万年筆と或る男

ミナガワハルカ

万年筆と或る男

 世に文具は数多あまたあれど、文具の王たるにふさわしいのは、やはり万年筆であろう。

 高級な素材が使われ、精密な作業によって完成されるペン。ボールペンなどの簡便なペンがいくらでもあるこの時代に、いまだ現役で使用され続けている。機能性と風情ふぜいとを完全に両立させた、究極のペンであると言えよう。

 そもそも、筆記具というのは文具を代表する存在である。ちょうど、剣が武器を代表するようなものだ。「由緒正しき武器」と聞けば、誰もが真っ先に剣を思い浮かべるだろう。同様に、「文具」と聞けば、大体の人間が筆記具を思い浮かべる。異論があるかね?

 ならばやはり、筆記具の王たる万年筆が、文具の王たるにふさわしいことは、議論の余地がない。

 しかしながら、その万年筆の中にあってさえ、厳然たるヒエラルキーが存在するのが現実だ。特に、最近は安い素材で簡便な作りの廉価版も多くなってきた。万年筆という存在を普及させ、その繁栄を保つという目的のためにはやむをえないことではある。だが私は、申し訳ないが、彼らとは一線を画する。

 私は誰あろう、モンブランのマイスターシュテュックだ。

 驚いたかね?

 1924年の世出以来、常に皆から愛され、尊敬を受け続けてきた、あのマイスターシュテュックだ。

 私は職人の手作業により部品から微調整を重ね、一本ずつ生み出された、最高品質、最上級の筆記具だ。大量生産の者たちとは、出自が違う。手にとってみれば、違いは明らかだ。黒い光沢は気品に満ち、ペン先にわずかに見える黄金色の輝きは鍍金メッキではない。しっとりと手に馴染み、ひとたび紙の上を走らせれば、なめらかに滑りだす。王者の風格とはくもあらんというものだ。


 私は、1983年、この世に生を受けた。

 日本がバブルに向かう好景気の中にあり、社会全体に活気があった、あの時代だ。

 あの頃はよかった。

 私は、有隣堂という書店の三階、文具売り場におごそかに陳列されたが、すぐに売れてしまった。

 私を買い求めたのは、当時三十歳の男だった。

 男はしがないサラリーマンであったが、三十歳を節目に、まともな万年筆を購入しようと思い立ったらしい。彼は私を選んだ。正解であっただろう。私であれば、いついかなる場面で懐中から取り出したとしても、衆目しゅうもくさらして恥ずるところがない。

 彼には妻と、二人の子供がいた。家族のため、出世をしたい。彼は希望と野心に満ち溢れていた。いや、彼だけではない。あの頃は、そういう時代だったのだ。やはり、あの頃は良かった。

 朝から晩まで、彼はがむしゃらに働いた。サービス残業、休日出勤、休日の接待ゴルフは当たり前だった。その見返りに、彼の給料も上がった。世はバブル景気。誰も彼もが浮かれていた。

 しかし、泡のように膨らんだ幻想の時代は、長くは続かなかった。

 80年台が終わり、昭和が去るとすぐに、バブルが弾けた。それから諸君もご存知の通り、日本は長い低迷の時代を迎える。

 彼の会社も、やはり経営が悪化し、大量のリストラを余儀なくされた。ただ、彼にとって幸いだったのは、その時点で彼はリストラされる方ではなく、する方であったことだ。上から、何人リストラするから対象者を選べと言われた。

 彼は苦悩しながら、リストに印を付けた。

 家族もあり、マイホームのローンも残る彼に、それ以外の選択肢はなかった。

 もちろん、その時に使用されたペンは私だ。私は常に彼と共にあった。努力も、苦悩も、喜びも、常に分かち合ってきた。私はそれに値するマスターピース(名品)なのである。

 その後も彼は懸命に働いた。

 妻はパートに出て家計を助けた。家のローンと子供二人の学費。妻の助けを借りないわけにはいかなかった。人間は、矜持きょうじだけでは生きていけないのだ。

 彼が四十五歳の時、息子が大学受験に失敗した。

 息子の努力する姿を見てきた彼は、なんとか力づけ、背中を押してやりたかった。だが、仕事に没頭してきた彼は息子と腹を割って話した経験がなく、どうすればいいのかわからなかった。

 娘にしてもそうだ。

 彼が四十六歳の時には、娘と帰宅時間のことで口論になった。

 威厳を見せようと叱りつけたのはいいが、思わぬ反発にあってたじろいだ。娘が部屋に閉じこもったあと、妻から、娘がもう子供ではないことを教えられた。

 だが、ではどう接すればいいというのか。

 自慢するわけではないが、いずれの場面も、解決に多大な寄与をしたのは、私である。

 男は、自分の思いを手紙にして渡したのだ。

 面と向かっては言えないようなことも、文字にすれば伝えることができる。手書きであれば尚更だ。そしてこの場合、ボールペンのような無味乾燥な輩では力不足であることは否めまい。

