✕✕探しゲーム

たかなつぐ

第1話

 気付くとアユミは、どこか薄暗い空間に立っていた。

 何度も瞬きをするうちに目が慣れて、辺りの様子がはっきりと見えてくる。

 目の前には、長く伸びる廊下があった。どこまで続いているか分からないその道は、灰でもまぶしてあるかのように暗く、寂れた雰囲気を醸している。

 辺りを見渡すと、壁に破れかけたポスターが見えた。コンクリート色の無機質な壁に、今にも剥がれそうな紙が張り付いている。

 そこには、古びた紙に黒文字で『ゲーム 5つの✕✕を探せ』と書かれていた。

「……これだけじゃ、何を探せばいいか分からないよ」

 呟きながら、他になにか手がかりはないかとアユミはポスターへ手を伸ばした。そのときだった。


『オ、オォオ……──』

 背後からだ。胸をざわつかせるような、低くおぞましい声がした。

 暗闇から滲み出てきたようなその声は、次第にこちらへ近づいてくる。


「……逃げなきゃ」

 アユミは直感で、この場から離れなければならないと悟った。

 足が竦む。けれど何とか己を叱咤し、ようやく一歩を駆け出した。


『オオォ……』

 次第に迫ってくる謎の雄叫び。

 明らかにアユミより速いそれは、真っ黒い闇を引き連れて、既に数メートル後ろにまで迫ってきている。

 追いつかれる……そう覚悟しながらも、がむしゃらに足を動かしていると。

 「ひゃあッ!?」

 足元に何か、硬い物体が現れた。アユミの体は勢いのままその四角いものにつまづき、二転、三転してようやく止まる。


「イテテ……」

 振り返ると、さっき追ってきていたモノの気配が消えていた。辺りは静寂そのもので、自分の心臓の鼓動と、緊張で荒くなった呼吸音だけが響いている。

 

 化け物が消えたことに安堵しながら、アユミは自分が転んだ原因に近づいた。

 それは、古びて変色した木箱だった。両手で抱えないと持てないくらい大きなそれは、よく見ると所々に金属細工らしきものが施されている。

 錆びてしまっているが、貝殻や蝶などを模した細やかな装飾が施されている。

 宝箱と言うより、この箱自体が宝のような存在感だ。

 綺麗だったであろう箱本来の姿を想像して、アユミは少しだけ胸が躍った。


「でも……この箱、どうすれば良いんだろう」

 見たところ鍵穴はない。どこかへ持っていけば良いのだろうか?

