見つからない記憶
柚緒駆
見つからない記憶
雨がやまない。ボロい賃貸とはいえマンションの部屋の中まで雨音が入ってくることはないが、それでも空気感は伝わる。大気の密度が高くなり、遠くの音が遮られているような感じ。なのに電車の音は聞こえてくるのが少し腹立たしい。
スマホの時計は十三時過ぎを表示した。体は重くても腹は減っている。とりあえずベッドから体を起こそう。ドアも仕切りもない、手を伸ばせば届きそうなキッチンまでの距離が心なしか遠い。まただ、薬がまだ残っているのか。
もう何年になるだろう、睡眠導入剤がなければ眠れなくなったのは。ただ、飲みさえすれば眠れるのならいいが、実際は眠れない日もある。そしてそんな日には無性に腹が減ったり、やたらと短気になったりするらしい。らしい、というのは記憶が残っていないためだ。しかし朝起きてキッチンにカップ麺の容器がいくつも転がっていたり、そこに至るまでの導線上に踏みつけたり蹴飛ばしたりしたモノが哀れな
とぼとぼと、そしてややフラフラと歩いてキッチンにたどり着き、水を飲もうとシンクの水桶に浸かったコップに手を伸ばす。そこで俺の眠い目に映ったのは、シンクの底を這うナメクジが一匹。
どこから入り込むのかわからないが、雨の降る日には珍しくない。俺は特に動揺することもなく棚から塩の入ったストッカーを取り出し、ナメクジの上に小さじ三杯ほどの塩の山を築いた。このナメクジが、上の階に住むあの馬鹿女の正体だったら嬉しいのにな。そんなつまらないことを考えながら。
上の階には若い女が住んでいる。いつもケバケバしい格好をした、何の商売なのかよくわからない女。いや、別に格好はどうでもいい。そんなものは個人の自由だ。だが夜中にうるさいのは困る。何をしているのか知らんが、ドスンドスンと天井を響かせる。大家にも不動産屋にも文句をつけたものの、「隣の部屋からも苦情が来てるんですよ」と言いながら決定的なことは何もしない。おかげでただでさえ薬を飲まなければ眠れない俺は、より一層睡眠時間を削られることになった。クソ、あの女、本当に塩漬けになって干からびてしまえばいいのに。
まああんな女のことを、いま考えても仕方ない。とにかく腹に何か入れないと。とは言え、米を炊くのを忘れていた。カップ麺や食パンの買い置きもない。外食は……この雨だ。デリバリーを取ることも考えたが、キャベツが半玉あったのを思い出した。とりあえず野菜炒めでいいか。肉はないから野菜だけ炒めだな。味がついていて腹が膨れるならそれでよかろう。そう苦笑して、次の瞬間俺は困惑した。
あれ、包丁立てに包丁がない。どこに置いたっけ。あんなもの持って歩くはずもないしな。水桶の中にもない。あれ?
俺が記憶の中を探しながら固まっていると、玄関のチャイムが鳴った。何だよこんなときに。ドアにチェーンのかかっていることを確認しながら少し開けると、大柄で目つきの鋭い男が立っている。男は写真の付いた身分証明書を提示しながらこう言った。
「お休みのところ申し訳ありません。警察なのですが、上の階の女性についてお話をうかがってもよろしいですか」
見つからない記憶 柚緒駆 @yuzuo
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