 もちろん、私の力のみで解決したわけではない。だが、一助をなしたことは認めてもらっても良いはずである。


 西暦二千年。

 新たなる世紀。

 世間はミレニアムという言葉に湧き立ち、暗澹あんたんたる閉塞感から束の間の解放を求めた。まだ経済は泥沼の中にあり、振り返ってみれば、いわゆる「失われた10年」のただ中にあったはずだが、人々はまだ、その現実を受け入れられずにいた。

 この頃からである。パソコンというものが普及し始めたのは。

 ボールペンやマジックは、文房具である。取り扱いが簡便であるとはいえ、結局は、手書きのための道具である。しかし、パソコンは違う。何やら板を叩いて入力した文字は、即座に電子記号となって社会に共有され、あらゆる柔軟さをもって活用されていく。もはや、文字を手で書くという行為は非効率であり、会社においては罪悪ですらあった。それまでにも、ワープロというものはあった。だが、パソコンの普及というのは、それとは次元が違っていた。我が主人も、パソコンの習得を求められた。

 我が主人は、字が綺麗な方である。

 字は人柄を表すというが、我が主人の字は、その誠実で朴訥ぼくとつな人柄を現した、良い字である。

 しかしもはや、そんなものに価値はなかった。

 たどたどしく板を叩き、文字を入力する我が主人の背中は、なんと丸く、縮こまっていたことか。

 わからないことがあり、部下に質問をする。

 その部下は、舌打ちせんばかりの態度で答える。

 稚拙な文字しか書くことのできない、子供ほどの年齢の部下であるというのに、である。

 私もいつしか、机の抽斗ひきだしにしまわれる時間の方が長くなっていった。

 そんな彼も、六十歳で定年を迎えた。

 会社から、その後の身の振り方を聞かれた彼は、あっけなく会社を去ることを選んだ。嘱託として残る道もあったのだが、彼は一顧だにしなかった。私には、彼の心情が理解できる。

 だが、会社を去ったとはいえ、彼には呑気に隠居していられるほど蓄えがあるわけではなかった。彼はそれから、アルバイトを始めた。

 アルバイト先では、最初は自分の子供より下の年齢の「先輩」に教えられ、叱られる毎日だった。だが彼も、ひとつの会社を定年まで立派に勤め上げた人物である。そのうち業務にも慣れ、問題なくこなせるようになっていった。

 だが、彼は思わずにはいられない。

 会社のために身を粉にして働き、尽くしてきたのは一体なんだったのか。

 私の人生は、意味があったのだろうか。

 家族のために、どれほどのことをしてやれたのだろうか。

 ことわざに、「虎は死して皮を残す、人は死して名を残す」というものがある。自分は果たして、わずかでも名を残すことができたのだろうか。

 そんなある日、いつものように食卓で新聞を読んでいる時、子供たちの会話が聞こえてきた。娘が息子に、有隣堂のYouTubeが更新されたと教えていたのだ。

 男は興味を持った。当然である。本をあまり読まない男は、本屋に行く機会がほとんどなかった。だが、有隣堂は彼と私の出会いの場である。特別な場所なのだ。

 男は子供に頼み、その動画を見せてもらった。

 動画の中では、妙なマスコットキャラクターが司会進行役を務め、個性的な店員たちが動画を盛り上げていた。

 男は、妙な感慨に打たれた。

 有隣堂は、創業から百年を数えようかという老舗企業である。

 その老舗企業が、なおも新しいことに挑戦している。既存の概念にとらわれず、新しい価値観を作り出そうとしている。その挑戦がいかほど偉大なことか、今の男には、身に沁みて理解できた。

 彼は、奮い立つ自分を感じずにはいられなかった。

 自分はまだまだ健康である。まだまだ、やれるはずである。何か、新しいことに挑戦できるはずだ。

 男はひとつ、気になった。

 彼が見た動画の中で、有隣堂をテーマにしたWEB小説を募集していたのである。

 男はそれまで、小説などというものを書いたことはなかった。そればかりか、読んだことさえ満足にはない。

 だが、挑戦してみたいと、男は思ったのである。

 今、男は挑戦している。

 ああでもない、こうでもないと考え、小説を書いている。

 だが、ひとつ残念であるのは、男が小説を書いているのは、パソコンなのである。

 私を使ってでは、ない。

 WEB小説なのだから、やむを得ないことではある。万年筆で書いても、それを公開することはできない。

 いいだろう。

 耐久性は、万年筆の特徴の一つである。

 もしも彼が人生の幕を降ろしたとしても、私は健在である。

 私は、文具に王たるものである。

 私は、モンブランのマイスターシュテュックなのである。

 必ずや、私は誰かに引き続いて使われ、文字を生み出し続けるのだ。

 私の黒い光沢は、永遠に輝き続けるのだ。

 だが。

 万年筆は、使い続けることで、ペン先が磨かれていく。

 ひとりの人間が使い続けることで、万年筆はその人間の癖、書き方に馴染んでいく。いわば、使い続けることで、その人間のための、たったひとつの万年筆となるのである。

 数十年の時を経て、私はもはや、この男の万年筆となってしまった。もし次の持ち主の手に渡ったとしても、それは、本当の意味での主人ではないのかもしれない。


 私は、抽斗ひきだしの中でひとつ、大きなくしゃみをした。

 後に残った静寂の、なんと静かなことか。




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