花瓶と、黄色と赤の花。白い花瓶の表面に、褪せた花の色が反射していた。下にひかれた麻布に、照明が緩やかな影を落とす。描き初めの、鮮やかな色彩の油絵の具が表面を跳ねた。

 これから蓮見の手によって描き込まれ、意味が吹き込まれる、できかけの命。

 視線を奥に滑らせると、白い陶器の花瓶と、生けられた花。ただそこには、キャンバスの中にあるような、特別な何かはない。絵描きの見たものを、感情を乗せたままに、本当の意味の、見たままを表現できるのが、絵のいいところだ。

 西日が、窓から、真っ直ぐ差し込む。

「順調?」

「え、う、う、うん。多分間に合うよ! 多分……」

 口をまごつかせながら、慌てて蓮見は答える。蓮見は、締切みたいなものに弱い。前も結局、完成が間に合わなくて、コンテストに出せなかった時がある。前回も、出せはしたが、本人にとっては、あまり満足のいくものではなかったらしい。

 歯切れの返事に、頭が痛くなる。系統は違えど、同じ受験仲間として、蓮見のこの曖昧な態度は、たびたび私の頭を悩ませる。お昼の由良との会話が、頭をよぎった。

「……昨日の絵は?」

「あ、あの、あれ? あれは、何というか、息抜きで描いてるっていうか……」

 蓮見の声が、だんだん尻すぼみになっていく。

 はあ、と息を吐く。蓮見の体に力が入る。

 蓮見には、連休、つまりゴールデンウィークまでに、この絵を描き上げるという目標がある。正確には、この絵を完成させて、油絵のコンテストに応募する、という目標が。

 やる、やっている、と言って他のことに逃げるのは蓮見の悪いくせだ。そのくせ、それを言及すると、途端に体を縮こまらせて、私は弱いからいじめないで、という雰囲気を醸し出してくる。そして次は、でも、と言い出すのだ。

 結果がなければ、どれだけ才能があろうが無かろうが、同じことだと言うのに。

「今度は、ちゃんと満足したもの出すんでしょ?」

「う、うん……」

 私がそう言うと、視線を逸らし、曖昧に笑う。はあ、と小さくため息をついた。蓮見は、ぎゅ、と筆を握り、視線をパレットに落とす。背中を丸めた。

「でも、私、あんまり頑張れないし……」

 くるり、と体をキャンバスの方に向け、蓮見がそう呟く。弱々しい声だ。

 唇を噛む。

 ほら、きた。これだから嫌なのだ。私は、まだ蓮見を責めていない。しかし、蓮見には、数週間後に、私に怒られる未来が見えているのだろう。なんでもっと早くやらないのか、と。

 そしてそれを、仕方ないと割り切っている。諦めている。努力することを放棄している。

 今から言い訳を連ねても、何の意味もないのに。

「文ちゃんは凄いよね。お勉強もちゃんとしてるし、委員会もこなしてるし、羨ましいな」

 いつもより早口気味に、蓮見がそう言った。パレットの中の絵の具を、筆先で混ぜ、キャンバスの上に落とす。それが、私の方を見ないための時間潰しなのは、誰が見ても明らかだった。

 無意識に、眉に皺を寄せる。言い訳に私を使われるのは、大変不快だ。

「蓮見だって、できるよ」

「そうかなあ」

「うん」

 努めて、いつも通りの声を出す。蓮見は、メンタルが弱いところがあるから。ここで私が怒ったところで、何にもならない。

 呑気な声で、蓮見はそう返す。

 踵を返して、扉に向かう。去り際、じゃあね、とだけ言い、扉を後ろ手に閉めた。

 ばたん、と、立て付けの悪い扉から、派手な音が響いた。

「何だ、あれ」

 古びた廊下の床を踏み鳴らしながら、図書室に向かう。蓮見のああいう、私が頑張れないのは仕方ない、みたいな態度が嫌いだった。

 私を特別扱いして、自分が普通みたいに語る口が嫌いだ。

 締切前に、辛い、死にたい、みたいなことをツイッターで呟くのも嫌いだ。やってもやっても終わらない、と言うツイートの三時間前には、ゲームの進捗を上げているのを知っている。

 定期テスト前に、絵が終わらなくてって笑うところも嫌いだ。成績よりも絵を取ったんだから、それを言い訳に使うなんて、情けない。

 いつまでも昔のままの蓮見が、嫌いだ。

 何でそんなにのんびりしているのか、意味が分からない。

 私たちはもうすぐ受験で、卒業で、高校生じゃ無くなってしまうのに。大学に行って、大人になって、しっかりした人間にならなきゃいけないのに、それを、全く分かっていなさそうな蓮見が嫌いだった。

 能力もあって、才能だってあって、何かになれるかもしれない。

 私になかったいろいろなものを持っているのに、それを無駄にするみたいな蓮見が嫌いだ。

 私は一杯一杯ですっていう顔をして、慰められるための発言をする。そんなことをしてもどうにもならないのだ。そんな生ぬるいものでは、蓮見を助けることはできない。縋るだけ、無駄と言うものだ。

 もっと頑張ってほしい。他の人間にはない、持って生まれた、今までの蓮見が育んできた、立派な才能があるのだから。

 能力がある人間は、それを世界のために振るわなければならない。これまで関わってきた人々のために。いつかそれに救われるかもしれない、誰かのために。未来のために。何よりも、自分のために。

 頑張れない、なんて弱音は聞きたく無かった。弱音を吐くほどの努力をしているのか疑問だった。その才覚に相応しい努力を、蓮見が献げているのか。

 私の前で、自分が一番辛いみたいな顔をするところが嫌いだ。自分が慰められるために、他の努力を見ないふりする姿勢が嫌いだ。

 私の前で、私を仲間と思って接して欲しくなかった。純粋に仲が良いと思い込まないで欲しかった。蓮見がいい奴なのは、十二分に分かっていた。呑気な言葉が、私を気遣っているものであることも、私のことを心配しているのも、痛いほど理解している。

 だから、そんな蓮見をただ好きになれない、私の性格が悪い気がして、それも嫌だった。

 中学三年生の時、私と蓮見が通っていた絵画教室が潰れた。都心では考えられないような、伸び伸びとした小さな森の中にぽつんと佇む、お伽噺に出てくるような一軒家だった。地主一家の高齢のお婆さんが、老後の楽しみに開いているようなもので、そのお婆さんが亡くなったから、その教室も閉じた。

 周りの森も、お婆さんの土地だったらしく、教室が潰れてから半年後、再開発とか何とかで切り崩された。

 蓮見はその後、大手の予備校が開いている画塾に入った。私は、勉強のために筆を折った。

 別に、蓮見への劣等感でやめたわけじゃない。それは違う。私は、自分の中で、勉強と絵を天秤にかけて、勉強を選んだ。そこに、蓮見への気持ちが含まれていても、それだけが理由じゃない。だから、後悔はしていない。

