狐目の男が言うには、

@nahanahanosato

狐目の男が言うには、

充血気味な狐目の男に出会ったのは、年明けの冬のことだった。居酒屋で同僚と飲んでいた時だ。

「もう娘がさ~。俺の洗濯物と一緒に洗ってほしくないって母さんに言ってるらしんだよ」

 同僚とはもう学生時代からの付き合いだ。高校時代はラグビーをしていて、今もその体躯はあの当時に劣らないくらい健在だ。そんな巨漢の人物がせせこましい飲み屋で、体を縮こまらせてメソメソしているのはなんだか謎のテーマパークに来ているような気分だった。

「そんな気にするなよ。娘なんてそんなもんだってお前も何年か前に言ってただろう」

 僕はビールのジョッキを傾けながら、軽くあしらう。こういった類の愚痴は慣れっこだ。やれ娘が冷たいだの、彼氏ができたらどうしようなどと、こうしてこの居酒屋で話を聞いてきたのは何度目か、もう数えていない。

 さっきも言ったようにどうせ思春期なんてそんなもんなのだから、さっさと諦めてしまえばいいのにと思う。

「くー、お前はわかんねーよ。まだ子どもいないんだから」

 そう僕と僕の妻の間にはまだ子どもがいない。

「そういえば、今どんぐらいだっけ?」

「もう五か月とか六か月とかだな。いわゆる安定期?ってやつ」

「もうそんなになるのか。いよいよお前が父親かあ。時の流れってすげえな」

 まだ、と言ったのは文字通り「まだ」であるからで、未来的には僕と僕の妻との間に子どもがいる可能性は非常に高い。可能性が高いというのは、もしかしたらそうでないかもしれないからそう言った。願わくはそうなって欲しい。

「大変だったもんな。不妊治療だったりで時間かかっちゃたし」

「大学出てほぼすぐに子ども作ったやつに比べればな」

「なんだよ、それ~」

 かつては隣を見れば同年代の人間たちが子育てについて話しているのを、場合によっては苦痛と感じていた僕が、ついにこんな意味の分からないジョークを発信できる。少し前では考えられないことだ。

 僕は今、満ち足りている。妻がいて、子どもが出来て、友もいて、もうこれ以上の贅沢はないだろう。


 店はもともとあまり広い店でないため時間が経つと客もどんどん増えてくる。好物の枝豆を食べながら同僚と話していると、

「すみません……」

 こじゃれた雰囲気の男が声を掛けてきた。

「人が多くって一人じゃ座れないもんでして。よかったら相席していただけませんか」

 確かに回りを見渡すとなかなかお一人様でパーソナルな飲食のスペースを確保するのは難しそうだった。

「大丈夫ですよ。なあ、いいよな」

「おう。袖振り合うも他生の縁ってやつだな」

「ありがとうございます」

 同僚からも許諾を得て、その男は恭しく座った。

 男は細く鋭い、狐のような目がとても印象的だった。


「あー、それはたいへんだ!でも娘さんの気持ちも分かりますよねえ。我々もかつては反抗期なるものがありましたから。これも親の務めなのかもしれませんねえ」

「分かってるんです。分かっているんですよ。でもなかなか現実を受け入れられなくて……。少し前までは「パパ―」って抱っこせがんできてくれたのを思い出すと……」

 狐目の男はなかなか人に取り入るのが上手かった。ご覧の通り、同僚はすっかり絆されてしまった。僕としても面白い人だと思った。聞き上手でありながら、いろんな知識を持つ話し上手でもある。営業にでも行けば相当な成績を獲得できそうだ。

「貴方はあまりお酒が得意でないですか?」

「あ、ぼ、僕ですか」

 調子よくなって酔いだしている同僚を肴にちびちびと飲んでいたら話を振られた。こういう気遣いも粋だ。

「僕は別に得意じゃない訳じゃないですよ。普通に飲めます」

「でも同僚の方ほど飲まれていませんけど……」

「流石にそれはこいつが飲みすぎなだけですから」

 僕と違って同僚は宅飲みをしない。というか出来ない。奥さんはお酒が飲めないし、子どもにもよくないということで結婚当初から家ではお酒は飲まないということになっているらしい。なので反動で、外で飲むときにはこのようにして結構な量を飲む。