「まさかこんな錆びた箱が、そう簡単に開くわけ──」

 無理だろうと思いながらも、恐る恐る箱の蓋へ手を伸ばす。

 すると指先すら触れていないのに、木箱の上蓋パカ、と持ち上がったではないか。

 アユミは箱の中身を覗き込もうと、姿勢を低くした。すると──

「っ……!?」


 暗闇から一転して、辺り白い光に包み込まれる。あまりの眩しさに、アユミは思わずぎゅっとまぶたを閉じた。

 光が収まっていくのを感じて再び目を開くと、そこには見覚えのある光景が広がっていた。

「ここは──家?」

 間違えようもない。現在会社勤めで一人暮らしをしているアユミだが、今目の前に見えるのはどう見ても、子供の頃、両親と過ごした実家のリビングだ。


 壁や天井、家具も新しい感じがする。

 アパートから一軒家に引っ越したのは小学生になる前だから、この風景もその時期なのかもしれない。

 台所には、食器を洗う母の姿があった。


「ただいまー。お母さん、見てみて!」

 玄関の方から、聞き覚えのある声がする。

 ランドセルを背負ってリビングに入ってきたのは、まだ幼い。小学校低学年頃のアユミだった。

 勢いよく扉を開けたアユミはランドセルから一枚の用紙を取り出すと、自慢げに広げてみせた。

「漢字テスト、百点取ったの! 凄いでしょ!?」


 それに対して、母が言ったのは一言だけ。

「そんな簡単な漢字ばっかり、百点取れなきゃおかしいわ」


「え……」

 喜びに溢れていた少女の顔が、紙風船みたいに急激に萎んでいく。

 彼女の心境とリンクするように、今アユミのいる空間にも変化が現れ始めたた。

 家具や壁が蝋のように溶け、煙となって消え始めたのだ。

 傍観しているアユミは、熱くも苦しくもない。消えていく風景を、ただ見届けるしかない。


 ──気付くとアユミは、元の薄暗い空間に立っていた。

 先の見えない灰色の廊下が伸びて、硬質な壁が居る者の不安を煽ってくる。さっきまであったはずの錆びた箱は、いつのまにか何処かへ消えてしまっていた。

 あ、とアユミは思わず声を上げた。視界の右端に、何やらピンク色の丸い光が灯って見えたからだ。

 それは夜空に浮かぶ月のように、アユミの動きに合わせて常に同じ場所に見えた。

 実体がないらしく、その方向へ手を伸ばしてみても、触れるものは何もなかった。

「あの箱を見つけると、このランプみたいなのが灯るのかな。だとすると、あと四個の箱があるってこと……?」

 現状を整理しようとアユミが立ち止まっていると、再び背後からあの不穏な気配が近寄ってくる。


『オォ、オオォオ……』

 先ほどの恐怖が蘇り、アユミは反射的に廊下を駆け出した。

「っ……少しくらい、考えさせてくれてもいいんじゃないの!?」

 ぼやくアユミの心中などお構いなしに、黒い山のような塊は着々と彼女との距離を詰めてくる。

 必死に両足を回していると、直進と左の分かれ道が現れた。

 側に置かれた看板には『まっすぐにしかすすめない』と書かれている。


「これ、あの化け物みたいなヤツのこと?」

 当然のことながら、尋ねても誰も答えてはくれない。


「こうなったら……一か八かよ!」

 アユミは分かれ道を左に進み、しばらく距離を稼いで立ち止まった。

 化け物の不気味な声が近づいてきて、分かれ道に差し掛かる頃。息を殺してちらりと道の出口を見ると、化け物の黒い体内は、無数の何かが蠢く巨大な袋のように見えた。

 (来るな、来るな、来るな……)

 強く念じていると、気配はアユミの方へは来ず、真っすぐ進んで遠ざかっていった。


「……よしっ!」

 小さくガッツポーズ。地面を注視しながら進むと、またさっきのと似たような箱が、道の真ん中にぽつんと落ちていた。


「次は……この箱ね」

 アユミはしゃがんで手をのばす。

 前回同様手が触れる前に、その青く錆びた箱はパカ、と上蓋を持ち上げた。


 ──光の中から現れたのは、実家にあるアユミの自室だった。

 見覚えのないゲーム機をやっている。小さい液晶画面に写っているのは、可愛らしい動物のキャラクターだ。


 ガチャン。

 背後で扉の開く音がする。ノックもなく、母親が部屋に入ってきた音だった。

「……もう、お母さん! 部屋はいる時はノックしてって──」


「アユミ。……そのゲームは、何?」


「これは、その……」


「〇〇ちゃんに借りたのね? ゲームなんかする子は、うちの子じゃありません!」


 中学生くらいだろうか。アユミの手にあったゲームは乱暴に奪い取られ、没収されてしまった。


「このゲームは今度、お母さんから返しておきます」


「お母さんちょっとまって! セーブが……」


「ゲームがしたいからって、何わけ分からない事を言っているの。金輪際、友達からゲームを借りるのも禁止です!」


 バタンッ! と大きな音を立て、閉じられた扉の方を見る。

 学生のアユミは悔しそうに唇を噛み締めながら、そのままベッドへ突っ伏してしまった。


 ──間もなく、空間が溶け始める。

 アユミはこれまで見た風景が、自分の記憶だと気付き始めていた。

 正直、あまり覚えていない。けれど、歳の違う自分が悲しんでいるのを見ると、心の奥深くがギュッと握られたように苦しくなるのだ。


 元の廊下に戻ってきたアユミは、視界の端で光が一つ増えていることを確認した。

 最初はピンク。今度はオレンジ色の光が、一個目と隣り合うように灯っている。


「五つ見つけるわけだから、残りはあと三つ」


『オオオォォオ……』


「また来た!」

 さっき真っすぐ進んだはずの、闇に包まれた『何か』。それが今アユミの背後に現れ、またもや猛スピードで追いかけてきている。


 (……早く、次の箱を見つけなきゃ!)