 それでも、絵を描き続けた蓮見が、ぼんやり生きてるのを見ると、むかついた。

 蓮見は、中学三年生の時のままだ。それを見ると、無性に、胸の奥がざわついた。

 美術室がある東館を抜け、図書室のある南館に向かう。屋外の階段を、三階から二階に下がる。力任せに足を踏み鳴らすと、金属の踏面が甲高い音を奏でた。乱暴な扱いに、右手のビニール袋が、がさがさと鳴く。

 図書室の前で、三回、深呼吸をして、息を整える。

 重い扉を開けて、図書室に入った。

 カウンターにいる図書委員に本を渡していると、事務室の中で、司書さんが三人、立ち話をしているのが見えた。ガラス張りになった事務室の中には、常に司書さんが最低一人控えている。

 司書さんたちは、少し焦ったような様子で、タブレットで何かを確認しているようだった。

「どうしたんですか?」

「ああ糸巻さん。あのね、本が一冊、無くなってしまったみたいなの」

「……え?」

 司書さんの一人が、困ったような声でそう言った。私の声は、司書さんたちには、ただ驚いたように聞こえたと思う。その予想に反し、私の脳味噌は、必死に、今朝の夢を思い出していた。

 随分クオリティーの高い夢だね、と言う由良の言葉が、耳の奥で囁く。

 左手に、軽く力を込める。

「どういう本ですか?」

「えーっとねえ、これくらいの厚みで、深緑の表紙の単行本よ。随分昔からある本で、今は誰も借りないから、そろそろ倉庫に移してもいいかと思っていたのだけれど」

 今日の朝来たら、無くなっていたの、と続ける管理人さんに、左手が震える。

 その本はおそらく、昨日見たあの雄鹿が、持って行っていた本だろう。その本が、実際に無くなっていた。あの鹿が、持って行ってしまったからだろうか。だとすると、あの図書館での出来事も、夢ではなく、現実、ということになる。

「まあ、年に数冊は、無くなってしまう本があるから、糸巻さんも、あまり気にしないで」

「はい。見つかると良いですね」

 そう言いながら、多分見つからないだろう、と心の中で呟いた。もしあの体験が現実のものだったのなら、本は一生戻らない。

 司書さんたちに別れを告げ、図書室を出た。

 背中を図書室の扉に預け、昨日雄鹿を見た地面を、横目で睨む。閉じたままの左手を、ゆっくりと開く。

 手のひらに、四芒星の模様は、ない。

 その手で、顔を覆う。何を馬鹿なことを考えているんだろう。そんなファンタジックなこと、あるわけがないのに。本がなくなったのも、偶然だ。もしかしたら、昨日図書室に行った時、そこの本がなくなっていることを、無意識で気づいていたのかもしれない。

 帰ろう、と呟き、教室に戻るために歩き出した。早く塾に行って、忘れてしまいたかった。

 教室に帰るには、美術室を横切らなければならない。はあ、とため息をついて、階段を上がる。金属製の踏面は、どれだけ気をつけても、甲高い音を立てる。

 ぱたぱた、と誰かが走り去っていく音が聞こえた。聴き慣れた音は、学校指定のローファーが奏でたものだ。

 三階に上がってしまえば、すぐに美術室を視界に収めることができる。

 雨風で錆びた手すりを撫で、段差から顔を覗かせる。

 薄暗い廊下に、美術室の半開きになった扉から、明かりが漏れ出していた。鉛色の床に、平行四角形の光が落ちる。私が美術室を出てからまだそんなに時間は経っていない。蓮見だろうか。

 なら好都合と、少しばかり慎重に、美術室の前の廊下に進む。

 廊下の左手。美術室側の壁には、部員や、元部員の作品が飾られている。丁寧にガラスケースに入れられたそれらは、何年も何十年も、そこで生徒たちを見守っている。

 壁も有限なので、部員の作品は頻繁に入れ替えられる。その隅に昔、私の絵も置かれていた。

「待って! 文ちゃん!」

 開けっぱなしの美術室の扉から、私の名前を呼びながら、びゅん、と蓮見が飛び出してきた。私の中では、蓮見はとうにどこかに行ったことになっていたので、目を丸くする。

「いた! 文ちゃん!!」

 美術室の前で左右に頭を振ると、蓮見はすぐさま私を視界に収めて、突撃してくる。私と蓮見の間には、五メートルくらいしか距離がない。逃げやしないのに。

 蓮見が私の半歩前で急停止をする。

 勢いに押されて、右足を一歩下げた。それを追うために、蓮見が左足を一歩踏み出す。

「私ね! 文ちゃん!」

「ああ、うん。うん、何? 蓮見」

「私、文ちゃんみたいにしっかりしてないけど、でも、頑張るから!」

 いつもの困り眉をぎゅ、と寄せて、蓮見がそう言った。両拳を握りしめて、肩幅に開いた足にも、やけに力が入っていた。

 蓮見が横を見ると、口を一文字に結ぶ。息を深く吸う音がした。真っ黒い目に、困惑する私の顔が映っている。

「頑張れるようになるよう、頑張るから!」

 がつん、と後頭部を殴られた気分だった。

 明らかに、私が先程あった時の蓮見とは何かが違った。

 私は、こんなに真っ直ぐにものを見る蓮見は知らなかった。控えめに目を伏せて、猫背気味に、長い前髪で顔を隠す。それがいつもの蓮見の姿で、そもそも蓮見は、私に真正面から何かを言ったことなんて、ほとんど無かったはずだ。