「そんなことないよー、普通だよー」

「いや普通ではないと思うぞ?」

「というかそっちも嫁が妊娠してからお酒控えてない?」

「おや、お子さんですか」

 同僚の指摘は正解だ。僕は妻とよく宅飲みをしていた。けれど妻が身ごもり、アルコールを控えるようになったので、僕も同じように控えるようにしていた。

 こうして外で飲みに行くこともあるが、その場合でもなるべく少なく飲むことを心掛けてはいる。

「いいですねー。子どもかー、私も欲しかったですねえ」

「いやいや俺らとそんな年代変わんないでしょう。諦めるの早いですよ」

 狐目の男はその独特な雰囲気も相俟って年齢不詳の空気を醸し出しているが、多分子作りをもう諦めてしまうような年齢でもない気はする。

「自分語りは気が引けますが、少しばかりお話ししてもいいでしょうか」

「どうぞどうぞ。俺なんてずっと自分の娘語りばっかりでしたし」

 そりゃそうだ。

「では失礼して……。面白くもない話ですがね、私実はかつての恋を忘れられない男でして。恥ずかしい話です。こっぴどくフラれたにも関わらず、未だに彼女の幻想を追い求めている。向こうはいつの間にやら子どもまで生んでいるのに、私だけ心が子どもなままなんですよ」

 男は恥ずかしさを紛らわすためかビールを一気に煽った。

「ッカァーー!」

「うわ、いい飲みっぷりー」

 初対面では飄々としたスマートな人物そうだと感じていたが、意外と恋愛に関してはそうはいかないようだ。

 こういう出会いも居酒屋ならではの一期一会だろう。

「その点、貴方はお子さんももうじき生まれてくるようで、大人ですねえ」

「いや、僕なんてまだまだ大人じゃないですよ」

 そう僕なんてまだまだだ。子どものためにも自分で自分を誇れるような大人になりたい。

「そんな謙遜を」

「いやいや、本当にまだまだですよ」

「いやあ、貴方はいいお父さんになりそうですねえ」

 この人はやはり人に取り入るのが上手い。こんな見え透いたお世辞で嬉しくなっている自分がいることが恥ずかしいくらいだ。

「あと、そういえば、こんな話もあるんですけどね:

 そう言って男は僕の目を、その狐目の顔に下卑た笑みを浮かべて言った。


「貴方のお子さん、本当に貴方のお子さん何ですかねえ?」


 気付けば僕は彼の襟を掴んでいた。

「お、おい。落ち着けって」

 同僚はパタパタと落ち着けジェスチャーをしてくるがそんなものは気にしていられない。

 今大事なのは、この狐目の男が妻を侮辱するような発言をしたことだ。妻が不貞をしたのだと、公然と証拠もなく言い放ったことだ。

 しかしこの男、結構な力で締め上げられているはずなのに、全く動じるところがない。発言を撤回するどころか、むしろニヤニヤしてこちらをその目で見返してくる。

「奥様がご懐妊されたであろう時期。貴方は仕事で忙しかったんじゃあありませんか?」

 確かに妻の懐妊時期、仕事が繁忙期で僕は疲れていて、子作りに励んだということは正直なかった。

 それでも全くセックスをしていなかった訳ではないし、何より、

「妻はそんな不貞を働く人間ではない」

 僕は確固たる自信をもってそう言った。

 しかし男のニヤニヤは収まることはなく続いていた。

「タカダ・マサヤス……」

「は?」

「タカダ・マサヤスという男に覚えはありませんか?」

 タカダ・マサヤス……。沸騰する脳のリソースを一旦割いて検索してみたが、僕のデータベースは覚えがないようだった。

「B社の従業員です。貴方たちの会社はB社と取り引きしていたと思いますが」

 なぜこいつは僕らの勤め先とその取引先を知っているのか。問い質そうと襟を掴む手に力を込めた瞬間だった。

「あー、思い出したわ。高田雅康。一回だけ一緒に仕事したことあるな」

 同僚のデータベースにはB社の高田雅康というデータが存在していたようだ。

「ね?実際に居るでしょう?」

 さも自分が正しいかのようにふるまう姿勢が気に食わない。

「名前を出すだけなら、当てずっぽうでも出来るだろう。証拠を出してみろよ、証拠を」

「証拠なんて、貴方の身近にあるじゃないですか」

「は?どういう……」

「奥さんはきっと貴方が浮気に気付いてないとお思いでいらっしゃるでしょうから。沢山証拠も出てきそうですねえ」

 なおもニヤニヤとする男の顔を殴った。狭い店内なので他のお客を巻き込み吹っ飛んでいった。

「キャー!」

「何だよケンカか?」

 それぞれ思い思いにうるさくしていた人たちが、一斉にこちらへ向く。

「僕帰るわ」

 そう言って、食べた料金分よりかは多分高いであろうお金を同僚に渡して、店を出た。

 後始末を全て同僚に委ねてしまい申し訳ないが、そんなことはもう気にしていられない。

 早く帰って妻に会いたい。僕は家路についた。

 同僚と飲みに行って腹立たしい思いをして家に帰るのは何気に人生で初めてな気がする。今はとにかく妻に会いたい。会ってあの笑顔をこの瞳に焼き付けたい。

「貴方のお子さん、本当に貴方のお子さん何ですかねえ?」

 そういったあいつの下卑た笑みが、僕の想像上の妻の笑顔を上塗りして止まない。

 気持ちが悪い。

 気味が悪い。

 信じられない。

 受け入れられない。

 生理的に無理だ。

 ずんずんという足音が聞こえてきそうなほど強く大地を蹴り、僕は家路を急いだ。


「ただいまー」

 いつ何時も欠かさない帰宅の挨拶。居酒屋でのムカつく気持ちなんて微塵も感じさせないように、いつもの平静な気持ちで声を出す。すると自分でも驚くほどしっかりした声が出た。

「はーい、おかえりなさい」

 妻がリビングからひょこっと顔を出してくれる。

 ああ、いつもの笑顔だ。あの男がどれだけ下卑た顔を見せてこようが、これに勝る印象はない。僕はずっとこの笑顔だけ愛していよう。

「いいよ、いちいちで迎えなくて、妊婦さんなんだから座ってて」

「大丈夫よ、このくらい距離でどうにかなんてならないから。それより今日は帰るの早かったわね。飲んでくるって言ってたのに」

「ああ、まあちょっとね……」

「あ!もしかして……浮気?」

「え⁉いやそんなことする訳ないじゃん」

「だよねー。第一、浮気するなら普通遅く帰ってくるし」

 そういって妻はリビングに戻っていった。僕はお風呂といって洗面所の方へ行った。

 驚いた。まさか妻から浮気なんて単語を聞くことになろうとは。

 当たり前だが、僕は浮気なんかしていない。全身を以て潔白を証明できるし、例え妻に浮気を疑われようとも何も怯むことなどないはずだ。

 けれど、どうしてもあの男のことが頭を過る。

「貴方のお子さん、本当に貴方のお子さん何ですかねえ?」

 もしかして妻は本当に浮気していて、僕に対してブラフを掛けたのだろうか。

 …………。

 考えても分からない。僕はお風呂に入り、外で付けてきた菌を全て落とすかのように念入りに体を洗って、湯船に浸かった。


「はい、牛乳っ」

 お風呂から出た僕を妻は牛乳を入れて待ち構えていた。これは僕らのいつもの日常で、僕がお風呂から出るのを牛乳を携えながら待ち構えていて、そして二人で映画を見るのが決まりだった。

「今日はこれをチョイスしました」

 日替わりでお互いが映画を選び、二人で疑似上映会をする。今日は妻の担当だ。

 妻は慣れた手つきでサブスクリプションサービスを操作し、お目当ての映画を探した。

「それじゃあ、上映開始」

 その映画は少し前に実写化された少女漫画原作の青春ラブストーリーだった。

 学校で有名なイケメン男子が地味系少女に心惹かれていく物語。弾けるような爽やかさと、胃もたれしそうなほどの甘酸っぱい胸キュンが詰まっている。

 妻は少女漫画好きなのでこういうのが好きなのは簡単に予想できる。僕も自ら選ぶことはないだろうが、妻が好きなので好きだ。

 物語は中盤を超え、地味娘ヒロインが親友ポジションへ恋の悩みを打ち明ける。「私なんかいいんだろうか」「自信が持てない」。

 そういうヒロインに親友は言うのだ。「でもアンタ好きなんでしょう⁉」と。

 とても青くきらめいている。

(きっとこんな子たちは浮気だ離婚だなんて、考えたりしないんだよな)

