第5話 追想 鬼風

 雪乃が大好きだった祖母『志乃』の家が、取り壊されることが決まった。

「どうして?何で、壊しちゃうの?」

残業続きの父との会話は、朝食のわずかな時間しかない。雪乃は、トーストを頬張ったまま、口先を尖らせ不満を表した。

「家はね、だれも住んでいないと、どんどん痛んじゃうのよ。あのままにしておけないの。ねぇ、パパ。ってより、ちょっと!雪乃、早く食べちゃいなさいよ」

「雪乃達が、住めばいいじゃん」そう、雪乃は言いたかった。が、転校しなければならないことも、マンション住まいに慣れてしまっていることも、引っ越しが言い出せない理由だ。

「ママの言う通りなんだ。もう古いからなぁ、仕方がない。パパだって、思い出のいっぱい詰まった家だから、そりゃ寂しいよ」

スマホからやっと目を離して、雪乃の頭を撫でてそう言う父は、本当に寂しいのだろうかと雪乃は思った。

「ね!今度の法事の後で、みんなで片付けしよう。ママ、美味しいお弁当、頑張って作るから」

食べ終えた食器から、どんどん流しに運ぶ母も、パートに出かける前の慌ただしい時間。

 祖母と過ごした日々が、思い出される。夏休みは、ほぼ祖母の家で過ごした。夕涼みをしながら、祖母は縁側でたくさんの昔話を語って聞かせてくれた。お正月に、囲炉裏で焼いてくれたお餅の匂いまで思い出される。

「どうしても、駄目なんだよね…」

「おうちはなくなっても、おばあちゃんとの思い出は、雪乃の胸に残ってるでしょ。ほら、雪乃!時計見てごらん。もう時間がないよ!」

「うん…。いやだなぁ、おばあちゃんちなくなっちゃうの」

という言葉と共に、口の中の物を飲み込んだ。


 ところが、祖母の家はすんでのところで救われた。

「会社に訪ねてきたんだよ。古い家なのに、気に入ったからって。そのままで十分に住めるからってね。しかも、傷んだところは自分で直すから大丈夫、貸して欲しいって。世の中、いろんな人がいるもんだよな。体の大きなおじさんだよ。60歳は過ぎてると思うけどな。雪乃、とりあえず、おばあちゃんの家は残るぞ」

