第59話 最終話 朝陽に飛ぶ
玄関では、カイムを抱いたローズが、ヴァイゼと一緒に待っていた。
ダーヴィッドに遅れて、フェルが階段を下りて来る。
「ダーヴィッドさん、どうぞお気をつけて」
ローズが見送りの挨拶をすると、ダーヴィッドはローズの手を恭しく取った。
「姫君、あなたがこうして生きておられる事が、母君の何よりのお望みでした。それゆえに、あなたをお手放しになられたのです。どうぞそれを、覚えておいて下さい」
そう言って、ローズの手に口付ける。
そしてダーヴィッドは、フェルに頭を下げると、馬車に乗り込んだ。
庭園を抜けて、門を出て行く馬車を見送りながら、ローズが小声でフェルに言う。
「わたし、『お城に連れて行く』って言われてしまうかと、ちょっと思っていました」
ペロッと舌を出して、首をすくめた。
「行ってもいいんだぞ、王女様」
フェルがニヤリと笑って、意地悪く言うと、ローズはプルプルと首を振った。
「行きませんよ。・・・だいたい、王女様ってどんな仕事をするのですか?」
「え、仕事?・・・どんな仕事してるんだ、ヴァイゼ?」
急に水を向けられて、ヴァイゼも首を傾げる。
「わたしは魔獣狩人の仕事をしますから、王女様にはなれません。・・・フェルさん、わたし薬草の本を読んでいるのですよ。絵が付いている本を、おじい様が貸して下さったのです。フェルさんがヴァイゼを治療していたのを見て、わたしも覚えた方が良いと思って」
ローズは笑顔で言った。
「・・・そうか」
フェルが微笑む。
「このお庭にも、傷に良い薬草があるのです。・・・ほら、あの黄色い花ですよ」
庭園の右端を指差したローズは、そのままその方向へ走って行った。
ローズの腕から飛び立ったカイムが、楽しげな啼き声を上げる。
その光景を、フェルは目を細めて見た。
「・・・どうかしたのか、フェル」
ヴァイゼが様子を気にしてくる。
「いや・・・」
言いかけて、フェルは薄く笑った。
やはりヴァイゼはごまかせない。
「ヴァイゼ、話がある」
ヴァイゼは青紫の瞳を、フェルへ向けた。
それから、10日ほど過ぎた日の事。
西の空に月が残る夜明け前、ふとした気配で、ローズは目を覚ます。
カーテン越しのバルコニーに、人の影が長く落ちていた。
一緒に寝ていたカイムが、声を上げて飛んで行く。
ベッドから降りたローズは、カーテンをめくった。
「・・・フェルさん?」
バルコニーに立っていたのは、フェルだった。
傍らにはヴァイゼもいる。
ローズはガラス戸を開いた。
フェルの格好は厚手のマントで長身を包んで、肩口からは背負った槍が斜めに出ていた。
魔獣狩人の支度だった。
「出発ですかフェルさん。すいぶん急ですね」
ローズの声に、フェルはただ微笑みだけを返す。
「少し待って下さいね、すぐに着替えますから」
そう言ってローズは、自分の服がしまってある戸棚へと駆け寄った。
「いや、いいんだ。別れを言いに来ただけだから」
え・・・?
戸棚の取っ手を握ったまま、ローズはフェルを振り返った。
「俺とヴァイゼだけで行く。お前はカイムとここに残れ」
「どうして?」
「お前には学ぶ事が沢山ある。ここで勉強した方がいい」
フェルの言っている事が理解できない。
ローズは、長い寝巻きの裾に足を取られながら、フェルの元へと走った。
つんのめりそうになった身体を、フェルの腕が抱きとめる。
「どうして?わ、わたしが邪魔になったの?」
「そんなはずないだろう」
フェルが笑う。
「勉強なら旅先でもできます。本を持って行くもの」
「文字だけじゃない。他にも学ぶべき事は沢山ある。お前はエルーガの王女だろ、相応の教養を身に着けなくてはな。祖父様の元でならそれが受けられる」
ローズは呆然として、フェルを見上げた。
思ってもみなかった。
フェルがそんな事を言うなんて。
「わ、わたしは魔獣狩人になります!わたしが決めた事です!もう他の誰にも、わたしの事を決めてほしくはありません!」
フェルの腕を握り締めて、ローズは強く言った。
だがフェルは、まっすぐにローズの目を見つめて、ゆっくりと首を横に振った。
「よく聞くんだローズ。これからお前が、自分で決めた道を間違いなく歩く為にに、必要な事なんだ。お前がどう思おうと、お前がエルーガの王女であり、ヴルツェル皇帝の血を引いている事は、間違い無い事実だ。必ず、お前を利用しようとする者が現れる。それらから自分を護る為に、知らなければならない事が沢山ある・・・分かるよな?」