 焦りながらも、立ち止まるわけには行かない。

 今度は左右の分かれ道が見えてくる。

 二股に分かれた中央に、古めかしい木材で作られた立て札が立っていた。


『悪い目はどっち』

 黒い筆文字で、そう書かれていた。


「悪い目……視力のこと?」

 アユミは中学の頃からメガネを掛けている。近づかないと隣の人の顔が見えないくらい、裸眼の視力はかなり低い。

 特に見えないのは──

「前に測った時、確か左目の視力が低かった。これも一か八かだけど……」

 またもや、左の道を行く。

 あの化け物は、まっすぐ右の道へと突き進んでいった。


 追いかけて来ないことを確認し、アユミは膝に両手をついて呼吸を整えながら、ふと浮かんできた疑問を口にする。

「……今のヒント、何で私の視力を知ってたんだろう」

 合点のいかないままに振り向くと、いつの間にか三つ目の箱が置かれていた。

 さっき走ってきた時には何もなかったはずなのに、毎度この箱はどこから現れるのだろうか。

 

 どちらにしろ、あの化け物から逃げ切るにはこの箱を開かないといけない。

 アユミはしゃがみこんで、そっと箱の方へと手を伸ばした。


 目の前に広がるのは、桜吹雪の舞う公園だった。

 そこかしこで、ブレザーや学ランなど。制服に身を包んだ学生たちが弁当を広げ、賑やかに談笑している。


 皆が数人で集まっている一角で。桜の木陰にシートを広げ、一人で弁当を食べる少女がいた。……高校時代のアユミだ。別に一人だからといって。悲壮な雰囲気はない。


 春風に揺れる桜の枝と、昼の太陽に照らされてキラキラと光る花弁達。

 それらを眺めるブレザー姿のアユミは、とても充実した表情を浮かべている。

「思い出した。この日は……」

 呟いた矢先のこと。桜の下で弁当を食べ始めた高校生のアユミに、三人の同級生が近づいてきて言った。

「あ、アユミ。ぼっち飯?」


「唐揚げ美味しそうじゃーん。一個もーらい!」


「あ、それは……」

 止める間もなく。三人の中でもリーダー格の女が、アユミの弁当箱から唐揚げをつまんで食べた。


「うっまぁ〜! ねぇ、二人も分けてもらいなよ」


「良いの? じゃあ、いただき〜」


「私も〜」


 ひょいパク、ひょいパクと。あっという間に二つの唐揚げが消えた。

「「ごちそうさま〜!」」

 そう言って、三人は嵐の如く去っていく。


 元々あった唐揚げは四つ。そのうち三つを食べられてしまった。

「……昨日、頑張って作ったのにな」そう呟く学生時代の自分は、一人うつむいて悲しげな表情をしている。

 アユミはその一部始終を見ながら、胸の中で沸々と怒りが湧き上がるのを感じた。


 ──あの弁当、私が初めて作ったんだ

 唐揚げだけじゃない。卵焼きも、梅を入れたおにぎりも、それ以外のオカズも全部。

 その中でも唐揚げは一番手間がかかった料理なので、想い入れが強かったのだ。


 間もなくして、桜の風景も溶けて消えていく。

 アユミはふと、一つの共通点に気づいた。

「宝箱の中身は……全部、私の過去?」

 口に出してみて、改めて確信する。

 視界の端に、青色の光が灯るのが見えた。ピンク、オレンジの隣に、雨雲みたいにグレーがかった青色。──まるで、悲しみの色だ。


「立ち止まってはダメなのよね。……早く、先に進まなきゃ」

 三度も経験すれば、ある程度の流れは分かってくる。

 宝箱のあった方向へ足を踏み出すと、早速『オオオォ……』というあの唸り声が、こちらへ向かってくる気配がした。