珍しく早く帰宅した父が、リビングに入るなりそう言った。

「良かったね、雪乃。でも、よくパパの会社がわかったわね。まぁ、うちに来られても、パパほとんど居ないから、会社に行くのは正解だよね」

雪乃の頭に、なぜかあの男の顔が浮かんだ。志乃の法要のあと、庭先で言葉を交わした『櫛のおじさん』。

「あの人だ、きっと」



 志乃の三回忌法要は、志乃の家で執り行うことにした。親戚と呼べる身内のいない雪乃の家族三人だけの、小さな法要だ。

「その方が、おばあちゃんも喜ぶと思うよ」

父はそう言ったが、パパが一番そうしたいんだと、雪乃は感じていた。


 穏やかな春の日差しをうけ、雪乃は『法要日和』という言葉があれば、今日のような日かなと思った。

 仏壇に向かって手を合わせると、志乃の声が聞こえる。

「雪乃、大きくなったね」いつも、そう言って雪乃の頭を撫でてくれていた。

「おばあちゃん、雪乃のそばにいつもいるんだね」

「そうだな。いつまでも雪乃の心に生き続けてくれてるよ」

「パパの心にも、いるでしょ。おばあちゃん、忙しいね!」

「あら、ママの心にもいるわよ!」

「おばあちゃんの取り合いみたいだね」

雪乃の一言に、みな笑顔になった。

「さぁ、片付けにとりかかろうか。雪乃の欲しい物があったら、持って帰っても良いよ」

「え?本当?宝石とか、ないかなぁ」

「そんな物、あるわけないだろう」

そう父親に言われても、期待してしまう。

「パパにやらせると、みんなゴミになっちゃうからね。雪乃、パパにゴミにされる前にしっかり宝物見つけなさいよ」

「うん。おばあちゃんの机の引き出しんなか、探してみよう!」

「おい、もし本当にお宝見つかったら、パパに教えてくれよ!」

「何、言ってるのよ。そんな物、あるわけないって言っておきながら。ねぇ、雪乃。勝手なパパだよね」

「それより、先にお弁当食べたいなぁ」

「パパのくいしんぼう!」

志乃の古い家に、久しぶりに笑い声が響いていた。



 桜は花を散らすと、人々はその木を見上げることもなくなる。その木が、何だったのかも忘れてしまったように。鬼風も、自分が鬼であったことも忘れてしまうほど、歳を重ねてきた。最後の鬼族としての誇りも消え去り、そして大事な使命を果たす必要もない平和な時代となった。

「そろそろ、終わりにしようか。わが命」

そう考えた鬼風は、志乃の住んでいた家を一目見てからと、立ち寄った。すると、 志乃の家から明るい声が響いていた。

「あの声は…志乃の息子…。鬼族の聴力は、まだまだ衰えてはおらん」

垣根越しにたたずんで耳を澄ませていると、志乃の息子家族が、楽し気に話をしている。部屋の中までは見えないものの、息子家族の仲睦まじい様子が手に取るように感じられる。


 志乃の葬儀の際の、志乃の孫『雪乃』の笑顔を思い出していた。

「志乃の子どもの頃によく似た笑い方をする子だった。眩しいほどの、笑顔だった。確か、小学5年生になったはず…」

そんなことをつぶやいていると、勢いよく障子を開けた雪乃が、縁側に駆けだしてきた。 

 驚いたのは、鬼風の方だった。志乃が亡くなって僅か二年の歳月で、雪乃は『さくら』そっくりに育っていた。透き通るような白い肌に、桜の花びらのような色をたたえた頬。思わず「さくら…」そう呼んで駆け寄りたい衝動にかられた。

「あっ!おじさん、おばあちゃんのお葬式のときに来てたよね!私、覚えてるよ」

鬼風の近くまで駆け寄ってきた雪乃に、鬼風は思わず後退りをしてしまうほどだった。


 さくらにそっくりだ。ああ、目元は桔梗さまに…。涙があふれ出そうになる。しかも、雪乃は見覚えのある櫛を握っている。遠い遠い昔、山吹から預かり、ゆりに持たせた櫛…まさか…。

「とても珍しい櫛を持っていらっしゃる。少し、私にも見せれくれますか?」

高鳴る鼓動を抑えながら、できるだけ落ち着いて、そして何より雪乃を驚かせないように、櫛を確かめさせてもらった。

「お片付けしていたら、おばあちゃんの机の中にあったんだよ。ずいぶん前に、おばあちゃんに見せてもらったことがあったんだ。もらっても良いって、パパに聞こうって思ったんだ」

そう言って笑う雪乃は、鬼風をいぶかしく思うことなく、言葉を続けた。

「ね!きれいでしょ。古いけどとても良い櫛だよって、おばあちゃん言ってたんだ」

間違いない。桜の花びらの彫りがある。これは、さくらの櫛。しかも、雪乃の手の甲には、さくらと同じ桜の花びらのようなあざがある。

「本当に良い物です。どうぞ、雪乃さんも大切にしてください」

櫛を雪乃に渡した。

「うん。あれ?おじさん、雪乃のこと知ってるの?」

鬼風は、黙ってうなずいた。雪乃のまっすぐな視線が、あまりにも眩しくて、言葉が出ない。めまいがして、その場に立っていることすらできない。

「おばあちゃんのお友達だもんね。雪乃のこと知ってるんだ。これね、こうやって髪をとかすと、さらさらになるんだよ。魔法の櫛みたい」

肩まできれいに切りそろえられた髪に、雪乃は櫛をとおした。その一瞬、雪乃が鬼風から視線を外すと、一陣の風が巻き上がった。と同時に、目の前にいたはずの鬼風の姿は、消えていた。


 取り壊されそうだった志乃の家を、鬼風は借りることにした。

「雪乃はおそらく…さくらの生まれ変わり」

遠い昔、心惹かれた一人の人間の娘がいた。

 