 言葉にならない違和感が頭の中を一杯にする。

 ほんの数分で、蓮見が、全く知らない何かになってしまった気がした。

「じゃあ! 私! 竹井先生探してくるから!」

「え、ま、待って、蓮見」

「進路相談してくる!」

 言い切った、という様子で、蓮見は廊下を走り去って行った。力なく伸ばした私の手は空を切る。

 よろよろと手を下げて、蹲る。とても疲れていたのだと思う。

 横を見ると、視線の先にある絵は、蓮見のものだった。

 何が何だか分からなかった。由良も、蓮見も、よく知っている友人たちのはずだった。今日だけで、彼女たちが手の届かない人間になってしまった気分だ。

 上手くいっていない。息苦しい。

 私は今まで、自分の力で選んで進んできたはずだ。それなのに、なぜか、そう。突然、置いていかれたようだった。どこかで間違えたのだろうか。

「どうすればいいのよ……」

 唇を噛む。もうぼろぼろだ。

 立ち上がると、ガラスケース越しに、蓮見の絵をなぞった。指紋と埃の白んだ汚れの向こうに、ガラスが、薄く私を反射させる。

 蓮見の絵の中には、私にはない世界があった。見上げると、額縁の中に収まった一頭の蚕。飛べない羽に、太陽の光を鮮やかに灯らせている。

 滑り下ろすと、ガラス越しに、右手が見えた。

「あ?」

 ガラス越しの向こう、左右逆になった、右の手のひら。その中に、くっきりと、四芒星が見えた。

 絵から手を離し、直接手のひらを見る。先程まで無かったのが嘘のように、当たり前の顔をして、藍色の紋様は、私の手に刻まれていた。

 ばたん、と煩い音が、前から飛んできた。振り向くと、開いていた美術室の扉がしまっていた。

 全ての知識が集まる、そう嘯く管理人さんの声が蘇る。

 そう定められているから、そう囁く管理人さんの声が、耳の奥で、ぐるぐると回る。

 ならば、あそこでなら、分かるのだろうか。私のことも、今までの私が正しかったのかも、私がこれからどうなるのかも。蓮見のことも。

 おぼつかない足取りで、美術室の扉に向かう。導かれるように、扉の取手に手を伸ばした。

 美術室の扉の握り玉を強く掴む。

 右手の手のひらが熱く光った。

 取手から広がりながら、鍵穴の周りに、四芒星と円でできた幾何学模様の焼印が浮かび上がる。

「行けると言うなら、私を、連れて行ってみせろ。あの場所に、もう一度!」

 鍵穴の中に、鍵山のない長い軸がはまり込む。四芒星が刻まれた頭が形作られる。左手で摘み、右に回せば、軽い力で、かちり、と解錠された。

 握り玉を捻り、扉を手前に開く。左手にかけていた学生鞄が、滑り落ちた。ああ、後で回収しないと。

 扉の向こうから光が溢れ出し、周りの景色が、白く飛んだ。



「やあ、一日ぶりだね」

 意識が戻ると、管理人さんが、後ろに手を組み、私の前に立っていた。後ろを見ると、木でできた扉。色のついた磨りガラスに阻まれて、扉の向こうを見ることはできない。

「座ったら?」

 いつの間にか進んでいた管理人さんが、目の前の机と椅子を指差して、そう言った。

 周りを見回すと、前に来た図書館と違う場所なことが分かる。

 ここは、図書館というよりも、書斎、と言った方が近い印象だった。教室にすっぽり収まる大きさの円形の床に、本棚で敷き詰められた壁。天井は見えない。大量の本に囲まれているという点では、あの図書館と大差なかった。

 円柱形の壁に沿うように、大きな弧を描いて螺旋階段が取り付けられている。定期的に設けられている踊り場には、休憩用の調度品が置かれていた。

 光原の分からない光は太陽のそれに似ていて、部屋を隅々まで照らす。

「失礼します」

 そう言って、管理人さんの指した椅子に腰掛ける。部屋の中央には、重厚な、それこそ中世の貴族が使っていそうな木の机と、その前に置かれたローテーブル、背の低いソファが置かれていた。

 管理人さんが、向かいのソファに腰を下ろす。机の上に置かれた時計を見ると、三本の短針に、二本の長針。その下を、三本の秒針が、それぞれ違う忙しなく回っている。

 前に出されたものと同じ紅茶用の一式が、ローテーブルの上に並べられた。

「それで君は、何のために来たのかな。図書館は、知識欲と好奇心のある者のみに開かれる。君がここに来たのも、どうしても知りたいことができたからだろう?」

 管理人さんが、落ち着いた口調でそう言った。カップに紅茶を注ぎ、レモンを浮かべる。新鮮な黄色の断面が、太陽のようだった。

 息を、浅く吸って、吐く。

「私が正しかったのかを、知りにきました。ずっと、後悔しないように行動してきたつもりです。未来の私にとって最善の道を取れるように、って。でも、でも、何かを間違えているような気がしてならないんです。どこかで、選択を間違えたんじゃないかって」

 それを聞くと、管理人さんは、ふむ、と呟き、それは難しい疑問だ、と続けた。ポットから茶葉を取り出し、水気を切って、お皿に乗せる。

 顔を上げて、私に焦点を合わせた。

「君の言う正しさと言うのは、どういうものなのかな。将来お金持ちになること、有名になること、健康に長生きすること。世の中にはいろいろな考え方がある」

 管理人さんは、こちらに視線を合わせたまま、しかし、私のことは見ていないようだった。古い昔を懐古する、灰色の瞳。

 この図書館は、どこでもなく、いつでもないと、前に管理人さんは言っていた。

 ならば、今ここにいる彼女は、一体何なのだろう。

「正しさと言う概念が、この図書館には存在しない。ルールに則さない、という間違いはあるけどね。それも含めたあらゆる事実が陳列され、その価値は均一だ。だから、君の言う正しさは、ここには存在しない。図書館には、知識はあれど意思はない」

 管理人さんの指が、ローテーブルの表面を撫でる。新品のように綺麗なそこに刻まれた傷を一つ一つ数えるように。

「私はね、正しさなんてものは、本当は存在しないと思うんだ。何かに正しさを与えるのは、いつだって人間だった。だから私は、君のその質問に、答えを用意することができない」

「そう、ですか」

 太ももの上に置いた手を握りしめた。制服の硬い生地に皺がよる。唇を噛んだ。

「でも、お手伝いはしよう」

 管理人さんが、指をぱちん、と鳴らした。光の粒が宙を舞い、薄いベールになって、私の前に揺蕩う。浮かんでいたそれは、私が手を伸ばすと、輪郭を持った何かに被さるように、ただの布に形を変えた。

 布を払うと、革表紙の本。表紙に何が書かれているのかは分からなかった。ページの真ん中あたりに、栞が挟まれている。

「その本は、今君が一番欲しい記録に繋がっている。それを得て、君自身が、よく考えなさい」

 恐る恐る、栞のページを開く。隙間から、暑い光が溢れ出した。蝉の鳴き声が聞こえる。乾いた空気が手を伸ばし、私の目を覆った。

 今度は頭痛が襲うこともなく、私は、そのまま目を閉じた。

 瞬きをすると、私は、炎天下のコンクリートの上に立っていた。じわじわと暑さが表皮を襲う。私は、ひどくゆっくりとした動作で、家の影に入った。

 ブレザーを脱ぎ、ブラウスの裾を捲る。

「ここ、どこだろ」

 ふらふらと歩き出す。影の中を泳ぐ魚のように、日陰と日陰を渡り歩き、目的地も分からないまま前進する。

 救いなのは、辺りの様子を見るに、ここが現代であることだろう。真夏である以上、完全に同じ時間ではないだろうが、少なくとも、私の生きている時間と近いところに位置しているはずだ。