ローズも首を振る。
分かりたくない。
それが正しいのだとしても、理解したくない。
「それでも一緒に行きたい!フェルさんと一緒に!」
握ったフェルの腕を決して離さないと、ローズは力を込めた。
「・・・一年だ。来年の夏、必ず迎えに来る。そして魔獣狩人の仕事を教える。約束だ」
宥めるようにフェルが言う。
ローズは何度も首を振った。
「一年も離れているなんて、嫌です。こ、ここに置いていかれたら、きっとフェルさんは安心してしまって、帰って来ない。きっと、きっと・・・」
「・・・ローズ」
苦しげな声で名前を呼ばれて、ローズは顔を上げる。
大きな手が頬に触れたと感じた瞬間、フェルの顔が間近にあって、唇が柔らかく塞がれる。
口付けだと理解した途端、ローズの身体から力が抜けて行った。
初めての事で、どうして良いのか分からない。
唇が離れて、フェルが自分を見ているのが分かっても、恥ずかしくて顔を上げる事ができなかった。
するりと、フェルの腕がローズから離れる。
気づいた時には、フェルはヴァイゼに跨っていた。
ヴァイゼの翼が、大きく羽ばたく。
「元気で、ローズ」
フェルの声を残して、ヴァイゼはバルコニーから飛び立った。
ローズは駆け出して、バルコニーの手すりに取りすがる。
カイムがヴァイゼの後を追って、飛んで行った。
「待って!わたしも連れて行って!」
力いっぱい叫ぶ。
バーチ家を逃げ出した夜と同じように。
・・・しかし、今度は・・・戻って来ない。
「お願い・・・置いて行かないで・・・」
涙がこぼれる。
フェルを乗せたヴァイゼの姿は、上り始めた朝陽に溶けて、どんどん小さく、見えなくなって行ってしまう。
ローズはバルコニーの手すりに頭を付けたまま、いつまでも泣いていた。
小さなグリフォンが、追いすがろうと、懸命に翼を動かしている。
「・・・カイム、ローズの元に戻ってやってくれ。ローズを頼んだぞ」
ヴァイゼはそう言うと、吹き上げる風を捕らえて更に高く飛んだ。
追いつけないと知ったカイムは、「キュー」と大きく啼いて、館の方へと戻って行った。
「・・・後悔しないのだな?フェル」
ヴァイゼが問う。
「多分、な」
そう言ってフェルは、自分の唇を指で触れた。
「・・・柔らかい唇だったな」
ヴァイゼが呟く。
「そうだな」
フェルはおざなりに返事をした。
・・・。
「・・・ヴァイゼ、今の会話、どこかおかしくないか?」
「気のせいだろう」
それこそ気の無い返事だった。
「不機嫌だな、相棒」
珍しい、という言葉を、フェルは辛うじて飲み込んだ。
「その理由を語れというのならば、地上に降りた方がお前の為だと思うが」
冷ややかな声に、フェルは苦笑しながら鞍の取っ手をしっかり掴む。
この高さから振り落とされては、命が無い。
ローズを置いて行く、という決断に、ヴァイゼも納得したはずだった。
けれど、実際に別れとなると、感情的になってしまうのだろう。
それにしても、ヴァイゼには珍しい事だ、とフェルは思う。
・・・分からなくもないが。
「フェル、後悔しているか?」
「さっき言ったろ、多分しないって」
「ローズを連れて来た事だ。後悔するのは先だと言っていた」
「・・・ああ、それか」
東の海から朝陽が昇って、フェルはまぶしさに目を細める。
「後悔したよ。・・・俺じゃ無ければよかったのに、って何度か思った」
結局、何もしてやれなかったと、思う。
護ると言いながら、護ってもらったのは自分だったと、思う。
だから、今度こそローズを護りたい。
だから・・・。
ローズが掴んでいた腕に、ピリッと痛みが走った気がして、ふと目をやった。
「・・・フェル」
大きなため息と共に、ヴァイゼが呆れたというような声を上げる。
「そんな事を言うようでは、お前もまだまだ未熟だな。ローズ同様、少し腰を据えて学ぶ必要があるのではないか?」
そう来たか・・・。
思わずフェルは、笑いを洩らす。
そして、後ろを振り返った。
やけに見晴らしの良い背中越しに、小さく王都の街並みが広がっている。
「・・・本当に戻らなくて良いのか?」
ヴァイゼが聞いた。
もう、館は見えなかった。
終
獅子の翼 矢芝フルカ @furuka
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