 鬼族の住む村に、鬼族を毛嫌いした地頭が赴任する以前のこと。

 鬼風は、村の娘『さくら』と出会った。鬼族の子どもに、読み書きを教えていた鬼風の家に、鬼の子を背負ったさくらが、駆け込んできた。

「このすぐ近くで、うずくまっていました。足が痛むと…。何でもこちらに向かうところだったと言うものですから、連れて来てしまいました」

鬼風は子供を背中から下すと、丁寧に足の具合を診た。

 さくらは額の汗を拭おうともせず、子どもの具合を心配した。

「大丈夫でしょうか?ひどいけがではありませんか?」

「大丈夫です。少し、ひねっただけのようです。今から、薬を作りますから心配なさらないでください。ところで、あなたは?」

「あっ私、名乗っておりませんでしたね。『さくら』と申します。このすぐ近くで、母と二人で、機織りをしています」


 それ以来、鬼風は度々、さくらの家の力仕事を助けるようになった。父親を亡くし、病弱な母を助け健気に生きるさくら。笑うと、透き通るような肌に、桜の花びらのような薄紅が頬に差してくる。鬼族の鬼風にも、いつも優しい眼差しで語りかけてくれるさくらに、鬼風はいつの間にか惹かれていた。が、生粋の鬼族は、山吹とその父親、そして鬼風の三人だけになってしまっていた。純血を残すことは、山吹と鬼風の使命にもなっていた。さくらへの想いを封印すべきか、その想いを貫くべきか、鬼風は悩みながらも、さくらとの他愛のない会話に、日々癒されていた。


 村の桜がほころび始めた頃、先代の族長である山吹の父親が息を引き取り、山吹は族長に推された。横暴な地頭が赴任する前のことだったので、族長代替わりの祝いの席が、ささやかではあるが山吹の家で設けられた。

 鬼風の懐には、櫛が忍ばせてあった。さくらを想い、丁寧に作り上げた櫛。桜の花びらの彫りも施し、さくらに思いを伝えるべくずっと懐に忍ばせたまま、月日が巡ってしまった。新たな族長の山吹を支えるためにも、さくらへの想いを秘めたままにするべきかもしれない。そう思いつつも、その日も櫛を忍ばせていた。


 楽しい宴で、鬼風もつい酒が進んでしまった。酔いを醒まそうと庭に出た鬼風を追いかけるように、山吹が庭に下り立った。

「宴席の主が、抜け出して良いのか」

鬼風がそう笑って声をかけると、山吹は軽く笑顔を見せたあと、

「実は…話がある」

と厳しい表情になった。

「我ら鬼族の純血を守ることにこだわってきたのは、父上の意向でしかなかった」

「意向でしかないとは…。山吹、何を言い出すんだ。何が言いたい!」

「黙って聞いてくれ。我らがこうして穏やかに暮らせてきたのは、人間と共存してきたからこそ。もう、純血にこだわる必要はないのではと、そう考えるようになった」

山吹の言葉に、鬼風は一瞬言葉を失った。

「山吹、かなり酔ったんじゃないか?よく考えてくれ、純血を守り通すことが、我ら二人の使命だったじゃないか。純血の鬼族の娘はおらぬが、鬼族の血の濃い娘は、まだ残っておる。嫁が欲しいならば、その娘をめとればよかろう。純血とたがわぬ子ができよう」

山吹は、鬼風の話を聞き終えると、大きく一つ息を吸い込んだ。

「いや、実はもう心に決めた人がいる。すでに、その人とも契りを交わしている」

そう言って山吹が呼び寄せたのは、さくらだった。



 鬼風は、山吹とさくらを守ることが、自分の新たな使命だと覚悟を決めた。それしか、生きる価値がないとまで思えた。

 しばらくして、さくらが子宝を授かったことを伝え聞いた。

「祝いの品とまではいかぬが、女房どのに差し上げてくれ」

鬼風が差し出したのは、櫛だった。

「何とも見事な細工ではないか。これは、鬼風が?」

「大したことができぬが、そのくらいの細工なら」

「いやいや、見事なものだ。さくらも、きっと喜ぶに違いない。かたじけない」


 ところが、さくらは、息子の葵を産みおとし短い一生を終えてしまった。

 急ぎ駆けつけた鬼風が目にしたのは、眠っているかと思うような穏やかな笑みをたたえたさくら。その頬に、鬼風は初めて手を差し伸ばした。初めて触れた肌は、すでに冷たい。あの桜色の頬は、色失せている。「さくら!さくら!」と泣き叫んで抱きしめたい。その衝動に耐え、震える指先をさくらから何とか離すことがきた。