 上を見れば、群青色の空に、少し傾いた太陽。まさに、晴天の夏、といった様子だ。

 しばらく歩き回ると、公園に辿り着いた。ベンチ目当てで、足を踏み入れる。公園の半分ほどに、大木が影を落としていた。へたばりかけた足を何とか動かし、ベンチに向かう。

 しかしそこには、先約がいたようだ。小さな公園に一つだけ設置されたベンチ。その上には、小学二年生ほどの背丈の女の子が座っていた。ぱんぱんのランドセルに、道具箱が押し込まれたサブバック。

 なるほど、今日は一学期の終業式だったのだろう。そうだとすれば、この猛暑にも説明がつく。

 女の子に向けていた視線をすぐに逸らし、三人掛けのベンチの左端に座った。半分以上を、少女と荷物が占領していたので、できるだけ端による。

 どっかりと座り、深く息を吐いた。次々に流れる汗を、ブラウスの袖で拭う。

 上を見ると、翠色の葉と、その隙間に、白いお腹の小鳥が動いているのが見える。ぴっぴ、と鳴き、枝と枝の間を跳ねる。

 ぴゅー、と口笛を吹いた。小鳥たちは一瞬こちらを向くと、すぐ葉の影に隠れ直してしまう。

「ねえ」

 突然、左から、高いソプラノボイスが飛んできた。声変わり前の、幼い声。どこか聞き覚えがある声だった。

「お姉ちゃん」

「えっと、私?」

「そう」

 横を見ると、女の子がこちらを見て、目を輝かせていた。小さな指でこちらを指差し、ねえ、と続ける。

「お姉ちゃんって、どうやって口笛吹いてるの?」

「口笛?」

「うん。今やってたじゃん」

 女の子のお目当ては、どうやら私が先ほどやった口笛だったらしい。女の子は、自分の荷物を押し退けて、こちらに、ぐい、と顔を寄せる。

 仕方ない、と小さく息をついた。

「えっと、まず、舌を、下の前歯の真ん中に軽く押し当てる。付け根とか端じゃなくて、真ん中ね。あんまり力はかけないで」

 女の子が、舌をべ、と出し、口の中に引っ込めた。声をうまく出せないのだろう、こちらを見て、続きを催促してくる。

「そしたら、上と下の歯を一センチくらい開ける」

 口をもごもごと動かし、女の子が視線を私に戻す。

「それで、唇をちょっとすぼめる」

 蝋燭の炎を消す時ぐらいでいいよ、と続けると、女の子は、突き出した口を引っ込めた。縦長の楕円の隙間が唇にできる。

「ゆっくり息を吹いてみて」

 そう言うと、女の子は、目をぎゅっとつぶり、力一杯息を吐いた。あんまり力を入れても意味ないから、と言葉を続ける。

 口笛を軽く吹き、手本を示す。女の子は、ぎゅ、と眉に力を込めると、ゆっくりと息を吐いた。

 ひゅーと軽い音が、空中に溶けていく。

「鳴った!」

 女の子は嬉しそうにそう言う。もう一度吹こうと唇を尖らせるが、乾いた空気の音が宙を転がるだけだった。

「いきなり上手くいったりはしないよ。けど、練習すれば、私より上手くなるよ」

「本当?」

「私は、こんなに早くできるようにならなかったよ」

 そう言うと、女の子は胸を張って、自慢げな顔をした。小さい子供特有の、自己肯定感マックスの表情だ。

 ふと、疑問が湧いてくる。

「どうして口笛吹けるようになりたいの?」

「クラスの男の子がね! 自分は吹けるんだぞって、馬鹿してくるの! だから、あたしの方が上手くなって、見返してやるの!」

「そっかあ。でも、知らない人に話しかけちゃいけないよ」

 女の子は、右手を掲げると、憤慨そうな様子で、空中で腕をぐるぐると回す。可愛らしい感情表現だ。

 私の言葉に、女の子は、黙り込んだ後、うん、と呟いた。

 葉の隙間を抜け、夏の日差しが、まだらに木陰を照らす。少し休んだことで、頭がすっきりしてきた。私はここで、自分がなぜここに来たのかを探索しなければならない。

 私が一番欲しいと思っている情報とやらがどんなものなのか、興味もあった。

 よいしょ、と言って、ベンチから立ち上がる。ブレザーを腕に引っ掛けた。

「ちょ、ちょっと待ってよ。お姉ちゃん」

 軽い力で、左腕を引かれる。振り返ると、案の定、先ほどの女の子が、身を乗り出し、私の手首を掴んでいた。汗ばんだ、しっとりとした肌が張り付く。

「……お嬢ちゃん。知らない人と話ちゃ駄目だって……」

「お姉ちゃんは、口笛教えてくれたから、知らない人じゃないもん」

 ここで、この女の子に付き合う理由は、私にはなかった。

 ただ私は、ここがどこなのかも、いつなのかも分からない上、何をすればいいのかも分かっていない。しばらくの間、この女の子に付き合っても、良いような気がした。

「それで、お嬢ちゃんは、私に何の用かな?」

 ベンチに座り直し、女の子にそう言った。ランドセルに置いていた手をどけ、姿勢を元に戻す。地面についていない足をぶらぶらと揺らし、おもむろに口を開いた。

「あのね、お姉ちゃん。あたしね、九月に引っ越すの。それで、ママが、引っ越した先でね、何か習い事始めないかって」

「うん」

「ママは、英語とか、水泳とか、ピアノとかに行って欲しいんだって。でも、あたし、全部あんましって言うか」

 歯切れの悪い声で、女の子はそう言う。その内容を聞いて、私は、なぜこの女の子が私のような知らない人間に話を振っているのか、納得した。

 おそらく、話し相手がいなかったのだろう。問題の元である両親に話す訳にもいかないし、学校や学童の先生では、親に話が行くかもしれない。そして同級生の友達では、この女の子の満足の行く回答ができなかったのだろう。

 それにしても私は、相談されることが多すぎじゃあないだろうか。由良にしても、この女の子にしても、もっと他に適任がいる気がしてならない。

「お嬢ちゃんは、他に好きなことがあるの?」

「うーん……お絵描きが好き!」

「なら、習い事には、別に行かなくていいんじゃないかなあ」

 私が聞くと、女の子は、数秒首を傾げた後、大きな声でそう返した。

 お絵描き、という単語に、懐かしさが浮かび上がる。絵を描くことが、自身の表現でも技術の表明でもなかった頃、それはもっと自由な行為だった。

「そうなの?」

「私は親じゃないからよく分からないけれど、そういうのって、好きなことを見つけるためにあるんじゃない? 好きなこととかやりたいことあるなら、それでいいと思うな」

 夏の、乾燥した風が吹く。生暖かい空気は、肌を冷やすには力不足だ。

 汗で湿った肌が、風に当たって気持ちいい。

 小学校以来、公園で誰かと駄弁ったことなんて無かった。火照った肌と、うるさい蝉の声。昔は毎日と触れていたそれらが、今はとても懐かしい。

「好きなことして、のんびり頑張れれば、それが一番いいよ」

 嫌々やってもいいことないよ、と続け、女の子の頭を撫でる。ところどころ絡まった黒髪を軽く梳かし、整える。

 そんな私を見ながら、女の子が聞いてきた。

「お姉ちゃんも、絵描いてるの?」

「うーん……私は、やらないといけないことがたくさんあるからなあ」

「やらなきゃいけないこと?」

「勉強とか」

「勉強なら、あたしもやってるよ!」

「お姉ちゃんがやってるお勉強は、もっと難しいんだよ。まあ、子供には、よく分かんないかな」

 思えば昔は、歌うことも走ることも、遊ぶことも、勉強することも、ずっと気楽なものだった気がする。気が向いた時に初めて、飽きたらやめる。自分が楽しいかが唯一の基準で、その行為自体に価値があった。