 そう思った瞬間、脳裏にあの男の顔が浮かんできた。

 ブンブンと頭を振って追い出す。妻とのせっかくの時間を無駄にしたくない。

「どうかした?」

 奇行に走る僕を見て心配してくれる妻。

「なんでもないよ」

 ああ、僕はきっと彼女のことが好きでたまらないのだろう。ずっと。一生。

 妻の方を見ると、手がぷらんと手持ち無沙汰だったので、握ってみた。妻は一瞬驚いたが、はにかんで握り返してくれた。

 僕は幸せな気分をもっと味わいたくて、妻に話しかけてみた。

「ねえ、僕らが出会った時のこと覚えてる?」

「急にどうしたの?なんか今日変だよ?」

 笑われてしまった。でもいい。妻に笑われるのは嫌じゃない。

「いいから、答えてよ」

「えー、分かったよー」

 そういって妻は咳払いをひとつした。

「あれは某有名アクション映画の新作が公開されたときのことでした。私はわくわくに身を包んでいると、となりからいきなりポップコーンの雨が降ってきたのです。何事かと思いきや、となりの席の方がポップコーンをこぼしてしまったのです」

「その節はどうもすみませんでした」

「いえいえ。かわいそうになった私は自分のポップコーンを分けてあげました。いいことをして気分が良くなったまま映画を見終えた私はさあ帰ろうとしていたところに、『あのもし良かったら、この後お茶していきませんか。あのポップコーンのお礼として!映画の感想会とかしながら』とナンパをされました。私はそこでとなりだった男性と映画を語りあい、仲を深めるようになりました」