 そのとき、さくらの胸の前で組まれた手の甲に、桜の花びらのようなあざがあることに初めて気が付いた。

 山吹に抱かれた葵の泣き声が、鬼風を攻める。

「医術の道に通じていたなら、なぜ母を助けてくれなかった!」そう聞こえる。

鬼族秘伝の薬は、たくさんある。が、亡くなった者を生き返らせる薬はない。

「何もできなかった私を、許してくれ」

泣くこともできず呆然としている山吹に、それだけしか言えなかった。

 

「本当に桜のように、あっという間に散ってしまった」




 地頭、西条高峰の横暴で、鬼族がどれほど辛い思いをしてきたか、鬼風はその目で見てきた。「鬼の所業」という言葉があるが、鬼族は非情ではない。それどころか、穏やかに暮らしてきた鬼族を焼き討ちにかけた高峰の暴挙こそ、「鬼の所業」という言葉が当てはまる。

 山吹は、最後の命の火を燃えがらせて、雷神に化身した。天と地が裂けるほどの怒りの稲妻で地頭の屋敷を焼き尽くし、高峰に天罰を与えた。


 鬼風は山吹の密命を受けていた。

「ゆりの腹には、葵の子が宿っている。鬼族の血を引く子だ。私の最後の願いをきいて欲しいのだ。頼む、鬼風。そなたの命の続く限りで構わぬ。葵の子、そしてその子孫らを守ってはくれぬか。この先…鬼族に待ち受ける未来は、困難を極めるものになることは間違いない。鬼族の血を受け継ぐ者がいる限り、鬼風!どうか頼まれてくれぬか」


 鬼風にとって、いや鬼族にとっても憎むべき地頭。その地頭の娘ゆりを守らねばならぬとは…。非情な命を下した山吹に対する怒りも、ない訳でもない。が、ゆりと暮らすうちに、我が娘のような情が湧いてきた。

「鬼風さま、早ようこちらに!」

と、何とも愛くるしい笑顔で手招きされると、この娘のために、命を使ってもよいのでは。そう思うようになった。

「こら、ゆり!走るではない。万が一にも、転んでしまったらどうする!」

そうたしなめた矢先に、あやうくこ転びそうになり、鬼風を驚かせることもあった。


 ゆりは、美しい男の子を産んだ。季節は秋。

「父さま、どうぞこの子に名前を付けてはくれませぬか」

ゆりはいつの間にか鬼風を『父さま』と呼ぶようになった。

「そうだなぁ。秋の七草『桔梗』はいかがか」

「まぁ、それは良い名。父が『葵』母が『ゆり』。そして、子が『桔梗』とは。何とも雅なこと」

そう言って、コロコロ笑ったゆり。そのゆりも、桔梗が七つになる前に、亡くなってしまった。またしても、愛しい人の最期を見届けなければならぬ辛さ。

 ゆりの遺言も『桔梗のことを頼みます』だった。



 鬼風は、桔梗が人と交わることを避けた。人と交わるがゆえに、鬼族に不幸を招いてしまったと、鬼風は考えた。

「桔梗も、あの子らと遊びたい」

人間の子どもたちが歓声を上げて走り回っているのを見て、鬼風にせがむことも多くなった。

 遊びたい盛りの子どもに…あまりにも不憫。かといって…と、桔梗に琵琶を持たせてみた。鬼風が教えると、あっという間に上達し、琵琶を奏でることに夢中になった。

「大人になった桔梗は、さくらによく似ていた」

 透き通るような白い肌に、総髪が良く映えた美しい青年に成長した。が、いつも孤独だった。


 寂しさ悲しさの全てをぶつけるように、琵琶を奏でる。その音色が、人間の娘『萩』の心を狂わせてしまった。

「元をただせば、私が悪かったのかもしれぬ」

部屋の片隅に置かれた琵琶を見て、鬼風はつぶやいた。

「山吹の血筋を守るため、厳しく育てたことが…」

ゆりは『父さま』と呼んで、鬼風を慕った。が、桔梗を『若』と呼んで、線を引いた。情に流されないよう、使用人に徹した。が、またしても鬼風は、愛しい桔梗の命を守ることができなかった。