 今は違う。

「お姉ちゃんだって、まだ子供じゃん! 未成年でしょ? あたし知ってるよ!」

 女の子がそう言って、胸を張る。未成年、という単語だけ、妙にたどたどしい。覚えたて、といった様子だ。

「残念。お姉ちゃんは、もう成年なんだなあ」

「うっそだあ! お姉ちゃん何歳?」

「十八歳」

「未成年じゃん!」

 女の子のその言葉に、え、と言葉を漏らす。ちらりと横を見ると、ピンク色の鍵盤ハーモニカがベンチの上に横たわっている。

 鞄の布がずれ、名前シールが見えた。

 妙にぐねぐねとした文字で書かれた、2ー1はすみえり、という文字。

「お姉ちゃん?」

「……うん。いや、そうだね、まだ、未成年だ」

「ほら! お兄ちゃんがこないだ言ってたもん」

 体を倒し、右手で顔を覆う。うん、と、力弱く答えた。

 ああ、と声が漏れる。

 なるほど、目の前の女の子は、幼少期の蓮見絵里らしい。私と蓮見が初めて会うのは小学二年生の秋なので、この蓮見は私のことを知らないことになる。それなら、私がここに連れてこられたのも、一応、納得というものだ。

 この頃私は内気で、絵画教室でも一人ぽつんと絵を描いていたと思う。小さい教室で、同学年の友達なんて作れなかった。

 だから、最初に蓮見が教室に来た時は、嬉しかった。

「ねえお嬢ちゃん。お嬢ちゃんは、毎日楽しい?」

「うん! お姉ちゃんは楽しくないの?」

「あんまり」

 俯いたまま、蓮見にそう聞く。蓮見は、すぐさま元気な声で肯定を返した。いつでも蓮見は元気で、楽しそうだった。横にいて、私が不機嫌そうな時は、慰めようとしてくれた。

「それは良くない! お姉ちゃんは、帰ったらお昼寝すると良いでしょう!」

「なにそれ」

 蓮見が、名案とばかりに、私にそう言った。ちょっと的外れな助言をするところは、今も全然変わらない。蓮見の助言は、いつもあまり役に立たない。それでも、必死に考えてくれているのは、よく分かっていら。

「あのね、お昼寝するとね、嫌なことをね、バクちゃんが食べてくれるんだよ。だからいっぱい寝て、起きたら、美味しいものを食べるといいよ。イチゴとか、スイカとか、メロンとか!」

 蓮見は、いつも能天気だ。思い返せば、蓮見が最初に教室に来た時も、絵の具セット全部家に忘れて、年が同じ私が貸したんだっけ。

 呑気に、ありがとう、と返した蓮見の顔を思い出す。

「それで起きたら、きっと楽しいことがいっぱいあるよ」

「そうかなあ」

「絶対そうだよ」

 蓮見の小さい手が、私の頭の上に乗せられる。髪の流れを無視して、かき混ぜるように頭を撫でた。杜撰で、繊細さなんて感じられない手付き。ただ、優しさだけは分かった。

「うん。そうだね、ありがとう」

 顔を上げて、蓮見にそう言った。

 途端、ふわり、と体が浮く。昨日の蓮見との会話を思い出した。

「う、うわ、お姉ちゃん!?」

「わ! 蓮見、ちょっ、や、やめて! 脱げる!」

 蓮見が、浮かんだ私のスカートの裾を掴んだ。ウエストで引っ掛かっているだけのスカートのホックが、みしり、と嫌な音を立てる。

 私の言葉に、蓮見が、え、と呟いた。

「お姉ちゃん、私の名前なんで知ってるの?」

 驚いたからか、蓮見の指から力が抜ける。錘を無くした私の体は、徐々に空中に完全に浮かび上がる。足が地面から離れ、手が空を切る。

 水素の入った風船のように、私は空中を浮遊する。

 蓮見は、衝撃に目を丸くして、こちらを見上げていた。

「あのね、蓮見。蓮見はさ、これから絵、上手くなるよ。だから、頑張ってね。私、応援してるから!」

 最後の方が、蓮見に聞こえたかは分からない。

 私の体はだんだん加速して、凄まじい速度で上昇していく。

 耳元で、空気が擦り切れる音がする。強い風に目を閉じた。片手に持っていたブレザーが、風に攫われた。

 目を開くと、上空写真でしか見たことのないような光景が広がっていた。地面が遠い。

 視線を横に滑らせると、都心の中にぽつんと広がる、小さな森。数ある緑の中で、そこだけが、やけに目についた。

 私は知っている。

 今はないその森の中には、小さな一軒家があること。そこで数ヶ月後、蓮見と私が初めて会うこと。八年後に無くなってしまうこと。

 無性に寂しかった。全て知っていて、もう終わったことなのに、懐かしさに目が眩んだ。

 涙が滲んで、空に消える。

 私の体はそのまま、天に昇っていく。雲を越え、高く高く打ち上がる。空色の雲海が地上を覆い隠し、成層圏にぶつかったかなとこ雲の、広い床が見えた。

 そのままぐんぐんと昇り続けると、辺りが暗くなってくる。

 体を翻し、上を見つめた。天上に、煉瓦の足場があるのが見える。ひょっこりと、足場から、白い鹿が顔を覗かせた。あの雄鹿だ。

 雄鹿は、ぷー、と鳴くと、空中に一歩を踏み出した。

「え!?」

 私の予測に反し、雄鹿が落下することはなかった。空を切るはずだった前足に同調するように、煉瓦が足場を作っていく。

 雄鹿の歩調に合わせて、空中に、階段のようなものが出来上がっていく。

 私の体は徐々に減速して、風船のように空中を漂う。体勢を安定させようと、必死に両手と両足をバタつかせた。

 そんな私に向かって、雄鹿がゆっくりと降下する。

 私の近くに来ると、ぴい、と軽く鳴いた。私は雄鹿の方に手を伸ばして、首を抱き締める。

「ありがとう」

 雄鹿の体を手繰り寄せるようにして、左足の爪先を煉瓦に下ろす。そのまま体重をかけると、先ほどまでの浮遊感が嘘のように、しっかりと立つことができた。

 一段一段、慎重に踏み締める。煉瓦の足場は空中に点々と浮き、安心感は一切ない。段差の隙間からは、未だに雲と地上が見えているし、強い風が、私を落とそうと体を揺すってくる。軽い足取りで、雄鹿は階段を駆け上がる。