 もう振り返らない。走っていれば、そのうち今までと同じく分岐が在るはずだ。

 アユミはそう、確信していた。……数秒後、この現状を目の当たりにするまでは。


 『ろちヲ』

 真っ黒な穴の前には、そう書かれた立て札だけがぽつんと立っている。

 どこを見渡しても。右にも左にも、ましてや抜け道のようなものも見当たらない。


「『ろちヲ』……この穴を、落ちろってこと?」

 もうすぐそこまで、あの声が近づいてきている。穴を覗き込むと、中は墨汁を塗り固めたかのように暗い。

 恐る恐る手を突っ込むと、ぬるりと闇に飲まれるような感触すらある。

 これは穴なのか。それとももっと異質な……例えば、異空間的な──


『オオオオオオオ!』

 考える時間は残されていなかった。

 獲物を見つけた真っ黒くて巨大な『何か』が、もの凄い勢いでこちらへ迫ってくる。

 逃げ道はない。在るのは──あの怪しげな穴、ただ一つ。

 水へ潜るように息を止め、アユミは意を決してその真っ黒な穴へ身を投じた。

 束の間の浮遊感。ギュッと目をつむる。


 身を任せていると、少しずつ。瞼の裏が明るくなっていく。足が硬い地面に着いた。

 ホッと胸をなでおろす。もうそろそろいいかと、ゆっくり目を開けた。


「ここは……」

 アユミが務める会社のオフィスだった。しかし、現実にオフィスへ戻れたわけではない。

 ここまで数回見てきた、過去の記憶と同じ。この職場も、ただ傍観しているに過ぎないのだ。

 それは、とある違和感から確信したことだった。

 ──部屋の左右全てが、実際の配置と逆になっている。


 まるで鏡合わせのようだ。本来右にあるコピー機は左にあるし、文字に至っては本当の鏡合わせのように、ぱっと見何と書かれているか分からない。


 私は入り口に一番近い席で、黙々とパソコンと向き合っていた。

 部屋の奥にある部長の席では、最近入ってきた新人の女性、澤畑優里花に対して、部長が感心したように話していた。


「ユリカくんは仕事もできるのか! ……どこぞの陰気な女と違い、君は美人だしなぁ」

 そう言って、ハゲ部長はチラリとアユミの席を見た。

 以前、部長から二人で飲みに誘われた時、用事があるからと言って断ったことがある。それ以来、部長のアユミへの当たりがあからさまにキツくなった。

 周囲は哀れみの視線を向けてはいるが、相手が上司ということもあって静観するのみに留まっている。

 唯一の頼みの綱である、アユミの上司であり元教育係である永瀬先輩は、丁度三日前から一ヶ月の長期出張だ。部長がこのタイミングで誘ってきたのは、先輩が不在であることを知っていたからだろう。


「お褒めいただき光栄です、部長!」

 満面の男悩殺スマイルで、ユリカは部長に笑顔を振りいている。

 ユリカがやったことになってるその企画書は、私が徹夜してなんとか仕上げたものだ。


 私が出そうとしたら「代わりに私が提出しておきますね」とかさらりと言って、掻っ攫っていった。

 部長も部長だ。彼女は勤務時間中ほぼ給湯室にいるから、仕事している姿なんか見たこと無いはずなのに。


 それに文体を見れば、誰の文章なのかはだいたい分かるはずだ。

 気づかないふりをしているのか。それとも本気で気づいていないのか。……前者だろうな。


 あんな奴等に何言っても、ヘラヘラ笑われて茶化されるだけだ。

 ──だから私は、見ないふりをした。

 