 桔梗の子『藤乃』。萩が身を切る思いで鬼風に託したその子は、できる限り普通の娘として慈しみ育てた。美しい藤乃は、殿様に見染められ、後妻に迎えられた。穏やかな生活の中で、藤乃は、自分に流れる鬼の血に気づくことなく生涯を終えた。それ以来、鬼風はその血筋を遠くから見守ることに徹した。

 ところが、幼い藤乃に語って聞かせた『鬼番』の伝説を、藤乃も我が子菊乃に語って聞かせていた。

 水月に鬼の姿として現れたのは、菊乃が慕ってやまない神史郎。菊乃を密かに見守り続けていた鬼風自身も、どれほど驚いたことか。しかも、神史郎の胸に抱かれると、菊乃の額に小さな角が現れる。

「鬼の血が、神史郎を水月から呼び寄せたのかもしれぬ」


 菊乃は、神史郎への思いを絶ったことで、穏やかな一生を終えることができた。「神史郎が、この世へ残した思いが『お家再興』であったと言い聞かせたことが幸いした。菊乃は、ゆりに似て、気丈な娘だった。よくぞ、神史郎への思いを絶ちきった」



 人の血が混じっていくうちに、深い悲しみや苦しみ、憎しみの底におちない限り鬼の血は隠れたまま、角をはやすこともない。平和な時代が続くと、鬼風自身も

「私は用済みに違いない。そろそろ終わりにしよう」

と、人里離れた終の棲家で命の終わりを迎えようとした。

 ところが、人間はもっとも憎むべき所業を繰り返した。戦争である。志乃が、母親に疎んじられていることに気が付き、志乃を連れ去ってやろうと何度思ったかしれない。しかし、志乃の『私は鬼じゃない』の言葉が、それを踏みとどめた。


 父や兄を失った深い悲しみの底で、志乃はもがき苦しんだ。母親のトミは、生きることに精一杯で、志乃の心に寄り添うことができなかった。

「かわいそうな女だったのかもしれない、志乃の母は」今になって、そう思える。

 赤ん坊だった志乃の額に、わずかに角が現れることがあったのだろう。それを誰にも言えず、苦しんでいたのかもしれない。「鬼っ子」という言葉が、思わず出てしまったことも頷ける。

「飛行機に乗っていた人が、凄い怖い顔をしていた」

と言っていた志乃。鬼の形相になった志乃の顔を見れば、恐怖にひきつられても当然。子供の志乃を狙い撃ちをしようとしたことも、納得できる。


『鬼風さんが、志乃のことを見ていてくれるなら、志乃、鬼にならないように頑張る』と言った幼い志乃のために、城山の家に住み続けた。

「お母さんが、心配するからもうここへは、来ないように」

と何度も言ったが、志乃は、寂しくなると鬼風を訪ねてきた。

 母親のトミは、志乃のために家でできる洋服の仕立ての仕事を始めたが、丁寧な仕事ぶりが評判を集め、注文が途切れることがなかった。

「ごめんよ。お母ちゃん、これ仕上げなきゃいけないんだ。一人で、銭湯行ってくれるか?」

そんなときも、志乃の向かう先は、鬼風の家だった。

 風呂上がりに、志乃はいつも鬼風にせがんだ。

「ねぇ、昔話の続き、お話して」

鬼風は、昔話と称して『山吹』『桔梗』そして『菊乃』のことを語って聞かせた。

「みんなかわいそうな鬼さんだね。鬼は、みんな不幸になっちゃうの」

「いや、鬼だから不幸じゃないんだ。人は、自分とは違うものを受け入れられない。そんな心が、不幸を生むんだ」

そう言って聞かせたが、志乃がどこまで理解していたか。鬼風にもわからない。が、志乃は健気に生きた。父や兄を失った深い悲しみから立ち上げり、結婚し一人の男の子に恵まれ、穏やかに命を全うした。