 あの時みたいだ、と呟き、雄鹿の後を追った。

 煉瓦六個ほどの大きさの足場を跳ねながら進む。煉瓦の切れ目からは、青々とした苔と、小さな草花が伸びていた。先ほど現れたとは思えない様子だ。

 最後の一段を上がると、一畳くらいのスペースと、そこに立つ扉が見えた。雄鹿は扉の脇に控えている。取手を掴むと、ひんやりとした、金属特有の冷たさが肌を伝った。

 ゆっくりと扉を開け、雄鹿と共に、扉を潜る。

 扉を抜けると、管理人さんの書斎に繋がっていた。管理人さんは、私を送り出した時の姿勢のまま、本を読んでいた。

「おかえり。どこに行って来たのかな?」

 ソファに向かって、腰をかける。飛んでいってしまったブレザーは丁寧に畳まれて、座面の横に置かれていた。

 柔らかい布地に、体を預ける。

「昔の友人に、会って来ました」

「そう。どうだった?」

「懐かしかったです。あの頃は、気楽で、自由で、楽しかった」

「戻りたくなった?」

「……いいえ」

 目を瞑ると、昔の記憶が蘇る。あの小さな森の中は、絵画教室に行っている子供たちの遊び場だった。春は満開の桜の中で花見をして、夏は虫取りをして、秋はどんぐり拾いで競争したし、冬は落ち葉を集めてさつまいもを焼いた。

 都会に生まれて、あんなに自然に囲まれて育つことができたのは、幼い私にとって、とてもいいことだったと思う。

 だから、あの森が無くなった時、私の子供時代は、一つの区切りを迎えたのだろう。

「確かに昔の方が楽だったですけれど、今の方が、やりがいはありますよ。いろいろなことを知って、だからこそできたこと、得られたもの、たくさんあります」

「そう」

 管理人さんは、うっそりと目を緩ませ、微笑んだ。

 確かに昔は、何の柵もなく、何をしたって良かった。楽しかったけれど、それでも、戻りたいかと聞かれると、それは少し違う気がした。

「それにあれは、誰かの庇護があってのものですから。大人になる私たちが縋っていいものではありません。これから私たちは、守る側にならなきゃいけないんですから」

「立派だね。でも、ちょっと立派すぎるかな」

 管理人さんが、灰色の目を合わせた。紅茶を持ち上げ、飲み干した。机の上に置く。カップの中で、浮力を失ったレモンが、艶を失って潰れていた。

「君はまだ子供だよ。もっと、自分勝手でもいいものさ」

 ぱちん、と管理人さんがウインクを飛ばす。陽気な声と、口角の上がった表情。

 その言葉に、ぎゅ、と、膝の上で両手を握り締めた。スカートに皺がよる。やけに喉が乾いた。唾を飲み込み、舌を動かす。

「でも、私、立派にならないと」

「なぜ?」

「だって……」

 無意識に、声が震える。私は、立派にならないといけない。そんな焦燥感が、ずっと後ろに張り付いていた気がする。

「私、今年で卒業するんです。受験して、誰も知り合いのいないところでこれから生きていかなきゃいけないんです。それで、大学も出て、院に行くかは分からないですけど、そしたら、働いて、立派な大人にならなきゃいけないんです。もうすぐ、もうすぐ、子供じゃなくなるんです」

 声に出していくと、目が潤んできた。なり損ないの涙が目にへばり付いて、前がよく見えない。

 いつもは泣いたりしないのに、今日は涙腺が弱い。鼻を啜って、しゃっくりをする。すみません、と、掠れた声で謝った。

「いいよ。続けて。考えるのは、大事なことだ」

「……わ、私、寂しいんです。だんだん終わりが近づいてくる毎日が嫌なんです。首元にかかった縄が、じわじわしまってくるみたいで」

 そこまで言ってから、何かが、私を呼んだ気がした。

 絵を習うのをやめると決めた時、私は、自分の意志で決めた。それは確かで、でも、もし教室が潰れなかったら、私はあの後も、あそこで絵を描き続けたと思う。

 私は、あの教室が好きだった。だから無くなった時、悲しかった。絵を描くことと同じくらい、それ以上に、私は、あの場所が好きだった。場所が無くなるくらいで筆を折るなら、私は絵描きに向いていないと思った。

 あの時の自分は、前を見るので必死だった。あの後、お婆さんが亡くなって、教室が潰れて、森が無くなった時。思い出が、すっぽりどこかに行ってしまったような喪失感が、今も私の中に燻り続けている。

 違和感が、ようやく、掴めたような感触。高校に上がった時に、骨の奥に隠した思い。背骨の中に潜んでいた蛹が、びり、と殻を破って、羽化の準備を始めたようだった。

 今やっと、あの時の感情と再会できる。

 ああ、と呟いた。

「……私、卒業したくないんですね。あの居心地のいい場所から、巣立ちたくなくて、皆と離れ離れになるのが嫌で、不安で、怖くて。だから、焦ってたんですね」

 言葉にすると、妙に納得した。

 諦めに似た何かが胸を満たして、息がしやすくなる。吐息の中に、今まで肺に溜まっていた悩みが乗って、外に逃げていった。

 ブラウスの裾を伸ばして、目を拭う。

「君は、周りのことが大好きなんだね」

「どうでしょう。最近、上手くいかないことばっかりで、困ってます」

「人間関係?」

「人間関係です」

「そりゃあ、人間二人いれば、衝突は付き物だよ。歳を重ねると特にね」

 管理人さんが、自分のカップに紅茶を注ぎ直す。レモンが浮かび、黄色の断面が二つ、ローテーブルの上に並び直す。

「それで、答えは見つかったかな?」

「いいえ」

 凛として、否定を返した。お昼休みの時に聞いた由良の声に似た、晴天の声。

「でも、見つからなくていいと、思えるようになりました。私の選択が正しかったかは分からないけれど、それでも、その選択には、ちゃんと価値があったと思うから」

 私が、筆を折らない世界も、どこかにあったのかもしれない。しかしそこは、由良や、他の友人たちと関わらない世界であり、新しい可能性に出会わない世界であり、この図書館に訪れない世界だ。