 そう言って妻は、

「そう、それがアナタでした」

 僕の鼻に指を押し付けてきました。

「えへへ、ちゃんと覚えてるよ。出会い方も衝撃的だったし」

 妻は僕との出会いを忘れないでいてくれた。それだけで、ものすごい安堵を得た。

 僕らはきっとすれ違ってなんかいない。きっと夫婦として上手くやっていける。子どもが生まれてきても、きっと家族になれる。そう確信した。

 だから、僕はもっと突っ込んだことを聞くことにした、僕ら二人ならそんなことも笑い飛ばせる気がしたから。

「ねえ」

「ん?今日すごい話しかけてくるね」

「浮気なんてしてないよね」

 我が家のスピーカーだけが音を鳴らす、無の時間が少し続いた。気まずくなって妻の方を見ると、驚いたような顔をしていた。

 僕は不安になった。でもその不安を見透かしたように、妻はいつものような笑顔で答えてくれた。

「な……何言ってるの?そんなのある訳ないじゃん。もー」

 妻にバシッと背中を叩かれた。変なことを聞くなという叱責だろう。

「ごめんなんか。今日の僕おかしいよね」

「ううん、大丈夫だよ?でもホントに急にどうしたの?もしかしてマタニティーブルーとか?妊娠してないのに……」

「ははは、かもね」

 ほらこんなセンシティブな話題に触れても、軽口を言い合えるんだ。やっぱりあの狐目の男の言ったことは出鱈目だ。

 その時、あの狐目の男が頭を過った。

「……タカダ・マサヤス……」

「ん?何?なにやす?」


「タカダ・マサヤスって人知ってる?」

 その名前を出した瞬間、妻の顔色が変わった。

 僕は瞬時に少し遠くにある妻のスマートフォンを取った。奪われたことに気付いた妻が僕に縋りつく。

「待って!返して!それ私のだから!」

 妻は激しく取り返そうとするが、そこは男女。明らかなパワー差で僕は妻の抵抗を搔い潜る。

スマートフォンの暗証番号を打ち込む。普段一緒に生活しているから何気なく覚えてしまったパスコード。一生使う用事なんてないと思っていた。

 1 1 2 3

 僕らの結婚記念日だ。

 妻のスマホは僕のと同型の商品なのでロックを開ければ、スムーズに操作できる。

 標準搭載の連絡先のアプリを開き、僕らが使っている無料通話アプリも開く。そこには、

「高田……雅康……」

 字面こそ知らなかったが、この漢字を他で読むことはないだろう。

 確認を終えた僕は、妻の方を見やった。

 僕と視線が交差した妻は悟ったようだ。

 ああ、終わった。と

 暴れ回って散らかったものを片付け、僕らは映画を見ていたソファに再度、隣り合って座った。

 向かい合って座らなかったのは顔を見ると意思が揺らぎそうだったから、そして僕ら夫婦の特等席はいつだってここだから。

 重たい空気の中、妻はぽつり、ぽつりと話してくれた。

「彼と出会ったのはアナタと出会うもっと前の話」

「うん」

 驚くほど冷静に話を聞いている。この後の話はきっと数十分前に聞いていたら発狂ものの内容だろうに。

「私とマサヤスは付き合ってた。マサヤスはどちらか言えば不良で、評判は良くなかったけど、それでも私にはいい部分も感じたし、恋にときめいていたの」

「うん」

「でも私がだんだん彼についていけなくなって、そのまま自然消滅みたいに別れていったわ」

「そっか」

「でもアナタと結婚してからの同窓会で彼に久しぶりに会ったの。かっこよくて、危なげで、私は胸がときめいた」

「……」

「アナタとの時間はとても幸せで満ちていた。けれどそこにときめきはなかった」

 ああ、もうたくさんなのに、彼女の声を聴いていたいと思う僕がおぞましい。

「私にとってアナタは家族だった……。でもずっと恋人じゃなかった」

 そこまで言い終えてから妻はソファから降りて、僕に頭を垂れた。

「お願い、一生をかけて償って見せるから!私が家族以外に家族でいられるのはアナタしかいないの!きっとアナタを幸せにするから……」

 彼女との一生。何という甘言だろうと思った。しかし、

「ごめん。僕はもう君のことを家族としては見れない」

 妻のすすり泣く声だけが静かに部屋に流れていた。


 僕らはその後、その話をすることなく、いつも通り映画を見て、いつも通り二人でベッドに入った。

「この幸せが一生続けばいいのにね」

 僕の本心からの言葉だった。

「そうね」

彼女の言葉もまた本心だったと思う。

「幸せになってね」

「幸せになるわ」

 そんな海外映画みたいなクサい台詞が二人が交わした最後の会話だった。


 あの夜の後、目を覚ますと妻は我が家からいなくなっていた。たぶん実家にでも戻ったのだろう。若干の哀愁を感じてはいたが、僕もそれに引きずられることはなく、いつも通りの生活に戻った。

少し時間が経って、僕は知り合いの弁護士を通じて、妻とマサヤスに不貞行為による損害賠償請求を行った。妻の方は全く争う姿勢を見せず、ほとんど和解のような形になった。問題となるのは子どもの親権だけ。

 逆にマサヤスの方は徹底抗戦という様子だが、妻の証言もあるので事実認定も覆らないし、時間をかければじきに終わるだろう。

 裁判のためのいろいろなことがひと段落したので僕はあの居酒屋へ久々に寄ってみることにした。

「おーい、こっちです。こっち」

 せせこましい店内に入るとあの狐目の男がいた。

「いやー、こんなとこでまた会えるなんて偶然ですね」

「白々しいですね。あなたも会えると思っていたから飲みに来たんでしょう?」

 なぜなら僕がそうだから。

 

「あ、ビールと焼き鳥お願いします」

「あ、僕もビール」

 店内は相変わらずの喧しさで、憂いの気持ちを持つ余裕すら与えないようだった。

「裁判してるんですって?」

 注文したものが届いてから、最初に口を開いたのは男の方だった。

「ええ、しっかりけじめをつけるには離婚だけより、いいかなと。大変ではありますが、何とか頑張れそうです」

「そうですか、それはよかった」

 男はおしぼりに手を伸ばして、それっきりになった。

 僕らすぐ周りだけ静寂に包まれるが、それほど気まずい空気はなかった。

 僕はビールに一口飲み口内を潤してから、ここに来た理由を達成することにした。

「なんで僕に妻が不倫していること教えてくれたんですか?」

「なんでとは、どういうことですか?」

 肉を食べ終えた焼き鳥の串で僕をピッと指す。相変わらず、こういう風来坊な粋な仕草が妙に板についていけ好かない男だと思った。

「あなたには何も関係ないじゃないですか。僕らは初対面だったし、妻の不倫を教えるなんてわざわざ面倒なことしなくたってよかったじゃあないですか」

「なぁんだ、そういうことですか」

 机に備え付けてあった爪楊枝で、歯の間の鶏肉を取り除いた後、すっきりした声で応えた。

「こちらは貴方が不倫されたという恥を知っていますから、まあ私も私で恥を見せるべきでしょう。加えてあなたには私の目論見通り、あなたの妻と浮気相手を懲らしめてもらった恩もありますから」