 志乃の葬儀に参加した折、志乃の孫『雪乃』に初めて会った。志乃に男の子しか生まれなかったことで、命の幕引きを考えていた鬼風だったが、志乃から再び雪乃を託されていた。

「まだまだ私の使命が残っているということか。山吹、そろそろ終わりにしてはもらえぬか」

ため息を漏らした鬼風だったが、その顔は穏やかだった。



 終の棲家として、志乃の家を借りることもできた。穏やかな余生を過ごすために。

 志乃の家で、暮らすようになってすでに50年以上の歳月が流れた。囲炉裏端に座って、庭をただ眺める。それが、今の鬼風の生活だった。庭の木々のふくらんだ木の芽からは、春の鼓動が感じられる。

 何度この春を迎えただろうか。開け放たれた窓から柔らかい風が吹き込んでくる。



 処分されそうだった志乃の家は、遠い昔ゆりと過ごした家と同じ匂いがした。桔梗が歩き出したころ、囲炉裏にあやうく落ちそうになって肝をつぶしたことも、脳裏に浮かんだ。

「ゆりに、こっぴどく叱られた…。可愛い顔が、一転して…鬼の形相とは、よく言ったものだ。それにしても、あんな遠い昔のことまで、思い出すようになったとは…」

一人で笑い声をあげた。

 と、玄関の扉が開く音と同時に

「おじさん、こんにちは!お一人で笑っていらっしゃるの?外まで聞こえましたよ」

そう言って入ってきたのは、歳を重ねた雪乃だった。

「おお、それは恥ずかしい。いや、大昔のことを思い出してね」

雪乃は、台所に荷物を下ろすと鬼風の対面に座った。

「まぁ、どんなお話ですの?」

白髪が目立ってきた雪乃は、そう言いながら火箸で囲炉裏を二度三度突いた。勢いよくパチパチと音を立てて火花が散る。

「そんな面白い話でもないが、鬼族の娘はみな気が強くて…ハハハ…」

「あら、私も気が強いということですか?私、自分では随分穏やかな性格だと思っていましたが」

雪乃はそう言いながら、囲炉裏にかかっていたやかんの蓋を開けた。

「お茶を入れますね。今日はおはぎを作ってきました。一緒にどうですか?」

鬼風の返事を待たずに、台所へ行くと手際よく食器を取り出した。

「それはありがたい。今日は、娘家族たちはどうしたんだ?」

「ええ、主人のお墓参りの後、そのまま孫たちと公園に行っちゃいました」

「そうか、こんなおじいさんのところより、公園の方が良いだろう。どうだ、孫たちは大きくなっただろう。可愛いさかりだ」

鬼風は、雪乃が用意したおはぎを口にした。


「鬼の血は、女しか引き継がないというのは、こういうことなんでしょうね」

雪乃は、お茶を飲みながら話を続けた。

「男の人が鬼の力を持てば、権力や悪の力と結託してしまうかもしれないですもの。女は強いんです。鬼の力に頼らなくても、我が子を守るためなら何でもできちゃいます。私も、そして桃花も」

「そういうことかもしれぬな」

鬼風はそう言いながら、視線を窓の外に移した。


 鬼風の横顔を見て、雪乃は鬼風が随分やせたことに心を痛めた。おそらく、もう数十年、人の血を飲んではいないはず。妖力どころか、残された命も僅かではないかと雪乃は感じていた。

 おそらく私が最後の鬼族。幼い頃、祖母の志乃はいつも雪乃の頭を撫でてくれていた。その意味を悟ったのは、結婚が決まったことを鬼風に報告に来た時。



「志乃から聞いていたんだ。雪乃は、赤ちゃんのとき力んで泣くと、微かに額に角のようなものが出てくる。でも、大丈夫。雪乃は人を憎んだりするような子には、けっしてならない。でも、万が一雪乃に何かあったら頼むと、私に託したんだ」

そんなことを聞いた雪乃は、驚きはなかった。

「おばあちゃんから、昔話のような話を聞いていたのよ。山吹、桔梗、菊乃。みんな鬼だったよね。それって、鬼風さんが、教えてあげたんでしょ。やっぱり、おばあちゃんも私も、鬼の血を引いていたんだね。なんだか、すっきりしたわ」