 その世界でも、多分、私はそこそこ楽しくやっていたと思う。でも、今の私は、受験生で、成績がやっぱり大事で、ちょっと友人関係に悩んでいる糸巻文子だから。

「きっと未来の私が、今の私の選択を価値あるものにしてくれますよ」

 そう言って、カップを持ち上げる。口をつけると、少し冷めた紅茶を飲み込んだ。

 管理人さんは、ふむ、と顎に手を当てて、ゆらゆらとカップを揺らす。それを置くと、おもむろに左手を横にかざした。

 私が首を傾げると、横の本棚から、ぎゅん、と一冊の本が飛んで、管理人さんの手に収まった。

「君の本を読んだのだけれど、絵を描けるのだろう? それで、大学は理系と。なら、ゲーム関係とか、いいんじゃないかと思うのだよね」

 飛んできた本を、管理人さんはローテーブルの上に置き、ぱらぱらとページを捲っていく。顔写真の並ぶ、名簿のようなもののようだ。

「あの、管理人さん?」

「ここまで頑張った君に、ちょっとしたおまけをあげよう。これを見たまえ」

 管理人さんの指が、本の見開きをなぞる。ローテーブルに手をついて、本を覗き込んだ。見開きには、大学生くらいの男女の顔写真と名前が、二十人ほど並んでいる。

「この人とかこの人とかこの人とか、将来大成するから、おすすめ。顔と名前、覚えておきなさい」

「……え、あの、そんなこと教えちゃっていいんですか?」

「ちょっとぐらいズルしたって、未来は変わらないさ。平気平気」

「ええ」

 飛ばし飛ばしに、管理人さんが顔写真を叩く。その顔たちに、見覚えのある者はいない。これから出会うのかもしれないし、出会わないのかもしれない。

 思わず、じっくりと観察してしまう。

「あとね、お友達のことだけれど」

 続けて、管理人さんが口を開いた。視線を上げると、管理人さんと目が合う。瞳の中に、上目遣いの私が見えた。

「そのお友達とは、いやでも縁は切れないよ」

「何ですか、それ。それも、決まってるってやつですか」

「いいや。老人の経験則さ。悩むほど、大切なお友達なんだろう?」

 なら大丈夫、と言って、管理人さんが私の頭を撫でる。

 管理人さんは手を離すと、立ち上がり、書斎の扉の前に歩を進めた。三つ編みがなびき、フリルのスカートが揺れる。

「さて、君はそろそろ現実に帰らないとね」

「はい」

 ブレザーを着て、立ち上がる。その時、足元で、ぷう、という声がした。ここ二日で随分と馴染み深かくなった、雄鹿の声。

「君も、ありがとね。君のおかげで、ここに来ることができた」

 しゃがみ込み、雄鹿の頬を撫でる。角が生えていた頭をなぞり、背中に手を回す。白く光るその体は、触ることでしか、立体感が分からない。ゆっくりと手を添える。

 軽く、ぎゅ、と抱き締めた。

 扉に向かって、歩き出した。

「この扉を潜ったら、君は元の場所に戻る。時間は……多分同じ」

「多分って何ですか」

「いやね、調整が難しいのだよ。時間単位だったら許してほしい」

「あの、昨日みたいな、夢オチっぽい処理はできないんですか?」

「あれは、なんて言うか、君がちゃんとした通路で来なかったからできたっていうか、図書館の力で、ちょっとだけ世界を歪めて辻褄を合わせた感じだから……」

「つまり無理であると」

「そう」

 扉の方に向き直し、ごくり、と唾を飲む。今日は八時から塾がある。それに遅れなければ、まあある程度の誤差は許すとしよう。

 手汗の滲んだ右手で、取手を掴む。

「ありがとうございました」

 去り際、管理人さんにそう言った。もう会うことはないだろうその人は、目を丸くした後、にこり、と笑った。

「うん。達者でね」

 手を振る管理人さんの姿を最後に、私の意識は白く飛んだ。



 扉を抜けると、学校の美術室だった。当然だ。この扉を使って、私はあそこに行ったのだから。

「あ、あれ? 文ちゃん? どうしたの?」

 そして美術室の中には、沈んだ背中で、絵の具をぐねぐねと混ぜる蓮見。既視感のある姿。最後に見た蓮見より、随分凹んでいる様子だった。

「ねえ、蓮見」

 美術室を進み、端にあった木製の机を寄せる。蓮見の右に座った。

 西日が蓮見の顔を横から照らした。にへ、と顔を綻ばせる。

「なあに、文ちゃん」

「ごめんね。蓮見」

「ええ!? どうしたの文ちゃん。謝るなんて」

「いや、いろいろ、冷たかったでしょう?」

「うーん……大丈夫だよお」

 息を吸う。ここからは、ちゃんと言葉を選ばないと、蓮見が傷ついてしまうから。蓮見はとても繊細で、面倒臭いやつだから。

「蓮見」

「ん?」

「私は蓮見の、なんて言うのかな、考えなしなところが好きじゃなかったんだ」

 ぴしり、と蓮見の体が固まる。筆を持っている右手が、かたかたと震え、粘土の高い油絵の具がパレットに落ちた。

「私が進路が受験が、って言ってる横で、いっつも、のんびり行こうよ、って言ってたでしょ? 自分の受験の話題も、出されると口籠もってばっかりだったし。私はあれが、そうだな、うん。嫌だったんだ。高三にもなってぼやぼやしてる蓮見にムカついてた」

 俯いて、蓮見が膝の上のパレットに視線を落とす。影になって、蓮見の表情は分からない。

 重い空気が、美術室を覆う。

 あ、と蓮見が震えた声を漏らす。何か言おうとして、失敗したといった様子だ。蓮見に、この沈黙は耐えられなかったのだろう。

「でも、蓮見のことが嫌いになった訳じゃないんだ。それを見失ってた」

 ごめんね、と続ける。俯いて、両手を膝の上で擦り合わせた。

 蓮見の顔を見れなかった。私は、真っ直ぐ見ようとしなければならないのに。顔を上げたら、泣いてしまう気がした。そうしたら、涙と一緒に、言いたいことが落っこちてしまうかもしれないと、本気でそう思った。

