君とパ・ド・ドゥ

藤ともみ

Reverence

 心臓が早鐘を打つってこういうことか、と思いながら、わたしは舞台袖で自分の出番に備えていた。

「ぶっつけ本番なんて無茶すぎるわよ」

「シッ、今更中止にできないでしょ!?」

 小声でみんなが不安そうにひそひそ話している。無理もない。本当のオデット役だった姫野先輩が今朝、急に熱を出してしまい、その代役が、脇役の白鳥役しかやったことがない私なんだもの。 

 オデットとオディールの踊りは、レッスンが終わったあとずっと残って練習していたけど、舞台で踊るのは初めてだ。けれど……。

『練習どおりやればいいんだよ、ちせ。僕がついている』

 そう、わたしは一人じゃない。舞台の上で彼が守ってくれるから、何も怖くない。彼の言葉に勇気づけられて、わたしはスポットライトの下に躍り出た。

『……そう、とても上手だ。最高だよ、ちせ!』

 彼の声がわたしを励ましてくれる。身体が軽い。私もまるで自分が白鳥になったような気がして、今にも飛べそうな気がした。

 そうこうしているうちに、ジークフリート役の透先輩が私を持ち上げる。透先輩と踊るのは今日が初めてだったけれど、先輩は私と息を合わせてくれる。先輩のリフトは魔法みたいで、私は本当に空を飛ぶ鳥になったような錯覚を覚えた。憧れの透先輩と踊れるなんて、夢みたいだった。

『…………』

 透先輩とのパ・ド・ドゥの時だけ、彼は無言になる。ヤキモチを焼いているのはわかっていたけれど、今は本番中なので彼をなだめることはできず、知らんぷりをするしかなかった。

 やがて、オデットが退場する場面になり、私は舞台の袖へと退場すると、みんなが目を丸くして私を見つめていた。

「えっ……すみません、私何か間違えました……?」

 心配になって尋ねると、みんなブンブンと首を横に振った。

「ちせ、すごいよ! いつの間にそんなに上手くなったの!?」

「姫野先輩にも負けないくらい素敵だった!」

 はしゃぐ友達の後ろから、スッと宮田先生がやってきて、みんな慌てて口をつぐんだ。

「……長谷川さん、素晴らしかったわ。この調子で最後までがんばってちょうだい」

「……はい!ありがとうございます!」

 厳しい宮田先生に褒められたのはこれが初めてかもしれない。嬉しくて、私は胸がはずんだ。

『ちせ、力んじゃ駄目だよ。気合が入るのは良いけれど、のびやかに踊ることを忘れないで』

 彼の声が聞こえる。

「……わかってるよ、タツヤ」

 声だけの存在に、私は小さな声でそっと答えた。


 舞台は大成功に終わった。

 カーテンコールでは、オデット/オディール役の私に、観客席から惜しみない拍手がシャワーのように贈られた。ずっと姫野先輩と透先輩の背中を舞台の端で見つめていただけの自分にこんな日が来るだなんて。私は夢を見ているような気持ちだった。

 恍惚とした気持ちのまま、着替えるのも勿体なくて、オデットの衣装のまま楽屋の椅子に座っていると、コンコンとドアをノックする音がした。どうぞと返事をすると、衣装から私服に着替え終わった透先輩だった。舞台を降りた先輩は、いつもの気さくな笑顔で私に話しかけてきた。

「素晴らしかったよ、長谷川さん。いつも遅くまで自主練習していた成果が出たね」

「えっ、見ていてくれたんですか!?」

「うん。覗くつもりじゃなかったんだけど、たまたま忘れ物を取りに帰ったときに、君がひとりで一生懸命自主練していたのを見かけたんだ。……あ、そうだ。良かったらライン交換しない?」