「私の方が、驚いているよ。まさか、雪乃に話していたとは」

「おばあちゃん、心配していたのよ。私が、鬼の血を引き継いでしまったことを。自分は、男の子のしか産まなかったら、もう鬼族の血は絶えたって思っていたのに、孫の私が女の子だったから」

「志乃は、悲惨な戦争のため、自分の鬼の血を自覚せざるを得なかった。可愛そうな子ども時代だった。でも、雪乃は、平和な時代、しかも優しい男に出会えて幸せだ。志乃も、喜んでいると思う。私も、一安心だ」

「うん、ありがとう。おじさんを心配させないよう、うんと幸せになるわ。今度は、私が鬼風さんを守ってあげるわ」

「ほう、そりゃ頼もしい。ハハハ…」

 一人で暮らす鬼風のことを気遣って、度々訪ねてきては他愛のない話をして帰っていく雪乃は、ますます『さくら』に似てきた。顔かたちだけでなく、優しい気配りやさりげない仕草まで『さくら』そのもの。

「雪乃が結婚…いよいよ、私の役割も終わりだ」

鬼風のつぶやきを耳にした雪乃は、言葉に詰まった。


 

 月日の流れは早い。雪乃は、男の子と女の子を産み、育て。そして、その娘の『桃花』も二人の子に恵まれ、穏やかに暮らしている。

「主人も亡くなり、これからはもう少し鬼風さんのところに来られます」と言って、身の回りの世話をする雪乃。

「みんな、鬼風さんのことを父親だって思っているんですよ。不思議ですよね。みんなパパのこと、忘れちゃってるんですよ。この家で育ったのに…。まぁ、その頃のことを知っている人も、ほとんどいませんけどね」

「ハハハ…。そんなものだよ、人の記憶なんて」

そういう鬼風自身も、雪乃と共に過ごす時間は、「さくらと錯覚してしまう」と。あれほど夢見ていたさくらとの暮らしが、何百年のときを超えて手に入ったように思えてしまう。いくら否定しようと、そう思えてしまう。罪悪感に胸が痛む。


「今日は、気分も良い。少し、庭に出てみたいな」

そう言って立ち上がろうとする鬼風のそばに、雪乃は急いで駆け寄った。

「すまない。手を貸してもらえるか」

「ええ、ゆっくり立ちましょう」

 庭は、綺麗に整えられていた。鬼風が丹精込めて育てた花たちは、今は雪乃が時折訪ねて来ては手入れをしてきた。

「おじさん、ヤマブキの花が咲き出しましたね。本当にきれいな色だこと。桜も、もうすぐ咲きそうです。今年は、桃花の家族も一緒にお花見をしようと言っています」

「そうか…。ところで、孫たちは大丈夫か?」

「はい。二人ともどんなに泣き叫んでも角は出ません。桃花も幼いときから泣くたびに抱きしめて頭を撫でてきましたが、一度だって角は現れてきません」

雪乃に手を支えてもらってやっと立っていられる状態の鬼風は、その言葉に安心したのか、バランスを崩してしまった。慌てて雪乃が、鬼風の体を支えたが、鬼風の体の細さに驚くほどだった。

「寒くなってきました。中に戻りましょう」

「いや、もう少し庭を見ていたい。縁側に腰かけたい」

 鬼風を縁側に腰かけさせた雪乃は、

「作務衣一枚じゃ、少し寒いでしょう。何か羽織るものを持ってきますね」

そう言って、部屋の中へ入っていった。

 庭には、ヤマブキのほかに、桜の木。そしてユリやタチアオイ、キキョウ。藤棚も鬼風はこしらえた。

「今夜は、新月だったな…」


『鬼風さん、どうぞ山吹を支えてください』

さくらの声が、聞こえた。閉じた瞼に、山吹の横でさくらが幸せそうに笑う顔が浮かんだ。

「私は、決して不幸ではなかったよ。さくら」

鬼風の閉じた瞼は、二度と開くことはなかった。

 


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新月物語 ー鬼伝説ー せりなずな @haruno-nazuna

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