 手柄を横取りされて、悔しい怒りの感情も。

 頑張って作った料理を、素手でつまみ食いされた哀しさも。

 ゲームで楽しい気持ちを、母親に無理やり取り上げられても。

 テストで満点取った喜びを、当たり前だと放り捨てられても。


 覚えている限り、アユミはいつだって自分の感情を相手に直接ぶつけることはなかった。

『私だからしょうがない』。思考の端で、そんな言葉がふと浮かび上がる。

自分さえ我慢すれば、その場が丸く収まることを知っていた。気持ちを主張することよりも、反感を買わない方が楽だったから。


 視界の端に、赤い光が灯る。

 消えゆくオフィスを眺め、思い出したように沸き起こる怒りを押し殺しながら、アユミは静かにうなだれていた。


 ──オフィスでの記憶が消えてから、どのくらい経っただろうか。

 いくら待っても、アユミの見つめる先にあの黒い廊下は現れなかった。

 ただひたすら暗い空間にたたずむアユミの背後に、黒い巨大な『何か』がゆっくりと迫る。

 道がない以上、先に進むのは危険すぎる。かといって、このまま立ち往生していれば直にあの化け物に襲われるだろう。

 嫌な記憶を立て続けに見せられたアユミに、これ以上身一つで足掻こうという気力は残っていなかった


 ……カチャン。目の前に、突然銀色の万能包丁が現れた。

 さっきまで無かった立て札が現れ、そこには『いさだくてし倒を物け化』の文字。逆さから読んだ。


「『化け物を倒してください』……この包丁で?」

 

 慎重に足を運び、アユミは落ちた包丁を拾い上げた。

 巨大な『何か』を見上げる。至近距離で対峙し、アユミは思わず息を呑んだ。

 ──その『何か』は……無数の顔の集合体だった。


 『オオオォォオオオ……』

 唸り声のようなものが、今は別のものに聞こえる。まるで……

「泣いて、いるの? ……私が?」


 恐ろしく、おぞましく感じていたその音は『無数の声の集合体』だったのだ。

 黒く巨大な塊。その表面に張り付いているのは──全て、アユミの表情だった。


 若い頃から大人になった今まで。涙を流した泣き顔から、眉間にシワを寄せた怒り顔まで。喜怒哀楽全ての感情が集合することによって、その塊は成っている。


 『──キレ、キレ……アンナモノ、イラナイ』

 頭の中で、そう囁く声がした。

 両手で包丁を構え、近づいてくる顔面の集合体へと、まっすぐにその切っ先を向ける。

 曲がれないことは知っている。避ける気配はなかった。

 

 もう少しで突き刺さる。一歩手前のところで、アユミはフッと体の力を抜いた。

「……それは、違うよね」

 アユミは構えていた包丁をパッと手放した。落下音はせず、包丁は煙のように地面へと消えていく。 


 空いた両手を広げ、アユミは目の前の塊を全身で受け止めた。

 肉体的な感触は無かった。代わりに、頭を殴られたような衝撃がアユミを襲う。

 ミキサーでごちゃまぜにしたような記憶達が、次々と頭へ流れ込んできた。

「うっ、……くっ」

 感情の濁流に耐えながら歯を食いしばっていると、次第に周囲が白んでいくのが見えた。

 真っ黒に染まっていた視界が徐々に溶けて、粉のようになって散っていく。頭を掻き回していた記憶も、黒い塊が消えるのにあわせて落ち着いてきた。


 ──黒い塊は、いつの間にかいなくなっていた。

 そっとまぶたを開ける。腕に抱いていたのは、幼い頃のアユミ自身だった。

 まっ白いスカートを着て、髪型は肩上までのショートヘア。黒髪はまだ細く、サラサラと指通りがいい。

 幼い自分の身体は、大人な今と比べるとびっくりするくらい細くて、弱々しく見えた。


「……わたしね、かなしかったの」

 少女のアユミは、ゆっくりと話し始めた。

「わかってほしかった。つらいのも、くるしいのもくやしいのも、きいてほしかったの」


 無垢な視線が、まっすぐにこちらを見つめている。少女の瞳から、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。