「は、はい!」

 透先輩からそんなことを言ってもらえるなんて夢じゃないだろうか。ドキドキしながらラインを交換した。

「もっとバレエのことを色々話したいな。よかったらスターボックスでも行こうよ」

 憧れの透先輩からのお誘い。こんなチャンス滅多にない。けれど……。

「でも、先輩。わたし、このあとも練習しないといけなくて……」

「頑張るのはいいけど息抜きも大事だよ。今日くらいはゆっくりしよう。着替え終わるまで外で待っているからね」

 透先輩は爽やかに言って、楽屋のドアを閉めた。

 その途端。楽屋の空気がぬるっと重く、湿っぽいものに変わった。部屋の電気も突然パッと消えてしまった。

『………ちせ、行かないだろうね』

 じっとりと絡みつくような、タツヤの声がする。鏡を見れば、そこには身体がうっすらと透けて見える少年……タツヤの姿が映っていた。

 顔の半分以上はマスクと黒い髪で隠れてしまっていて、素顔らしいところは左目くらいしか見えない。

 私は、その片方だけ見える瞳が、とても綺麗で、好き。見ていると吸い込まれそうな漆黒の瞳には、クラスの男子には見られない知性が溢れているようで、とても大人っぽく見えた。今はその瞳が、嫉妬で燃えている。タツヤはマスクで顔を隠しているから表情がわかりづらいけれど、目が雄弁に表情を物語るのだ。

「ちょっとバレエのことを話すだけだよ?」

『バレエの話なら僕の方が詳しいでしょ?』

「それはそうかもしれないけど……」

『行かないで。僕はあいつが嫌いだ』

 静かな怒りを孕んだ声に、私は身が縮む思いがした。けれど、同時に、たしかに嬉しいという気持ちがあった。

『あいつには、君に指一本触れさせたくない』

「……しょうがないじゃない、透先輩は王子様役なんだから」

『そうだよ、だから踊りの間は我慢する。でも、本番のあとに、ちせに近づいてくるのは許せない』

「そんなこと言わないで。わたしにはタツヤしかいないんだから」

『じゃあ、僕と一緒にいてくれる?』

「……もちろん」

 そう言えば、タツヤはやっと許してくれたようで、部屋の空気が少し和らいだ。

『さあ、立って、ちせ』

 タツヤの声に従って、鏡の前に立つ。鏡の中の私の肩に、タツヤの白い手がすっと添えられた。ひんやりとした空気を肩に感じる。

『踊ってほしいんだ。僕のために』

 タツヤの言葉が合図となったのか、鏡に映っていた楽屋の風景は消えて、星のような光が散りばめられた、闇が広がる。手を伸ばすと、鏡の表面は水のようになって、手がやすやすと入ってしまった。

『……おいで。怖くないよ』

 タツヤの甘い囁きに導かれるまま、私は足を進め、鏡の中に吸い込まれていった……。


 ちせが鏡の中に消えた直後。待てども待てどもちせが出てこないのを不審に思った透が、楽屋のドアをノックした。中からの返答は無い。

「……長谷川さん? 長谷川さん、開けるよ!」

 透がドアを開けてみれば、楽屋はもぬけの殻だった。ちせのバッグだけが無造作に置かれたままだ。

「長谷川さん?! どこに行ったんだ!?」

 楽屋には出入り口は当然ドア1つしかない。自分が待っている間に彼女が出ていったはずはない。一体どこに消えたのか? 

まさか何か事件に巻き込まれたのだろうか?

「長谷川さん、どこだ!?」

 バレエ団のみんなは帰ってしまって、透しか残っていない。透はちせを探すため、楽屋を調べ、廊下に出て舞台の裏まで足を運んだ。

 あれほど華やかだった舞台は、公演が終わって観客が帰れば、がらんとした、だだっ広い箱のような空間にかわる。

「おおーーい………」

 ちせを探す透の声がむなしく響いた。返事はない……その時。

 ぐらり、と舞台の裏に詰まれていた箱の山が、透に向かって突然雪崩かかってきた。

「えっ……うわあああああああっ!!」

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