Étoile
鏡の中の世界は、夜の闇の中に、無数の星がまたたく大舞台だった。観客は一人もいない。
「ちせ、やっとこうして会えたね」
声をかけられて振り向くと、後ろにタツヤが立っていた。白鳥の湖の王子、ジークフリートの衣装をつけている。透先輩は白い衣装だったけど、タツヤの衣装は黒に金糸をあしらったものだった。舞台の衣装をまとっているのに黒いマスクはつけたまま。真っ黒な彼は、気をつけて見ていないと、そのまま闇の中に吸い込まれてしまいそうで、私は無意識にタツヤに駆け寄っていた。
「やっと会えた、って。私たちいつも会ってるじゃない」
「それは、いつも鏡越しでしょう? こうして、面と向かって話せるのが嬉しいんだ」
改めて、目の前に現れたタツヤを私はじっと見つめた。練熟したバレエの知識と的確な指導から、私はタツヤのことを、少し声が高めの大人のお兄さんだと思っていた。けれど、私の目の前に現れたタツヤは、思っていたよりも小柄で、年齢は私と同じくらいに見える。身長も私と一緒のようだ。手脚は折れてしまうんじゃないかと思うくらい細かった。
「ちせ、今日の白鳥と黒鳥の踊りはとても素晴らしかったよ。僕、見ていて感動した」
「ほんとう? タツヤにそう言ってもらえるとすごく嬉しい」
「……今度は、僕と踊ってくれないか。」
タツヤが、遠慮がちに手を私に伸ばす。彼の白い手に触れる。ひんやりしているけど、たしかに感触がある。いつもは何となくの冷気だけなのに。嬉しくて、わたしはきゅっとタツヤの指を握って、舞台に一緒に躍り出た。
不思議なことに、舞台直後だというのに、この空間ではまったく疲れを感じない。いつまでも、いつまでも踊っていられそうな気がする。
人の観客は誰もいないけれど、かわりに、空にきらめく星たちがお客さんのよう。鏡の中の世界だから偽物の星なんだろうか。でも実際に見るよりも大きく輝いてすごく綺麗だ。
タツヤの細い手に身体を委ねていいものか最初はハラハラしたけれど、彼の手は思っていた以上にしっかりした。体幹がしっかりしているんだろう、見た目以上に安定感がある身体でブレが無い。透先輩とはまた違う感じだけど、やっぱりタツヤも踊るのがすごく上手だ。
一曲踊り終えて、すぐ隣に立つタツヤを見る。黒髪とマスクの間からのぞく、夜空のように綺麗な瞳が私を見つめている。……彼の顔をもっと見てみたい。タツヤのことをもっと知りたい。
私は、彼の顔に手を伸ばして、マスクを下におろしてみた。……そこから見えたのは、赤黒く爛れた頬と口だった。ひっ、と思わず息を呑んだ。
「あっ!! 何をするんだ!!」
不意に強い力でタツヤが私を突き飛ばした。抵抗するまもなく、私は舞台の床の上に叩きつけられてしまう。
タツヤは倒れた私のことなど目に入っていないようで、顔を覆ってうずくまってしまった。身体がぶるぶると震えている。
「なぜ、なぜ見たんだ、ちせ!! 君には……君には見られたくなかったのに!!」
「わ、わたし……ただ、タツヤの顔がもっと見たくなって……」
「勝手に見るやつがあるか!! 馬鹿!!」
どんなに厳しい指導でも、決して大声は出さなかったタツヤが、怒りに任せて怒鳴りつける。恐ろしいのか悲しいのか自分でもわからないまま、私の目からぽろぽろ涙が溢れた。
「……出ていって、ちせ。もう僕を見ないで」
うずくまったままのタツヤが、すっと右手だけあげて空に向かってパチンと指を鳴らした。
目を開けると、私は楽屋の鏡の前に座り込んでいた。全部夢だったんだろうか。
急いで私服に着替えて荷物を持ち、楽屋のドアを閉める。すごく静かだ、早く帰ろう……。そう思って裏口に向かおうとして、そういえば透先輩はどうしただろうか、と思い直す。もう帰ってしまっただろうけれど、忘れ物の確認も兼ねて、一応舞台を一周しようと思った。
……舞台裏に、箱の雪崩が起きていた。あぶないな、と思って近づくと、箱の下から人の手がのぞいている。
「えっ……!? だ、大丈夫ですか!?」
急いで箱をどかしていくと、その下にはぐったりとした透先輩が横たわっていた。
「先輩!? 先輩、しっかりしてください!!」
返事がない。私は慌ててスマホを取り出し、119番に通報した。
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