「わすれないでほしかった……なかったことにしないで! わたしのこと、おぼえていてよぉ……」

 少女のやわらかな頬を、次から次へと雫が伝っていく。


 まるで。心が共鳴して、一つになっているような感覚だった。

「うん。……ごめんね」

 謝りながら、アユミも泣いていた。

「忘れてて、ごめん。……辛かった、悔しかった。……苦しかったよぉ!」


 少女を抱きしめて、二人で寄り添い合うように号泣した。泣いて、泣いて──……


 泣きじゃくって、ようやく涙が枯れた頃。膝の上ですやすやと寝息を立てる幼いアユミを眺めていると、視界の端で黒い丸が点灯した。

 最初に書かれていた『✕✕』を五つ集め終えたのだと知り、アユミはほっと胸をなでおろす。


 ピンク、オレンジ、青、赤、そして黒。五つの光が大きくなり、次第に周囲を覆っていく。まるで朝日のように穏やかなその光に包まれ、力の抜けたアユミは自然と体を横たえた。

 そばに寝転んでいたはずの少女は、いつの間にか消えていた。

 どこか懐かしいような、温かな光に包まれながら……アユミは泣きつかれたまぶたを、ゆっくりと閉じたのだった。


 ──誰かが、私の名前を呼んでいる。

 さっきの、夢の中で会った人の声だ。

『……お母さん』

 応えると同時に、箱を開けて蘇った記憶が、アユミの心の中でチクチクと痛みを発し始める。

『どうして、私を認めてくれなかったの。どうして、私が好きなことを否定したの』

 子供のころの悲しみ、分かってもらえなかった悔しさが膨らんでいく。アユミは感情の赴くまま、声のする方へ向かって喚き散らした。

「お母さんなんか、大っ嫌い!! 私は、お母さんが望むような完璧な子供じゃない! だからお母さんは私のことが嫌いで、本当は別の子に取り替えたいって思ってたんでしょ!?」

 もう、止まれなかった。今の言葉が夢なのか、現実なのかも分からない。ただ、感情と言葉だけが溢れ出てくる。自覚はないが、アユミの瞳からは次から次へと涙が零れ落ちていた。

「私は、お母さんが望む子供になろうとがんばったのに! なのにお母さんは、私の粗ばっかりを指摘して……こんな出来損ないの子供、死んでしまえばいいって思ってるんでしょ!?」

 バチンッ……頬に強い衝撃を受け、アユミの意識は一気にまどろみから連れ戻される。

 目を開けると、そこには白い壁とカーテンレール。そして……涙目になった母親が、振りかぶった平手の行き場をなくしたように、右手を宙に漂わせていた。

 母親と目が合うと、その右手がこちらにそっと差し伸ばされる。キュッと目をつぶったが、母親の両腕はアユミの背中に回り、そっと抱きしめられていた。

「寝言で言うくらいだからきっと、相当思い詰めていたのね。……ごめんなさい。アユミが私に対して、そんな風に思っていたなんて知らなかった。私があなたを出来損ないだなんて、思うわけないじゃない」

 母は悲しいような、悔しいような顔でくしゃりと笑った。

「確かにこれまで、厳しいことを言ったこともあるかもしれない。言い訳しちゃうと、お母さんも人間だから、感情的になって、あなたを傷つけたこともあると思う。……だけど、これだけは覚えていて。生まれてからずっと、あなたは私にとって大切な人。だからそんな、自分のことを出来損ないだなんて言わないで。アユミは何があっても、私とにとってかけがえのない宝物よ」