「蓮見は、蓮見なりに私のこと心配してくれてたのに」

 声が震える。喉が揺れて、出したい言葉が出てこない。だから、泣くのは嫌なのだ。ぐ、と唾を飲んで、息を止める。

 蓮見が、背中を丸めて、肩を震わせた。パレットを抱え込むようにして、膝に腕を回す。

「私、蓮見の絵が好きだよ。だから、頑張ってほしかったんだ。それが、蓮見にとって。世界にとって、一番いい道だと思うから」

 顔を上げて、そう言った。蓮見が足を寄せて、体を縮こまらせる。

「私には、できないことだから」

 そう言って、私は口を閉じた。

 美術室に沈黙が戻る。重苦しい雰囲気がまとわりついてきた。

 窓を見ると、空は、だんだんと赤みを溶かし、夜の帳が下りてくる。

「じゃあ、私、帰るね。邪魔してごめん。どうしても、言っておきたかったんだ」

 急いで立ち上がって、扉に目を向ける。そこで私は、あれ、と心の中で呟いた。あの図書館に行く前に落としたはずの学生鞄が、落ちていない。確かに落としたはずなのに。

 蓮見が職員室に届けてくれたのだろうか。

「ま、待ってよ。文ちゃん」

 そう言った蓮見の声が、図書館に向かう前に話した時の蓮見の声と重なる。

 廊下の先から、かんかん、と金属の音が響いてくる。

 蓮見が座ったまま、右手で私の左手を引いた。絵の具で汚れた、重たいキャンバスを運び慣れた蓮見の指は、私の貧弱な手首を力一杯圧迫する。

「なんでそんなこと急に言うの? 文ちゃん」

「……明確な理由なんてないよ。ただ、今、言ったほうがいいと思ったんだ」

「なんで? 文ちゃん、私に愛想尽かしちゃったの?」

「どうしてそういう結論になるの」

「だって、だって……」

 ぎゅう、と蓮見の右手に力がこもる。その上に、私の右手を乗せた。ゆっくりと蓮見が顔を上げる。口を一文字に閉じて、眉はぎゅっと寄せられていた。ぐちゃぐちゃになった前髪の隙間からは、潤んだ目が見える。

「蓮見は私の友達だよ。私は、私が蓮見と友達でいるために、謝ったほうがいいと思ったんだ」

 蓮見の右手の指先を、少しずつ剥がしていく。外れて右手を、両手で包み込む。蓮見の絵を生み出す、大事な手だ。

 どっちの手も手汗でべたついていて、肌と肌がくっ付いた。

「私、応援してるから。蓮見のこと。ずっと」

 八年前から、と心の中で付け加えて、私は、美術室の扉に駆け出した。後ろで、急いでパレットを机に置いて、蓮見が立ちあがろうとするところが見える。

 かん、かん、かん、と金属の音が聞こえてくる。

 前の私から、私は逃げなければならない。そして、この逃避は成功する。私が証明だ。

 ああおかしい、と笑いが漏れる。急いで旋回した私は、向かいの音楽室に逃げ込む。重い扉の隙間から、廊下を覗き込む。これから起こる景色を想像しながら。

 急いで出てきた私は、扉を閉める余裕がある訳がなく。鉛色の廊下に、美術室の扉から伸びる光。学生鞄を持って、足音を殺して歩く、少し前の私。笑い声を噛み殺して、隙間に目を近づける。ぐっと見える範囲が広がった。

「待って! 文ちゃん!」

 目の前で、先程の光景が再現される。私はあの時、蓮見の様子が急に変わって焦ったけれど、それも当然だ。まさか目を離した隙に、少し未来の自分が来ていて、少々かいつまんだとはいえ、思いの丈を打ち明けているなんて、思う訳がない。

「いた! 文ちゃん!!」

 元気よく、蓮見が、前の私に駆け寄った。今見ると、今の蓮見は、八歳の時の蓮見に、少しだけ戻っているような気がする。

「私ね! 文ちゃん!」

「ああ、うん。うん。何? 蓮見」

「私、文ちゃんみたいにしっかりしてないけど、でも、頑張るから!」

 廊下に、晴れ晴れとした蓮見の声と、憂鬱とした私の声が木霊する。あれだけ陰鬱としていれば、蓮見が必死になるのも当然だ。

 今度、由良にもお礼を言うべきかもしれない。

「頑張れるようになるよう、頑張るから!」

 蓮見が言い放つ。ああ、と息をつく。あの時は自分しか見えていなかったけれど、今なら分かる。あれは、蓮見なりの、私への返事だったのだろう。

 蓮見は、私が謝ったのに対して、許す、という態度を示したくなかったのかもしれない。

 いいやつだから。

「じゃあ! 私! 竹井先生探してくるから!」

「え、ま、待って、蓮見」

「進路相談してくる!」

 勢いよく踵を返して、私が潜んでいる音楽室の前を走り抜ける。ちら、と見えた耳は、心なしか赤かった。大袈裟な照れ隠しだったらしい。

 その後、前の私はずるずると蹲って、ぶつぶつと何かを呟いて、立ち上がる。

 本当は、過去の自分なんてそんな存在は、面白くも何ともないので、見たくない。しかし、ここで私が見ておかなければ。何かがあった時対応しなければならない。

 緩く、両手で耳を塞ぐ。大きな音があれば拾えるはずだ。薄めで、一人葛藤する私を見る。

 扉の前に近づき、握り玉を掴む。扉に幾何学模様が走り、鍵が差し込まれる。両手に力を入れる。

「行けると言うなら、私を、連れて行ってみせろ。あの場所に、もう一度!」

 自分で聞くと何とも痛い。

 美術室の扉から光が溢れ、私が吸い込まれる。学生鞄が落下し、床に倒れた。

 ゆっくりと、音楽室の扉を開ける。廊下に半身を出すと、未だ光り輝く扉の境界から、雄鹿がひょっこり首を出した。私を見る。

 あの時会いに来なかったのは、今の私に用があったかららしい。

 私は、しーっと人差し指を口に当てた。その後、ばいばい、と呟いて、左手を振る。それを見た雄鹿は、私の学生鞄の持ち手を何度か食むと、一回お辞儀をして、光の中に首を戻した。

 雄鹿の首が見えなくなったのに合わせて、美術室の扉を覆っていた光は、煙のように消えた。

 後に残るのは、いつも通りの廊下と、床に落ちた私の鞄だけ。

「何だか、頭がこんがらがりそうだ」

 音楽室から出て、美術室の扉の前に立つ。落ちた学生鞄に手を伸ばすと、持ち手に、小さな球体が取り付けられていた。取り外してみる。

 持ち上げると、蚕の繭のようだった。耳元で振ると、ちりん、と鈴の音がした。

 少しだけ笑って、鞄の持ち手の根元、定期券と同じところに括り付ける。貧弱そうな紐だったが、あの図書館製だ。大丈夫だろう。

 よいしょ、と鞄を肩にかけると、ちりん、と心地いい音がなった。

 前を向いて、美術室を覗き込む。二つ並んだ木製の椅子に、大きなキャンバス、生けられた花、その向こうには、群青の滲んだ、茜色の空が見える。

 私は瞼を下ろして、図書館のことを思い出す。永遠の中に微睡む本たちと、それを司る彼女のことを。煌びやかな装飾や、重厚な紙の厚み、鈍い灰色の瞳。全てを、今の私は、鮮やかに思い出すことができる。

 いつか、あの図書館は、深いベールの奥に消えてしまうのだろう。夢のように、幻のように、幼い頃の記憶のように。

 目を開ける。にこりと笑う。

 少しばかりの感傷を胸に、私は、美術室の扉を閉じた。

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春と鹿と図書館の夢 そらのくじら @soranokujira

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