第75話

 3週間後、夕方18時に園川はオフィスにいた。落ち着かない気持ちでPCの前に座っていた。


 一連の事件に対応していたせいで溜まった仕事が、まだまだ山積みだ。となりの松宮はうんざりとした声で、


「たまんねえよなー。平和の次は納期納期。やだねー納期」


 すると、園川の正面の玲奈が立ちあがった。園川は玲奈に目を向けたくなかった。




 薄明の森から戻った日、玲奈は退職願を出した。


 そしてきょうが最終出社日だった。送別会についても玲奈は辞退した。同僚に迷惑をかけ続けた自分のために、会を開いてもらうのはあまりに申しわけないと。


 園川は目の前の玲奈に顔を向けられず、ずっとPCの画面を見ていた。


 次に顔をあげて、目にした玲奈の顔が、最後の記憶になるのだ。――そう思うと、無性に悲しかった。


 そのとき、松宮が言った。


「おい、園川。玲奈先輩、最後だぞ」


 ついに園川は手を止め、覚悟して顔をあげた。


 すると、西日に照らされた玲奈の顔が見えた。心を透徹してくるような瞳が、まっすぐに園川を見ていた。


 やがて玲奈は、バッグを持ってオフィスの中央に移動した。


「みなさん。長い間、ありがとうございました。みなさんのご発展を、心より願っております。わたしは、待っていてくれる輪神教会の方々のため、なすべきことをやろうと思います。みなさんも、ヘヴン・クラウドのために。ご家族のために。ご自身のために。ぜひ邁進を続けていただけたらと思います」


 社員は盛大な拍手を贈った。中には涙ぐんでいる者もいた。


 そこで倉神社長が進み出て、ちいさな包みを渡した。


「篠原。おまえのこれからの人生に、幸福の多からんことを。ほんとうに、これまでおつかれさま」

「ありがとうございます」


 玲奈が包みを開いた。中には細身の青い指輪が入っていた。玲奈はその指輪をしばらく見て、目を閉じた。


 やがて静かに目を開けると、


「いつか、わたしが、刀を捨てられるときがきたら、刀の代わりにこの指輪を人差し指にはめます」

「それを願っている。篠原」


 玲奈はそのプレゼントをバッグにしまうと、頭を下げた。


「それでは、本当にありがとうございました」


 そう最後の言葉を告げて、玲奈は背中を向けた。


 出口でも再度頭を下げた。足音が遠ざかってゆく。


 園川はこぶしを握り、体を硬直させ、玲奈の足音を聞いていた。


 玲奈は覚悟をして、輪神教会を立て直すために会社を辞めたのだ。


 仕方のないことなのだ。


 園川は自分にそう言い聞かせた。






 そのとき、スマートフォンが振動した。


 見ると『PinkRabbitChan』――未由からのメッセージがきていた。





   *   *



 パパは言っていました。


 本当に大切なことは、単純で純粋なことなんだよって。


 輪の神様は、純粋さの中にいるんだよって。


 それをあらためて、園川さんに教えてもらった気がします。


 それまで、わたしも岸中さんみたいに、真っ暗な道で、迷っていたから。


 だから、園川さん。


 あなたにも、純粋な、心の勇気を。



   *   *




 玲奈の足音は遠ざかり、おそらくエレベーターの前で止まった。


 そのとき園川は、自身の心臓が激しく脈動しはじめるのを感じた。


 そして、園川は霧の中に光る遠い真実を見つけたように、弾かれたように走りだした。








 第7章 手にしたもの おわり


 ヘヴン・クラウド・リコグニション おわり

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ヘヴン・クラウド・リコグニション 浅里絋太 @kou_sh

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