 懐かしいにおい、心地よい体温。完全に夢から醒めたアユミは、自然と母親を抱きしめ返していた。

 そして、さっき自分が口走ったこと。そして母が自分にくれた言葉を頭で反芻した。心の底から、重い罪悪感がせり上がってくる。

「……ごめんなさい、お母さん。あんな酷いこと言って。けど私、お母さんがそんな風に思ってくれてたなんてこと、全然知らなくて」

「私も、アユミの素直さに甘えていたわ。もっと、あなたが大切だって伝えるべきだった。こちらこそ、長い間苦しめてしまって……本当に、ごめんなさい」

 こうして抱きしめあったのはいつぶりだろうか。トゲトゲした感覚が次第に消えて、心地よい温かさが胸の奥を満たす。

「もういいの。お母さんが私のことを大切だって言ってくれただけで、私……すごく、幸せだから」

 アユミの目から流れ出た涙が、次から次へと母の衣服を濡らしていく。

 それは母も同じようで、ポケットからティッシュとハンカチを取り出すと、アユミにはティッシュを。母はハンカチでそれぞれに涙を拭きとった。

 アユミが着せられた病院服も、肩のあたりに湿った感触が残っている。

「……こんなに泣いたの、いつぶりだろう」

「私だってそうよ」

 涙を拭き終えた二人の間には、ずいぶん和やかな雰囲気が漂っていた。


 ──後日。病室で窓の外を眺めていた谷森歩美のもとに、昨日出張から戻ってきた永瀬先輩が手土産を持って現れた。


「よっ、谷森元気か?」

「永瀬先輩、出張お疲れ様です」

「谷森……」

 アユミが笑顔を向けると、先輩は申し訳なさそうに眉尻を下げ、なんだか泣きそうな表情をしていた。

「すまなかった。俺がもっと、澤畑と部長のことを警戒していれば……」

「先輩のせいじゃないですよ。ただ、私たちが思っていた以上に、彼女が病的だったってだけですよ」

 アユミがケガをしたと知り、永瀬先輩は出張が終わるなり出社し、社員に詳しい事情を聞いて回ってくれたという。

 すると唯一の目撃者だった澤畑優里花は、最初まるでアユミが自分から落ちたように話したらしい。そこからさらに問い詰めたところ、『永瀬先輩と仲の良さそうなあいつが気に食わなかったから、階段から押した』とのことで、言質を取れた。

 そう先輩から連絡を受け、優里花の言い分を聞いたアユミは、その理解に苦しむ言動にめまいを起こしそうになった。

 優里花は、私利私欲のために他者を貶めようとした。しかも、相手をケガさせたうえに本命の相手にその所業を知られるという最悪の結末を辿った。

 真実を話した後、優里花は永瀬先輩に追い縋ったらしい。

『「本当のことを話したのだから、私を見捨てないでくれ」って、足にまとわりついてきたんだ。だから「あいにく、他人を傷つけようとする輩に向ける好意はない」って言ってやったら、地面に座り込んで泣いてたよ」

 永瀬の話を聞きながら、アユミは内心ザマァと感じる自分の心境に驚いていた。

 以前の私なら、そんなことを考えようものなら自分を責めていただろう。しかし今は不思議と、腹黒い自分の感情も素直に受け止められている。

「……谷森、なんか少し雰囲気変わったな」

「え?」

「前だったらさ、『私もどんくさかったんです』とか言って、澤畑のことも少しくらい庇ってただろ。けど、今のお前はなんというか……自然体な感じがして、いいな」

 アユミの肩にぽんと手を置いて、永瀬先輩はにこりと笑う。

 なんだか気恥ずかしくて壁に視線をを逸らすと、そうだ、と言って先輩はベッドの横でスマホを操作し始めた。

「もう少しで退院できるんだろ? 快気祝いだ。どこでも好きな店で飯奢ってやる」

「そんな、気を遣わなくても……」

「俺が、お前と食事したいんだ! イヤなら、はっきりイヤだと断ってくれ。例え上下関係であっても、互いの意思は尊重したい」

 嫌なはずが、なかった。入社してからずっと、自分のことが大嫌いな私を、先輩はいつも見守ってくれて、励ましてくれた。

「私も、永瀬先輩と一緒にごはん、行きたい、……です」

「よし、決まりだな」

 また、店決まったら連絡してくれと言い残して、永瀬は颯爽と病室を出て行った。

 アユミは先輩が残していったお土産を見ると、包装紙の間に小さな紙が挟み込まれていた。開くとそこには。

『谷森は揚げ物するって言ってたから、持ち手がきれいな菜箸を買ってみた。気が向いたら使ってくれ』

 角ばった字で、そう書かれていた。

「……今度、先輩にお弁当でも作っていこうかな」

 頬が緩むのを自覚しながら。窓の向こう青空に浮かぶ雲を、アユミはぼんやりと眺めていた。




 終

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