小糠雨

西しまこ

第1話

 雨がしとしと降って、桜に降り注ぎ樹木と花びらを濡らし、花びらをゆるりと散らした。桜は花蕊かずいが赤く残っていて、その赤みも美しい。


 霧雨。

 わたしは窓から、霧雨が降る窓の外を眺める。

 桜の花蕊かずいは赤く、若葉の緑は生き生きとし、常緑樹の緑は深い。

 ベールがかかったような景色。

 こんな雨の日は静かに雨を眺めるのだ。

 本を読む手を止めて、通りを眺める。音楽も要らない。微かな雨音がまるで音楽のように響くから。それは、ほとんど音のない、雨。でも、霧雨のベールを見ていると、わたしの中に音楽が沸き起こる。そういう雨。


 ふいにスマホが震える。

 わたしはスマホを手に取り、通知内容を確認し、それからサイレントに設定し直す。

 こんな日は出来る限り、電子音はない方がいい。

 わたしは雨を楽しみたい。


 霧雨がわたしをベールに包んだまま、いろいろな時代へといざなう。

 幼い日、雨の中を傘もささずに長靴で歩いた。

 小学生のころ、傘を忘れたら、昇降口に傘がかかっていて、母が届けてくれたことが分かった。ありがとうと思いながら、濡れずに帰ることが出来た。

 中学生のころ、好きなひとといっしょに一つの傘に入って帰った。なんだかとても嬉しかった。

 高校生のころ、雨のたびに、母に駅まで車で迎えに来てもらった。当たり前のように思っていたけれど、全然当たり前のことじゃなかったな、と今では思う。


 大学生になり、一人暮らしをして。

 恋人が出来て別れて、またつきあって。

 今度つきあったひとは雨が好きなひと。

 れんは雨の中を嬉しく歩いて、うちに来る。

 わたしはそれを密やかに待つ。

 霧雨の音の話をしてくれるだろうか。雨が薄く溜まった道路を、どんなふうに歩いて来たか、話してくれるだろうか。

 春先に、こんなふうにしとしと降る雨のことを小糠雨こぬかあめっていうんだよって教えてくれたのは、れんだ。わたしは雨の楽しみ方をれんから教えてもらった。


 もうすぐ、れんが来る。

 わたしはカモミールティを淹れるべく、お湯を沸かす。

 今日の雨はどんな音楽を奏でたのだろう、ここまで来るれんに。

 駅まで車で迎えに行かなくてもいい。

「晴れの日は陽だまりを、風の日は風を、そして雨の日は雨を楽しみながら歩くんだ。紗江さえに会うことを思いながら」


 わたしはれんがチャイムを鳴らすのを静かに待つ。小糠雨こぬかあめを眺めながら。



   了



一話完結です。

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小糠雨 西しまこ @nishi-shima

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