 そう言って、男は動機を語り始めた。

 男はある女性と恋仲になり、とても幸せな日々を過ごしていたようだ。しかし、

「ごめんね、あなたよりいい人と出会っちゃったから……」

 そう言ってその女性は男の元を離れ、また別の男の元へ移っていった。いわゆる寝取り、寝取られというやつだ。

 男は涙に暮れた。なぜ自分の元を去っていくのか、一生を誓い合うはずだったのにどうしてこうなったのか。惨めさと後悔に押しつぶされそうだった。

 けれど男は決して女性を恨むことはしなかった。二人の別離は彼女を惹き留める魅力を欠いた自分のせいだと考えていたからだ。自分がもし彼女の立場に立ったならば、同様に別れていたのだろうと感じていたからだ。

 そんな失恋の痛みは、はじめはまるで業火に身を焼かれるような思いだったが、その苦痛も時間が流れるとともにどこかへ少しずつ消えていった。

 ほどなくして高校の同窓会が行われるという連絡が届いた。男は、あまり乗り気ではなかったが、

「気分転換に行ってみようぜ。もしかしたら新しい恋が見つかるかもしれないじゃん」

 正直新しい恋などには微塵も興味がなかったが、友人の優しさを有難み、行ってみることにしたそうだ。

 同窓会は予想より楽しく過ごせた。かつての友人たちとの久々の会話は青春を取り戻すようで、消えかけの失恋の痛みはそこで抹消された。

抹消されたはずだった。

 男は案外耳が良かった。障子に耳があるように周りの会話を無意識的に認識することが出来た。その中でその女性の話題が上がった。

 男は不意に、その話題を話していた元同級生の女子たちに声をかけてしまった。

 もう別れた相手の話を聞くなど男として情けないとも思ったが、会話の雰囲気が何やら不穏で、男はどうしても聞かなければならなかった。

 話によると、どうやら女性は、自分から女性を寝取った男との間に子どもをもうけたらしかった。しかし寝取り男は責任をとることもなく、女性はシングルマザーとしてたいへんな生活を送ることになり、行政の支援も受けているということだった。

 このとき男の中で何かがぐちゃっとなった。怒りであるか呆れであるか、それとも他の何かであるか、男には判然としなかったが、その激情は男に失恋の痛みを再度刻み付け、ある種の正義感を萌芽させた。

 復讐しなければならない、と。

 男は同級生から話を聞いたり、ときには犯罪まがいのことをしながら情報を集めていった。その中で、敵の名はマサヤスというのだということ、ある既婚女性との間でよからぬ関係を持っていること、そしてその既婚女性の旦那は今とても幸せそうだということだった。

「正味な話、その赤ちゃんが誰の子かなんて確信はなかったんです。けどまあどうせそうだろうなと思ったし、どっちにしろ不貞行為に及んでいるんだから、どっちの子かなんて関係ないですしね。だから貴方に話しかけた。まさかあの夜に速攻で話を始めるとは思いませんでしたけどね。まあ私としてはマサヤスに裁判を起こしてくれた時点で、何も言うことはありません。百点です。はなまる百点」

 男は飄々と語りを終えた。なるほどこちらも痴情のもつれなら、向こうも痴情のもつれだったようだ。結局はこの男の意のままの展開になっていたようだが、不思議と嫌悪感はなかった。きっと求めていた展開は同じだったからだろう。

「男女と言いますか……人間というものはなんと恐ろしく醜いものでしょうか。貴方もそう思いませんか?」

 男はそう言ってビールのジョッキを目線の高さに挙げた。

「はは……同感です」

 僕はそう言ってビールのジョッキをカランと合わせた。


「もう温かくなっちゃいましたねえ」

 店から出ても以前とは違って凍えるような寒さは襲ってこない。改めて時の流れを実感した。

「これからどうされるんですか」

「そんなの貴方だったら予想ついているんじゃあないですか?私たちは似てないようで、どこか通じ合う部分がある」

 これもまた僕の想像通りの答えだった。

「それでは私はこっちなので。裁判頑張ってください。微力ながら応援していますよ」

 そういって狐目の男は帰るべき場所へ向かうように踵を返した。

「ありがとうございます。ではまた」

 この言葉を最後に僕たちは真反対の方向へ帰路についた。振り返るとまだ彼のスマートな背姿が確認できた。

 その時僕はぼんやりと、彼とは二度と会うことはないんだろうなと、ふと思った。

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